猫。

No.1559

 「ラスト・サムライ」の論評で名をあげた山本君の猫論はさすがです。「犬は人につき、猫は家につく」とよく言いますが、けっこう猫も人になつくものです。それがまた、気分次第で、これがまた良い。小生、家のソファーで2匹の猫を膝の上にのせて、「猫仙人」をやっているのが一番リラックスできる一時です。すこし重いけど。
 近年、新興住宅地ではやたらに大型犬を飼うのが流行っており、このような社会現象の背景については自分の経験からも一家言あるのですが、ここでは止めておきましょう。
 >山本君。猫はきれいなら、とくに風呂に入れる必要はないかと思います。それより、「日本近代における忠孝イデオロギーと猫の思想的処遇」とでも題して、おおいに論じ尽くしてください。
 ちなみに、おりよく新地さんのHP「南九州探訪記」のトップページには鹿児島の猫の写真がUPされております。
 鹿児島で思い出しましたが、新地さんの鹿児島大学時代の恩師で、現在東北大学におられる柳原敏昭先生も大の猫好きです。

卒業式

平田樹理
No.1554

野口先生をはじめ、皆様のおかげで本日無事卒業式を迎える事ができました。厚く御礼申し上げます。気持ちを新たにまた頑張りますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
>1、2回生のゼミの皆様へ
先日から予告していましたが、四月から本などを読んでいこうと思いますので、考えておいて下さいね。


誕生日。

No.1556

 平田さん、おめでとうございます。京都女子大の学部の段階からゼミに在籍したメンバー初の院進学者として、大いに期待しています。当然、後輩は「お手本」にするでしょうから。
 それにしても、進学先は神戸大学の大学院で、平田さんのこれまでの住所は「六波羅第」ですから、清盛みたいですね。今後はゼミの「指導者」として、よろしくお願い致します。
 1・2回生のみなさん、史料の講読でも何でも平田先輩に、遠慮なくお願いされたらよいと思います。

 ところで、トップページに明記されているように、このHPは2003年3月15日に世に現れたわけで、とすると昨日で1周年を迎えたことになります。管理人の永富さん・鈴木君、いろいろありがとうございました。昨年の7月1日、アクセス数はわずかに1000でしたが、その後、飛躍的に増加の一途をたどり、今や各方面・・?から、かなりの「社会的使命??」を期待されるに至っております。今後ともよろしく、お願い申し上げます。
 
 追伸:さきほど東大史料編纂所の高橋慎一朗先生から、史料編纂所の書庫に『紫苑』を置きたいがどうすれば入手できるかというメールをいただきました。2号が印刷屋さんから届いたら、創刊号(残部僅少)とあわせて、急送です。それにいたしましても、これは小生の言うべきことではありませんが、執筆者に代わって申し上げると、まさに「嬉し、恥ずかし」ですね。次号への力作を期待します。

『紫苑』第2号入荷。

No.1557

 驚くべきタイミングですが、本日午後、『紫苑』第2号が入荷致しました。300部あります。平田さんの正誤表を該当ページに挟み込んでから、配布の段取りですが、編集長の永富さん、執筆者への配布部数などについて、御裁定をお願い致します。大学の各部署や関係機関などへお渡しする分と保存分を除いて、配布できます。
 まあ、一件落着と言うところですね。18日の研究会では、出席者にとりあえず一部ずつ配布したら如何かと思います。

ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

山田ちさ子
No.1549

新地さんのお名前を拝見して、以前話題になっていました薩摩琵琶についての情報を書き込みます。
3/18(以後何度か再放送あり)、CS放送の日本映画チャンネルで、ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」が放映されます。
わたしは以前、京都で開かれた上映会で見たのですが、非常に感銘を受けました。
特に琵琶をかき鳴らしながら、経文を唱える姿は、中世の琵琶法師を彷佛させられました。
今回の放送を録画するつもりですので、野口研究室に置いておきます。
以下は日本映画チャンネルの番組紹介から引用。
★800年前から鹿児島地方に深く根付いている「薩摩盲僧琵琶」の神秘的な魅力を追った異色ドキュメンタリー。桜島の大噴火の惨劇が起こらぬよう祈りつつも、土用の日毎に檀家を回り、地神・氏神など家の神々を供養して回る盲僧たちの年間を通しての姿を描く。実際に6年間盲僧と寝食をともにした諏訪淳が監督を手掛けている。ベルリン国際映画祭正式日本代表作品。★

