2月も、もう半ば、年度末の風景。

No.6577

 新しい人生を切りひらくための関門に果敢に立ち向かった人。迎えの家族に伴われて懐かしい故郷に帰って行った人。今日(17日)も人様々な一日であったようです。みんなに幸多からんことを。

 さて私こと、今月は、兵庫県の浄土寺・有馬温泉、京都府南部の蟹満寺・山城郷土資料館・浄瑠璃寺・岩船寺、奈良県の法華寺など、好景気だった頃のトヨタの工場で生産された愛車を駆って走り回っております。

 一方、年度末が近いので、研究成果の整理やら書類の作成やらを、ゼミの諸姉兄の御助力をいただきながら、自らの事務能力の欠落にウンザリしながら、なんとか進めております。
 「書類書きで一日終わるような生活だけは送りたくありませんね(泣)。」という元木先生のお言葉が頭をよぎります。

 それにしても、年度末というこの時期には、ときにカッカ、カッカと頭に血が上るような事件に遭遇することもあり、今日は通院中の医院のお医者さんに「いつもより血圧が高い」との御指摘をいただいてしまいました。おまけに、肥満への警告も受けました。

 今日の『吾妻鏡』講読会。仁治四年の条に入りました。泰時死後の幕府政治のあり方にについて、いろいろ検討すべき問題のあることに気づかされました。岩田君の用意してくれた『民経記』の記事にも興味津々たるものがありました。
 なお、小野さんからはケーキ、米澤君からは豆餅の、ともにとても美味しいお土産をいただきました。

 神戸大学からおいでの小野さん・藪本君は追いコンがあるとのことで、再び神戸に戻られました。
 遠路・所用を厭わず参加してくれている、かかるゼミメンバーに、グウタラ学生のなれの果てである私としては頭が下がるばかりであります。

最終講義の季節

No.6567

 今日(14日)は同志社女子大学で朧谷寿先生の最終講義があった由。「摂関家の確立-道長と望月の歌」というテーマもさることながら、朧谷先生は平安博物館における私の前任者という御縁もあることなので、拝聴したかったのですが、このことを知ったのがあまりに直前のことであったために行くことが出来ず、残念なことをしてしまいました。
 そういえば、昨年の3月9日には神戸大学で髙橋昌明先生の最終講義がありました。そんな季節になりました。
 ところで、私の最終講義は、恐らく、結果的に「あれが最終講義だったのか」というようなことになると思いますので、毎回毎回、気を引き締めて教壇に立たなければ、と考える次第です。
 いずれにしても、今は「別れ」の季節です。

 26日開催の中世史研究会2月例会で、親鸞の後半生の歴史的背景についての御報告があるとのことなので、名古屋に出掛けてみることに致しました。来年度から共同研究員に加わって頂くことになっている畠山さんも参加されるとのこと。旧交を温めるよい機会ともなりそうです。
 ところで、元木先生の提起された「安楽寿院見学会」の幹事さんは、お決まりなのでしょうか?

 ☆ 明治大学兼任講師の西山美香先生より、御高論「鑑翁士昭の事績をめぐって」(大取一馬編『中世の文学と思想』龍谷大学仏教文化研究所、2008年)、「禅語録をめぐって」(『日本歴史』第728号)を御恵送いただきました。
 西山先生に、あつく御礼を申し上げます。

『紫苑』第7号初校

No.6562

2月?というほど過ごし易い日でありました。梅も見ごろでありましょうか?
さて、本日無事『紫苑』第7号の初校を提出いたしました。
3月、に向けて順調に進んでおりますのも、皆さまのご支援・ご協力のおかげであります。
まだまだこれからですので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

>『紫苑』執筆者のみなさま
 二校は19日(木)受領予定です。以降の予定は追ってまたご連絡申し上げます。

免許皆伝

No.6564

  『紫苑』第7号。江波編集長が全体にしっかり目を通され、遺漏なく入稿できたものと思います。出版の成否は編集者の力量によるところが多いのですが、お陰をもって学術面での面目を保つことが出来ました。
 それにしても、修正が多い(これは執筆者の責任)。印刷屋さんに御負担をお掛けすることになりました。

