平幹二朗さん来訪

美川圭
No.3485

大河『義経』で、後白河法皇を演じられている平幹二朗さんですが、
実は最近、『平家物語』の朗読のCDを収録し、出されています。
そのために、『平家物語』にたいへん関心をもたれていて、
ぜひ、『平家物語』を素材とした新作のお芝居をやりたい、
ということで、じっさいに準備に入っているという話が、
ある筋から私のもとに入ってまいりました。

平さんのアシスタントをされている方が、
たまたま、この野口ゼミの掲示板を見ておられて、
野口ゼミに参加されているかたがたと、
平さんとの気楽な勉強会(というか意見交換会)みたいなことを、
一度できないか、
ということなのです。とくに今年の大河とは関係なく、
あくまでも、お芝居の方のことらしいです。
(大河の話はあまりしたくないとのことです)

時期としては、6月に、新宿で「冬物語」というシエークスピアのお芝居があるため、
5月はその稽古などでお忙しいので、その前の4月中。
ちょうど、5月ロードショーの鈴木清順監督の「オペレッタ狸御殿」
という映画のキャンペーンで、4月末に京都に来られるそうなので、
できれば、その時に設定できないだろうか、という打診です。
京都へ来られる日程は、まだはっきり決まってはいないようです。

私も、ぜひお会いしたいのですが、授業などで、どうなるかわかりません。
野口ゼミの予定もありますので、どうされますか。
なかなかない機会なので、前向きのお返事をしておきましょうか。

「建久元年の歴史的意義」

No.3486

 平姓の後白河院に拝謁の機会を得られるのは、まことに恐悦至極だと思います。元木先生・美川先生の御都合を最優先に時間や場所を設定していただければ、その他大勢の一員として是非とも参上いたしたく存じます。『平家物語』をテーマにしている田中さんや門屋君は是非に。小生は23・24日は学会出張のために東京なのですが、それ以外なら万難を排したいと存じます。
 まさしく、建久元年のごとし。上横手先生にもお出で頂けると良いですね。

Re: 平幹二朗さん来訪

No.3487

ひぇ~っ!!と叫んでしまいました。私も参加希望です。ミーハーのうちの奥さんともども、末席を汚させていただけたらありがたく思います。24日は詰まっているのですが、それ以外でしたらぜひ、と思っていますので、美川先生、よろしく。

ぜひに☆

田中裕紀
No.3488

 しばらくバタバタと新学期の事をしていましたが、門屋氏から
「とにかく掲示板を見ろ」と言われて、見てびっくりしました!
さしずめ、叫び声は「ぎゃっ」という感じでしたが。
 まだ新学期の予定が決まりきっていませんが、4/22~24は
野口先生と同様に東京で平家物語研究会・軍記語り物研究会に参加
する予定です。それ以外の予定はまだわかりません。とりあえず、
分かっている予定だけ書き込ませて頂きました。
 まだびっくりした動悸がおさまりません~~

>野口先生
 置かせて頂いている本ですが、出来るだけ早く取りに行きますので、
もう少しだけ置かせてください!すみません。

>「お疲れさま会」参加の皆さまへ
 お返事が大変遅くなりまして、申し訳ありません。
見学会直後のたくさんの労いのお言葉、ありがとうございました。
久々の幹事業で不手際もありましたが、「楽しかった」という言葉を頂け
れば幹事冥利に尽きるというものです。本当にありがとうございました。
 宇治の見学会の感想も、書こうと思いながら機を逃してしまいましたが
野口先生をはじめ、たくさんの先生方のお話を聞きながらの宇治は、この先
面白いことがたくさん解明される予感がする見学会でした。参加できて本当に
よかったです。

Re: 平幹二朗さん来訪

No.3489

美川先生、平幹二郎氏が、我々にお会いになりたいんですか?
 そういえば、去年も「東大ネタ」がありましたが、4月1日だからって、また大河ドラマネタで盛り上がっているからって、平幹二郎を素材にして、こんな大それた?お話を作るなんて、まあお人が悪い。
 しかし、去年のエイプリルフールにくらべると、大分細かいところまでもっともらしい話に仕上がっていますね。

 仮にホントとしても、大河ドラマに触れられないなら、演劇そのものに疎い当方は、あまり出る幕はなさそうですな。
 かつて民放のバラエティー番組で「共演」なされた上横手先生には、ぜひお出ましいただきましょう。

二度あることは三度あるのか?

No.3490

 山田先生。昨年は「だまされました。言いふらしてしまいました」と仰っておられましたが、今年は小生も美川先生に「してやられた」のかも知れません。さすがは、元木先生、冷静です。でも、ちょっと、出来過ぎなので・・・?
 

Re: 平幹二朗さん来訪

美川圭
No.3491

さすが、元木先生。見破られましたね。
今年も4月になりました。
よろしく、お願いいたします。

4月でした

田中裕紀
No.3492

「まさか!」と思った自分を信じるべきでした!
こんな目にあったからには、美川先生ファンを辞退させて頂かなくては・・・(笑

少しはやまったかな

No.3493

 美川先生、さすがに良くできたお話でした。
 芸能界ともつながりが御ありだし、演劇にも通じておられるから、そういうこともあるかと、思わせるところがありました。
 振り込め詐欺見たいですね(笑)。
 
 せっかっくの趣向、色々皆さんの反応が出始めていましたから、もう少し様子を見て書き込めばよかったですね(爆)。
 そういう当方も、半ば信じておりました。
 いやいや・・・・

Re: 平幹二朗さん来訪

No.3494

 う゛・・・ エ、エイプリルフールか・・・〈絶句〉
 さすがは修羅場をくぐりぬけてこられた元木先生、眼光紙背に徹する慧眼で、見事に見破られたのですね・・・ それに比べて私はまだまた修行が足りないな。

アクセス急増。

No.3497

 美川先生による年中行事によってアクセスが急増しています。想像を絶するような影響が諸方にもたらされているかも知れません。
 なお、嘘情報と言えば、こんなものもあります。

 http://www.f7.dion.ne.jp/~moorend/news/2004071101.html

 なぜか、京都大学の先生の名が上がっておりますが、こちらは「平安年間」なんていう素人丸出しの見出しで、すぐに嘘がバレてしまう代物です。
 美川先生の方は「あくまでも、お芝居の方のことらしいです。(大河の話はあまりしたくないとのことです)」などという辺り、相当に手がこんでいます。
 今後、美川先生の論文は注意深く読む必要がありそうです。
 「やはり事実でした」なんていう「どんでん返し」があれば面白いと思っています。
 ちなみに、当ゼミには「平幹二朗」さんはまだですが、すでに源健一郎先生には御来訪いただいております。

Re: 平幹二朗さん来訪

No.3590

鈴木潤さま:
なかなか秀逸なネタですね。『女性自身』の近藤好和さんのインタビューにあったスペイン騎兵の記事を読んでいただけに、一層笑えました。馬術といえば、『随身庭騎絵巻』に描かれた近衛府のアクロバティックな馬術は見事ですが、ハプスブルグ家のスペイン乗馬学校を見学した時には、ああいう曲芸が本当にできるんだなと感心しました。中世の武家や武官は、子供の頃から乗馬には馴れているのでしょう。大人になった時には、今日では想像できないくらい上達しているのかもしれません。

05年度研究所公開講座の講演題目。

No.3475

 本年6月25日(土)に開催される当研究所公開講座「シリーズ 東山から発信する京都の歴史と文化⑦」の講演題目が決まりましたので、お知らせいたします。

 「「六波羅」から中世を考える」
   東京大学史料編纂所助教授(歴史学) 高橋慎一朗氏
  
 「小宰相の局と「耳無し芳一」伝承-いくさ語りから江戸怪談へ-」
   京都精華大学教授(国文学) 堤 邦彦氏

 講座のテーマは「平家の本拠・平家の鎮魂」にしたいと考えていますが、いまのところ(仮)です。
 とても楽しみです。

今年度のゼミの活動内容について

No.3476

 昨日、野口先生が掲示板にも書かれていましたが、今年度のゼミの活動についての話し合いを、みなさんの授業の開始を考慮して4月7日(木)までに行おうと思います。そこで7日まででみなさんの都合の良い日を明日までに山内まで返信していただきたく思います。よろしくお願いいたします。
※MLで流しましたが、故障のためかみなさんに直接連絡することができませんでした。とりあえずこの掲示板を御覧になった方は、至急山内宛まで返信の方よろしくお願いいたします。

MLの不通

No.3483

 MLですが、プロバイダ側の設定変更があったため、現在利用することが出来ていません。
 現在、作業中です。
 日曜日までには、時間が取れるので復旧させる予定です。
 ご迷惑をおかけしますが、ご了承下さい。

