江口圭一先生とジョージ・セル
美川圭
No.573
美川です。
この前の月曜日(6日)、元木先生と夕食をともにしていた時、最近、江口圭一先生が亡くなったことを知りました。
新聞に載っていたはずですが、迂闊にも知りませんでした。
実は、私は、本務校の摂大で「日米文化交流史」とか工学部の「歴史学」とかをもたされています。前者は、とてもじゃないが、中世の話をするわけにもいかず、後者も工学部の学生に前近代史はいらないのではないかというので、かつて大分困りました。
その時に、これは使えると思ったのが、江口先生の『十五年戦争小史』です。これをテキストにし、私はこの十年近く、給料をもらってきたわけです。ほんとうに、先生は恩人なのです。
その先生が71歳の若さでなくなったので、正直ショックでした。大学の大先輩ですが、残念ながら、直接お話する機会もありませんでした。
ところが、さっき、もう一つびっくりすることがわかりました。先生はジョージ・セルの大フアンだったそうです。
ジョージ・セルというのは、ご存じない方もおられますでしょうが、アメリカのクリーブランド響を世界的なオケに育てた大指揮者です。しかし、日本では、「冷たい」「冷徹」とか言われ、今ひとつ人気がなかった(これはまったくのデタラメなレッテルですが)。最近、ライブ演奏などのCDが発掘され、再評価の兆しがあります。私が、クラシックを聴くきっかけになったのは、この指揮者がふるモーツアルトのピアノ協奏曲20番(ピアノはルドルフ・ゼルキン)を大学生の時聴いてからです。ゼルキンは2度実演に接しましたが、セルは70年の万博のとき、来日、凄い演奏を日本人に披露して(東京でのライブ録音が出ています)、その直後なくなりましたので、その機会がありませんでした。最近、私はセルのCDばかり買っています。好きなんです。ああ、江口先生とセルの話ができなかったのは、ほんとうに残念です。なお、セルは来日時、どうも室生寺に行ったそうです。その話をしてくれた北海道の友人と、室生寺へ数年前行きました。台風で三重の塔が倒壊したのは、その直後のことでした。
この前の月曜日(6日)、元木先生と夕食をともにしていた時、最近、江口圭一先生が亡くなったことを知りました。
新聞に載っていたはずですが、迂闊にも知りませんでした。
実は、私は、本務校の摂大で「日米文化交流史」とか工学部の「歴史学」とかをもたされています。前者は、とてもじゃないが、中世の話をするわけにもいかず、後者も工学部の学生に前近代史はいらないのではないかというので、かつて大分困りました。
その時に、これは使えると思ったのが、江口先生の『十五年戦争小史』です。これをテキストにし、私はこの十年近く、給料をもらってきたわけです。ほんとうに、先生は恩人なのです。
その先生が71歳の若さでなくなったので、正直ショックでした。大学の大先輩ですが、残念ながら、直接お話する機会もありませんでした。
ところが、さっき、もう一つびっくりすることがわかりました。先生はジョージ・セルの大フアンだったそうです。
ジョージ・セルというのは、ご存じない方もおられますでしょうが、アメリカのクリーブランド響を世界的なオケに育てた大指揮者です。しかし、日本では、「冷たい」「冷徹」とか言われ、今ひとつ人気がなかった(これはまったくのデタラメなレッテルですが)。最近、ライブ演奏などのCDが発掘され、再評価の兆しがあります。私が、クラシックを聴くきっかけになったのは、この指揮者がふるモーツアルトのピアノ協奏曲20番(ピアノはルドルフ・ゼルキン)を大学生の時聴いてからです。ゼルキンは2度実演に接しましたが、セルは70年の万博のとき、来日、凄い演奏を日本人に披露して(東京でのライブ録音が出ています)、その直後なくなりましたので、その機会がありませんでした。最近、私はセルのCDばかり買っています。好きなんです。ああ、江口先生とセルの話ができなかったのは、ほんとうに残念です。なお、セルは来日時、どうも室生寺に行ったそうです。その話をしてくれた北海道の友人と、室生寺へ数年前行きました。台風で三重の塔が倒壊したのは、その直後のことでした。