 本日(12日)は、『小右記』講読会の最終日。どうしても四月三十日条まで読み終えたいという江波さんの希望で、正午開始。大森さんと私を含めて三人での講読会となりましたが、江波さんは読み下し、語釈などの資料をしっかり用意され、目的を達成。この「やる気」には敬意を表したいと思います。
 私流の「記録講読<術>」は大旨伝授し尽くしましたので、江波さんには免許皆伝の証として、私が学習院大学大学院で受講した土田直鎮先生の『小右記』演習のノートの「写」をお渡しいたしました。つぎの勉強の場は広島に移りますが、しっかり頑張ってください。
 >尻池さん 後輩の御指導を宜しく。 

浄土寺・建築史シンポ・『紫苑』・『吾妻鏡』

No.6561

 先週末は兵庫県小野市にある浄土寺を見学してきました。高速道路(京滋バイパス→名神→中国→山陽自動車道)をとばすと、宇治から一時間半ほど。近いのに驚きました。
 阿弥陀堂の建築は、考え抜かれ、計算され尽くしたもので、自然を前提にした造形の素晴らしさに感じ入りました。
 またまた「日本建築史」に関心を深めた次第ですが、昨日、江波さんとL校舎の一階を歩いていると、建築史専攻の満田さんが教務課に修論を提出されているのに遭遇(江波さんの千里眼による)。
  その後、研究室においでになった満田さんから、最近発表された御高論「仁寿殿・紫宸殿・清涼殿の空間構成と儀式-平安宮内の空間構成と儀式に関する歴史的研究1-」(『日本建築学会計画系論文集』第73巻 第634号)を拝受。また、今月28日に本学で開催されるシンポジウム「東アジアの宮殿と宮殿儀式」の御案内をいただきました。
 詳細はこちらを御覧下さい。→http://www.aij.or.jp/jpn/symposium/2008/20090228.pdf

 さて、『紫苑』ですが、明日(12日)、校正済みの初校ゲラを印刷屋さんにお渡しする段取りです。それにしても赤字が多すぎる。

 今週前半。月曜日、初校ゲラを届けに、田中さんが来室。A地下で昼食をとっていると、そこに修論の口頭試問を済ませた山岡さんが(「音無の構え」で)合流。久しぶりのことでした。
 火曜日。江波さんにとっては京女で最後の『吾妻鏡』講読会。例によって5時間にも及ぶ長丁場となりましたが、仁治二年を読了。最後の十二月三十日条は江波さんに読んで頂きました。
 その場にいた人にしか分からないことですが、藪本君、年賀状、失礼いたしました。

2月の史料講読会

No.6555

 『吾妻鏡』(治承四年)は、参加者がほとんど寮生のため、四月まで休会。
 『吾妻鏡』(上級→目下、仁治二年)は、岩田君の告知(>>No.6545)のとおり。
 『小右記』は、12日(12:00~)をもって、ひとまず終了。

 ☆ 東京都足立区教育委員会の加増啓二先生より、御高論「イエズス会宣教師が観察した中世末期大般若経信仰の一齣-フロイス『日本史』の記述から-」掲載の『社寺史料研究』第4号を御恵送いただきました。
 加増先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 日本大学の関幸彦先生より、御高論「書評 三田武繁著『鎌倉幕府体制成立史の研究』」(『史学雑誌』第117編12号)を御恵送いただきました。
 関先生にあつく御礼を申し上げます。

岩田君が歴研の2月例会で報告します。

No.6552

【歴史学研究会日本中世史部会2月例会】

日時:2月21日(土)14:00~

場所:東京大学赤門研究棟B1第2演習室

報告:岩田慎平氏「北条泰時政権下の鎌倉幕府」

※ 全国各地で活躍されている若手研究者の交流は、とても大切なことだと考えています。

  報告内容に関連する岩田君の業績としては、
  「草創期鎌倉幕府研究の一視点 ―奉行人を中心に―」(『紫苑』第4号,2006年)
  「鎌倉幕府侍所に関する覚書」(『紫苑』第6号,2008年)
があります。ここで、読むことが出来ます。
 ⇒http://donkun.ath.cx/~sion/organ/