今年度

No.3501

山内さん>お返事が遅くなってしまいすみません。先ほど携帯にメールしましたのでよろしくお願いします。
ゼミの活動内容の話し合いの際、新入生の勧誘の件についても議題にされてはいかがかと思います。
現在ゼミには新三回生以上しかいないという現状ですし、今期は野口先生も京女での授業が少ないので今まで以上に積極的に勧誘活動を行わねばこの先のゼミの存続が危ういと思われます。
ご承知のようにこのゼミはあくまで京女から予算をもらっているゼミなので京女生がいなくては話しになりません。
そこで今年は入学式でビラをまいてPRしてみてはどうかと思います。
さらには古くなっているポスターを新しいものに張り替える必要もあるでしょう。
(ポスターはHPの紹介文よりさらに古いので・・・)

私自身一回生の時にあのポスターを見て宗文研に興味を持っていたものの、時間が夜遅かったので今一歩足を踏み込めず二回生になり、野口先生と出会いました・・・
そういう意味であのポスターはきっと何らかの影響力をもつとおもいます。

分担のことや皆様の都合もあることですし、実行できるかはわかりませんがよろしくご検討ください。


当面の課題。

No.3504

 永富さん  御祖母様、御逝去とのこと、衷心よりお悔やみ申し上げます。
      御祖母様の生き方は、永富さんに確実に隔世遺伝していると思います。
      御自分の人生を大切に生きることが御祖母様への最高の供養になるのではないでしょ
     うか。

 入学式はすでに済んでしまいましたが、ほんとうに永富さんは当ゼミの内情および小生の辛いところをよく理解してくれています。これからもブレーン役を宜しく。
 ポスターは作ってからもう3年以上は経過していますね。まったく効果はなかったのかと思っていました。
 なかなか人材の発掘は難しい。縁というのもありますし。
 縁と言えば、今回の宇治見学で、まず京女考古学研究会代表の渡辺貴代さんにお世話になりました。渡辺さんには今後、当ゼミにも参加を呼びかけたいと思っています。宇治市歴史資料館でお仕事をされている天理大学研究生の大原さん(ご住所は奇しくも岩田君と同じ町内)も意欲満々で将来の御活躍が楽しみですし、また、『明月記』研究会のメンバー(お茶の水女子大院DCの御出身)で宇治にお住まいの佐藤さんにも参加をお願いしているところです。
 しかし、永富さんの言われるように、京都女子大学所属のメンバーの増強が運営面における具体的な(頭の痛い)課題です。
 山内さん、なにとぞよろしくお願いいたします。
 今度のミーテイングでは、具体的な企画の問題のほかに、これからのゼミのあり方・方向性についても忌憚なく御意見を頂ければ幸いです。ただし、小生の更迭だけはご勘弁下さい。

あちゃぱ~☆

No.3525

入学式がすでに終わっていたとは・・・盲点でした☆
自分のときはもっと遅かったのでその感覚のままでいました_(^^;)ゞ
毎度ながらそそっかしくてすみません。
「ブレーン」になるにはまだ修行が足りぬようです。

でもしばらくは坂道にサークル勧誘の方々などがたむろしているので、その中にまざって勧誘することもできますし、また作戦を考えましょう。


瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

No.3470

 『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻第3号(2005年1月)に掲載されている論文です。京都文化博物館在職時の同僚である大塚活美先生から教えていただいて読んでみたのですが、とても面白く興味津々です。
 元木先生の「伏見中納言師仲と平治の乱」で注目された師仲の「伏見の別荘」とも関係しますし、鎌倉後期に持明院統の「伏見御所」がここに存在していたことで、山田先生が追究しておられる大覚寺統の「院政王権都市・嵯峨」とも比較の対象に出来そうです。
 宇治とは巨椋池を隔てて対岸の関係にあり、この地は宇治の評価を考える場合、木幡とともに避けて通ることは出来ません。
 これまで、伏見といえば、秀吉の伏見城か『看聞日記』の伏見宮貞成親王の時代のみが関心の対象とされていましたが、この論文のお蔭で中世前期の伏見に目を向ける必要を痛切に感じました。
 元木先生、美川先生、山田先生。宇治とともに、伏見も課題として取り組みませんか。
 この論文を書いてくださった瀬田先生はもとより、その存在を教えてくださった大塚先生にあつく御礼を申し上げる次第です。
 
 ちなみに、即成院の現在地は京都女子大から徒歩15分ほどの所ですので、近くゼミで見学会(散歩)を致します(日程は後日、指示)。ゼミメンバーはこの論文を必読のこと。那須与一とのかかわりで、国文専攻者にも大いに勉強になるはずです。

Re: 瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

美川圭
No.3471

>野口先生
『紫苑』第3号お送りくださり、ありがとうございます。
実際に送りくださったのは、山岡さんかな。山岡さん、ありがとう。

伏見については、盲点でした。
伏見といえば秀吉、なんて私も勝手に考えていました。
また、持明院統の拠点は一条以北の室町殿前身だと思っていたので、
『日本史研究』476の「おわりに」でちらっと、書いたのですが、
伏見を考えねばならないとは。
「権門都市こそ中世荘園制の根幹」という仮説が、
どこまでいけるか、いろいろ考えたいとおもいます。
とすると、秀吉が、最終的に王家の根幹を、伏見で牛耳った?

瀬田先生の論文は、まだ手に入れていませんが。

Re: 瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

No.3482

>野口先生
 『紫苑』第3号、私も山岡さんから拝受させていただきました。ありがとうございます。ますます内容が充実していきますね。野口先生の巻頭論文、山岡さんの女院論など、興味深く拝見させていただきました。

 瀬田先生の「伏見即成院の中世」が話題になっています。私も抜刷を頂戴いたし、いつもながらの緻密な論証に驚嘆しながら読みました。瀬田先生の凄みは、とにかく現地を徹底的に歩くこと。多くの場合、東京の先生方が京都のことを書くと、失礼ながら土地勘のなさからとんでもないピントはずれが登場しがちなのですが、瀬田先生は違います。私も京都のことならば決して無知ではないと思うのですが、それでも瀬田先生の「京都通」ぶりには脱帽することがしばしばです。

 瀬田先生は、かなり以前から伏見の問題にとりくんでおられました。ゼミで伏見宮貞成親王(後の後崇光院太上天皇)『看聞日記』を読んでいるんだ、と楽しそうに話されていました。ちょうど私も秀吉の伏見城下町の研究にとりくんでいる時、ゼミの学生とともに来られた先生と一緒に伏見を歩いたことがあります。
御香宮社に御案内し、宮司の三木<そうぎ>さんにお引き合わせた時、先生のお顔がパッと輝いたことが忘れられません。三木氏というのは中世以来の伏見の豪族で、その御子孫が今も御香宮の宮司をおつとめになっているのです。「凄いな、凄いな。中世が今も生きているんだ」と、小躍りして喜んでおられたのが印象的でした。
その後、伏見桃山城キャッスルランドの復興模擬天守閣(今はもう上がれない)に昇り、南は巨椋池跡、眼下には伏見殿の故地、北側にははるかに都の市街地を一緒に遠望しました。天守閣に展示してあった伏見の古地図を嘗めるように丁寧に眺めておられたことも思い出します。
 その時の成果が、瀬田勝哉「『伏見古図』の呪縛」(『武蔵大学人文学会雑誌』第31巻第3号掲載、2000年)です。これも凄い論文です。これまで無批判に中世のものと信じられて使われていた「伏見古図」を徹底的に分析し、それが近世に捏造された偽作であることを完膚無きまでに論証したものです。ご興味のある方は、ぜひご一読ください。

 瀬田先生とは、もう一回、伏見を歩いたことがあります。めぐりあわせの良いことに、京都市埋蔵文化財研究所が伏見で発掘調査をしており、それにご案内したのです。これも、先生がかねてから注目されていた「伏見一間道」という古道の場所の調査だったので、これも大変喜んでもらえました。

 中世の伏見、私もぜひやってみたいですね。「院政王権都市」にはなりきれなかったと思いますが、京都近郊の重要な中世都市だったことは間違いありません。ただ、秀吉によって完全に土地が改変されてしまっていますから、なかなか難しい課題であることは確かです。それでも、瀬田先生のように丁寧に探索すれば、思いがけないことがわかるかもしれませんね。
 野口・美川・元木各先生、一度伏見を歩いてみませんか? 秀吉以後のものだけでなく、後崇光院陵、橘俊綱の伏見殿跡と推定される指月の丘(怪しいけれども、光明・崇光両天皇陵が治定されている)など、中世をしのばせるものも少しは残っています。

 宣伝です。9月の中世都市研究会京都大会(於花園大学)では、瀬田先生の御報告があります。稀有な機会かと思いますので、ぜひご来会ください。

中世の伏見を歩く。ゼミの行事に決まり!

