ぶらり京都の旅-船岡山近辺の巻-
No.622
先日の日曜日に舟岡山近辺行ってきました。
みなさんの都合が悪かったせいか、参加したのは自分と永富さんと野口くんの三人でした(後で鈴木君が合流)。
よく昼間のワイドショーや朝の奥様向けテレビでやっているような、「美人アナウンサー」+「売れない若手吉本芸人の二人組み」の旅案内のような感じになってしまいました(題『秋の京都の近場を低予算で満喫!』)。「舟岡山大祭」で初めて「種子島」の音を聞きましたが、結構心蔵に響くもんですね。というか、「種子島」撃ってる人の方が楽しんでいた気がしました。次は今宮神社⇒雲林院⇒若宮神社⇒玄武神社という順序でいき、最後に大徳寺に行きました。大徳寺と聞くと、一休さんや千利休のイメージが強かったので室町時代に創建されたのかと思ってましたが、実際は鎌倉末期(1315年)だそうです。ここでは野口君の名ガイドが大活躍でした。戦国武将と大徳寺の関係や石庭や茶室の解説まで幅広くまたわかりやすく、他のお客さんまで聞いていました。普段の野口君とは明らかに違っていました。また瑞峰院では、野口君の知り合いの人の「茶道」まで勧められ、少し誘惑にかられました(この時に鈴木君に合流)。日々勉強(?)に忙しい(?)日常から離れて、石庭を見ながらボーとするのもいいもんです。あと大徳寺境内に、「平康頼ノ塔」というものと、またその近くに「千体地蔵塚」というたくさんの石仏・五輪等がありました(永富さんチョット夢中だったような)。自分の考えなんですが、おそらく大徳寺を建てる前にはこの辺りは平安時代からの「葬地の場」としての伝統を鎌倉時代まで受け継いでいたのではないでしょうか。「平康頼之塔」は康頼(元後白河院の北面の武士)の供養等というより、『宝物集』を書く程仏教に傾倒していたので、康頼が荒れ果てたこの辺の石仏・五輪等などの無縁仏を供養する意味で建てたものではないでしょうか。いずれにせよ、大徳寺内にも葬地であった「蓮台野」の面影が残っていたことに、あらためて舟岡山一帯の当時の雰囲気を実感できました。
>山田さん
舟岡山近辺のガイドマップありがとうございました。
若宮神社の由来などすごく役に立ちました。
>田中さん
湖東三山ツアーいいですね。南北朝時代に六波羅探題の武士 が切腹した「蓮華寺」もお忘れなく。
>野口君
お寺のガイド術はいい武器ですね。是非習いたいです。
いやマスターします。寺覚えよう。
みなさんの都合が悪かったせいか、参加したのは自分と永富さんと野口くんの三人でした(後で鈴木君が合流)。
よく昼間のワイドショーや朝の奥様向けテレビでやっているような、「美人アナウンサー」+「売れない若手吉本芸人の二人組み」の旅案内のような感じになってしまいました(題『秋の京都の近場を低予算で満喫!』)。「舟岡山大祭」で初めて「種子島」の音を聞きましたが、結構心蔵に響くもんですね。というか、「種子島」撃ってる人の方が楽しんでいた気がしました。次は今宮神社⇒雲林院⇒若宮神社⇒玄武神社という順序でいき、最後に大徳寺に行きました。大徳寺と聞くと、一休さんや千利休のイメージが強かったので室町時代に創建されたのかと思ってましたが、実際は鎌倉末期(1315年)だそうです。ここでは野口君の名ガイドが大活躍でした。戦国武将と大徳寺の関係や石庭や茶室の解説まで幅広くまたわかりやすく、他のお客さんまで聞いていました。普段の野口君とは明らかに違っていました。また瑞峰院では、野口君の知り合いの人の「茶道」まで勧められ、少し誘惑にかられました(この時に鈴木君に合流)。日々勉強(?)に忙しい(?)日常から離れて、石庭を見ながらボーとするのもいいもんです。あと大徳寺境内に、「平康頼ノ塔」というものと、またその近くに「千体地蔵塚」というたくさんの石仏・五輪等がありました(永富さんチョット夢中だったような)。自分の考えなんですが、おそらく大徳寺を建てる前にはこの辺りは平安時代からの「葬地の場」としての伝統を鎌倉時代まで受け継いでいたのではないでしょうか。「平康頼之塔」は康頼(元後白河院の北面の武士)の供養等というより、『宝物集』を書く程仏教に傾倒していたので、康頼が荒れ果てたこの辺の石仏・五輪等などの無縁仏を供養する意味で建てたものではないでしょうか。いずれにせよ、大徳寺内にも葬地であった「蓮台野」の面影が残っていたことに、あらためて舟岡山一帯の当時の雰囲気を実感できました。
>山田さん
舟岡山近辺のガイドマップありがとうございました。
若宮神社の由来などすごく役に立ちました。
>田中さん
湖東三山ツアーいいですね。南北朝時代に六波羅探題の武士 が切腹した「蓮華寺」もお忘れなく。
>野口君
お寺のガイド術はいい武器ですね。是非習いたいです。
いやマスターします。寺覚えよう。