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

No.1552

 山田先生のお宅では、いろんなテレビ番組が観られて羨ましいですね。当家など、最近になってようやくNHKBSを観られるようにした段階です。
 昔、テレビがまだ一般家庭に普及していなかった頃、日曜の夜になると、テレビのある家に、近所の子どもが集まってきて、「怪人二十面相」や「少年探偵団」をワイワイ言いながら観ていたという光景が全国各地でみられたものですが、こんどゼミで山田先生のウチまでテレビを観にに行くことにしましょうか?
 冗談(じつは本心)はさておき、ビデオ楽しみにしております。

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

新地 浩一郎
No.1565

 こんばんは。鹿児島でも、薩摩盲僧琵琶は吹上町の常楽院の妙音十二楽くらいしか生で聞く機会がないかも知れませんね。それも様々な楽器との合奏ですから。笠沙町で薩摩琵琶の復興事業が取り組まれていますが、こちらは「武士のたしなみ」としても薩摩琵琶らしいので、盲僧のものとは少し異なるのでしょう。川辺町にあった盲僧寺は「大徳院」という寺院だったそうです。
 ところで、民俗関係の仕事をしていると、色々と面白いことがあります。町内に、平家の落人の末裔だと自称しているある集落があります。平成4年に出た民俗調査では、平家云々と書かれているのですが、昭和51年に発刊された郷土史では日向から逃れてきた安東(安藤)氏の末裔で、系図も残っていると書かれています。ここでは12月に面白い氏神祭りをするので取材に行った際に、その系図を見せて欲しいと頼むと、捨ててしまったとの事。集落の方々に祖先のことを聞くと「ここは平家の落人で…」という返答が全員から帰ってきました。わずか十数年の間に集落の全員が自分たちの祖先を平家の落人だと思い込むような事があったのか、それとも「平家の落人集落」というブランドイメージに惑わされて捏造してしまったのか、「歴史が作られる(作り変えられる)」という事例を目の当たりにしたようで不思議に感覚に陥りました。

鵺の正体

新地 浩一郎
No.1538

 こんばんは。ご無沙汰をしています、鹿児島の新地です。昨日鹿児島市内では九州新幹線が一部開業ということで、様々なイベントがあったようですが、JRの通っていない私の町ではあまり関係ないです。
 ところで、今鳥インフルエンザが話題ですが、私の身の回りでも鳥の死体が見つかると、私が学生時代に野鳥研究会に所属していたために、種名と死因の鑑定をしています。3月1日と3月11日には、鵺のモデルといわれるトラツグミの死体が見つかりました。どちらもインフルエンザとは関係のない死因でした。最近はHPを更新していないのですが、とりあえず写真だけをアップしましたので、興味のある方はご覧下さい。

Re: 鵺の正体

新地 浩一郎
No.1541

 すみません、さっきのURLでは見れなかったので、こちらのURLでどうぞ。

Re: 鵺の正体

No.1542

 新地さん、お久しぶりです。このところ、鹿児島にうかがう機会が得られず、残念に思っています。
 HP「南九州探訪記」をしばらくぶりに覗かせていただきました。トラツグミが鵺のモデルというのは知りませんでした。根拠は何なのでしょうか。写真で見る限り普通の鳥で、『平家物語』に出てくる鵺のイメージと異なるように思えるのですが?
 それから、ご当地の伝統芸能に関する調査の方はまとまったのでしょうか。

鵺の「声」の正体

新地 浩一郎
No.1543

 野口先生、こんばんは。
 川辺町は加世田市・坊津町・大浦町・笠沙町と来年1月に合併する予定です。現在は合併前に未指定の文化財をできるだけ指定してしまおうという事で、細かい調査に入っています。
 トラツグミは鵺の正体というよりも、鳴き声の正体と言ったほうが正しいですね。名前のとおりツグミの仲間で、古い呼び方で「ヌエ」ともいいます。夜行性で、夜中から明け方にかけて口笛のような「ヒー」とか「ヒョー」という、か細い悲しげな声で鳴くのですが、この鳴き声と妖怪の鵺の鳴き声が似ていた、という事で、野鳥関係者は観察会などで必ずと言っていいほど「鵺=トラツグミ」という話をします。
 秋に取り組んでいた永田日送踊りですが、やっとビデオができましたので、近いうちに送らせていただきます。ごらんいただいて、色々とご意見をお聞かせいただきたいと思います。皆さんにご指摘いただいた座頭の足袋の色については、地元の方々に色々聞いているのですが、これといった答えは返ってきておりません。今回の事業で伝承者の方々といい関係ができましたので、気長に研究を続けたいと思います。