No.3484

 山田先生、毎日とてもお忙しいようなのに申し訳ありませんが、ぜひとも伏見の御案内をお願いいたします。歩き疲れたら、中書島駅近くの鳥せい本店かキザクラカッパカントリーで一杯、ということであれば、遠方からの元木先生のお出ましも期待できましょう。
 
 山田先生の紹介された瀬田勝哉「『伏見古図』の呪縛」は、ここで読むことが出来ます。

http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/Elib/H31-3/007/001.html

 ちなみに、瀬田先生の「伏見即成院の中世-歴史と縁起-」の「付記」に、このような一節があり、武蔵大学日本文化学科の矜持の高さに感動しました。いわく、
 「学生の卒論作成に学科の生命を賭けようという共通の意志」
小生も、大学はかくあるべきだと思います。武蔵大学は学芸員課程の充実ぶりでも有名ですが、その辺りの事情については以下をご覧になると一目瞭然だと思います。

  http://www.musashi.jp/persons/gakugei/crtpub/kateirp/repo99/html/nod0-0.htm 

4月からのゼミの活動についてのお願い。

No.3465

 ☆ 四月からの例会などの日程について。 
 
 ゼミメンバー諸姉兄
 新年度に向けて、御多忙のことと思います。
 ゼミの方も、研究室の確保や予算のこともあるので、例会・史料講読会の日程、活動方針(ゼミ旅行・史跡見学会・『紫苑』ほか)などを、四月前半までに、決めたり考えたりしていただきたいと思います。昨年は皆さんの予定が決まった頃に一度集まっています。
 山内さん、全体集会の日程について調整をお願いします。史料講読会などについて岩田君・山本君と連絡の上、ご指示をよろしくお願いいたします。
 ほかの皆さんも、山内さんへの御協力をよろしく、お願いいたします。

 ※ MLでお送りいたしましたが、すべて送信失敗のメッセージが出ましたので、ここに書き込みました。御了承下さい。

Re: 4月からのゼミの活動についてのお願い。

No.3469

 ゼミメンバー及び当掲示板をご覧のみなさんへ
 野口先生のご指摘にもありますように、新年度に向けて準備を進めたいと思います。

 史料講読会についてですが、基本的には昨年度からの継続を考えて、吾妻鏡と古文書のセットでの講読を考えています。古文書は結局のところ昨年度は一度しかできなかったので、新年度にはもっと継続的に開催できればと考えています。
 ただし、それらを何曜日に行うかについては、私自身の予定もいまだ確定しないので、今後の議案にしたいと思います。
 山本さんとも相談中ですので、また何かお知らせできることがあれば、随時ご連絡します。

 「春から何か新しいことを始めてみよう」という方は、どうぞ今後のお知らせにご注目下さい。

『吾妻鏡』講読会について

No.3477

 上記の岩田さんの書き込みの補足となりますが、しばらく自分の私用のために勝手に休止していた『吾妻鏡』講読会をまた四月から再開したいと思います。ただし、日程調整に関しては、昨年度のように、皆さんの予定が合うのがかなり困難になることが予想されますので、新年度の予定が分かった方は、至急山本宛まで御連絡よろしくお願いいたします。

『紫苑』第3号ができました♪

山岡瞳
No.3459

 『紫苑』第3号が本日、印刷所から届きました。
 まず、目次を御紹介します。

 特別寄稿
   源義経の奥州下向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野口 実
 論  文
   北陸地域と比企氏
     -疋田斎藤氏の御家人化の背景-・・・・・・・ 山本陽一郎
 研究ノート
   鎌倉初期の近江佐々木氏・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山内  梓
   摂関・院政期の女院
     -院号宣下の対象の拡大を中心に-・・・・・・・山岡  瞳
 活動記録
   『紫苑』第三号によせて
     -今年度の野口ゼミを振り返る-・・・・・・・・・・田中 裕紀
 八月八日~一〇日 小城ゼミ旅行記・・・・・・・・・・・・ 國方 茉伊 

 ぜひご一読下さい。
 
 僭越ながら、第三号から表紙の題字を書かせていただきました。中を読む前にちょっと目をとめてみてください。
 研究ノートにつきましては、講義のレポートでさえ10枚(原稿用紙)程度しか書いたことがなかった私が、20枚も書けるのかと最初は不安でしたが、何とか形になり、考えることの楽しさを知ることができました。
 また、卒論に1年をかける理由がわかったような気がします。

 最後になりましたが、日東印刷の越野さん、何度も京女までおこしくださり本当にありがとうございました。

『紫苑』の配布について。

山岡瞳
No.3460

>紫苑執筆者の皆様
  所定の部数を差し上げますので、研究室まで取りに来てください。
 
>ゼミメンバーの皆様
  研究室まで取りに来てください。

山岡さん・日東印刷の越野さんに感謝。

No.3462

 山岡さん、御苦労様でした。京都女子大学の学生として最後の仕事を完璧に果たされたと思います。何度も印刷屋さんと連絡を取り、ほかの執筆者の分まで校正し、直筆の題字まで書いてくれました。この達筆な題字は『紫苑』が続く限り使い続けたいと思います。
 また、印刷をお願いした日東印刷の越野さんにも、あつく御礼申しあげます。この仕事はボランティア以外の何物でもなかったと思います。僅かな予算でここまでやっていただいて、本当に感謝に堪えません。
 よく、3号雑誌と言われますが、次号以後もぜひ発展的に刊行できるように、ゼミメンバーの奮起を期待します。次号はより学術的に、しかし、同種の雑誌にない新鮮な機関誌作りに取り組みましょう。
 山岡さん、同志社に行っても編集の仕事は、来年もぜひよろしく。

楽しみにしてます♪

No.3464

中心になって活動していられた山岡瞳さん・日東印刷の越野さん・執筆者の皆様、
『紫苑』の作成、本当にお疲れさまでした。

新学期のガイダンスが多い為、取りに伺う正確な日時は言えませんが、
時間ができ次第、馳せ参ずる所存であります。

執筆者の方の全員の名前が分かるので、何か妙にゼミのメンバーの一員に
なったんだなぁ~という実感が湧きました(笑)

『紫苑』第3号に校正漏れを発見。

No.3481

 拙文「源義経の奥州下向」2頁のうしろから4行目の「基房」は、「基通」の誤りです。何度も読みなおしたはずなのですが、気がつきませんでした。お詫びして訂正させていただきます。
 ある西洋の学者の言葉に「歴史家にとって正確は義務であって美徳ではない」という至言がありますが、情けない限り。老化に伴って、かかる事態はさらに進行するのでしょうか?若いみなさん方からのサポートを期待する所以です。
 ちなみに、この校正漏れを発見されたのは、誰あろう、元木泰雄先生でした。元木先生に、あつく御礼申しあげる次第です。

東大より校正漏れ追加の情報届く!

No.3496

 これは、エイプリルフールではありません。
 史料編纂所古文書室の高橋慎一朗先生からお知らせいただきました。
 
 48ページのタイトル副題の上下の線が、上はダーシ(普通の棒線)なのに、下の線は「ー」という音引き記号になっています。

 さすが、お仕事柄の注意力だと思います。気のつきにくいところの御指摘をありがとうございました。

京都駅から京女大へのアクセス

No.3447

 今日、たまたま七条通を車で通ったのですが、以前お話のあった路線バスの試運転が行われていました。
 3月31日より運行開始とのことです。

 新しいバス路線はその名も「Princess Line」(誰かが喜びそうですが)
 真っ赤な車体に、ロゴが光っていました。

 運賃や定期券、時刻表などの情報が
 http://www.css-c.com/princessline/index.html
 に掲載されています。

 このような名前だと男性が乗りにくいかもしれませんが、大変便利そうです。

 

『明月記』研究会の皆さまへ。

No.3451

 鈴木君。御紹介ありがとうございました。京女の学生さんたちにとって、これは大変な朗報だと思います。ただ、女子学生ばかりが乗っていて、プリンセスラインなんて書いてある真っ赤な車体のバスに、小生のような薄汚れたオジサンが乗るのは抵抗感がありますね。

 ところで、昨日は五味文彦先生をはじめとする『明月記』研究会の皆さまのお供をする機会を得て幸いでした。好天にも恵まれて、JR六地蔵から京阪木幡までの行程は、24日より早めに進行。宇治陵を御案内するに際しては、24日の予行演習の際に山田先生から教えていただいたことが大いに役立ちました。また、浄妙寺跡では、ここで発掘調査に参加した経験を持つ本学史学科学生にして考古学研究会代表の渡辺貴代さんに説明していただいて、とても助かりました。
 宇治市歴史資料館から先は、同館の浜中邦弘先生と天理大学研究生の大原瞳さんにバトンタッチということにさせていただきました。たくさんの資料の準備までしていただいた浜中先生にはあらためて深甚の謝意を表させていただきたいと存じます。
 小生としては、御案内の途中で『明月記』研究会メンバーの諸先生方と親しくお話の出来たことが最大の収穫でした。とくに、先月のゼミ書評会後の宴会で大いに話題になった『三槐荒涼抜書要』の記事を翻刻紹介された櫻井先生とお話しできたのは嬉しいことでした。この、鎌倉幕府成立史研究に大きな画期をもたらすことになるであろうお仕事に、歴史学研究者の立場からあつく御礼を申し上げさせていただいた次第です。
 また、お茶の水女子大の御出身で、現在宇治にお住まいのメンバーの方もおられ、ぜひ当ゼミの例会などに御参加下さるようにお願いして参りましたが、うかつにも連絡先をうかがうのを忘れました。よろしければ、御連絡いただければ幸いです。
 ほかの先生方とも、ゆっくりお話をすることができれば良かったのですが、お目にかかれて短い間でも御一緒できただけでも幸いでした。おそらく、本日ご帰宅のことと存じますが、ゆっくり疲れをおとり下さい。
 幹事の尾上先生、事前の綿密な御連絡ありがとうございました。また、五味先生からは名古屋大学大学院文学研究科シンポジウム『今、開かれる文庫の魅力』の冊子および櫻井先生と御共編の『平家物語図典』を頂戴しました。あつく御礼申しあげます。図典は研究室に配架して当ゼミメンバーの利用に供させていただきます。
 今度は、ぜひ京都女子大学直近の六波羅や法住寺殿あたりの見学にもお出かけ下さい。

