人生夢の如し、滅入っている程の暇はなし。

No.7078

 新年度になって、いささか滅入っておりましたが、ようやく反転攻勢に向かう気分になって参りました。
 滅入っていられるほど時間に余裕のないことに気づいた次第です。

 ○ ゼミ『吾妻鏡』講読会(養和元年)ですが、出席者の一部に不都合の方がおられますので、金曜日Ⅲ講時を金曜日Ⅳ講時に変更致します。なお、月に一度(だいたい第三金曜日)休会というのは変更ありません。

 ☆ 古藤真平先生より「仁和寺南院御堂についての覚書」(栄原永遠男ほか編『律令国家史論集』塙書房)を御恵送頂きました。
 古藤先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 法政大学の小口雅史先生・遠藤祐太郎先生より御共著の御高論「〈史料紹介〉尊経閣文庫所蔵『桑華書志』にみえる『前九年合戦絵詞』『後三年合戦絵詞』関係記事」(『法政史学』73)を御恵送頂きました。
 小口先生・遠藤先生にあつく御礼を申し上げます。

『吾妻鏡』講読会のお知らせ

山本みなみ
No.7079

  野口先生、早々に変更してくださり、ありがとうございます。
  メンバー全員が参加できる日時に開催することができ、よかったです。
  以下、講読会のお知らせです。

   『吾妻鏡』講読会
   日時:4月9日(金)四講時(14:45~16:15)
   場所:京都女子大学 L校舎3階 共同研究室
   範囲:養和元年閏二月廿三日条~

  また、記録との併読や見学会も実施できればと思います。
  今年度もよろしくお願い申し上げます。

下天のうちを比ぶれば

大谷久美子
No.7080

 桜花爛漫の候、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 私もつまらない私用でばたばたとしておりまして、なかなか忙しい毎日です。引っ越し致しましてからこちら、インターネット環境が整いませんで、なかなか掲示板にも目を通せずにおりました。お許しください。


 さて、先日取り急ぎ先生に御連絡いたしました『小右記』講読会ですが、授業日程変更および仕事の曜日変更のため、月曜日は私が参加できそうになくなってしまいました。たいへん申し訳ありません。平伏するばかりです。
 改めまして、火・水曜日は大学にいられる予定です。両日のうち、水曜日2・5講時以外はどこでも大丈夫かと思うのですが、先生および山本さんの御都合はいかがでしょうか。


 また、国文院の新入生に『平家物語』専攻希望者がおりましたので、『吾妻鏡』講読会を勧めてみましたところ、興味があるとのことです(史料講読は初心者です)。まずは先生にお引き合わせ致したく。今から連絡をとってみますので、6日はちょっと来られないかも知れませんが、次週には紹介できるかと存じます。
 野口先生、ならびに『吾妻鏡』講読会の諸先輩方にも、どうぞよろしくお引き立てのほどお願い申し上げます。

すべては3000時間の勉強から始まる!

No.7077

 今日の京都は、お昼頃から時々小雨の天気。桜はいよいよ満開に近づきつつあります。
 そんな中、大学院・学部の入学式に出席してきました。

 学長式辞の中で、川本先生は、勉強は「量より質」というけれども、結局勝負を決するのは「量」の差なのだということを話されました。
 御自身が一番勉強をされたのは、大学四年生から大学院修士課程の時で、その間は、生存に必要な食事などの他は全て勉強に時間を費やされたとのこと。今でも、大学院に入ってくる学生さんには、まず3000時間勉強するように言っておられるとのことです。3000時間勉強すると、新しいものが見えてくる・・・。

 とても説得力のあるお話で、私自身の経験に照らしても、納得できるお話でした。
 研究が楽しくなると、ほんとうに四六時中そればかり考えて居ざるを得なくなるもので、そうした意欲に身体的にも追いついていけるのが、まさに20代前半くらいまでの時期なのだと思います。30代も後半になると、身体がついて行けなくなる。
 あれにも、これにも興味を持って、青春を楽しむことも大切ですが、数年間はこういう境地で勉強に励むようなタイプでないと研究者には向かない(=なれない)のだと思います。
 