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 昨日の史料講読会(『吾妻鏡』)。幕府法について、あらためて学ぶ必要を痛感させられました。この方面での米澤君の活躍に期待しています。
 なお、一回生唯一の参加者である山本さんから郷里のお土産、また、初瀬詣から帰洛された江波さんから、大和茶の抹茶チョコレートをいただきました。いつもの岩田君のコーヒーと共に、美味しくいただきました。ありがとうございました。

 『紫苑』第7号執筆の皆さんには、すでに初校ゲラが届いたと思います。校正、宜しくお願いいたします。
 「ゲラ」で思い出しましたが、沖縄にノグチゲラという鳥がおります。ノグチミノル同様の絶滅危惧種です。

『紫苑』第7号「初校」受領

No.6548

本日『紫苑』第7号の「初校」を受領いたしました。
曖昧に使用していた「初稿」とは何か、「初校」とは何か。
そもそも「原稿」とは何か、「ゲラ」とは何か。
本来の意味と実用例の相違…しばらく悶々としましたが、
先程ようやく腑に落ちました。

>執筆者の皆さま
本日夕刻に投函いたしましたので、近日中にはお手元に配達されることと思います。
第1回校正の締切りは2月9日《必着》とさせていただきます。
お忙しい時期ですが、《締切り厳守》でお願い申し上げます。

「初校」と「かどで」&祝・山田博士50歳

No.6549

 江波さん、御苦労さまでした。
 それに、お土産の「こしあん」の美味しいお饅頭、ありがとうございました。
 明日(3日)は初瀬詣りとのこと。「鬼」出没の時節ゆえ、お気をつけて、楽しんで来て下さい。
 「初校」????・・・?。
 こういう江波さんの書かれた「かどで考」。掲載の『紫苑』第7号の刊行を鶴首される方たちは、さぞかし多いことだろうと思います(なかなかの力作です)。

 今日は新しくゼミに参加された大史1回の大倉悠さんが、昨年4月から講読を続けている同輩に追いつくべく、『吾妻鏡』を自習するための資料を求めて、研究室に来てくれました。大倉さんは「保元・平治の乱」を研究テーマに掲げています。
 その心意気やよし!!
 ほかに、同じ大史1回の本徳さん、今井さんも積極的に参加の意志を表明されているので、新年度の『吾妻鏡』(治承四年)講読会は、とても賑やかなことになりそうです。

 今日はまた、次期『紫苑』編集長である山本みなみさん(「鎌倉幕府における文士」を研究テーマに掲げておられます)も、研究室に来て下さいました。次号には御本人による研究ノートも期待されるところです。

 さて、今日2月3日は山田邦和博士のお誕生日です。
 「福はうち~」の声に呼び込まれて、この世に生まれ出た山田先生も、ついに50歳となられたはず。
 京都文化博物館草創期の山田先生は、若く、初々しく、且つ学問への情熱と希望に充ち満ちておられ、マイナス思考がちな私にとって、大きな心の支えでした。そのイメージは未だに変わらないのですが、時間だけはシビアに流れているようです。
 今や中堅・第一線から「権威」への道を歩み始めた山田先生の今後のさらなる御活躍に期待しております。
 しかし、なにしろ健康を第一になさって下さい。

 なお、蛇足ながら、「鬼は外~」の声に恐れをなして、20日後にこの世に生まれることにしたという方もおられるやに聞いております。

Re: 「初校」と「かどで」&祝・山田博士50歳

山田邦和(同志社女子大学)
No.6551

 野口先生
 私の誕生日にあたってお言葉をたまわり、ありがとうございます。ついに50歳になってしまいました。別に10年おきに区切る意味はないとは思うのですが、やっぱり年をとっていくのを感じますね。大学にいると、毎年々々新しい学生さんが入ってきて(当たり前だ!)、こちらはどんどん年をとるばかりで、なんだか自分だけが取り残されていく(どうもおかしな表現・・・)ような気分になります。
 健康にはもともと自信がないのですが、やっぱり身体第一だと思います。

