平頼盛邸(八条池殿)跡の発掘調査
No.6336
今日は午前中、(財)京都市埋蔵文化財研究所(http://www.kyoto-arc.or.jp/)が発掘調査中の平安京左京八条三坊四・五町跡の現地説明会に行ってきました。
場所は近鉄京都駅の北側。ホームにそう形で東西220メートル、南北6メートルの東西に長い範囲で、ちょうど平安京左京八条三坊四・五町の真ん中を東西で分断したような位置関係になります。
想像以上に幅の広い町尻小路の遺構もしっかりと検出されています。この道を北に延ばすと、そこは七条町の中心部。あの、『病草紙』に描かれた当代を代表する京女(きょうおんな)「七条わたりの借上」が活躍したところです。なお、拙稿『京都七条町の中世的展開』(京都文化博物館紀要『朱雀』1)を参照のこと。
四町の地は12世紀に関白藤原忠実が阿弥陀堂を建立したところで、それに関係のありそうな建物遺構が検出されていました。
五町は平清盛の弟で八条院庁の別当でもあった頼盛(池殿)の邸宅のあったところ。
八条院は後白河院の妹の暲子内親王。彼女は当時最大の荘園領主で、私の生まれ故郷の千葉(千葉庄)もその一つでした。12世紀末期、現在の京都駅周辺一帯は八条院の院庁や御所・御倉町で占有されていたのです。
ここからは、邸内の池に水を供給したと思われる礫敷をともなう泉の遺構が検出されていました。また、大宰大弐をつとめ日宋貿易に積極的に関与した平頼盛の邸宅跡だけに、とても珍しい舶載陶磁器も出土していました。
それにしても、この連日の猛暑の中で発掘調査に従事されている方々の御苦労が察せられます。
いつも思うのですが、考古学者は本当に偉いのです。
プリンセスラインの京都駅八条口の停留所のすぐ近くなので、学期中ならば、京女(きょうじょ)の学生のみなさんにも見学に行って貰いたかったのですが。時期がはずれて実に残念でした。
現場では、予想通り、山田邦和先生にお目にかかることが出来、書評会の開催について、直接ご同意を頂くことが叶いました。後期に実現をはかりたいと思います。
☆ 鹿児島の林匡先生より、御高論「島津一門家の成立-越前(重富)島津家再興を中心に-」(『黎明館調査研究報告』21)・「島津吉貴の時代」(同)を御恵送頂きました。
近世の島津氏も、京都の近衛家との関係、はたまた琉球支配の問題など、さまざまな方面で興味津々たるものがあります。
林先生にあつく御礼を申し上げます。
場所は近鉄京都駅の北側。ホームにそう形で東西220メートル、南北6メートルの東西に長い範囲で、ちょうど平安京左京八条三坊四・五町の真ん中を東西で分断したような位置関係になります。
想像以上に幅の広い町尻小路の遺構もしっかりと検出されています。この道を北に延ばすと、そこは七条町の中心部。あの、『病草紙』に描かれた当代を代表する京女(きょうおんな)「七条わたりの借上」が活躍したところです。なお、拙稿『京都七条町の中世的展開』(京都文化博物館紀要『朱雀』1)を参照のこと。
四町の地は12世紀に関白藤原忠実が阿弥陀堂を建立したところで、それに関係のありそうな建物遺構が検出されていました。
五町は平清盛の弟で八条院庁の別当でもあった頼盛(池殿)の邸宅のあったところ。
八条院は後白河院の妹の暲子内親王。彼女は当時最大の荘園領主で、私の生まれ故郷の千葉(千葉庄)もその一つでした。12世紀末期、現在の京都駅周辺一帯は八条院の院庁や御所・御倉町で占有されていたのです。
ここからは、邸内の池に水を供給したと思われる礫敷をともなう泉の遺構が検出されていました。また、大宰大弐をつとめ日宋貿易に積極的に関与した平頼盛の邸宅跡だけに、とても珍しい舶載陶磁器も出土していました。
それにしても、この連日の猛暑の中で発掘調査に従事されている方々の御苦労が察せられます。
いつも思うのですが、考古学者は本当に偉いのです。
プリンセスラインの京都駅八条口の停留所のすぐ近くなので、学期中ならば、京女(きょうじょ)の学生のみなさんにも見学に行って貰いたかったのですが。時期がはずれて実に残念でした。
現場では、予想通り、山田邦和先生にお目にかかることが出来、書評会の開催について、直接ご同意を頂くことが叶いました。後期に実現をはかりたいと思います。
☆ 鹿児島の林匡先生より、御高論「島津一門家の成立-越前(重富)島津家再興を中心に-」(『黎明館調査研究報告』21)・「島津吉貴の時代」(同)を御恵送頂きました。
近世の島津氏も、京都の近衛家との関係、はたまた琉球支配の問題など、さまざまな方面で興味津々たるものがあります。
林先生にあつく御礼を申し上げます。