治承三年政変

No.3444

 本日の義経、能天気なハイキングで巴にいたぶられる義仲と越後で出会うという、驚くべき無茶苦茶な場面設定でございました。
 越後城氏は、諸国源氏の御曹司に狩猟ツアーでも呼びかけておったようですな。
 あの軽くすっとぼけた義仲なら、短期間で滅亡も当然ではありますが。でも、あんな奴がどうやって上洛するんだ!もう少し、重厚さ、荒々しさは出せんのか?
 本日はめでたく、小沢、長嶋、小泉と、各界名士のご子息、七光りトリオの競演でござった。やれやれ。

 義仲と聞いてすぐに従兄弟と分かるとは、義経もなかなか情報通のようですが、それなら兄義平に父義賢を殺され、自分の父義朝と、義賢や、その父為義が犬猿の仲だったことくらい分かりそうなものですがね。まあ、その辺は源氏は一枚岩というドラマの単純化の結果ということでしょうか。
 頼政まで招いた平氏の奇怪な酒宴も、同様の意図ということになるのでしょう。

 治承二年以降の大火、犯罪は平氏に対する怨嗟を生んだというのも、無理が多い。後白河の王権の動揺が、清盛との対立を激化させ、政変に至るのですが、これも一貫して平氏横暴という図式に単純化されたようです。
 分かりやすく、単純化するならそれで徹底すればいいのですが、おかしいのは重盛です。清盛が決断が鈍いので彼が悪役をかっていた、その彼が死んだので清盛は鬼になったとのこと???
 単純化するなら、清盛を制止していた重盛が死に、清盛がいよいよ先鋭化したと通説通りにすれば宜しい。重盛が憎まれ役を買っていたというなら、殿下乗合事件は史実通り描くべきでしょう。どうせなら、鹿ヶ谷で清盛が助けた成親を彼が暗殺したことにすればよかった。あれでは重盛の印象が薄っぺらで、何とも中途半端です。
 後白河は唖然とするだけ。これでは、折角の名優平幹二郎を持ってきた甲斐もありません。こんな間抜けな後白河なら、これこそ蛭子某氏に演じさせれば宜しい。
 この辺、天皇・王権の描き方が、かつての「新平家」や「草燃ゆる」より甘くなった感を否めません。勘ぐりすぎでしょうか。まあ、そういえば今回梶原景時を演ずる中尾某のとんでもない後白河もありましたね。
 中途半端といえば、突然お徳なる奇怪なばあさんが清盛の下に現れ、息子?を諜報担当者に推挙するのも、唐突です。宮尾さんの原作は清盛の物語であり、清盛の若い日々を見守った人物としてお徳は描かれています。それでこそ、彼女の存在は活きるのですが、義経の物語にしておいて、彼女を大きく取り上げるのは無理があります。
 原作者と、脚本家の葛藤の結果ではないでしょうか。
 
 見ものだったのは、福原の町並み模型が登場したこと。どこの漁村かと思ったら、どうも福原だったらしい。福原というより、大輪田の泊の光景のようでした。別に静止して見直そうとも思いませんでしたが・・・。
 多少進歩した点は、清盛が福原に住んでいることになったこと。だったら、いつ引っ越したのや?

 

破綻したドラマ義経

美川圭
No.3446

先週、元木先生が指摘したように、
重盛が法皇処罰を言い出す、という奇妙なドラマを創作したため、
法皇近臣にして鹿ヶ谷事件の首謀者、そして重盛の妻の兄である成親の命乞い、
という問題が、ドラマの中で説明できなくなってしまった。

そこで、今回は、死の床の重盛が、なんだかわけのわからんことを言って、
成親を謀殺した父を、やはり正しかったとかいって讃えるという、
辻褄のあわないでたらめなドラマをつくることになった。
一つ嘘をついたら、辻褄があわないので、つぎつぎと嘘をついていく典型です。
しかも、ドラマというのは虚構という一種の嘘としても、
その嘘が、実に下手である。そして、重盛という人物像が破綻している。

それにしても、清盛=悪、重盛=善という『平家物語』をむりやり、ひっくり返し、
清盛=善、重盛=悪と単純化したため、やたらにほころびがめだつ。
つまり、古典としての『平家物語』の虚構は、やはり古典となるだけあって、
説得力をもった虚構であるが、今回のドラマの虚構は、まことにお粗末の至り。

しかし、嫌なのは、視聴者の中に、これが最近の歴史学の成果に基づいている、
と誤解する人がでてくることです。『平家物語』とちがい、こちらが真実、と
思われるのも、危険だが、やはり最近の歴史学はどうしようもない、
歴史学の危機だ、なんて知ったかぶりされるのも、困ってしまいます。

  声を大にしていいたい。

けっして、最近の歴史学の成果によって、つくられたドラマではありません。
事実無根の部分を多くふくんだ、あくまでも、脚本家や演出家のつくった、
虚構なのです。それもいささか出来の悪い。

時代考証家問題

No.3448

先週・今週とドラマは未見ですが、私は、時代考証家や風俗考証家は何をしているのかといいたい。もちろん、経験上、そうした考証家は、お飾りにすぎないのは分かっていますが、だったら、考証家の名前をタイトルコールに出すな!考証家の名前を出すだけで、一般の人は、ドラマが史実だと勘違いしてしまう。

治承三年政変と高倉天皇

No.3449

元木先生、美川先生、近藤先生、みなさん、こんにちは。

>>能天気なハイキングで巴にいたぶられる義仲と越後で出会うという、 驚くべき無茶苦茶な場面設定
 ハハハハ、ホントだ。どんどんムチャクチャになってきますね。同じムチャクチャでも、「天下御免」や、大河ドラマ「花の乱」(三田佳子さんが日野富子をやった)くらいに、もはや文句を言っても無駄というレベルにまで達したムチャならば許せる(?)のですが、「義経」はまだまだ修行不足といわねばなりません。

>>一つ嘘をついたら、辻褄があわないので、つぎつぎと嘘をついていく典型です。しかも、ドラマというのは虚構という一種の嘘としても、
その嘘が、実に下手である。
 これは名言ですね。心せねばなりません。

 治承3年政変の描き方も、なんとなく心もとないものを感じました。
 私は、この政変の中では、高倉天皇の役割に注目しなければならないと思っています。なんと言っても、この政変の結果にできあがった政権は、高倉天皇――関白内大臣藤原(近衛)基通――平宗盛というトライアングル体制(後には、 この三角形の中心に安徳天皇が置かれる)なのであり、在福原の清盛(とその武力)がそれをバックアップする、というものなのですから。だから、治承3年政変の成功の要は、清盛の武力発動だけではなく、高倉天皇を自分の陣営の中心に据えることができたからだった。
 私がもしドラマ製作者ならば、この事件のなかに必ず高倉天皇を登場させ、彼にどのような表情をさせるかに工夫を凝らすでしょうね。

 そもそも、この段階の清盛は当時としてはもはや老齢にさしかかっていた。そして、最適の後継者としての重盛に先立たれた直後であった。その清盛が、自分の後継体制をどのようなものにするか、苦悩しなかったはずはありません。考えに考えたあげく、彼は自分が去った後の体制として、前述したようなトライアングルを構想したはずです。私見では、いわゆる「福原遷都」構想もまた、このトライアングル体制の中で考えねばならない。さらにいうならば、福原もまた、清盛の都であったと同時に高倉上皇の都であった、という視点から考えねばならない、と思っています(このあたりは、おそらく議論になるところでしょうが・・・)。

 かつての大河ドラマ「新平家物語」では、片岡孝夫(現・仁左衛門)さんが晴れやかで気品にあふれた高倉天皇を好演しました。片岡孝夫さんは後の大河ドラマ「太平記」でも後醍醐天皇を演じ、そのカッコ良さに魅了されました。私は、それ以来の「高倉ファン」です。

また、「とばでん」。それは江ノ電の支線?