 それはそうと、本日のNHKの「その時歴史が動いた」は、源義朝が主人公となりますね。でも、予告を見ると、貴族の圧迫をはねのけて武士による政権をめざした義朝、などという言葉が踊っており、あぁまたか、という気分になります。最近、義朝について考えるところがあるのですが、彼に対する私の評価はどんどん低下し、ついには最悪になってきました。おそらくこの番組では義朝への絶賛が続き、その点でも辟易するんだろうな・・・
 ただ、やっぱりコワいもの見たさで、この放送、見てしまうと思います。みなさんはどうされますか?
 

保元・平治の乱と源義朝

No.6553

 山田先生、御返信ありがとうございます。
 なにしろ、「健康」だと思います。
 
 また、そのような番組が放送されるのですか。驚きました。
 あいかわらず、「貴族VS武士=京都VS東国」の過度な強調の図式が再生産されているようですね。

 歴史学において、今日の研究の水準を示す成果は、この書によって社会に還元されているはずなのですが。

  元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス,2004年)  

 NHK出版の刊行であることが皮肉なのですが、「まともに」保元・平治の乱や源義朝の評価を語るとき、この本をペースにしなければ意味は薄い、と私は考えております。

 【追記】 四日の夜、私は、京都は仏光寺・木屋町上るの辺りで、まさに保元・平治の乱の時代を研究領域とされる著名な先生方との宴席に臨んでおりましたので、この番組は拝見できませんでした。

その時歴史が動いた~ 保元・平治の乱と源義朝

山田邦和(同志社女子大学)
No.6554

四日の夜、酔っぱらって帰宅したら、「その時歴史が動いた」にかろうじて間に合いました。
野口先生、御覧にならなくてもよかったですよ。
期待通りというかなんというか、最初から最後まで噴飯モノで、大笑いしながら見てしまいました。
特に、平治の乱を語るのに、藤原信頼の名が一度も出てこなかったのには仰天。
「保元の乱で義朝は奇襲攻撃を主張したが、天皇と天皇との国争いにはそんな卑怯な手はつかえないと言った頑迷な貴族によって阻まれてしまった」とか、
「義朝は、保元の乱の恩賞が前線で戦いもしなかった貴族たちにだけ厚く、自分には薄かったことで絶望した」
というのも初耳のトンデモ学説でした。
その他にも、「義朝はついに、信西とその一族が籠る邸宅を急襲(オイオイ、それ、後白河上皇の三条東殿のことじゃないの? それに、信西はその直前に逃げ出している)」とか、突っ込みどころ満載でした。

少なくとも、番組制作者が元木先生の御高著にまったく目をとおしていないことは確実でした。

こんなむちゃくちゃな内容の番組のゲストで呼ばれるのは、どうせ歴史作家かなんかだろうな、と思っていたら、東大史料編纂所の本郷和人先生でした。
本郷先生、出番は少なかったのがお気の毒でしたが、トレードマークだった(?)顎髭をすっぱりとそり落としての出演で、
「義朝の意義は、武士が貴族に対抗して武力で政権をとれることを証明したことだ。そして、京都に対する東国の価値観を示したことだ」と力説しておられました。
これもまた、予想通りというかなんというか・・・・

やはり、そうでしたか。

No.6556

 歴史学者・国文学者のみならず、一般の方からも、あまりに批判・怨嗟の反響が大きいので、NHKの番組HPを見たところ、参考文献に元木先生の御著書があげられていて、また驚かされました。何を参考にしたというのでしょうか?
 もっとも、以前、この番組で取り上げられた「富士川の合戦」の内容が、私の学生時代以来の研究成果を全否定するものであったことがありましたから、驚くには値しないのかも知れません。しかし、研究者の端くれとして、あのときは不愉快を通り越して本当に情けない気持ちになったものです。