 本日、京都女子大学では専任の教職員にも、写真入りのネームプレートとフォルダー・ストラップが配布されました。いよいよ大学もアジールたりえなくなってしまうようです。
 何にせよ、小学生時代、いつも名札を忘れて叱られていた「のぐちみのる」君としては、とても困っております。
 学外から参加されているゼミメンバー諸兄には、入構時のチェックが少し厳しくなり、恐縮ですが、宜しく御寛恕をお願いいたします。

 ゼミ史料講読会ですが、6日実施の『吾妻鏡』を除いて、授業開始後からの日程で、お願いいたします。

 ☆ 同志社大学歴史資料館の浜中邦弘先生より、御高論「宇治の都市的景観成立前史」掲載の考古学研究会例会委員会編『シンポジウム記録6 現代に生きる遺跡・古墳時代の備讃瀬戸・都城周辺の都市的景観』(考古学研究会発行)を御恵送頂きました。
 浜中先生にあつく御礼を申し上げます。 

 ※ ここ数年、4月1日だというのに美川先生がお出ましにならないのを寂しがる声が、あちらこちから涌き上がっております。

 > 『紫苑』第8号の執筆者の方へ  本誌・抜刷とも6日の講読会の時にお渡しいたします。

個人的に七年目の『吾妻鏡』

No.7075

 2010年度もひとまず「火曜日」の吾妻鏡となりますが、新年度もどうぞよろしくお願いします。山本陽一郎さんが中心になって開催されていた頃は、毎週月曜日の13:00頃からだったように記憶しています。今から六年ほど前のことです。
 それはともかく、次回の火曜日の『吾妻鏡』は以下の通りです。

 日時:2010年4月6日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長八年(康元元年、1256年)四月二十七日・二十九日、六月二日・五日・七日・二十七日、七月六日・十七日・二十六日、八月十一日・十五日・十六日・二十日・二十三日、九月三十日、十月二日・三日・九日、十一月二日・二十二日・二十三日・二十四日・二十六日・二十八日、十二月十一日・二十日・二十五日、
    康元二年(正嘉元年、1257年)正月十三日・二十五日、二月二日・二十六日、三月二日、閏三月二日、四月七日・九日・十四日・十五日、五月二十二日、六月十四日・二十三日・二十四日、七月十日・十二日、八月十二日・十四日・十五日・十七日・十八日・二十一日・二十三日・二十五日・二十八日、九月十六日・二十四日・三十日、十月一日・十三日・十六日・二十六日、十一月八日・十六日・十七日・二十三日、十二月六日・二十四日・二十九日、の各条

 『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。どなたさまでも、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加下さい。

 *A校舎脇の教職員駐車場では「倉庫番」みたいなことになってしまいましたね。出せそうで、出せない。往年のファミコンのパズルゲームのような理不尽な難しさですね…。

新年度、あけましておめでとうございます。

No.7076

 山本陽一郎君、郷里の福井で元気で御活躍のことと思います。
 山本君の始めた『吾妻鏡』講読会。あの当時のこと、懐かしいですね。
 今は御一族?の山本みなみさんが「期待の星!」になっています。

 諸方から、人事異動のみならず桜の開花状況の情報も届いております。伊豆の韮山では、もう満開とのこと。
 今日(3月31日)は、私用で宝塚の辺りまで出掛けたのですが、そのついでに岩田君の本貫地である関西学院大学に立ち寄ってみると、周辺の桜並木は三分~五分咲きといったところでした。関学のキャンパスはとても心地よいところなので、構内のベンチでお弁当を頂かせていただいたという次第です。
 桜の開花状況は京都女子大も同じ程度。明日の入学式は、天気さえよければ、春爛漫の光景の中で挙行されることになるはずです。