源頼政の鵺退治。

No.1560

 トラツグミがいつの時代から鵺と呼ばれるようになったのかが分かれば面白いですね。中世からなら、妖怪じみたものの現れる場所は、実はトラツグミの生息地であったなんてことが言えるかも知れませんね。ひょっとしたら神楽岡も、そうだったりして。
 >山田先生。拙著『武家の棟梁の条件』P48にも書きましたように、呪的武芸の担い手としての源頼光のイメージは、12世紀末の貴族社会には広くいきわたっており、その嫡流として源頼政が大内守護などの職務をにない、また『平家物語』において鵺退治の主人公とされることになったりしたようです。中世後期に成立した伝承の背景はこんなことも考慮する必要があるのだろうと思っているのですが。

Re: 鵺の正体

No.1567

 トラツグミがヌエと呼ばれるようになったのではなくて、『古事記』や万葉の時代から「ヌエ」と呼ばれていた、夜鳴く鳥の正体が、トラツグミのことだろうと言われているのですね。詳しくは、山口仲美「怪鳥ヌエの声」(日本語学1985年5月)などをご参照ください。
 ヌエが合体獣を指す様になるのは『平家物語』あたりからです。『平家物語』でも、二種類あるヌエ説話のうち、片方は合体獣ではない単なる鳥です。

京都女子高等学校について

risa
No.1530

私は四月から、京都女子高校1類に通うのですがわからないことだらけです。まず、一番難しい教科はなんですか?また体育が苦手です。準備体操はどんなことをしますか?先輩の方、教えてください。

Re: 京都女子高等学校について

No.1532

 risaさん、こんにちは。まず、この掲示板は、ハンドルネームでの投稿はお断りしていることをご承知おき下さい。でも、京女に関連する御質問であることと、まあ、このような御質問だとお名前は書きにくいことは理解できるので、一応回答をいたします。
 当ゼミは大学付属の研究所のものですから、高校のことは分かりません。ゼミメンバーも、京都府以外や公立高校の出身者がほとんどです。たった一人、京都女子高校御出身のメンバーがおられますが、彼女は現在、同志社の大学院生で、高校を卒業されてからすでに6年ほど経過しています。うかがっても、今とはだいぶ状況が異なると思います。ですから、どうしても、その情報をお知りになりたければ、高校のサークルのHPでも探されて、質問されたら如何でしょうか。
 しかし、これは一般論ですが、難しい教科というのは一人一人違うはずですし、体育も楽しいかも知れませんよ。新学期が始まってから対応しても、よいのではありませんか?

Re: 京都女子高等学校について

No.1539

risa さん。野口先生もおっしゃるように、
できれば本名をお教え下さい。
私の妻が、京都女子高校の国語を担当しております。ただし、今年は高2の国語だというふうに聞いています。
いちおうメールアドレスを公表しますので、メールでお知らせいただいてもけっこうです。
でも、一番難しい教科は、人によってちがうと思いますよ。
体育のことも知らないと思います。
でも、いろいろ相談にはのれるかもしれません。

屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1526

野口先生初め、各位には16日よりの旅行につき、種々ご教示をいただき、有難うございました。以下の通り大まかな予定を立ててみましたが、問題点や追加すべき場所などがありましたらご教示ください。
16日。高松駅13時集合、以下レンタカーにて、①平家物語歴史館→②屋島寺およびその周辺→③長崎ノ鼻付近→④源平古戦場付近→⑤六万寺→⑥志度寺と言ったところでしょうか。全体の距離は短いのですが、史跡を探すと結構時間がかかりそうなのでかなり駆け足のようです。志度寺二つくころは真っ暗かも。
なお白峰宮参詣は到底困難ですので、参詣ご希望の方は、美川先生が先にお出かけのようですので、ご相談ください。
17日。高松9時52分発、新下関12時17分着。以下レンタカー(石浜さん、よろしくお願いいたします)にて、住吉神社、功山寺、壇ノ浦古戦場、赤間神宮、火の山、関門海峡大橋をわたり門司側の和布刈神社などを見て、下関駅前の宿に宿泊。
18日。下関駅前の展望台、唐戸付近の見学ののち、12時発の海上クルーズ、13時に門司港着。付近散策ののち、小倉より帰路につく。といったところで如何でしょうか。18日午前に余裕がありますから、赤間神宮をこっちに回す手もありますが。
本来の総大将ご多用により、代役が急きょ杜撰なプランを立てましたので、粗漏や無理もあるかと思います。ご意見をよろしくお願いいたします。うーん、西国攻めの代役ということは、私は範頼ということですかね?

