収穫の多かった岡山調査旅行
No.7021
3~4日、共同研究関連の調査で岡山に行ってきました。2日間とも共同研究員の畠山誠先生に御案内を頂きました。
3日は県立博物館を中心に、岡山城跡・後楽園などを見学。あいにく林原美術館が休館であったため、オリエント美術館に行きました。岡山県は律令制の行政区分でいえば備前・備中・美作の三ヵ国にまたがっており、歴史研究の材料は豊富です。しかし、古代の吉備、戦国の宇喜多氏、近世の池田藩などに隠れて、中世はやや影が薄い。しかし、平家の有力家人難波経遠や妹尾兼康、日本臨済宗の宗祖栄西、水墨画の雪舟など、人物だけを取り上げても興味深い存在が輩出しています。かくして初日は、岡山県中世史の概論を学びました。
4日は畠山先生の3ナンバーの愛車に乗せていただいて、まず吉備津彦神社へ。そこから藤原成親が流され、殺害された有木別所の辺りを通って、吉備津神社へ。
吉備には学生時代以来の訪問です。あの時は造山古墳がメインの目的地だったと思います。今回は、妹尾兼康のものと思われる頭骨の発見された吉野口遺跡。現在、鯉山小学校の敷地になっているのですが、移設された墓所の位置が分からず、地元の方に尋ねると親切にその場所まで足を運んで下さいました。
ちなみに、今回の旅行で出会った岡山の方々は、皆さんとても親切に接して下さいました。
妹尾兼康については、用水の開発に関する伝承なども残されており、ちょっと再評価してみる必要を感じました。研究ノート1本分くらいを書くことの出来る情報を今回の旅行で得ることが出来ました。
妹尾兼康の墓からほんの50メートルほどの所には、栄西の誕生地の石碑があり。この吉備津神社周辺が中世において、政治・文化的に大変重要な地点であったことが理解できました。
豊臣秀吉の毛利攻めで有名な備中高松城跡も、ここから至近です。城跡に立って、 自分の命と引き替えに家臣の助命をはかった清水宗治の心中を思いました。当時の殿様は、家族を人質に出したり、なかなか大変で、政治判断の失策は全て自身に降り懸かりましたから、近代の軍事指揮官や最近の企業経営者とは精神性において大きな相違があったのではないかと想像されます。
少年の頃、大河ドラマで緒形拳主演の『太閤記』を見た時は、ここに来てみたくて仕方がなかったのですが、ようやく実現することが出来ました。しかし、あの時、来ることが出来たら感動は数十倍だったと思います。どこかに出掛けるのなら、無理をしてでも若いうちがよい。歳をとると感動する能力を喪失します。
昼食は、前日の節分会の喧噪とはうってかわって人の数もまばらな最上稲荷にて。
それから、五重塔の美しい備中国分寺(『男はつらいよ 』シリーズの32作目「口笛を吹く寅次郎」のロケ地)、総社市の惣社(沼田神社)と市の郷土館、妹尾兼康関連の史跡を回り、最後は雪舟が涙で鼠の絵を描いたという話で有名な禅寺宝福寺を訪れ、それから岡山駅に向かいました。
車で案内していただいたお陰で、短時間で多くの情報を得ることが出来ました。畠山先生にはほんとうにお世話になりました。
倉敷や高梁、それに源平の古戦場である藤戸や水島も近いので、ここはゼミ旅行にも相応しいところだと思いました。
いずれにしても、また近々訪れてみたいと思っています。
☆ 広島なぎさ中・高等学校の加栗貴夫先生より、御高論「参加記 地方史研究協議会研究例会「美作学と吉備学-地域の成果と課題-」」掲載の『岡山地方史研究』119を御恵送いただきました。
岡山から帰ったところにグッドタイミングでした。
ちなみに、本誌掲載の渡邊大門氏の論文「美作地域における奉公衆の研究」で取り上げられている角田氏はもともと上総国の御家人で、拙稿「中世東国武士社会における苗字の継承と再生産」(拙編『千葉氏の研究』収録)で触れたことがあります。