 ところで、新年度前期のゼミの日程ですが、『吾妻鏡』(康元元年~)は取りあえず、従来と同様に火曜日の午後になりましたが、それ以外についても、出席者と当方の都合を勘案して以下のように決まりましたのでお知らせ致します。
   ・『小右記』講読会→月曜日Ⅲ講時
   ・『吾妻鏡』(養和元年~)→金曜日Ⅲ講時(但し月1回、私の会議出席の日はお休み)
 ということで、宜しくお願い致します。

 『紫苑』第8号は、ゼミのメンバーには随時お渡し致します。史料講読会のある時にでも取りに来て下さい。

 今年度も、宜しくお願い申しあげます。

出られずに、帰れなくなりそうになった話。

No.7073

 今日もまた、お寒うございます。
 異動の季節。たくさんの御挨拶を頂きましたが、気になるのは博物館や文化財保護関係から他セクションへの配置転換の多いことです。
 それでも、新天地での充実した日々を祈念するばかりです。

 本日の『吾妻鏡』講読会には久々に新規参加の方がお二人。前川さんや八木(山下)さんに土屋君、滑川さんや大根田君の後輩です。
 また、「一所傍輩のネットワーク」が広がりました。どんな活躍を見せてくれるか、楽しみです。

 本学A校舎脇の教職員駐車場は、一台分のスペースが狭くて出し入れに苦労するのですが、とりわけ、入れてしまったら、周囲の車が出てくれないと、相当に高度な運転テクニックを持たない限り脱出不能な駐車スペースが数台分あります。
 火曜日は『吾妻鏡』の講読会で遅くなるので、いつもはそこに入れても問題はないのですが、今日は年度末のせいか、帰ろうとしたときにも車がいっぱい。岩田君に誘導してもらって頑張ったのですが、如何ともし難く、また研究室に戻って周囲の車のいなくなるのを待つしかないとあきらめていたところ、折良く私の車より出しやすい隣の車の持ち主の先生がお帰りになられて(岩田君が誘導)、何とか脱出がかないました。
       出られずば、空くまで待とう駐車場

 ☆ 今春、同志社大学大学院から都内の某有名出版社に就職された雨野弥生さんから、御高論「<翻刻>実相院蔵『扶桑蒙求私注』第六」(『同志社国文学』71)を御恵送頂きました。
 雨野さんにあつく御礼を申し上げます。
 お仕事での御活躍と、御研究の継続を期待申し上げる次第です。 

吹雪を見た桜の桜吹雪はいつ見られるか?

No.7072

 お寒うございます。
 せっかく咲いた桜に、吹雪の襲来。なんとも痛ましい光景です。
 しかし、愛車での帰途、石田大山の交差点を越えた辺りから、運転席から見えてきた日野の山々は、うっすらと雪化粧をして、なかなかの風情でした。

 本日届いた『古代文化』第61巻第4号は「日本古代山城の調査成果と研究展望」という特輯号ですが、当ゼミとして紹介したいのは、藪本勝治君による佐伯真一著『建礼門院という悲劇』の新刊紹介です。

 早くも、紀要共同論文抜刷に対する御礼状やE・メールを頂いて恐縮致しております。
 一方、転居先不明で戻ってきたものも数通。
 進学・就職などで転居の多い時期ですが、その場合は必ず郵便局に転居届をお忘れなく。
 今どき、E・メールさえあれば、というのは考えが浅い。やはり、大事な情報は書類で届くものですよ。

 ☆ 立命館大学の桃崎有一郎先生より、新刊の御高著『中世京都の空間構造と礼節体系』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
 中世京都都市論に大きな一石を投じた論文集だと思います。
 桃崎先生に、あつく御礼を申し上げます。

新年度に向けて

No.7070

 明後日30日のゼミですが、新年度の計画やゼミ開催の曜日(とりあえずは暫定?)なども決めておきたいので、『吾妻鏡』講読会参加者のみならず、広くメンバー・関係者の御出席をお願い致します。また、あらたに参加したいという方もどうぞ。