Re: やはり、そうでしたか。

山田邦和(同志社女子大学)
No.6557

野口先生に教えられて、NHKの番組HP<http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2009_02.html>を見てみました。
またまた仰天。私が変に思った部分、NHKは単なる無知ではなく確信犯でやっていたことがよくわかりました。
要するに、義朝の視点に立った番組なんだから、事実を歪めて描いてどこが悪い、ということに尽きるようですね。
義朝のモノローグや自叙伝ならばそれで良いのでしょうが、「歴史」としては一面的な見方はマズい、というような感覚は、彼らにはまったく無いようですね。
情けないことです。

NHK総合の歴史番組について

元木泰雄
No.6558

 お久しぶりでございます。

 最近、歯科治療が長引き、その間に老眼が進行、パソコンを打つのも難儀する事態になり、すっかり落ち込んでおります。

 今回の「その時・・・」の件では、野口・山田両先生に拙著を取り上げていただいた上に、高く評価していただき、まことに恐れ入ります。
 問題の番組、HPで見ただけですが、確かにひどい内容ですね。もう少し何とかならないかと腹立たしく思うのですが、では拙著を中心に番組を作れるかというと、かなり難しいのかもしれません。貴族と武士の同質性、摂関家の複合権門化、信頼の再評価、王権の正当性などを、一般視聴者に30分間で理解させるのは困難だと思います。
 一般視聴者の関心を惹き、視聴率を稼ぐには、難しい新説の提示、あるいは通説との対比を行うのは不可能です。結局、通説的な、貴族の悪政を倒す武士、東国の勇敢な源氏の活躍と、貴族による圧迫、滅亡という通説的図式に乗らないと、番組が作れないのではないかとディレクター氏はお考えなのだと思います。
 本郷先生が最後にご登場とのことですが、おそらく事前打ち合わせでも番組のディテールは知らされず、義朝の評価に関する最後の議論について聞かれただけではなかったかと存じます。当方も昔この番組に出演した時に、番組の放送を見て初めてナレーションや説明のでたらめさに仰天、犯罪に手を貸した思いが致しました。おそらく、今回当方が出演しても、大して違う内容にはならなかったものと思います。
 HPを見た限りですが、拙著も多少は見た形跡がありました。義朝の保元の乱における恩賞、さすがに清盛のそれとは比べておりません。ところが、記録所の役人人事を例に出して、「藤原信西」一族より冷遇されるとあるのですから、あいた口がふさがりません。おそらく、普通の歴史家があらかじめこの記述を見れば、驚いて改変させることでしょう。
 また、本郷先生が高く評価しておられる、河内説も夜襲の話以外は全く反映されていないのも、ディレクターの独断を物語るようですね。ちなみに河内説こそ、権門体制論の原理主義であり、天皇を中心とした支配者の統合を極限まで強調されたお話です。

