「軍記・語り物研究会大会」 参加報告

No.17377

 24日は藤井寺の四天王寺大学で開かれた軍記語り物・研究会の大会で「列島をかける河内源氏」というテーマで講演をさせていただき、その晩は梅田のホテルに泊まって、25日も研究発表を聴いてまいりました。
 講演の方は、このところいろいろな仕事が錯綜していたので、準備不足だったこと、しばらく授業から遠ざかっていて調子が出なかったり、冒頭のウケ狙いの話があまり上手く出来なかったことなどが重なって、いつものように不本意なものになりました。
 しかし、一番困ったのは喉に痰が絡んで声が出にくくなってしまったことで、これは予定外。老化のゆえのことだと思いますので、これからはもっとマイクを上手に活用して低い声でゆっくりと話をしなければならないと反省しております。

 講演から懇親会の一・二次会、さらに宿泊先の選定まで元木泰雄先生にはたいへん助けて頂きました。河内源氏について、どんな質問が出たところで、会場に元木先生がお出で下されば最高レベルの対応をお願いできるわけですから、心強いこと限り無しでした。また、元木先生には、近鉄大阪線や地下鉄御堂筋線の車内で、大阪の私鉄や藤井寺球場に関する様々なお話をうかがうことが出来、またしてもその博覧強記ぶりに敬服させさせられた次第でした。さらに、25日に昼食を何処で摂ろうかと、駅前を歩き回った際、元木先生のお選びになった小さなイタリア料理のお店のランチの美味しかったことも特筆銘記しておかなければならないと思います。

 なお、会場には24日と25日の藪本勝治君の研究発表の時に岩田慎平・山本みなみ両師範代がお見えになっていたのを始め、両日(懇親会も)にわたって長村君(藪本君の発表の司会をつとめられました)、また24日のみでしたが、越後国からはるばる「田中さん」こと丸山裕紀さんがお出でになっておられました。
 24日には、神戸大学の樋口大祐先生がお出で下さり、御門下の院生お二人(中桐さん・斉賀さん)を御紹介下さりました。このお二人にはぜひ、当方のゼミ史料講読会などに御参加頂ければと思っております。岩田君・山本さんにお引き合わせ致しましたが、連絡など上手くとれているでしょうか?
 それから更に、来年度の公開講座の講師について、田中さんから、この研究会に御出席になられている東京の私大の先生を是非にという御推薦を頂きました。そこで、ちょうど翌日の25日の研究発表の休憩時間に、すでに決まっているもうお一方の講師とその先生が近くにおられたのを幸いに、ここぞとばかりに御依頼を申し上げたところ、こころよく内諾を頂くことが出来ましたので御報告申し上げます。この件については、次回のゼミの時間に御報告申し上げます。

 さて、肝腎の研究報告の感想ですが、なにしろ圧倒的にインパクトのあったのは藪本君の御報告「『吾妻鏡』の合戦叙述─奥州合戦を中心に─」でした。これは、今日の日本中世史の学界で定説化している川合康氏による所説を克服する内容をもつもので、国文学よりも日本中世史研究に与える衝撃の方が大きいのではないかと思われます。川合氏は奥州合戦を頼朝による政治と捉えたのですが、藪本君はそれを『吾妻鏡』編纂者の構想の中に位置づけなおしたのです。今後、『平家物語』史観ならぬ『吾妻鏡』史観への取り組みを、文学の若い方々に期待したいところです。
 それから、懇親会の席で小さいお子さんが三人おられるというお話をうかがった若い女性研究者の御報告も鎌倉幕府成立期における文士の人脈を考える上で、実に興味深い内容でした。子育て・家事・研究のすべてを熟しながらの日常は大変だと思いますが、頑張って頂きたいと思いました。こういう方の存在を知ると、いろいろ理由をつけて自分の希望する途を放棄して、たった一度しかない人生を無駄にしてしまうよりも、なんとか頑張ってみるべきだと若い人たちにお説教をしたくなってしまいます。
 楽しみにしていた野中哲照先生の『陸奥話記」に関する御発表は大変熱の入ったもので、精力的で緻密な作業を前提とした書誌学的な御説明には大いに蒙を啓かれました。ただ、考察の部分では歴史学の立場からするといくつか違和感がありましたので、非礼を省みずに、これは率直に指摘させて頂きました。その点を再考して頂ければ、歴史学の側からの評価に於いても前九年・後三年合戦に関する従来の理解を克服する研究成果が導かれるのではないかと、大いに期待するところがございました。