 ○ 2010年度の活動で確実に日程が決まっているのは、6月26日(土)の公開講座(>>No.7052)です。例年のようにお手伝いをお願いしますし、講師の先生方との懇親会も予定しておりますので、この日は必ず空けておいて下さい。
 >山本さん 懇親会会場の予約をお願いします。

 ○ 5月8日(土)に学習院大学で開催予定の中世戦記研究会では、岩田君と長村君が報告されますので、国文専攻の方も含めて、関東に出かけるよいチャンスだと思います。
 
 ○ 奈良女子大学の前川先生に御案内をお願いして、前期の早いうちに、安土を中心とした近江方面の「日帰り見学会」もぜひ実現したいと思います。

 ○ ゼミ旅行は「平泉」が候補に挙がっています。

 ※ 院生以上の方は、場所は問わず、機会があれば研究報告を積極的に行って下さい。

長村君の誕生日に「元木プロジェクト」始動

No.7068

 昨日は、ある研究上の「仕事」の打ち合わせということで、ホテルグランヴィア京都の「浮橋」で、この仕事の主宰者となる元木泰雄先生と、参加を快諾して下さった大阪大学の平雅行先生、それに某出版社の方とで会食。ご馳走になりました。

 この「仕事」とは、NO.7007で紹介した「元木プロジェクト」にほかなりません。中世前期の政治史と宗教史の権威である、お二人の先生と御一緒に「仕事」を進めることができることになれたのは、大変光栄なことであり、研究者冥利に尽きるというものです。

 この「仕事」の遂行にあたっては、多くの方たちに御助力をお願いすることになると思いますが、その節は何卒宜しくお願い申しあげます。


 ※ 本日は、紀要共同論文抜刷の発送作業を共著者の長村祥知君とともに行いました。長村君は昨日がお誕生日だった由。おめでとうございます。前途洋々で羨ましい限りです。
 
 なお、私の作成した送付先名簿が杜撰なため、お送りすべき方にお送りしていないことも考えられます。宛名書きの誤りもあるかも知れませんが、その節は何卒ご寛恕下さい 

青年は荒野を目指し、老人は時頼を嫌う

No.7064

 昨日は出産のために帰郷される山田夫人(平田さん)が、わざわざ研究室に挨拶に来て下さいました。ほんとうに、もうすぐお母さんですね。
 何年か前、史学科の授業で「歴史学研究会の大会に行く人は?」との問いかけに、学部3回生だった平田さんが、ただ一人応じてくれたことが思い出されます。
 『吾妻鏡』講読会に参加するメンバーにケーキのお土産を頂戴しました。ご馳走様でした。

 新年度をひかえて、ゼミの古参メンバーから、異動・就職はもとより、新居購入(高級住宅地です)・学振採用などの情報が次々ともたらされております。
 こんな御時世だというのに、みんななかなか良くやっていると思います。あるいは、マスコミが騒ぎ立てるほど、世の中、そんなに悪い状態ではないのかも知れません。
 人生の新たな展開を期して、欧州(けっして「奧州」の誤りではありません)への旅立ちを決意した方もおられます。

 昨日の『吾妻鏡』講読会では、とても身につまされる記事に遭遇。建長六年閏五月一日条。私がこの場にいた御家人ならば「逐電、或令固辞」めていた一人。お酒で調子づいた北条時頼にはついていけませんね。
 今でも、このようなタイプの人が、いろいろな組織や集団で幅をきかせているケースが多いように思えます。

 なお、『紫苑』第8号、めでたく校了となりました。編集長の山本さんご苦労様でした。
 来月早々にも発送作業を開始したいと思います。お楽しみに!

