人の嘲りをも恥づべからず
No.6275
岩田君、告知をありがとうございました。
『吾妻鏡』講読会、来週からはメンバーもほぼ復帰して平常通りに進められることと思います。私は学生時代は内乱期の記事(ほとんど『平家物語』の異本の如し)ばかり読んでいましたが、頼経将軍期のあたりは別の面白さがありますね。
先に、教育実習の思い出話を書かせて頂きましたが、今度は自分が高校生だったときの話です。
当時(1960年代末)、千葉東高校普通科のカリキュラムでは、女子生徒が家庭科の授業を受けている間に男子生徒は国語の授業をうけるということがありました。通称「増国」。週に一時間ですが、私はこれが大変楽しみでした。
体育の授業の次の時間に、2クラスの男子生徒が一緒に詰め込まれ、男の体臭がすさまじい教室で、その授業は行われました。担当は古沢未央先生。この先生は職員室などにはおられず、図書館の司書室を本拠にされて悠然と過ごしておられ、御隠居のお爺さんのような風情の方でした(こういう先生の存在は、最近の高校では見られなくなったと思います)。最近になって知ったことですが、地元の文学の世界では著名な先生だったようです。
この先生の授業のテキストは兼好の『徒然草』。文法の話などほとんどせずに、ひたすら内容に踏み込んだお話しを聞かせて下さいました。先生自身の人生体験を盛り込んだ解説もあって、私は『徒然草』の世界にのめり込んだものです。女子生徒の皆さんは、お料理の腕を上げられたことでしょうが、あの授業に出られなかったのは本当にお気の毒様でした。ただし、古沢先生は、旧制中学のような男子ばかりの教室での授業を楽しまれていた節があります。
私は、この時間には大張り切りで、謡曲「鉢の木」の話を知っているかという先生の問に即座にお応えしたりして、体育の時間における屈辱の埋め合わせに労を惜しみませんでした。そんなわけで、この科目での成績のトップは、柔道部所属の親友K君(現在、千葉県の公立高校の英語教諭)と私が張り合っておりました。
さて、その『徒然草』の第百八十八段には、こんなことが書かれています。
「若き程は、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をもつき、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心にはかけながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるゝ齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へゆく」。
古沢先生と同じ世代になってしまった私は、学生さんたちから見れば、まさしく、この「走りて坂を下る輪の如くに衰へ」てしまったお爺さんに他なりません。 兼好法師は、こう続けます。
「されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、あまたの事の来らんなかに、少しも益の勝らん事をいとなみて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず」、また、「一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをもいたむべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず」。
今さらながら、私はこの兼好の言葉の意味の重大さを実感しているところです。
☆ 前近代における武士神格化の御研究で多大な成果をあげておられる九州大学大学院比較社会文化研究院の高野信治先生より、最近の御高論「「士族反乱」の語り」(『九州史学』149)・「外様大名領の東照宮-鍋島佐賀藩の場合-」(『九州文化史研究所紀要』51)・「近世大名家〈祖神〉考-先祖信仰の政治化-」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊44)の3編を御恵送頂きました。
中世と近世の武士論の接合は大変重要な課題だと思います。
高野先生にあつく御礼を申し上げます。