 というわけで、この二日間はなかなか充実したものがございました。ただ、今になって明らかに致しますが、私は例によって胃腸の不調が続き、懇親会の一次会の時など、いささかこまった状態に陥っておりました。席の周囲が兵藤裕己先生や源健一郎先生など親しい方たちばかりだったので、それで救われましたが、まぁ、普段は、身体の具合や腹の中で考えていることが、そのまま外面に出ている単純明快なオヤジである野口でさえも、内と外で相違する場合のあることを御理解頂ければ幸いであります。

 最後になりますが、この大会にお招き下さり、大変・大変お世話になった源健一郎先生と平藤幸先生に、心からの御礼を申し上げます。
 平藤さん、御上洛をお待ち申し上げております。

  明日は明日の風が吹くのでしょうが・・・。

No.17264

 Facebookにも書きましたが、昨日は河内源氏のお墓や叡福寺の見学に行って参りました。想像していたのとはまったく異なる空間で、行っておいてよかったと思っています。 いろいろインスピレーションも湧きました。
 しかし、体力の衰えを痛感させられたり、カーナビのインチキ案内に帰宅の道を惑わされたのはマイナスでした。前者は仕方ないにせよ、カーナビは時々、こういう結果をもたらすので本当に困ります(たいまい16万円もしたというのに!)。
 しかし、やはり出かける前にキチンと全行程を最新の地図によって把握し、カーナビの不審な案内には乗らないように用心することが肝要であると思います。
 考えて見れば、これは今日のIT社会の陥穽を避けるためにも同じことが言えるわけで、子どもたちにタブレット端末を持たせて、それで紙の教科書は不要であるなどという発想の危険性を示していると思います。

 それから、本日、吉川弘文館のPR誌『本郷』が届きました。これに短文ながら連載している『中世武士の肖像』に「毛利氏」について書きましたので、御笑覧頂ければ幸いです。
 ちなみに、この冊子の冒頭に、『歴史手帳』が60年ぶりに全面改定されるという記事(宣伝)が載っていました。中味にはいろいろ工夫が加えられるようですが、困ったのは判型を文庫本の大きさにするということです。それでは、上着の胸の内ポケットに入らなくなるでしょう。学部生の時代から使い続けてきたこの手帳とも、今年でお別れという事になるのかも知れません。残念な話です。
 あらゆる局面で、世の中は私の欲する方向と逆に動いて行くようです。

坂東武士に関する著作拝受。

No.17138

 先日は、藤本正行先生から鎌倉の下馬周辺遺跡で発掘された大鎧に関する資料の提供を頂きました。制作年代は鎌倉中期まで遡る由。また、この大鎧は江戸東京博物館の「日本発掘」展で9月15日まで公開されているとのことです。藤本先生にはいつもお教えを頂いており、深謝あるばかりです。

 今日は豊前の宇都宮氏に関する原稿を脱稿。短いものですが、だいぶ関係論文を読みましたので、けっこう勉強になりました。挙げ句、石井進先生に異論を唱えることになりました。
 そんな中、坂東武士に関係する御著書・御高論を頂きました。

 ☆ 茨城大学の高橋修先生より、御新著『熊谷直実 中世武士の生き方』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。
 今年の2月、大雪に埋もれた熊谷の街を歩き回ったことが思い出されました。この本を手に、また訪れる機会があればと思います。
 高橋先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 県立鎌倉高校の久保田和彦先生より、御高論「北条時房と重時-六波羅探題から連署へ」(平雅行編『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻 公武権力の変容と仏教界』清文堂出版)・「武蔵武士の群像」(関幸彦編『武蔵武士団』吉川弘文館)を御恵送頂きました。
 久保田先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 灘中・高校の藪本勝治先生より、御高論「『吾妻鏡』における〈歴史〉構築の一方法-野木宮合戦記事を中心に-」(『国語と国文学』91-9)を御恵送頂きました。
 これは、『吾妻鏡』を史料として研究を進めている方、とくに武士論を専攻している方にとっては必読。おおいに学ぶべきものがあります。
 藪本先生にあつく御礼を申し上げます。