 ☆ 成城大学の後藤昭雄先生より、科学研究費研究成果中間報告書『真言密教寺院に伝わる典籍の学際的研究-金剛寺本を中心に-』を御恵送頂きました。
 後藤先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 京都造形芸大の野村朋弘先生より、御高論「史料紹介『綱光公記』自文安五年八月一日至九月二十九日」(『史学研究集録』35)を御恵送頂きました。
 野村先生に、あつく御礼を申し上げます。

『紫苑』第8号校了&御家人はつらいよ

山本みなみ
No.7065

 昨日、無事『紫苑』第8号を校了することができました。あとは、来月初めの納品を待つばかりです。
 これも野口先生と執筆者の皆様のご協力のおかげです。お忙しい中、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
 私も納品を楽しみにしております。

 ところで野口先生も触れておられました建長六年閏五月一日条。読むにはとてもおもしろい記事でしたが、当の御家人たちは大変だったろうなと思いました。いきなり相撲をとらされ、勝者及び引き分けの者には褒美、敗者にはしっかり罰ゲーム?が用意されておりました。六試合中三試合が引き分けなのは互いに示し合わせていたからでしょうか?何れにせよ、御家人もいろいろと大変ですね。
 特に『吾妻鏡』第四巻は新しい発見や考えさせられることが多々あり、読んでいて楽しいです。

新年度目前の『吾妻鏡』

No.7066

 慌ただしく2009年度が暮れようとしておりますが、その仕上げとなる『紫苑』第8号は出来上がりがとても楽しみです。
 その『紫苑』第8号はまだ出来上がりませんが、次回の火曜日の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2010年3月30日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長六年(1254年)十一月十六日・十七日・二十一日、十二月一日・十二日・十七日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日の各条
    建長八年(康元元年、1256年)正月四日・五日・十日・十二日・十四日・十六日・十七日、三月十一日・十六日・二十七日・三十日、四月十日・十三日・十四日・二十七日・二十九日、六月二日・五日・七日・二十七日、七月六日・十七日・二十六日、八月十一日・十五日・十六日・二十日・二十三日、九月三十日、十月二日・三日・九日、十一月二日・二十二日・二十三日・二十四日・二十六日・二十八日、十二月十一日・二十日・二十五日、
    康元二年(正嘉元年、1257年)正月十三日・二十五日、二月二日・二十六日、三月二日、閏三月二日、四月七日・九日・十四日・十五日、五月二十二日、六月十四日・二十三日・二十四日、七月十日・十二日、八月十二日・十四日・十五日・十七日・十八日・二十一日・二十三日・二十五日・二十八日、九月十六日・二十四日・三十日、十月一日・十三日・十六日・二十六日、十一月八日・十六日・十七日・二十三日、十二月六日・二十四日・二十九日、の各条

ああせい、校正。そうさ、黄砂。

No.7057

 天気予報では晴なのに、ちっとも日が差さないではないかと思っていたら、原因は黄砂でした。車は汚れるし、洗車も大変です。
 もっとも、私は鹿児島の「はい」ソサエティーで暮らした経験がありますから、こんな程度では驚きません。
 そんなことを言っていたら、なにやら桜島が懐かしくなって参りました。

 昨日は、「ちょっと」という気分で奈良に出掛けたのですが、国道24号線は大渋滞。それもそのはず、三連休の初日で、平城京はブームですし、初夏のような陽気。「ちょっと」という訳にはいかなかったのですが、久方ぶりに東大寺を歩き、柿の葉寿司を買って帰りました。

 東大寺は高校の修学旅行以来、大学の研修旅行など、何度も訪れているのですが、南大門から大仏殿に向かう参道の喧噪はいつもどうり。しかし、ここを楽しそうに歩いている人たちのほとんどは、あの修学旅行の頃には影も形もなかったのだと思うと、実に不思議な気持ちになります。
 まさに「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。
 このところ、諸行無常を実感すること、ただならぬものがございます。

 私は疲れ果てて、そんな感懐にばかりふけっておりますが、50歳になっても未だ若々しいある先生は、こんなお写真を添えたメッセージをのこして欧州に旅立たれ、
   http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2010/03/post-226c.html
また、ある若手研究者は長年の研鑽を経て、ついに博士論文を提出されたとのこと。
 充実した春を過ごされているようで、羨ましい限りであります。