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1527

 義経の屋島攻撃のように、速攻が決まればよいのですが、初日はなかなかハードな日程になることと思います。平家物語歴史館には長居をされず、ドライバーの方が屋島合戦関係の史跡の分布と道路事情に通暁されていれば、なんとか回りきれると思いますが、ご賢察のとおり志度では暗くなることでしょう。
 壇ノ浦の門司・下関ではだいぶ時間的な余裕があろうかと思います。ぜひ、美味い魚の料理を堪能してきてください。17日に新下関到着でしたら、この日は下関側を見学し、18日に海上クルーズと門司側に集中されるのも一方かと思います。
 小生が12月に出かけたさいは、山口から宇部・長府をへて下関に入りましたので、源氏軍の侵攻コースがよくつかめました。
 それにしても、このたびの遠征軍は、武器・武具・戦闘形態論の第一人者である近藤先生を総大将に、錚々たる歴史学・国文学の研究者と前途有為なその卵のみなさん、さらには出版界きっての名編集者も名を連ねた前代未聞のもので、その成果(戦果?)にはおおいに期待いたしております。
 ちなみに、御出陣中のお留守番を担当させていただくのにさいして、気になっているのが、義経・範頼西海出陣の間、京中警固に当たったのは誰なのかということですが、これは明らかにされているのでしょうか?

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1529

元木先生、有り難うございました。
皆様、よろしくお願い致します。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

長村祥知
No.1533

弾除け(?)位にしか使えない青侍ですが、よろしくおねがいします。
野口先生も仰るように、前代未聞の「錚々」たる先生・先輩方に同行させていただく機会は「そうそう」無いので(野口先生の真似です・笑)期待で胸がどきどきです。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1535

野口先生、早速のご教示有難うございました。歴史館は17時半までとのことですし、暗くなってもいいわけですから、屋島、志度を見て、高松への帰り、17時前位に立ち寄る手もありそうですね。近藤先生と、運転をしていただく石川さんのご判断を仰ぎたいと思います。
範頼、義経出京中の京都警護は、鎌倉殿御使の二人で代替できたとはとても思えません。京武者、北面系統の武士や、佐々木など、京近郊の御家人でしょうか。もっとも、義経不在はせいぜい2ヶ月ではありますが。
ところで、我々が範頼・義経軍なら、在京軍の指揮官は、野口先生ということでしょうか。そうすると、それこそ近藤七国平というわけにも行きませんので、史実と齟齬しますが、京都守護北条時政で如何でしょうか。頼朝ではないのか、とのご不満が出そうですが、その方は別におられますし。え?話題の先生ではありません。その先生は、まあ平六時定ということで。それぞれが誰かはご想像にお任せいたします。

付清文堂・古代の人物

No.1536

ちょうどレスを書き終えたところに、清文堂から連絡がありました。監修者の栄原先生と協議の結果、6巻は1巻と平行して9月刊行とし、残った方々には連休までに絶対に書いてもらう、それがだめなら交代その他、強硬な措置をとる、8月までにパンフを作成する、といった連絡がありました。
まだお書きでない方で、この掲示板をご覧の方がいたら(そんな奴はいないか)、覚悟してください。すでに原稿をご提出の方々、何とか今年中刊行の目処が立ちましたので、少しだけ御休心ください。