 那須方面の見学先をお知らせしておきます。

No.17101

 9月6日(土)の午後に「那須与一伝承館」で「下野の武士団と京都─寒河尼の係累を中心に─」というテーマで講演をさせて頂きますが、その前後、こんなにたくさんの史跡を見学させて頂くことになりました。
  9月6日(土)の午前
  福原八幡宮(江戸期の那須氏の氏神)・本殿(市指定)→金剛寿院(那須氏の祈願寺)山門・本堂(江戸前期の建築)→玄性寺(那須氏の菩提寺、那須与一の墓所)→江戸期の那須氏の陣屋跡→那須氏墓所(市指定)→那須神社(金丸八幡宮、中世の那須氏の氏神) 境内(国名勝)・手水舟(国重文附)・石燈籠(国重文附)・楼門(国重文)・本殿(国重文)

 9月7日(日)
  光厳寺(中世の那須氏の菩提寺) 仁王像(市指定)・銅鐘(市指定)→高館跡(那須氏の拠点・北畠顕家が上洛した際に那須氏が籠城)→白旗城跡(那須氏の拠点・大関氏の居城)→義経塚→新善光寺跡(那須氏の菩提寺?)・余瀬の集落(鎌倉街道の集落?)→鹿子畑翠桃墓地(市指定) 「正安元年十月日」銘板碑→築地館跡(中世前期の那須氏の本拠)→那須国造碑(国宝)→下侍塚古墳・上侍塚古墳(徳川光圀による発掘調査が行われた古墳・日本考古学発祥の地)→侍塚古墳(国記念物・史跡)→那須官衙跡(那須郡衙跡) 那須官衙跡(国史跡)→御霊神社(那須与一を祀る社)→那須神田城(中世前期の那須氏本拠?) 那須神田城(国史跡)

盛りだくさんです。地元に通じた研究者が自動車で御案内下さるからこそ可能。
ありがたいことです。しかし、写真を撮っても、何処だったか忘れてしまいそう。
とはいえ、お天気次第でどうなるか分かりませんが・・・。

送り火の後に来た夏の日に。

No.17056

 大学の夏季休日の期間が終わりましたので、今日は研究室で「お仕事」です。
 閑散とした大学の様子はFacebookで。
 研究室旅行のみなさんには、好天でよかったと思います。普段の心がけがよいのか、今回は「雨男」もしくは「雨女」の参加がなかったのか? 
 いずれにしても、充実したご旅行と道中のご無事を祈念いたします。

 ☆ 立教大学の佐藤雄基先生より、御高論「中世の法と裁判」(『岩波講座日本歴史』第7巻)・「朝河貫一と入来文書の邂逅-大正期の地域と歴史をめぐる環境-」(河西英通ほか編『グローバル化のなかの日本史像-「長期の一九世紀」を生きた地域』岩田書院)・「大江広元と三善康信(善信)~京・鎌倉をむすぶ文士のつながり~」(平雅行編『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻 公武権力の変容と仏教界』清文堂出版)・「書評 富田正弘著『中世公家政治文書論』」(『日本史研究』621)・「『薩藩旧記雑録』の「譜」とその周辺-島津義久・天正年中日々記・古今伝授-」(『東京大学日本史研究室紀要 別冊「中世政治社会論叢」』)を御恵送頂きました。
 佐藤先生にあつく御礼を申し上げます。

ご無沙汰しております。

山本陽一郎
No.17026

 ご無沙汰しております。福井県の山本陽一郎です。
かなり前になるのですが、『紫苑』12号と野口先生の抜刷を送っていただき、ありがとうございます。
頂いた時にお礼の書き込みをすればよかったのですが、今年から定時制の高校と全日制の高校の2つを掛け持ちになり、4月から5月がバタバタしていて、お礼の書き込みができませんでした(謝)。
 生来一つの事に目を奪われると、他の事まで器用に手がまわらない癖がまたでました(泣)。
特に今年度は、定時制を受け持ったのですが、日曜日が通勤日なので、何か変な感じです。
ただ定時制の高校に、以前福井県史の編纂に携わった先生がおられまして、思わず歓迎会の時に平安遺文と戸田芳実先生の話で盛り上がりました。
 今年度は、日本史と世界史、そして2学期からは地理も担当になるので、正直てんてこ舞いの日々ですが、いろいろ勉強&経験になっています。ただどうしても分からないのが世界史必修で、地理と日本史が選択という現状です。過去の歴史にどのようなスタンスを取るのかは各個人の自由ですが、最低限の歴史的知識や思考が、日本史に関してはなおざりにされているのが本当に理解に苦しみます。先日テレビで終戦の日を知らない若者がいたのを見る度に日本史必修化を痛感しています。
 