No.3452

 昨日はいささか疲れ気味で、ちゃんと視聴していなかったのですが、それでも「とばでん」には目を覚まされてしまいました。先週の「ほうじゅうじでん」に続いてのこと。
 近藤先生の御指摘のごとく、考証とか○○言葉指導なんていう人がおられるのに。なぜ?どうして?
 最近もありましたが、テレビ局の方は歴史関連の番組制作にあたってまったく場当たり・短絡的に取材やら質問を「電話で」してくる。時には実にわけの分からないことを言ってくる場合もあるのですが、これも研究成果の社会還元に資するのならと、なんとか協力しようとする。しかし、結果的には常に誠実さを感じられない対応しかしていただけない。
 こうした事実を前提にして、テレビというメディアに協力的か否かで歴史学者としての評価が定まるようなことにならないように、と願うばかりです。

Re: 治承三年政変

No.3453

 山田先生ご指摘の片岡孝夫演ずる72年の『新平家物語』の高倉天皇、誠に懐かしく思い出されます。

 当時、女優として絶頂期にあった佐久間良子演ずる徳子と並んだ天皇・中宮は、本当に見る者を魅了したように思います。ちなみに時子は、まだ美人とみなされていた?中村玉緒、建春門院は村松英子、ついでに常盤は若尾文子、静は登場せずでした。
 
 かつて66年の『源義経』では、安徳天皇を除いて、天皇・上皇は登場せず。公卿が「法皇様のお呼びでござる」とか言いながら院御所に行く場面があり、次の場面では「法皇様は、このように仰せであった」とかいう会話の場面になっておりました。
 66年というと、当方小学校6年。この義経が今日を決めた面もありました。

 それが6年後の『新平家物語』では、天皇在位中は御簾の中だが、上皇になると顔を出し、人間として長所、短所を赤裸々に描かれるようになりました。権謀術数の権力者後白河像は、まさに当時の領主制論の描く姿そのものでした。
さらに、79年の『草燃ゆる』では、もっと陰険な後白河と、武士に打ち負かされるおろかな後鳥羽が正面から描かれておりました。武士が築く新しい時代に抗い敗北する帝王像は、それまでドラマで取り上げられるはずもないものでした。
 天皇に関するタブーが10年余りで、大きく変化したことが分かります。

 源平物以外でも、78年の『黄金の日々』では一向一揆を虐殺する信長や、朝鮮を侵略する残忍な秀吉が登場し、「出世太閤記」の能天気なイメージが崩され、80年の『獅子の時代』では自由民権運動や秩父事件が取り上げられ、明治維新の暗い側面が描き出されました。
 こうした延長上に、91年、それまで禁忌とされた『太平記』の時代をとりあげ、後醍醐天皇を正面から描く力作が生まれたものと思われます。90年代までは確実に学問的成果を吸収した丁寧な作品作りがなされていたのです。
 ところが、その翌年には緒方直人主演の『信長』が作成され、翌年の『琉球の風』と続いて、大河ドラマは無残な?学芸会シリーズに転じてしまったのです。
 
 まさか、後鳥羽を演じた尾上辰之助が数年後に急死し、後醍醐天皇役の片岡孝夫氏も一時重篤な肺疾患に陥ったことから、恐ろしくて天皇、上皇を正面から描けなくなったわけではないでしょうが・・・。

 視聴率という根本の問題があるので、難解だったり、通説と余りに離れるのは困るのでしょう。また、王権の描き方には色々議論を呼ぶ面もあるので、デリケートな性格もあるとは思います。とはいえ、ドラマとしての品格と、学問的成果を積極的に取り入れたかつての気骨を失ってほしくないものです。

 それが無理なら、美川先生の示唆されるように、学芸会・バラエティー路線で開き直るべきでしょうね。
 そして近藤先生のお怒りのように、誤解を招く時代考証などという古めかしい尻尾も切り捨てるべきでしょう。それがしたくないなら、逆に民放と相談して、水戸黄門にも時代考証の学者を起用してもらうようにすれば宜しい。

 今回のドラマ、清盛は貿易以外、何を目指したのかさっぱり分かりません。
 後白河幽閉も、単に個人的喧嘩のレベルでしか描かれておりません。
 平氏政権や、当時の朝廷に対する大きな見通しがないので、場当たり的な人物像になる面もあるのでしょう。
 義経の慈父であった清盛が、法皇幽閉のような暴虐をするのは、勇猛な重盛が死んだからという、何とも奇妙な話が強引に作られております。これで視聴者が納得するのでしょうか。
 宮尾さんの原作では、清盛は院政期の青年時代から描かれ、頑迷な貴族と戦う颯爽とした人物として活躍するのですが、テレビでは平治の乱から始めるように短縮したために、清盛の良さが描けず、無理を生じた面もある様に思われます。
 やはり脚本家の無能、不勉強ということでしょうかね。

 そういえば、当方が出演した某歴史番組では、福原からの還都の原因は疫病と飢饉だそうで、京に帰った清盛に対し、頼朝らが蜂起し、彼や義経の率いる源氏が攻め上ってくるというコメントがありました。
 番組制作者たちの頭の中は、いったいどうなっているのかと聞きたい気分です。
これも、最近の日本史教育の結果ですかね。
 そうであるならば、学生の無知、不勉強の背景も、深刻なものと受け止めて、考えなくてはなりません。
 
 山田先生、福原遷都問題と、清盛以降の政権構想については、簡単にではありますが、今度の『古代文化』の拙稿で少し触れました。
 ご意見をお願いいたします。
 
 

NHKの制作体制の変化?

美川圭
No.3456

元木先生のご意見だと、緒形直人主演の『信長』からですか、
大河の堕落は。うーん、確かにそうかもしれない。

私はある関係で、あの溝口健二監督のご遺族を知っているのですが、
溝口監督のご夫人が、生前あの『信長』を撮っていたカメラマンは、
監督に追い出された最悪のカメラマンだ、と言われたというのを、
当時、間接的に耳にしました。

とにかく、あの『信長』はやたらに画面が暗く、何をやっているのか、
よくわからない。鏡みたいに暗いので、
見ているこちら側の視聴者が画面に映りこんでしまう、
という噴飯物であったので、そのことがとくに記憶に残っています。
おどろおどろしいドラマを描く目的だったのか、画面を暗くしたら、
なにもみえなくなっちゃった、というのではとてもプロの仕事とは思えません。

たぶん、あのあたりで、NHK内での大河ドラマの制作体制に、
大きな変化があったと考えるべきなのでしょう。
配下のプロダクションへの外注、とか、NHK内での人材配置問題とか。
そう考えないと、この10年ほどの質の低下は、よくわからない。
NHK内にまったく人材が枯渇しているとは思えませんから。

去年の「新撰組」も、あまりよく見ていないですが、
脚本は売れっ子の三谷幸喜でした。
私は、なんといっても喜劇がいちばん好きなので、
けっこう三谷作品は見ています。
舞台の「笑いの大学」なんていうのは、
ほんとうにおもしろかった(映画化されましたが、映画は未見)。
あまり人気があるので、舞台のチケットがとれませんし、
「笑いの大学」も大阪近鉄劇場で、立ち見をしました。

その三谷が脚本を書いても、少し見たところでは、あの程度の大河、
ということは、やはり、制作全体の欠陥でしょう。
(彼の幕末ものは成功していないこともたしかですが)

現在の大河が、どのように制作されているのが、
非常に関心がありますね。たぶん、時代考証の歴史家が、
口をはさむ余地などないのでしょう。
時代考証に意見をもとめるときは、たぶん脚本はできていて、
撮影もすでに進みつつあり、もう直しようもないし、
そこで直しをもとめるような、うるさい歴史家には依頼しない。
といったことかと、素人目に推測しているのですが、
実際はどうなんでしょうね。

私は、物心ついたときにはもうテレビがあった、という第一世代、
ぐらいかもしれませんので、どっぷりテレビにつかって生きてきましたが、
最近のテレビは、とにかく欠陥ばかりが目につくメデイアになりました。
NHKの不祥事とか、フジ・ライブドア問題とか、大河ドラマの不調と
皆つながっているんでしょうか。

Re: 治承三年政変

No.3457

  美川先生のご指摘の通り、『信長』はひどかった!だから、最初を除いて、ほとんど見ておりません。
 確か、あの時からNHK何とかという下請け会社に委託するようになったはずです。番組の質の著しい低下の一因がそこにあったことは間違えありません。その体制がずっと続いているかどうかは存じませんが。

 時代考証の実態については、どこかで入間田宣夫先生が述べておられましたし、我らが近藤先生も、実質的にご担当だったとのこと。近藤先生の詳しい体験談など、お伺いいたしたいと存じます。