 それはともかく、ディレクター氏の真意はわかりませんが、このように安直な番組作りが行われる背景はどこのあるのでしょうか。
 そのひとつは、視聴者の歴史離れにあると思います。かつて、中学生でも知っていた歴史的事件を、今の大半の人は知らないのではないでしょうか。先日、勤務先の総合人間学部の学生の合宿で、宿泊先の近江に因んだ歴史の話をしたのですが、10名の学生のうち高校で日本史を全く履修しなかったものが半分。入試でとらなかった者が7名。したがって、宿泊先近江八幡ゆかりの豊臣秀次はともかくとして、大宰府、徳政令、馬借、楽市・楽座をほとんど知らないという有様です(さすがに60歳の教授、事務長さんはよくわかったと、とても喜んだくださいました)。おそらく、こうした事態はかなり上の世代にも共通すると思います。
 日本史が必修科目ではなくなり、受験するにしても安直なセンター試験で事足りるなら、知識の減退、関心の低下は当然のことでしょう。知的好奇心が旺盛な世代の歴史離れが進み、歴史番組を見るのは昔ながらの時代劇ファンが大半。そうなると、通説を崩しては視聴率が稼げないのも当然と思います。大河ドラマの堕落も同様の事情(それに本格的ドラマについてゆけないという視聴者のレベル低下もありますが)によるのでしょう。
 ならば、変に学問ぶらずに歴史バラエティーにすればいいのに、変にアカデミックなように見せかけるのですから、罪が重いと思います。その意味で、「その時・・・」が終了し、芸能人出演の歴史ヴァラエティーになるのは正解と思います。
 ついでに大河ドラマの「時代考証」も、アカデミックなものという誤解を避けるために、字幕に出すのはやめるべきです。
 拙著『保元・平治の乱を読みなおす』は品切れになって久しくなります。あるブログで、「藤原忠通とか、聞いたこともない人名ばかりでさっぱりわからん」と批判されていましたが、ことさら手に取った読者でもその有様ですから、一般読者の水準は推して知るべし。売れなくて品切れになるのも当然と言えるでしょう。

 二つ目には、学問に対する信頼性、畏敬の低落という問題もあると思います。日本史に限らず、学問を馬鹿にする傾向が強まっているのではないでしょうか。「教育問題」に関する再生会議の委員のありかた、裁判員制度、あるいは大学院制度に対する文科省の姿勢に如実に表れているように、専門家を疑い、否定し、馬鹿にするのが最近の風潮と思われます。専門家の面倒な議論に付き合う必要はない、どうせ本当かうそかわからない煩雑なだけの議論、といった見方が番組作りにも反映しているように思われます。
 
 三つ目になりますが、そうした風潮をもたらした、日本史学者の責任も否定はできません。先行研究を正面から批判せず、論拠もあいまいな思い付きを述べて、新説と称し、あたかも学界の通説のごとくふるまう傾向が顕著ではないでしょうか。非論理的な珍節が横行したのでは学問の信頼性もあったものではありません。これでは、日本史をはじめとする日本の人文科学は「グローバルスタンダードもなく夜郎自大だ」といった批判を招くのもむべなるかなです。
 また概説書を見ても、本当に一般読者を意識しているのか、疑わしく思われます。教案作りの参考にする高校の教員、あるいは歴史好きな高校生を対象とする書物として相応しいのかと呆れてしまう書物が満ち溢れています。これでは、歴史好きも嫌いになることでしょう。こんな書物は、歴史をおもちゃにしてでたらめを吹聴する「小説家」の類が書くトンデモ本と変わりません。いや読みにくいだけ劣っているのではないでしょうか。

 日本史学界のかかる体たらくの背景には、論理的な研究が重視されず、思いつきや一時的な流行に流れた研究がはびこったこと、大学などの人事で研究能力と異なる側面が重視されて、優秀な研究者が不遇となったり排除されたりしていることもあるかもしれません。また、実用的でなく、時として体制を批判する日本史学を軽視し、結果として破壊しようとする文教行政にも大きな原因があると思います。そして、何より学者の多くが雑務に振り回されて、こうした危機に対応できないことが最大の問題かもしれません。
 我々はつねに研究を一般に還元する義務があります。歴史認識は文化と国家の品格の基礎であり、歴史をおろそかにする国は滅びると思います。政財界が「構造改革」の名のもとに日本の伝統を放擲詩し、「グローバルスタンダード」に追随した結果が今の日本ではありませんか。
 正しい方法と論理に基づいた学問を提示すること以外に、歴史離れを防ぎ、文化と国家の衰退を防ぐ道はないと考えます。歴史学者は学問の危機と昨今の趨勢をきちんと認識し、歴史離れをあらゆる方法で押しとどめるように尽力する必要があると痛感するしだいです。
 と、言うのはやさしいのですが、なかなか実践は難しいのですが。
 