 今回の『紫苑』でもう12号になるんですね。自分がゼミにお所属していた時はまだ2号~4号だったことを考えると、隔世の感があります。同志社の授業後に喫茶店で野口先生といろいろ歓談できたことがつい先日のことのように感じます。また自分が始めた『吾妻鏡』購読会が現在も継続しているのは、岩田さんの存在があったればこそです。本当にありがとうございます。岩田さんには足を向けて寝れません。

 歴史と向き合う関係でおかしいと思う点がもう一つあります。我が福井県は県の政策で「歴史の見える街作り」というのがあるのですが、福井県立郷土歴史博物館の改装や史跡に関する説明版の設置など、外見上はそれなりに進んでいると思うんですが、肝心の史跡である福井城に県庁が建っているのが自分には理解出来ません。普通は松江市みたいに史跡公園にするものですが、何故か福井県は県庁の建物を建ててしまい、福井城跡は、市民の憩いの場ではなく、権力の象徴の場になっている次第です。これも歴史に謙虚に向き合っていないのではないかと思っています。
 
 ついつい愚痴を書いてしまいましたが、誰かの言葉で「歴史や文化を大事にしない民族は衰退する」というのがあったと思うんですが、今の高校での歴史教育や城跡にある県庁の建物を考える時、他人事とはおもえません。
 あと僭越ながら、野口ゼミの自由な雰囲気を今後も守っていって欲しいと思います。あの自由な雰囲気で勉強できたことは、今考えるとすごく贅沢な時間だったと思います。
 長々と書きましたが、また近況に変化があったら掲示板に書き込みたいと思います。
 PS:ゼミ旅行で平泉に行くことになったら、鎌倉武士の「いざ鎌倉へ」ではありませんが、馳せ参じたいと思います。  
編集:2014/08/17(Sun) 18:40

 山本君、お久しぶりです。

No.17027

 山本君、お元気そうで何よりです。
 『吾妻鏡』講読会の時に、「山本君と読んでいた時はこんなことがあったなぁ~」などと岩田君と思い出話をしたりしておりますから、貴兄の存在は現メンバーの間でも有名です。
 
 ちなみに、ゼミのFacebookを作りました。ここに昔の写真をたくさん貼り付けてありますので、貴兄もぜひ登録して御覧下さい。
 個人的には岩田君・田中(現、丸山)さん、それに鈴木御夫妻(鈴木君と永冨さん)・薗田(現姓、黒岩)さん・滑川さん、それに私もFacebookにページを開いています。そうそう、生まれたときに男だったら貴兄と同じ名前になるはずだった山本さんも開いていますよ。
 
 高校の日本史必修の問題はまったく同感です。また、地域の歴史認識に対する地方自治体・行政の取り組みは、たいてい何処でも同じような問題に直面しています。
 それから、科目の担当は自分の勉強だと思って楽しんでがんばってください。私も高校教員時代、地理・世界史・現代社会・日本史を担当しました。もっとも教科指導より生徒指導でテンヤワンヤでしたが。
 でも、あの頃の経験はマイナスもありますが、けっこう大学教員として生きる上で、役に立っていると思います。貴兄の人生にとっても大きなプラスになるはずです。

 平泉に行ければ良いのですが、来年の二月・三月頃がみんなでゼミ旅行に行く最後のチャンスになるのではないかと思います。平泉でなくとも、山本君の行きたいところがあれば、古参のみんなも誘って、お互いの都合のよいときに出かけられればと思います。現メンバーとの親睦を図れれば、さらに有意義なことになるでしょう。
 また、京都に来ることがあったら、研究室に立ち寄ってください。

 それから、そう言えば、あしたから、京大の元木研究室の研究室旅行が若狭方面のコースで行われるとうかがっています。岩田君も行っていますから、どこかで待ち伏せするのも面白かろうと思います。

 最後に、余計なお世話ながら、「同志社の生んだ偉大なる3Y」で、未婚者は一人になったことをお伝えしておきます。

ジェネラル芋粥の古里探訪

No.17169

>山本陽一郎さん おくればせながら、書き込みをありがとうございます。野口先生のご案内のとおり、18日から三日間、元木先生の研究室旅行のお供で福井・敦賀を見学してきました。地元の英雄である山本さんに一言も断りを入れずにいて、申し訳ありません。なお、現役のメンバーに陽一郎さんではない山本さんもおられますので、冒頭はフルネームで呼びかけさせていただきました。ご了承ください。