 当方出演の某番組では、下請けがいい加減なヴィデオを作成しており、こちらがコメントできるのは、向こうが聞いてきたことだけでした。清盛の「その時」が仁安2年ではなく、治承3年11月であったと変更したことは良かったのですが、ヴィデオの方はひどいものでした。
 平治の乱に「熊野水軍」が参戦した、一昨年発二重の壕とともに邸宅も発掘され、福原が考古学的に初めて裏付けられた、そして還都のあとで頼朝が蜂起した等等の、でたらめな情報が垂れ流しとなってしまいました。
 関係者によると、学問的な裏づけを取ってなかったとのこと。安易な下請け依存の結果でしょうが、視聴者をたばかるにも程があります。
 下請けビデオ優先の姿勢は、上横手先生がご出演になった日本テレビの「知ってるつもり」も同様でした。あの時は「民放はひどいですね」などと笑ったものですが、もはやそんなことを言っている場合ではありません。受信料を取られて、いい加減な番組を見せ付けられているのですから。

 美川先生の言われるように、テレビ界は大きな問題を抱えているように思います。
 その最たるものは、テレビ関係者の横暴、無自覚と言うことかもしれませんね。それが、国民にどのような影響を与えるのか。考えると恐ろしいことです。

テレビ関係者の常識

美川圭
No.3458

>テレビ関係者の横暴、無自覚と言うことかもしれませんね。

ということで、ちょっと思い出しました。
私、たまたま寝屋川市史の仕事をしているのですが、
例の小学校教諭刺殺事件のとき、市史編纂室のある
教育委員会の建物が、記者会見場になっていました。

編纂室の人の話だと、1週間たいへんだったとのこと。
一番驚いたのは、マスコミ関係者のハイヤー。
教育委員会の駐車場にぎっしりのそのハイヤーが、
一日中、運転手が待機してエンジンをかけっぱなし。

アイドリング状態なんだそうです。

いつでもすぐに移動できるためかもしれませんが、
実際には、そんなに出入りはなかったとのこと。
昔のポンコツ車ならいざしらず、昨今の車が、
そんなにエンジンがかかりにくいはずもなし。
緊急事態だったら、すぐエンジンをかければいいのでしょう。

ところが、昔の習慣を踏襲しているのか、
アイドリングしっぱなしを、不思議にも何にも思っておらず、
環境問題なんて、地球温暖化問題なんて、どこか別の星のこと。
自分たちは正義の味方の、特権階級とでも思っているのでしょうか。

とにかく、そういうところから、世間の常識をとりもどしてほしいです。
いざとなると、「庶民の見方」とか、を報道のなかで、ふりまわして、
攻撃するわけですから。

考証の実態

No.3461

今週分の義経、今日、ビデオでみました。このドラマ、はじめの頃は面白いかなと思っていたのですが(もちろんドラマとして)、今回は見るに堪えませんでした。いくかネタ探しとはいえ、もう見るのはやめようかとも思いましたが、来週からはいよいよ内乱が始まるということで、期待はできませんが、見続けることになると思います。

ところで、時代考証の件ですが、私が参加したのは、奥州藤原三代を扱った渡辺謙主役の「炎立つ」です。元木先生のレスで出ている「琉球の風」と抱き合わせで、はじめてともに一年間ではなく、数ヶ月という短い期間の大河ドラマでした。この制作は、NHKエンタープライズという子会社でした。ともに視聴率は最低レベルだったと思います。

その時の時代考証は、やはり元木先生のレスでお名前の出ている入間田宣夫先生、風俗考証は山中裕先生で、私は山中先生の補佐のような形で、武具考証を担当しました。だから、タイトルコールで私の名前は出ていません。

考証現場の実態は、美川先生のご推察の通りです。はじめに制作側の意向がありきで、こちらの意見を聞いて修正するなどという気はありません。すべてに「先生には正しいことを言っていただきました。でも、それには従えません」という感じです。実際にもそう言われました。しかも向こうからの質問は、こちらの意見を求めているのではなく、イエスという答えだけを求めるものばかりです。しかも即答で。では、考証の先生方はなんのためにいるのかと聞いたところ、一般視聴者に対する楯だという答えでした。つまり考証の先生がついているのだから、内容に文句をいうなよ、という感じですね。だから、考証家なんて、名前だけでいいんですよ。それも著名な。私のような無名の者は名前を出す意味がないわけですね。

実際に私が行った仕事は、甲冑を中心とした蝦夷の武具を作るということでした。蝦夷の武具など、ありもしないわけで、美術スタッフがデザインしたまったくの創作ですが、私の仕事はそれをいかに実際らしくみせて作るかということです。日本では、小道具の制作費が高く、鎧一領で一千万円くらいかかるそうですが、中国では五十万くらいでできるということで、三泊四日で中国に行かされ、中国の小道具制作の技術者に甲冑をはじめとする日本の武具の講義をしました。もっとも、昼・夜ともに豪華な中華料理の接待だったので、中華料理が大好きな私としては、その点では大満足でしたが。

それにしても、その後、歴博の「十三湊」展を見ていたら、最後の「伝説の十三湊」と題した展示室に、その時の蝦夷の甲冑や衣装が展示されているのを見てびっくりしました。それも、大河ドラマで使われた小道具であることを説明したキャプションもなく。しかも、所蔵先は、十三湊が所在する自治体(百石町でしか)所蔵となっていました。これでは、展示を見た人が実際の蝦夷の甲冑だと誤解しても当然です。当時から共同研究員などしていましたから、早速、佐原真館長に抗議文を出し、歴博内部ですったもんだの末、最終日前日にやっと撤去したようです。後で聞いた話では、NHKがその自治体にドラマ終了後に払い下げたそうです。そんなものを展示する歴博も歴博ですが、美術スタッフが創作した小道具をありがたがる自治体も自治体で、NHKの影響力の大きさを思い知ったわけです。

その意味でも、大河ドラマに時代考証、風俗考証やその他なんたら考証といって、研究者の名前を出すのはやめるべきですね。名前を出される方も、ドラマの内容によっては名前を出すのを拒否するとか、そういう気概はないんでしょうかね。もっとも、そういう人には考証依頼は来ないでしょうが。

日テレ特番の「虚偽」

美川圭
No.3463

歴史の話ではないんですが、
今日のYahooニュースで一瞬、かなり大きく取り上げられ、
朝日新聞にも、小さな記事で載っていた問題があります。

日本テレビが26日に放送した
特番「ビートたけしの歴史的大発見 名画モナリザはもう一枚あった」
に対し、北大大学院の田中英道教授(西洋美術史)が、
「存在はすでに知られ、コピーであることも学界では結論づけられている。
あたかも『大発見』であるかのような演出で、虚偽報道だ」と指摘している、
というのです。

私は、ひょんなことから、この番組の後半を見ていたのです。
というのも、たけしと大竹しのぶとともに、出演していた
絹谷幸二という洋画家を知っているためなのです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050329-00000036-sanspo-ent

http://www.ntv.co.jp/louvre/0326sp/main.html

たけしにほとんど興味がない私が仕事をしていると、
家内が「絹谷さんがたけしの番組に出ているわよ」と
呼びにきたので、思わずそのあとを見てしまったのです。

番組自体は、『ダビンチコード』という最近話題の小説にからませた、
民放らしい胡散臭さがにおってくるような番組でしたが、
問題は、「新発見」とされる、もう一つのモナリザが、専門家の鑑定により、
間違いなく、ダビンチの真筆だということを前提としていること。
(前半を見ていないので、その「科学的」根拠は私にはわからない)

でも、ルーブルのモナリザと比較すると、素人目にも魅力がない。
引きつけるところがない。描写があきらかに平板である。
つまり出来がちがうのである。ということで、ダビンチにも、
失敗作もあるのか、と思いながらも、合点がいかなかったわけ。

しかし、もしも田中教授の言が正しいとすると、
たけしなどとテーブルを同じくして座っていた、
絹谷には責任はないのか、ということになります。

絹谷幸二の肩書きは、東京芸術大学教授 日本芸術院会員です。
とくに日本芸術院会員の洋画家は、現在13人しかいない。
しかも最年少です。
肩書きはまあ、日本の絵描きとしては、これ以上ない。

私、この人、40年近く前(つまり私の子供時代)から知っているのですが、
どちらかというと能天気な人なので、
おもしろそうだというので、ほいほい出て行ったのでしょう。
この前の話だと、倒れる前の長島茂雄に絵を教えていたとのこと。

あるいは、たけしがこんど東京芸大教授になるそうなので
(映画学科をつくるんだったか、これもちょっと信じられませんが)
そういう関係もあるのかもしれません。

私としては、素人の目にもおかしいとわかるものを、
あつかっている、かなりあぶない番組になんで出るのか、
なんで現在の日本を代表する洋画家のはずなのに、
あの絵の不出来がわからないのか、
と思うのですが、いずれにせよ、近藤先生がおっしゃることは、
歴史番組だけではないのです。
そのことが、このたぶんに個人的な事件でも、身にしみました。
思いっきり、利用されてしまうのです。