 ☆ 身延山大学の長又高夫先生より、御高論「鎌倉幕府成立論」(『身延論叢』14)を御恵送頂きました。法制史の立場から鎌倉幕府の成立について研究史を整理され、適切なコメント(卓見)を加えられた好論です。ゼミメンバーにも一読をお勧めいたします。
 長又先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 駒場東邦中学・高校の田中大喜先生より、御高論「惣領職の成立と「職」の変質」(『歴史学研究』851)・「入間河公方府と武蔵国一揆」(『南北朝遺文』月報3)・「鎌倉~南北朝期の在地領主組織における被官の位相」(『鎌倉遺文研究』24)・「偽文書に記された「惣領職」」(『日本歴史』742)を御恵送頂きました。
 惣領職の出現は、武士社会における嫡家正統説話の形成と時期的にオーバーラップするように思え、武士論のみならず、軍記研究の側面からも見逃せない御研究だと思いました。
 田中先生にあつく御礼を申し上げます。 

『草燃える』で『今夜は最高』

No.7056

 本日、『紫苑』の三校ゲラが届きました。さっそく、山本編集長が執筆者宛に速達で送付してくれましたので、明日には必ず到着するはずです。執筆者は御確認の上、早々にお戻し下さい。23日(火)に印刷屋さんに渡します。これで、責了としたいので宜しく。
 
 『紫苑』も順調に進んでいる。某論文集に掲載する拙論の初校ゲラの控のコピーをとって、やれやれと思って帰宅してみると、別の論文集掲載の再校ゲラが届いておりました。
 いつまで続く校正の日々・・・。

 そのむかし、日本テレビでタモリ出演の『今夜は最高』という番組がありましたが、そのようなわけで、「今夜は再校」なのであります。
 しかし、このゲラは編集者の内校がしっかりなされていて有り難い。 

 ちなみに、前者の論文集には、短いものながら、長村君と岩田君の論文も掲載されることになっています。
 御両人、校正は済まされましたかな?

 『草燃える』のDVDは山本さんにもお貸ししましたが、あまりに面白いので、石橋山の合戦からの5話を一挙に視聴してしまったそうです。
 岩田君、23日にDVDを交換してあげて下さいね。

 『草燃える』。芸能通の元木先生のお話しを、是非とも伺いたいものであります。

Re: 『草燃える』で『今夜は最高』

元木泰雄
No.7058

 お久しぶりです。野口先生のお招きに応じて出てまいりました。

 年度末の繁忙に加え、学内で都合6種類の委員をこなし、神戸市史の中世編全体の校正(監修)、さらには三田市史等々の業務に加え、連日の飲み会をこなすうちに、風邪をこじらせ、ひどい咳で声が出なくなり、委細かまわず業務を続けた(そうせざるを得なかったのですが)ら、肺炎になり、おまけに左肩が動かなくなり、それでも仕事をし続けたら、薬の効果もあって快方に向かったのですが、今でも依然37度前後の微熱(電子体温計の誤作動?)と全身倦怠が続く毎日です。
 それでもビールがうまく感じるのですから、まあ死にはしないでしょう(笑)。

 それはともかく、『草燃える』は、1979年の大河ドラマ、あの年はまだ当方も25歳!そんな年があったのですな。「平安後期の侍所」と題した修論執筆に励んでいたのが懐かしく思い起こされます。
 岩下志麻の政子、のちの「ゴクツマ」を彷彿とさせる貫禄の演技でした。当時まだ30代ですから、さすが大物です。ちなみに彼女は10代のころ、世界の小津安二郎監督や大スターを待たせて、悠然と撮影所に乗り込んだとか。大物ぶりは本性かも知れません。
 石坂浩二の頼朝、いかにも頼りなく、少し好色な感じ(これは地でしょうか)で、『源義経』(66年)の芥川比呂志、『新平家』(72年)の高橋幸治といった、それまでの怖い頼朝像を一変させた感がありました。それでも、「だんだん神護寺の絵に似てきたやないか」と上横手先生がおっしゃられたことが思い出されます。