 今年度は定時制のご担当にてご活躍の由、お慶び申し上げます。日本史のお話しができる先生が身近におられるのも大変結構ですね。
 しかし、日本史に関する(われわれからすると常識に属するような)事柄についての知識も覚束ないような学生さんのご指導にも苦労されているご様子、お察し申し上げます。ここはひとつ山本さんの熱意で、学生さんたちの目を日本史の(欲を言えば中世前期の)楽しさに向けさせていただきたいと思います。

 『紫苑』もご覧いただいてありがとうございます。順調に号を重ねていますが、これも、『吾妻鏡』の講読会をはじめられるなど草創期に活躍された山本さんたちのご尽力の賜物です。レールを新たに敷くよりも、敷いていただいたレールを走ることのなんと楽なことか。いまでもときどき講読会で山本さんのお名前を出しますが、山本さんたちがはじめた講読会があるから自由な雰囲気で勉強できると現メンバーにはお伝えしています(※多少ニュアンスは変えています(笑))。そうすれば現メンバーも山本さんの存在を感じて、次に何かを伝えてくれると思います。

 8/18~20の福井旅行では、丸岡城・称念寺(新田義貞墓所)・東尋坊・瀧谷寺・みくに龍翔館・燈明寺畷新田義貞戦没伝説地、柴田神社・永平寺・一乗谷・織田劔神社、敦賀市立博物館・気比神社・金ヶ崎城跡・西福寺・敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)などを見学しました。当地の豊かな自然や文化に触れる貴重な機会でした。山本さんのご指摘にもあるような課題もあるようですが、これら豊かな自然や文化をうまく教育・普及活動にも反映できればすばらしいと思います。山本さんにかかる期待は大きい!

 今回はご都合を伺うことすらできませんでしたが、またどこかでお目にかかることができれば、武士や幕府のことなどたくさんおしゃべりしましょう。
編集:2014/08/21(Thu) 18:04

「ジェネラル芋がゆ」の子孫は斉藤さんとか富樫さんとか?

No.17176

 「ジェネラル芋がゆ」とは、なかなかの命名ですね。
 「これは誰を指すと思うか」という設問は入試にも使えそうですね。

 受験勉強をガチガチにやった高校生よりも、 こういうのがパッとひらめく高校生の方が本当の学問を究められるのではないかと思います。
 

本日の一句:「晩節は自ずと汚れるものだ、と野口言い。」

No.16990

 那須行きの件。最近は夏休みの期間が短くなっていますし、関西からですと旅費もかかりますから、くれぐれも無理のないようにお願い致します。目下、参加希望者は一人もいません。
 みんなで行くには、かなり以前から計画しているものでなければ、近場で一泊とか日帰りがよいのかも知れませんね。そもそも私自身が体力的に厳しい状態です。
 それにしても、10年ほど前は、なんであんなに次々とゼミで遠方に旅行が出来たのか不思議でなりません。あのころに、平泉など行っておけばよかったと反省しております。

 昨日は某学術雑誌の編集会議に出かけたのですが、地下鉄の駅の階段で躓いた際に、右手の中指を突き指してしまい、今日になって腫れてまいりましたので、PCの使用に支障をきたしております。
 24日のレジュメを作成中なのですが・・・。
 もっとも、指だけではなく、頭脳の方も回転が遅くなっており、こちらの方が深刻です。

 本日のお昼、京都は大雨で、警報が出たり、電車が止まったりしております。九条の現説はどうなったことか。「五山の送り火」は行われるのでしょうか?いろいろ気になります。

【緊急連絡】 那須方面の史跡見学について

No.16926

 先にお話ししましたとおり、9月6日(土)に栃木県大田原市の「那須与一伝承館」で下野の武士団に関する講演を頼まれました。その翌日、学芸員の前川辰徳先生(先年、茨城大学で開催されたシンポの際にもお世話になりました)が周辺(大田原・那須方面)の史跡案内をして下さるとのことですので、ゼミメンバー・関係者・本学学生で関心のある方をお誘いしたいと思います。

 あえて私の講演を聴講する必要はありません。御案内頂くのは、9月7日(日)の午前から夕刻までの日程になると思います。それ以外、往復の旅程などは各自の自由です。
 最寄り駅は東北新幹線の那須塩原駅で、東京から1時間12分を要するとのことです。

 どのくらいの人数になるのかあらかじめお知らせしておいた方がよいと思いますので、参加希望の方は16日くらいまでにお知らせ頂きたくお願い致します。もちろん、それ以降になってもからでも構いませんが、宜しくお願い致します。