千葉で義経の展覧会があります。

No.3466

 小生の本貫地千葉県に所在する千葉市美術館で、「義経展-源氏・平氏・奥州藤原氏の至宝-」という企画展が開催されますので御紹介いたします。
 ご期待に違わず、主催者には同美術館のほかNHK千葉放送局、NHKプロモーションが名を連ねております。
 出展されるのは、高野山金剛峯寺所蔵の国宝「源義経自筆書状」、厳島神社像の国宝「紺糸威鎧 兜・大袖付」(伝・平重盛所用)・国宝平家納経のうち「法華経 如来神力品第二十一」、静岡県鉄舟寺所蔵の「龍笛 銘 薄墨」などで、全国各地に散在する義経関連の名宝が一堂に会するというのはなかなかの企画だと思います。

   http://www.city.chiba.jp/art/

 ただし、いつも思うのですが、もっとも義経と関係の深い京都関係の出展があまり目につきません。関連の遺品・遺物はいくらでもあるのに、平泉などばかりがクローズアップされているのは、実に不可思議なことで、「義経好きは京都嫌いなのか」と勘ぐりたくなってしまいます。

『日本史研究』511号の21頁に御注目。

No.3441

 このところ、書き込みを小生一人が独占しています。ゼミ崩壊の前兆現象かも知れませんが、まあそれも「諸行無常」ですから仕方ないとして、お知らせしたいことがありますので、また書き込みます。
 タイトルに示した件ですが、一つは樋口知志「蝦夷と太平洋海上交通」の「むすびにかえて」注5です。ここで樋口氏は小口雅史氏が「延久蝦夷合戦をめぐる覚書」で清原「貞」衡は清原「真」衡の誤読と断定したことを批判し、関係写本を調査の上、近く御自身の見解を公表されると述べておられます。
 この件については、既に当BBSにおいて、「真」衡こそ誤読とする認識で一致しております。このことを確認させていただきたいと思います。過去ログで、737,739,741,744,745,746,747,769,770,1095を御覧下さい。
 この問題については、ほかに、前川佳代さんも「貞」衡説の立場から独自の書き込みをされていたはずです。樋口氏の御見解の提示も楽しみですが、ずいぶん以前から独自に写本の調査を進めておられた前川さんによる早々の御発表を待望しています。
 『史学雑誌』の回顧と展望(2003年)で、清原真衡説にほぼ確定というように紹介されており(75頁)、これは困ったことだと思っておりましたので、再び検討の俎上に上ることになれば、よいことだと思っています。

 もう一件は、タイトルの同じ頁の日本史研究会による「会告」です。これによると日本史研究会の本年度大会(10月8・9日)の会場は京都女子大学の由。たしか3年前もそうだったので、驚いております。しかし、これは京女の学生さんには朗報です(すくなくとも2割引で、日本史関係の書籍が購入できる)。当ゼミとしても、大学周辺(六波羅・法住寺殿跡)の史跡見学会や独自テーマの研究会など、いろいろ企画してみたいと思いますが、みなさん如何でしょうか?

 >植村先生  さっそく書き込みをいただいて、ありがとうございます。今後とも宜しくお願いいたします。国文学専攻院生のメンバーに研究の指針などをお示し下されば助かります。文科系の研究者は研究室に閉じこもっていては全く仕事になりませんから、ぜひ例会・見学会・ゼミ旅行などに御参加いただければ、幸いに存じます。
 また、自動車の運転技術についてもゼミ生への御指導を期待いたしております。
 
 >高重先生  御依頼の住所の件、週明けに研究室よりEメールでお知らせいたしますので、少しお待ち下さい。

 >山岡さん  お引っ越しは無事に済みましたか?

無事完了。

山岡 瞳
No.3443

>野口先生
ご心配をおかけしましたが、先日引っ越しを終えることができました。
超特急で片付けをしましたので、部屋はもう落ち着きました。あとは段ボールを捨てるのみです。

>田中さん
遅くなりましたが、幹事お疲れ様でした。

Re: 『日本史研究』511号の21頁に御注目。

No.3454

 野口先生ご指摘の『日本史研究』511号の樋口論文のご指摘、全く同感です。
あの字は、どのように見ても「貞」としか読みようがないと思います。
 東北の方は「真衡」で一致していたかのように思えましたが、その中から「貞衡」派が登場されたことは、心強いことですね。
 やがて公表される樋口氏が見解が注目されるところです。
 これによって、さらに議論が展開されることを期待したいと存じます。
 
 ついでで恐縮ですが、511号の表紙にの目次に見える書評の三つ目の著者、「仙田善雄」さんは、杣田善雄氏の誤りです。
 表紙は書物の顔であり、かつて当方が関与していた雑誌などでは、こうした表紙のミスが発見されようものなら、訂正のシールを貼ったりしたものです。
 これでは杣田先生に余りに失礼ではないでしょうか。
 本号の表紙の校正を担当された方、もしもご覧でしたら善処をお願いいたします。
 もちろん、すでに対策は立てておられることでしょうが。

Re: 『日本史研究』511号の21頁に御注目。

前川佳代
No.3472

野口先生、紹介していただきありがとうございます。「前陸奥守源頼俊申文」については5年前に盛岡で開催されている蝦夷研究会で報告したままでした。小口氏の論考にその時のレジメが引用されており、これではマズイ(小口氏は私の報告は聞いておられず、レジメだけが一人歩きしているので)と、書陵部蔵の写本の他にいくつか残る写本を調査中です。現在のところ、写本は3系統に分けられそうですが、問題の「貞」か「真」かは、「貞」であると思います。写本による確認も第一義ながら、いかんせん近世の写しであるため、「貞」か「真」かという問題は、「鎮守府将軍貞衡」の存在について掘り下げることも必要かと存じます。そのあたりは、野口先生の御領域かと・・・。樋口氏の見解も楽しみですし、私のお尻にも火をつけざるをえません。

複合権門都市としての「宇治」。

No.3433

 昨日のゼミ宇治見学会は27日に予定されている「明月記研究会」の宇治見学御案内の予行とはいえ、院政期政治史、とりわけ宇治の都市的発展に大きく関与した藤原忠実に関する御著書のある元木先生、院政研究の第一人者にして最近「権門都市」に着目されている美川先生、考古学の立場から巨大都市複合体としての中世京都都市圏の研究を提唱・推進されている山田先生の御参加をいただいて、たいへん得るものがありました。
 当初、天候が心配されましたが、徒歩の見学の間は、幸いにも降雨に遭遇せず、宇治陵の実態について山田先生から詳しい御案内をいただくことが出来ました。
 また、宇治市歴史資料館では、同館で発掘調査に携わっておられるすべての先生方から御教示を仰ぐ機会を得、また、27日の見学会についても積極的な御協力をいただけることをうかがって、本当に楽しく、かつ安堵の思いをさせていただいた次第です。あつく御礼申し上げます。
 近年、考古学的な調査の成果に基づく新たな情報が蓄積される中で、摂関家の権門都市宇治にたいする研究は、今後活況を呈することになると思います。昨日の見学会は、若いゼミメンバーも含めて、これからこの時代の宇治の都市史研究を牽引すべき人たちが、一堂に会した観があり、ある意味で記念すべき日となったのかも知れません。
 そのようなことと、見学会が無事に終了し、27日もどうやら御案内の手順が整ったようだし・・・といった安堵感が夜の宴会における小生の饒舌につなかったのだと思います(しかし、本日は寒いこともあって、さっそく腰痛にさいなまれております)。

>元木先生  お疲れの所、遅くまでおつきあい下さり、ありがとうございました。
>田中さん  例によって目的と参加者が多様化した宴会の幹事、ありがとうございました。なかなか、良いお店でした。
 ついでながら、研究室においてある本をお忘れなく。

『明月記』研究会の皆様へ。

No.3434

 27日の宇治見学会について、幹事の尾上先生に直接メールをお送りいたしましたが、あるいは既にご出発になっておられるかも知れず、また参加者の方には事前にお知らせしておいた方がよろしいかと存じますので、ここに同内容の情報を掲載させていただきます。
 昨日、上記のように、見学会の予定コースを回ってきました。JR六地蔵駅から浄妙寺跡・宇治陵などを経て京阪木幡駅まで、約2時間を要しました。木幡からはJRでは電車の本数が少ないので、京阪を利用しました。当初は宇治に着いてから宇治市街の遺跡を御案内してから歴史資料館に向かうつもりでしたが、27日は昼食の時間や歴史資料館までの移動方法の問題で、京阪宇治駅からタクシーで直接歴史資料館に向かうことに致します。
 歴史資料館では館員の浜中邦弘先生が資料を用意して御案内してくださり、さらに平等院など宇治市街の見学についても対応していただけるとのことです。歴史資料館から昼食のお店までは、タクシーを利用することになると思います。私はこの時点で失礼させていただきたいと思います。
 なお、気のついた点を列挙しておきます。
① 朝JR六地蔵駅集合後、徒歩で2時間ほど見学の間、トイレ休憩の場所がありま
せん。
② 27日は観光シーズンの日曜なのでタクシーがつかまりにくいかもしれません。
歴史資料館への往路は駅前で客待ちの車に順次乗車ということになりますが、帰路は
電話で呼ぶことになります。なお、運賃は片道一台800円くらいです。一台に4人
乗車としても7台必要です。
③ 当日は小生の助手役として当ゼミ所属の院生・学生2名ほどが同行させていただきますが、よろしくご了承下さい。

