『義経』の「法住寺合戦」はどうなるやら?
No.3882
先日の『台記』研究会で久々にお目にかかった元木先生・美川先生とも、すでに大河ドラマ『義経』は御覧になっていないとのこと。文字通り見捨てられたようです。
私ももはや放送内容についてコメントを記す意欲も気力も失せつつあるのですが、どうも本日の放送では寿永2年11月19日の法住寺(殿)合戦が描かれるらしい。
法住寺殿といえば、京都国立博物館(七条殿が所在)・三十三間堂(法住寺殿内の蓮華王院本堂)から、タレントの島田紳助氏の母校である大谷高校(敷地の殆どは法住寺殿南殿の園池)・一橋小学校(建春門院の御願寺である最勝光院が所在)といった京都女子大の通学路周辺に展開した院御所であり、「法住寺(殿)合戦」はその南殿が舞台であったわけですから、触れざるを得ません。
この合戦について大河ドラマがどう描くかは知りませんが、「この合戦に関する限り、私には、『平家物語』の叙述が一々気に入らない」と仰るのが上横手雅敬先生(『平家物語の虚構と真実』)です。たしかに、この場面ほど『玉葉』や『愚管抄』と『平家物語』の記述とのコントラストが鮮やかなところはない。『平家物語』のイデオロギーが明白です。
また、この合戦に際し、後白河が蓮華王院に当時の真言・天台密教界の頂点に立つ僧侶を結集して院政期最大規模の調伏法を行ったことを指摘した論文として横内裕人「密教修法からみた治承・寿永内乱と後白河の王権」(『日本国家の史的特質 古代・中世』)があります。後白河は宗教的武装をもって義仲に闘いを挑んだのであり、そこで仏教的守護神と化して奇怪な行動をとったのが他ならぬ鼓判官・平知康ということになります。
この論文はおそらく大河ドラマなどよりはるかに面白い。
しかし、法住寺合戦についての最新のすぐれた研究といえば、長村祥知「法住寺合戦について-『平家物語』と同時代史料の間-」(京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール『紫苑』2)をあげないわけにはいかないでしょう。この論文は2003年8月25日に京都女子大学で開かれた学習院大学兵藤裕己ゼミと当ゼミの合同研究会における発表を前提とするもので、法住寺合戦に関する同時代史料を整理し、『平家物語』との相違を検討する中で、「史実」に対する歴史叙述の方法とその内実にせまった好論です(このHPで読むことが出来ます。ちなみに、この論文を発表したとき長村君は学部生でした)。
なお、法住寺殿に関する拙論としては、単著では「法住寺殿と小松家の武将たち」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』15)、以下、山田邦和先生との共著として「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(同16)・「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(同17)があります。
さて、この法住寺合戦によって廟堂を制した義仲は将軍の官職を得るのですが、それが『吾妻鏡』などのいうように征夷大将軍ではなく、「征東大将軍」であったことは、櫻井陽子先生の紹介された『三槐荒涼抜書要』所収『山槐記』建久三年七月記事によって明らかです(「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」『明月記研究』9)。
「法住寺殿」は「ほうじゅうじどの」とよみます。念のため。
私ももはや放送内容についてコメントを記す意欲も気力も失せつつあるのですが、どうも本日の放送では寿永2年11月19日の法住寺(殿)合戦が描かれるらしい。
法住寺殿といえば、京都国立博物館(七条殿が所在)・三十三間堂(法住寺殿内の蓮華王院本堂)から、タレントの島田紳助氏の母校である大谷高校(敷地の殆どは法住寺殿南殿の園池)・一橋小学校(建春門院の御願寺である最勝光院が所在)といった京都女子大の通学路周辺に展開した院御所であり、「法住寺(殿)合戦」はその南殿が舞台であったわけですから、触れざるを得ません。
この合戦について大河ドラマがどう描くかは知りませんが、「この合戦に関する限り、私には、『平家物語』の叙述が一々気に入らない」と仰るのが上横手雅敬先生(『平家物語の虚構と真実』)です。たしかに、この場面ほど『玉葉』や『愚管抄』と『平家物語』の記述とのコントラストが鮮やかなところはない。『平家物語』のイデオロギーが明白です。
また、この合戦に際し、後白河が蓮華王院に当時の真言・天台密教界の頂点に立つ僧侶を結集して院政期最大規模の調伏法を行ったことを指摘した論文として横内裕人「密教修法からみた治承・寿永内乱と後白河の王権」(『日本国家の史的特質 古代・中世』)があります。後白河は宗教的武装をもって義仲に闘いを挑んだのであり、そこで仏教的守護神と化して奇怪な行動をとったのが他ならぬ鼓判官・平知康ということになります。
この論文はおそらく大河ドラマなどよりはるかに面白い。
しかし、法住寺合戦についての最新のすぐれた研究といえば、長村祥知「法住寺合戦について-『平家物語』と同時代史料の間-」(京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール『紫苑』2)をあげないわけにはいかないでしょう。この論文は2003年8月25日に京都女子大学で開かれた学習院大学兵藤裕己ゼミと当ゼミの合同研究会における発表を前提とするもので、法住寺合戦に関する同時代史料を整理し、『平家物語』との相違を検討する中で、「史実」に対する歴史叙述の方法とその内実にせまった好論です(このHPで読むことが出来ます。ちなみに、この論文を発表したとき長村君は学部生でした)。
なお、法住寺殿に関する拙論としては、単著では「法住寺殿と小松家の武将たち」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』15)、以下、山田邦和先生との共著として「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(同16)・「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(同17)があります。
さて、この法住寺合戦によって廟堂を制した義仲は将軍の官職を得るのですが、それが『吾妻鏡』などのいうように征夷大将軍ではなく、「征東大将軍」であったことは、櫻井陽子先生の紹介された『三槐荒涼抜書要』所収『山槐記』建久三年七月記事によって明らかです(「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」『明月記研究』9)。
「法住寺殿」は「ほうじゅうじどの」とよみます。念のため。