承久の乱における「宇治川合戦」
No.6775
もちろん、純粋に学問的な目的によってなどではなく、数々の締切の過ぎた原稿執筆を処理するための作業の一環においてのことなのですが、ここ数日、承久の乱における宇治川合戦について考えております。
宇治に住みついてから今年で11年目。野口は東国の出身であるから、この地とはもともと「縁もゆかりもない」と思われがちなのですが、どうもそうではなさそうです。
『吾妻鏡』承久三年(1221)六月十八日条に引かれている宇治川合戦における討死・手負いの交名の中に私の先祖の一族とおぼしき人名があるのです(この交名の史料としての分析に関する研究成果は、長村君が次の『研究紀要』に発表される予定)。
このことには、以前から気がついていましたが、あらためて見なおしてみると、この合戦では郷里周辺(上総・下総)の武士たちが多数戦死したり、負傷したりしたことが分かります。
反対に京方の武士を討ち取って手柄を立てた者もいますが、『大日本史料』に掲げられている諸史料を精読してみて、また、あらためて、この合戦がたいへんな激戦であったことがわかりました。京方は東軍の入洛を防ぐために必死であり、しかも宇治川は大雨で増水し、流れは急。そんななかで、東軍は渡河を決行したわけですから。
最近、承久の乱における院の軍事的な思惑や京方武力の動員に関する研究が新しい展開を見せていますが、それらを踏まえると、どうもこの乱は、従来考えていたほど、幕府勝利の必然性はなかったように思えるのです。史料をよく読んでみて、この合戦自体も、東軍の「楽勝」などでは全くなかったことがよく分かりました。
ところで、この合戦が行われた6月13・14日は、太陽暦に換算すると8月の上旬ということになります。私のご先祖の仲間達は、猛暑の中を西上して来たわけです。そして、もう一歩で京都というところで、討死した者もあった。彼は、それから八百年ほど後に、自身またはその一族の遺伝子を継承した者が、この近くに住み、自らが落命を余儀なくされた合戦をネタにしてものを書くことになるとは露とも思わなかったことでしょう。
ちなみに、8月上旬といえば宇治川では恒例の花火大会が10日に開かれます。例によって『源氏物語』のイメージを前面に押し出したイベントが企画されているようですが、私としては、これを勝手に「承久宇治川合戦」戦死者の慰霊の行事と捉えたいと考えております。
☆ 大阪市史料調査会の生駒孝臣先生より、御高論「水都発展の礎を築いた 水の武士団・渡辺党」(『大阪春秋』135)を御恵送いただきました。
大阪の発展を渡辺党と結びつけて分かりやすく語られた内容です。
生駒先生には、以前ゼミの公開研究会で拙著の書評をして頂いたことがございますが、また機会を見て、渡辺党のお話しなどをいただけたら有り難いと存じております。
生駒先生に、あつく御礼を申し上げます。
宇治に住みついてから今年で11年目。野口は東国の出身であるから、この地とはもともと「縁もゆかりもない」と思われがちなのですが、どうもそうではなさそうです。
『吾妻鏡』承久三年(1221)六月十八日条に引かれている宇治川合戦における討死・手負いの交名の中に私の先祖の一族とおぼしき人名があるのです(この交名の史料としての分析に関する研究成果は、長村君が次の『研究紀要』に発表される予定)。
このことには、以前から気がついていましたが、あらためて見なおしてみると、この合戦では郷里周辺(上総・下総)の武士たちが多数戦死したり、負傷したりしたことが分かります。
反対に京方の武士を討ち取って手柄を立てた者もいますが、『大日本史料』に掲げられている諸史料を精読してみて、また、あらためて、この合戦がたいへんな激戦であったことがわかりました。京方は東軍の入洛を防ぐために必死であり、しかも宇治川は大雨で増水し、流れは急。そんななかで、東軍は渡河を決行したわけですから。
最近、承久の乱における院の軍事的な思惑や京方武力の動員に関する研究が新しい展開を見せていますが、それらを踏まえると、どうもこの乱は、従来考えていたほど、幕府勝利の必然性はなかったように思えるのです。史料をよく読んでみて、この合戦自体も、東軍の「楽勝」などでは全くなかったことがよく分かりました。
ところで、この合戦が行われた6月13・14日は、太陽暦に換算すると8月の上旬ということになります。私のご先祖の仲間達は、猛暑の中を西上して来たわけです。そして、もう一歩で京都というところで、討死した者もあった。彼は、それから八百年ほど後に、自身またはその一族の遺伝子を継承した者が、この近くに住み、自らが落命を余儀なくされた合戦をネタにしてものを書くことになるとは露とも思わなかったことでしょう。
ちなみに、8月上旬といえば宇治川では恒例の花火大会が10日に開かれます。例によって『源氏物語』のイメージを前面に押し出したイベントが企画されているようですが、私としては、これを勝手に「承久宇治川合戦」戦死者の慰霊の行事と捉えたいと考えております。
☆ 大阪市史料調査会の生駒孝臣先生より、御高論「水都発展の礎を築いた 水の武士団・渡辺党」(『大阪春秋』135)を御恵送いただきました。
大阪の発展を渡辺党と結びつけて分かりやすく語られた内容です。
生駒先生には、以前ゼミの公開研究会で拙著の書評をして頂いたことがございますが、また機会を見て、渡辺党のお話しなどをいただけたら有り難いと存じております。
生駒先生に、あつく御礼を申し上げます。