『中世の都市と寺院』などの御紹介。

No.3435

 高志書院から吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』が刊行されました。同書には山田邦和先生の「院政期王権都市嵯峨の成立と展開」や今回の見学会でたいへん御世話になった浜中邦弘先生の「宇治の都市的空間成立と平等院」をはじめ、福原・大宰府などをテーマにした興味深い論文が収録(満載)されています(本体2500円)。
 山田邦和先生の嵯峨に関するもうひとつの論文「中世都市嵯峨」は、京大の金田章裕教授を研究代表者とする平成14~16年度科学研究費補助金基盤研究得(A)(1)研究成果報告書「平安京-京都の都市図・都市構造に関する比較統合研究とデジタルデータべースの構築」に収録されています。
 昨日、上記の『中世の都市と寺院』および掲載御高論抜刷、「中世都市嵯峨」の抜刷をいただきました。また、前にこのbbsでご紹介させていただいた元木先生の御高論「伏見中納言師仲と平治の乱」も、直接頂戴いたしました。両先生にあつく御礼申し上げます。

東大史料編纂所の高橋・保立先生から。

No.3436

 先般の東京方面のゼミ旅行で大変御世話になった東大史料編纂所の保立道久先生と高橋慎一朗先生から御高論抜刷および御共著の書籍をいただきました。
 ・保立道久「都市王権と貴族範疇-平安時代の国家と領主諸権力-」(奈良女子大学「日本史の方法」研究会『日本史の方法』創刊号、2005年3月)
 ・五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』(小学館)
    高橋先生は、第四章「『平家物語』ゆかりの地」を担当され、ここに山田先生御夫妻の作図(当研究所紀要17号掲載)をべースにした「六波羅、法住寺殿周辺図」を掲載されています。
 ちなみに、この本については山田ちさ子さんのblog「平家物語」に詳しく紹介されています。
 保立先生・高橋先生に御恵送をあつく御礼申し上げます。

『中世の都市と寺院』

No.3439

野口先生、皆様、昨日はありがとうございました。楽しかったですね。

拙稿の掲載された、吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』、ご紹介いただき、ありがとうございました。(ただ、岩田書院ではありません、高志書院です)。なかなか刺激的な論文揃いです。中世の奈良の考古学なんて、他ではちょっとお目にかかれません。

定価2500円+税。希望者が集まればご連絡いただければ、著者割引もききます。

お世話になりました

No.3442

 野口先生、ご心配頂き有難うございました。
 最近行事続きで飲みすぎたのと、少々ややこしいことでめげておりました。昨秋からの疲労がボディーブローのように効いて来たようです。
 もう自分の体力、気力と相談しな意図、仕事ができない年になったことを、痛感いたしております。何がショックといって、あの程度のビールで胃がもたれ、胸焼けがするとは・・・。
 
 それはともかく、宇治というと、どうも平等院周辺のイメージしかなく、今回のように宇治陵から宇治の旧来の市街地まで、歩いてみると、宇治に対する新しいイメージが得られたように思います。
 山田先生のご解説で、宇治陵の実態が良く分かりました。道長までの摂関家は、実に貧弱な墓所しか設けておらず、先祖崇拝と結びつくイエ観念が乏しさが実感されました。
 資料館の杉本、荒川両先生の懇切なご説明には本当に感謝しております。
 浄妙寺と離れた宇治川沿いに頼通が別業をつくり、少し離れた場所に師実の泉殿、忠実の富家殿が造営され、白河金色院が出現する。12世紀初期までの宇治は、浄妙寺、平等院、金色院、諸邸宅が散在する地域だったように思われました(荒川先生のご指摘のように、こうした理解は今後の発掘によって大きく変化する可能性も高いのですが)。
 ところが、大殿忠実の時に、平等院を中心として碁盤の目のような町並みが整備され、権門都市として、凝集と発展を遂げた様相が浮かび上がります。
 逆に、保元の乱後、摂関家の別業は、松殿、あるいは岡屋と、再び散在し、平等院付近は衰退するとのこと。
 まさに複合権門の時期に、宇治は都市として最も発達したことになります。
 美川先生のご指摘のように、王家では皇統の変化とともに、権門都市は移転するのですが、宇治が衰退し、別荘が散在せざるを得なかった所に、摂関家のおかれた状態が明瞭に示されているように思われます。

 田中さん、懇親会の幹事役お疲れ様でした。多彩で味付けもあっさりした、いい料理でしたね。近藤先生ならともかく、分量も適当でした。
 あそこは、レストランスターのチェーンとのこと。スターといえば、74年春、大学に入って初めてコンパをしたのが、当時四条木屋町にあったスターでした。外観が変わっても、古くからの店が健在だと少しうれしくなります。
 こういうのも、年寄りの繰言ですかね?
 
 明日の義経、見たいような、見て血圧が上がるのも怖いような。

24日の宇治歴史散歩はこうします。

No.3429

 まさに天に見放されたらしく、京都府南部の24日の天気は午前中は晴天にもかかわらず、昼を過ぎるといきなり雨とのこと。白河上皇なら「雨水の禁獄」必定。
 とはいえ、本日(23日)、単騎、伊予国から応援に駆けつけてくれた山岡さんと、家内制手工業で一生懸命に作成した資料もあることですから、予定通りに敢行の所存です。 ただし、雨量や気温の具合で、徒歩による見学は多くを割愛に委ね、宇治市歴史資料館・平等院鳳翔館・源氏物語ミュージアムなど、屋内施設中心の見学への変更を考慮したいと考えています(入館料を御用意下さい)。
 ということですので、それでは面白くない、お金がかかるのは困る・・・と判断される方は、不参加もやむなしと考えます。まあ、歴史散歩が雨と寒さの地獄でも夜の宴会で極楽気分になっていただければ幸いとするところであります。
 小生が閻魔大王、否、ヒラの鬼なら、田中さんは天女といったところでしょう。
 いずれにせよ、JR六地蔵駅改札口前13:00集合、即スタートします。

 >石浜さん  またNHKブックス(石原千秋『評論入門のための高校入試国語』)を頂戴して、恐縮です。
 ちなみに、小生も山田邦和先生との共著で『原典作者には絶対正解のわからない大学入試国語』という本が書けるかも知れません。

野口先生絶好調

美川圭
No.3432

昨日の宇治歴史散歩、なんとか天気も予想ほどの崩れはなく、
野口先生の行き届いたご解説とご案内、
山田先生の宇治陵でのご解説などで、
たいへん有意義な見学ができました。
とくに、小生、浄妙寺跡、宇治陵、松殿山荘周辺、許波多神社など、
行ったことがない遺跡が目白押しで、楽しかったです。
とともに、宇治の平等院、市街地遺跡などとの関係を、
どう考えたらいいか、という難しい課題の重要性を、
認識できたと思います。
また、準備をしていただいた幹事長の田中さん、山岡さんにも、
深くお礼申し上げます。

また、宇治市歴史資料館で解説をしていただいた、
杉本先生、荒川先生にも、たいへん感謝しています。

なお、当日の詳細については、ゼミ生のどなたか、
まとめて報告してください。
勉強になりますよ。

と堅い話はここまでにして。

夜の宴会はたいへん盛り上がりました。
とくに、野口先生は最近にないほど絶好調。
その理由は、どうも、前に座られたお美しい2人の先生、
とお見受けしました。
まあ、野口先生、その先生方に、しゃべる、しゃべる、しゃべる。
最近、ちょっと、お疲れ気味かな、と心配していたのですが、
やはり、野口先生も・・・・とたいへん、ほほえましく思えました。

Re: 24日の宇治歴史散歩はこうします。

No.3437

 昨日はありがとうございました。
 初参加でしたが、淨妙寺跡や松殿山荘など、野口先生、山田先生の懇切な資料プリント付のご解説もあって、大変興味深く、有意義な一日を過ごさせていただきました。特に、研究熱心な若い方々とご一緒できまして、久方ぶりに清新な気分を味わえました。
 夜のお疲れ様会も、楽しく過ごさせていただいて本当にありがとうございました。

 >野口先生、このところお疲れ気味であったとか?お腰の具合は大丈夫でいらっしゃいますか? 孝子さまにはいつもお世話になっています。お心遣い、感謝申し上げます。
 >幹事長の田中さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 来年度はどうなるかわかりませんが、また参加させていただける機会がありましたら、よろしくお願いいたします。

24日の宇治歴史散歩の写真。

No.3455

 「ぼんやり夫人」こと山田ちさ子さんのblog「平家物語」・・・ではなく、ラン2さんのHP「平安京探偵団」に、24日の見学会の時の写真がupされています。植村先生・山岡さんらしき後ろ姿あり。

 ちなみに、このところ人気blogランキングでは、山田御夫妻のトップ独占は変わらないものの、1位がこの「平家物語」、2位が「平安京閑話」と逆転の形勢。これでは「婦唱夫随」です。