 ☆ 那須与一伝承館の前川辰徳先生より、同館で発行した特別展図録や大田原市関係の史跡・文化財に関する報告書・リーフレットなどをたくさんお送り頂きました。
 前川先生にあつく御礼を申し上げます。

 なお、上記見学旅行に参加される方には、一度事前に集まって頂いて、このリーフレット類をお渡しする機会を作りたいと考えています。

『御堂関白記』講読会の思い出

No.16838

 8月の第3週といえば、かつて古代学協会で御堂関白記の講読会が開かれていたことが思い出されます。講師は山中裕先生。横浜のカルチャーセンターで山中先生の講座を受講されている山中先生ファンの御婦人たちや、鹿児島で御堂関白記を講読している一般の方たちをはじめ、当時東大や京大の大学院に在籍していた歴史学者の卵たちが一堂に会して、大変な盛況ぶりでした。歴史学のみならず国文の研究者も多数参加。角田文衞先生・山中裕先生の広い御活躍ぶりが反映されたイベントでもありました。
 京大の関係者では西山良平さんとか吉川真司さんも出席されていたように記憶します。
 思文閣会館で開かれていた頃には、会が終わって、みんな一緒にレストランで昼食を済ませ、それから鴨川まで歩いて、下鴨神社の納涼古本市に出かけたりしました。すると、かならず、同志社大学の竹居明男先生にお目にかかれたものでした。
 最終日の夜は大文字の送り火を鑑賞。
 山中先生もことし6月に亡くなられてしまいました。さみしい限りです。

 昔は、このように、夏休みに全国の研究者が一堂に会して一週間にわたって、史料を読み親睦を深めるようなことをする余裕がありました。
 今はどうかといえば、なにしろ私など、未だに研究室でレポートの採点に取り組んでいる有様ですから・・・。
 
 ☆ 神戸大学の樋口健太郎先生より、御高論「藤原忠実と宇治」(『古代文化』66-1)・「摂関家九条流における「氏寺」の継承と相論』(『神戸大学史学年報』29)を御恵送頂きました。
 樋口先生にあつくお礼を申し上げます。

出羽清原氏の出自に関する新事実(野中哲照先生より)

No.16740

 鹿児島国際大学の野中哲照先生から、とても重要な研究成果をお送り頂きました。
 出自が判然としなかった出羽山北清原氏と吉彦秀武の出自が、これまで見過ごされていた系図(『諸系譜』巻一四所収)を検証したことによって判明したというのです。
 野中先生はこれまで長く前九年・後三年合戦について精力的に研究を進めておられ、また国文学者として書誌は御専門ですから、この「発見」の意義は大きいものと思います。
 清原氏の血統は「思いがけないほどの貴種に属する」とのこと。これは近年、私達が進めてきた武士論研究の成果とも整合する事実だと思います。
 「下から」とか「在地」を強調する史観の相対化という意味においても重要でしょう。

 野中先生が、清原氏・吉彦氏の系譜に関する御研究の結論として示されたなかで、とくに私が注目したいのは、
  ① 清原氏が俘囚の管理を含む辺境警衛にあたっていたこと。
  ② 清原氏の山北入りが意外にも遅く、光頼・武則兄弟の父の時代であったこと。
  ③ 吉彦氏が移民系の俘囚で、北奥の蝦夷鎮定に活躍していたこと。
  ④ 吉彦氏が(外)従六位下郡司少領だったこと。
  ⑤ 清原武則の妹が橘氏に嫁して貞頼を生んだこと。
などの点です。
 この御研究に東北地方の古代中世史を専門にされている歴史学の研究者の方たちが、どのような対応を示されるのか注目してまいりたいと思います。

 そういえば、以前、この掲示板で清原「貞」衡と「真」衡の問題で議論になったことがありましたね。

 今回、野中先生から御恵送頂いた御高論は以下のとおりです。野中先生に、あつく御礼を申し上げます。また、軍記語り物研究会大会でお目にかかれることを楽しみに致しております。
 ☆ 「出羽山北清原氏の系譜─吉彦氏の系譜も含めて─」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』15-1)
   「後三年の戦後を読む─吉彦一族の滅亡と寛治六年清衡合戦─」(『鹿児島国際大学大学院学術論集』5)
   「吉彦秀武の系譜-二人の「荒川太郎」の関係を軸に-」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』14-1)
   「もう一つの後三年合戦像─公戦・私戦判定をめぐる軋轢から─」(『古典遺産』62)
   「『後三年記』序文の偽書性」」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』13-4)