加栗先生に、あつく御礼を申し上げます。
3日は県立博物館を中心に、岡山城跡・後楽園などを見学。あいにく林原美術館が休館であったため、オリエント美術館に行きました。岡山県は律令制の行政区分でいえば備前・備中・美作の三ヵ国にまたがっており、歴史研究の材料は豊富です。しかし、古代の吉備、戦国の宇喜多氏、近世の池田藩などに隠れて、中世はやや影が薄い。しかし、平家の有力家人難波経遠や妹尾兼康、日本臨済宗の宗祖栄西、水墨画の雪舟など、人物だけを取り上げても興味深い存在が輩出しています。かくして初日は、岡山県中世史の概論を学びました。
4日は畠山先生の3ナンバーの愛車に乗せていただいて、まず吉備津彦神社へ。そこから藤原成親が流され、殺害された有木別所の辺りを通って、吉備津神社へ。
吉備には学生時代以来の訪問です。あの時は造山古墳がメインの目的地だったと思います。今回は、妹尾兼康のものと思われる頭骨の発見された吉野口遺跡。現在、鯉山小学校の敷地になっているのですが、移設された墓所の位置が分からず、地元の方に尋ねると親切にその場所まで足を運んで下さいました。
ちなみに、今回の旅行で出会った岡山の方々は、皆さんとても親切に接して下さいました。
妹尾兼康については、用水の開発に関する伝承なども残されており、ちょっと再評価してみる必要を感じました。研究ノート1本分くらいを書くことの出来る情報を今回の旅行で得ることが出来ました。
妹尾兼康の墓からほんの50メートルほどの所には、栄西の誕生地の石碑があり。この吉備津神社周辺が中世において、政治・文化的に大変重要な地点であったことが理解できました。
豊臣秀吉の毛利攻めで有名な備中高松城跡も、ここから至近です。城跡に立って、 自分の命と引き替えに家臣の助命をはかった清水宗治の心中を思いました。当時の殿様は、家族を人質に出したり、なかなか大変で、政治判断の失策は全て自身に降り懸かりましたから、近代の軍事指揮官や最近の企業経営者とは精神性において大きな相違があったのではないかと想像されます。
少年の頃、大河ドラマで緒形拳主演の『太閤記』を見た時は、ここに来てみたくて仕方がなかったのですが、ようやく実現することが出来ました。しかし、あの時、来ることが出来たら感動は数十倍だったと思います。どこかに出掛けるのなら、無理をしてでも若いうちがよい。歳をとると感動する能力を喪失します。
昼食は、前日の節分会の喧噪とはうってかわって人の数もまばらな最上稲荷にて。
それから、五重塔の美しい備中国分寺(『男はつらいよ 』シリーズの32作目「口笛を吹く寅次郎」のロケ地)、総社市の惣社(沼田神社)と市の郷土館、妹尾兼康関連の史跡を回り、最後は雪舟が涙で鼠の絵を描いたという話で有名な禅寺宝福寺を訪れ、それから岡山駅に向かいました。
車で案内していただいたお陰で、短時間で多くの情報を得ることが出来ました。畠山先生にはほんとうにお世話になりました。
倉敷や高梁、それに源平の古戦場である藤戸や水島も近いので、ここはゼミ旅行にも相応しいところだと思いました。
いずれにしても、また近々訪れてみたいと思っています。
☆ 広島なぎさ中・高等学校の加栗貴夫先生より、御高論「参加記 地方史研究協議会研究例会「美作学と吉備学-地域の成果と課題-」」掲載の『岡山地方史研究』119を御恵送いただきました。
岡山から帰ったところにグッドタイミングでした。
ちなみに、本誌掲載の渡邊大門氏の論文「美作地域における奉公衆の研究」で取り上げられている角田氏はもともと上総国の御家人で、拙稿「中世東国武士社会における苗字の継承と再生産」(拙編『千葉氏の研究』収録)で触れたことがあります。
加栗先生に、あつく御礼を申し上げます。