 一番印象に残るのは、やはり時政の金田龍之介ですね。巨漢で、コミカルな一方で迫力もあり、まさに時政像を定着させた感があります。しかし、本来の時政役には、東映時代劇の悪役山形勲が予定されていたのですが、彼の急病で、清盛役の金田と交代したはずです。山形も名優で、吉良上野介等貫禄がある悪役を得意とする(どういうわけかもう70が来ているのに『水戸黄門』で、長いこと憎たらしい柳沢容保を演じておりました)一方、映画『不毛地帯』で近畿商事の社長を少しコミカルに演じていましたから、金田よりやや堅めですがそれなりの時政を演じたのではないでしょうか。
 ちなみに清盛役は、金子信雄に変更でした。これはやくざの親分みたいな清盛でした。
 もう一人印象に残るのは、冷徹で知的に描かれた梶原景時。幕府創設の影の主役という役割を与えられておりました。インテリ役を得意とした名優江原真二郎が見事に演じておりました。亡くなられた熱田公先生が「あれは立派やね」と絶賛しておられたのが思い出されます。滅亡の時の鬼気迫る演技は見ものです。
 その景時に切り殺される上総介広常は、悪役の小松方正。石母田流の解釈による「バーバリアン」として描かれていましたが、ちょっとやりすぎの演出ではないかと思いました。いかがでしょうか?

 後半では、頼家の郷ひろみもなかなかの名演。岩下志麻の夫篠田正浩監督が、彼を『瀬戸内少年野球団』などの大作の主人公に起用したのもむべなるかな。また「実朝像」を見て、よく似ているとひそかに思っていた篠田三郎が、まさにその役に起用されたのには笑いました。誰しも同じことを考えるようです。

 今では考えられないのは、後白河・後鳥羽院の描き方です。歌舞伎の大スター尾上松緑演ずる後白河は、当たり障りない描き方に終始したこの前の『義経』異なり、いかにも「都の大天狗」と呼ばれるにふさわしい権謀術数の主と描かれていました。松緑の子辰之助演じる後鳥羽は、奇怪な人物をはべらせ、亀菊(役の上では違う名前になっていましたが)の色香に迷う愚かな帝王として描かれておりました。その後鳥羽を演じた辰之助は、1987年に父松緑に先立って40歳の若さで夭折しております(大酒が原因とか。他人事ではありません)。『太平記』で後醍醐天皇を演じた片岡孝夫も出演後、重い肺の疾患にかかっており、あたかも不幸な天皇を演じると祟りがあるような感がありました。もっとも、『新平家』で崇徳を演じた田村正和はいたって元気ですから、あまり関係はないようですな。
 亀菊役は美人女優として絶頂期にあった松坂慶子。確かに魅力的ではありました。後鳥羽がうつつを抜かすのもやむを得ないか?ちなみに彼女は、ドラマの前半では伊藤祐親の娘で、義時に愛されながら頼朝の落胤をもうけ、平家の女官となって壇ノ浦で死ぬという役も演じておりました。どういうわけか、その落胤を義時が養育し、泰時になるという設定だったと思います。
 真野響子の阿波局が、現代語で喋りまくって違和感があったこと、間抜けな藤原定家が登場し、冷泉家から抗議が出そうな気がしたことなど、懐かしく思い起こされます。

 あの頃は、天皇制タブーを打破り、最新の学説を踏まえた演出が行われ、俳優の名演技と相まって、本当に風格のあるドラマになっていましたね。
 大河ドラマの質も、日本の品格も、当方の体力もみんなどん底に転がり落ちたようで・・・