 少しでもゆっくりものを考える時間がほしい、というのが正直な気分です。書類書きで一日終わるような生活だけは送りたくありませんね(泣)。
 
 なお、最近教育テレビの番組作りをお手伝いする機会がありました。こちらはかなり丁寧な作り方をしていると痛感致しました。上の批判は、総合テレビの話ですので誤解のないようにお願いします。

安楽寿院の特別公開

山田邦和(同志社女子大学)
No.6559

元木先生、しばらくでございます。

拙ブログ<http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2009/02/post-9921.html>に紹介しましたが、3月17日まで、第43回京の冬の旅の「非公開文化財特別公開」をやっており、その中に安楽寿院がはいっております。新装なった「本御塔」が公開され、その中では、鳥羽法皇が自らの陵の堂に安置するために造らせた阿弥陀如来木像、そして、鳥羽法皇・美福門院・八条女院の肖像画などを見る事ができます。やっぱり、この阿弥陀如来像はすばらしいですね。浮き世の憂さを忘れ、しばし平安の世に遊ぶことができました。ありがたやありがたや・・・・
 ほんの少し時間を作って足をのばせばこんな機会に巡り会えることこそ、京都で歴史を学ぶ醍醐味だと思っております。皆様もこの機会にぜひどうぞ。

安楽寿院

元木泰雄
No.6560

 山田先生、こちらこそご無沙汰しております。
 安楽寿院の情報、有難うございました。
 最後に出かけてから、もう10年になります。今回の特別公開を機に、ぜひ参りたいと存じます。
 できれば院生諸君と一緒に見学会をしたいと思います。どなたか幹事をお願いします。
 あのあたりも、いかがわしい建物を除去して、大規模な史跡公園にできないものかと思いますな。

申し遅れましたが、山田先生にはお誕生日をお迎えの由、まことにおめでとうございます。大台を突破されたとのこと、いよいよ人生のピークですね。
 当方の経験を申しますと、大台だからと言って急に衰えることはなかったのですが、立場上心身ともに消耗する仕事が相次ぎ、そのダメージからなかなか立ち直れなくなってしまいました。回復力の遅さに、年齢を感じさせられた次第です。
 大学も学問も大変な状況ですが、お互いに健康には留意して厳しい時代を乗り切りたいと存じます。
 ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

2月3日(火)の講読会開始時刻について

No.6547

 先に岩田君から告知して頂いた2月3日(火)の『吾妻鏡』の講読会ですが、当方の都合により、開始時刻を1時間程遅らせて頂きたくお願い申しあげます。

 ☆ 茨城大学の高橋修先生、和歌山大学の海津一朗先生、茨城大学大学院の額賀大輔さんの御連名で、新刊の高橋修編『熊野水軍のさと 紀州安宅氏・小山氏の遺産』(清文堂)を御恵送いただきました。
 しっかりとした学問的基盤に基づいた地域史研究の社会還元という点で、お手本になる本だと思います。
 高橋先生・海津先生・額賀さんに、あつく御礼を申し上げます。 

白河法勝寺の八角九重塔

No.6544

 京都女子大学は目下、入試の期間中。当然、私も業務に携わっているので、早寝早起きの規則正しい生活を送っております。
 このシーズンになると、入試業務が縁で、鎌倉旅行など、卒業間近からゼミの活動に加わっていただいた笠さんのことが思い出されます。
 あれから、もう何年になることでしょうか?笠さん(現姓、澤田さん)は今、北海道。今年もその例が加わるのですが、当ゼミにおいては、なぜか「おめでたい話」で離洛される方は寒いところに移住されるようです。でも、「松ヶ崎」は京北町よりも寒くはないか?
 
 ところで、本日、ゼミ一回生の皆さんは、京女ゼミ生の「棟梁」である江波さんに率いられて、懸案の白河(法勝寺跡)の見学に行かれた由(まるで保元の乱みたいです)。
 往時の八角九重塔からの眺めを、その跡に立つ動物園の観覧車から味わっていただけたでしょうか?
 ちなみに、拙著『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(本当におかしなタイトルですね)の69ページに、この地点から比叡山を望見した写真があります。御参照下さい。

 『紫苑』第7号、初校ゲラを見るのが楽しみです。

二月の『吾妻鏡』

No.6545

 二月の『吾妻鏡』ですが、三日(火)・十日(火)・十七日(火)・二十四日(火)と開催の予定です。学期間外となりましたので開催時間にも変更がありますのでお気をつけ下さい。
 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2009年2月3日(火)14:00頃?~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:仁治二年(1241年)六月十六日・十七日・十八日・二十八日、七月八日・二十六日、八月十一日・十五日・二十五日・二十八日、九月三日・七日・十日・十一日・十三日・十四日・二十二日、十月十三日・二十二日、十一月三日・四日・十七日・二十一日・二十五日・二十七日・二十九日・三十日、十二月一日・五日・八日・十三日・二十一日・二十四日・二十七日・二十八日・二十九日・三十日、
    仁治四年(寛元元年、1243年)正月五日、二月十五日・二十五日・二十六日・二十九日、三月十二日、四月十日・二十日、五月二十三日、六月十五日・十六日・十八日、七月十日・十七日・十八日・二十日・二十九日、閏七月二日・六日・七日、八月十六日・二十四日・二十六日、九月五日・二十五日、十月七日、十一月一日・十日・二十六日、十二月二日・十日・二十二日・二十五日、の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。ご自身に合った勉強法を見つけていただけると思いますので、どなたさまでも、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。

入試業務の「縁」と「宴」

No.6546

 岩田君、いつも丁寧な告知をありがとうございます。
 2日には『紫苑』の初校ゲラが届いているはずですので、編集についても相談が出来ると思います。

◇ ところで、上に笠さんの思い出話を書きましたが、縁は異なもので、今回も私の入試業務の補助にあたってくれた学生さん3人と意気投合。今日(30日)は、仕事の終わった後、女坂の「里」で一席もうけました(「いつもはA地下なのに~」という声が聞こえてきそうですが・・・)。
 史学科4回生の田中さんは、日本中世史専攻だったのに研究所ゼミに参加できなかったことをお互いに残念がり(でも、笠さんの例もありますから、これからでもどうぞ)、現社1回生の谷田さんと堤さんは、現代社会に歴史の視角から斬り込もうとする意欲満々!当方としては、門戸を広げてお待ちするのみです。

短大基礎教養科目20受講のみなさんへ

No.6538

 最後の授業時間に撮影した記念写真を東野さんから頂きました。2回生の分は東野さんから渡して下さるとのことです。1回生の分は研究室入り口脇のトレーの上の封筒に入れておきますので、各自1枚ずつお取り下さい。
 東野さん、ありがとうございました。4月から「御祈祷!」よろしくお願いいたします。

 ※ さきほど、基礎教養科目20ならびにキャンパスプラザの特別講座科目の成績を教学課に提出いたしました。
  ほとんど出席して、本も読み、活発に発言したけれども、試験は受けない。すなわち、実を取れれば「単位」はどうでもよいという、昔はたくさんいたタイプの学生さんに、久しぶりに遭遇いたしました。

 ☆ 市川市立歴史博物館の湯浅治久先生より、新刊の御高著『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』(中公新書)を御恵送頂きました。
 湯浅先生は、千葉県史編纂のお仕事との関連もあって、中山法華経寺日蓮遺文紙背文書の研究に取り組まれ、大きな成果を学界に提示されましたが、それが随所に盛り込まれている好著です。
 湯浅先生に、あつく御礼を申し上げます。

 【追記】 基礎教養科目の記念写真ですが、短国1回生の山本さんからも届けて頂きました。こちらの分(2回生の分もあります)も研究室前に同じように封筒に入れておきますから、取りにお出で下さい。
 山本さん、ありがとうございました。

  >基礎教養科目履修のみなさん 
   授業は終わりましたが、これからも遠慮なく、研究室にお立ちより下さい。