大河ドラマにおける「東国武士」の評価

No.7059

 元木先生、御寄稿ありがとうございました。
 昨日は、関学の方たちを引率して神戸の平家関連の史跡を回られたとのこと。お疲れのところ、恐縮に存じました。

 元木先生の強靱な体力にはいつも驚かされておりますが、鶴岡八幡宮の大銀杏のようなこともありますから(例として相応しいか疑問ですが、私が「柳」であるとすれば)、くれぐれも御身お大事に、お願い申しあげます。

 さて、『草燃える』でありますが、松坂慶子は全編を通して二人の役を演じており、はじめは大庭景親の娘として登場していました。ドラマの設定では中宮の徳子に仕えておりましたが、これは、当時の東国武士の子弟のみならず、子女も京都に出仕していた事実と整合しております。一方、最近の大河ドラマ『義経』では、政子の一人称が「おれ」であるなど、北条氏も京都文化から隔絶した「土豪」的イメージで描かれていました。大河ドラマの質の低下と、一般の歴史理解の劣化との相関がよく理解できる一例かとも思われます。

 ともあれ、この『草燃える』は、日頃『吾妻鏡』や『玉葉』・『明月記』に親しんでいる者にとっては、古くからの知己がテレビの画面に登場する趣があって、面白くてたまらないと思います。

 ※ 『紫苑』の三校のゲラは明日、印刷屋さんにお渡しいたしますので、執筆者は昼過ぎまでに確実に編集長までお届け下さい。 

失礼致しました。

元木泰雄
No.7060

 野口先生、レスを有難うございました。
 松坂慶子の女官は大庭景親の娘でしたか。まったくの記憶違いでした。申し訳ありません。
 東国武士の娘が、京で女官になる、東国武士自身が上洛するという、東国と京の交流が当然のこととして描かれておりましたね。
 ただ、広常の描き方などをみると、貴族と武士を峻別し、武士が京を忌避するという領主制論が強い影響を与えていたこともわかります。
 いずれにせよ、学問に対する敬意が根底にあったのは疑いようもないと思います。
 91年の『太平記』を境に、大河ドラマの制作姿勢が極端に変化したのには、何か裏があったのかもしれません。あの頃からバブルに浮かれて国民の知能が急激に劣化したとか・・・?

 昨日は、不調でダウンし、見学会も延期致しました。
 いよいよ銀杏の木ですな。 

小松方正の演じた上総広常と京都嫌い。

No.7061

 元木先生、お大事になさって下さい。
 銀杏に例えるなら、先生の落とされたギンナンを研究の糧にしているのは私ばかりではございません。
 
 それにしても、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのは、鎌倉ゼミ旅行直後のことで驚きました。私は自分の胃腸の方が心配で、あの大銀杏のことは気にもとめていませんでしたが、さすがに初めて鎌倉を訪れた山本みなみさんは、しっかりと写真におさめられておりました。なにか象徴的なことのように思っております。

 ところで、『草燃える』の上総介広常。まったく元木先生の仰せのとおりだと思います。小松方正の演じる広常は、まさに「むくつけき東夷」そのもの。あの、「朝家のことをのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かはひきはたらかさん」という『愚管抄』の一節が戦後歴史学では拡大評価されてしまったわけですね。
 『草燃える』放送当時の私も領主制論の信奉者でしたが、あの広常には絶句を余儀なくされたことを覚えております。

 『愚管抄』の記事がそのままには受け取れないことについての私見は、手っ取り早いところで、『源氏と坂東武士』P167以下を御参照下さい。

 しかし、今でも東国武士好きな方の中には、当時の東国武士よりも偏狭な、京都嫌いの「東国独立論者」みたいな方がおられて、閉口することがございます(笑)。
 当時の京都は、今の東京のようなもので、居住者は地方出身者の寄り合い所帯の側面が大きく、それが首都たる所以というものだと思うのですが。

 また、私の昔の話ですが、大学院生の頃に学習塾でアルバイトをしていた千葉県市川市国分には、「小松縫製」という会社があり、バスに乗って「こまつほうせい前」というアナウンスを聞くたびに個性的な俳優である小松方正氏を思い出しておりました。