北条時政

No.1546

 清文堂の件、結構なお話だと思います。若い方は業績を早く出さなければなりませんし、小生のように自分の書いたものの内容をすぐに忘却してしまうような耄碌にとっては、時間が経過してしまうと、校正の時に執筆時の資料を探し出すのが大苦労ですので助かります。やはり、書いた順番に出版して貰いたい。そうすれば、仕事が整理できて、新しい執筆にも円滑に取り組めるというものです。
 それにしても、あまり名を知られていないが、研究熱心・執筆意欲旺盛で、ご本人も発表したい原稿をたくさん持っている、という方がおられる一方で、義務で仕方なしに文字をうめているだけとしか思えないような駄文を書いている人もおられるという情況もあって、ほんとうに世の中、いろいろなところでバランスがとれていないと思います。(自分のことを棚に上げての発言、ご容赦下さい。)
 京都守護の拝命、恐縮に存じます。北条時政はミネルヴァの評伝選で今までのイメージとはまったく異なる都会的人物として描きたいと思っております。「非難轟々」を書く前から楽しみにしている次第。
 ところで、小生の時政のイメージは加藤大介なのですが、この俳優さんが時政を演じたのは、大河ドラマの何の時でしたでしょうか。

新平家物語

No.1547

野口先生、御返事有難うございます。お尋ねの加東大介演ずる時政は、1972年の『新平家物語』の時です。彼は、長門裕之、津川雅彦兄弟の叔父で、温顔、円満な雰囲気で、三枚目もこなす名優でした。あの時、当方は、時政はこんな温厚な人だったのか?と少し違和感を覚えました。やはり、当時は北条氏というと、陰湿な陰謀ばかりたくらむ一族という印象ばかりが強かったように思います。ちなみに、頼朝は高橋幸治、政子は栗原小巻、義経は志垣太郎、義仲は林与一といった面々でした。
79年の『草燃る』の時は、時政が金田龍之介。凄みとコミカルな要素が混在した名演でしたが、実は本来の山形勲が病気のため、清盛役からスライドしたものです(ちなみに清盛は金子信雄。まるでヤクザの親分)。山形勲が時政を演じていたら、印象は全く異なっていたことでしょうね。
それにしても清文堂、武士関係者はたちまちのうちに提出され、貴族関係の執筆者ばかり5人も残ってしまいました。やはり貴族より武士が優れているのかも?領主制論に転向すべきかなどと思ってしまいます。原稿取立てはやはり近藤先生ですかね。投げ出しそうな人もいますので、そのときはどなたかピンチヒッターをよろしく。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1550

関東からの弾除け、です。野口先生、過分のお言葉、ありがとうございます(実は、他にも編集者が来るんだったりして…)。また、元木先生にはいろいろとご配慮いただき、ありがたく思っております。以前、の野口先生より、元木・近藤両先生の健脚振りをお伺いしておりましたので、じゃまにならぬよう、しっかりと付いて行きたいと思います。

ご無沙汰しております。

廣政 愛
No.1518

昨日の朝まで合宿で鹿児島にいました、ので田中さんのご発表を拝聴する事が出来ませんでした。大変残念です。次回は是非!

それと、吾妻鏡講読会で要る、石井進氏の『鎌倉幕府』なのですが、出版社の方で品切れ?になっているらしく、入手不可でした。どうすればいいでしょうか・・・?



石井進『鎌倉幕府』

No.1521

>廣政さん
EasySeekという古本サイトがあります。数が多い事と、結構値段が安いので、使いやすいかと思います。
http://www.easyseek.net/book/
ここで検索してみたところ、¥300くらいから何冊かありましたので、一度検索してみてください。

ネット的浦島太郎状態

No.1524

久々に書き込みます。しばらく、下宿の更新手続きや源泉徴収料の返還手続き(所得税バック)、また部屋の掃除など身の周りの雑事に追われていました。ついでに、猫の洗濯(?)をしようと思いましたが、めちゃくちゃ嫌がられたので、やめました。その間に掲示板上の話題が、全然変わっているのには、驚きました。まさしく浦島太郎の気分です。
ちなみに、先生の猫(すいません、名前は失念しました)はお風呂とかどうしているのでしょうか?
>廣政さん
 上記の田中さんのご指摘通りで入手できますが、必ず入手しなくても構いません。文庫がまだ書店で入手できると思っていたのですが、文庫版も絶版になっているとは知りませんでした。田中さんに、車の運転に引き続き、またまたフォロ-してもらいました。面目ないです。

鹿児島・猫・絶版

No.1525

 >廣政さん
 鹿児島は如何でしたか?何処に行かれましたか?鹿児島は今、新幹線開通でおおいに盛り上がっているはずです。
 しかし、先月から韓国・中国・鹿児島と、すごい行動半径ですね。
 明日の卒業式、総代がんばってください。小生、学部と短大と両方に出るのも何ですし、どうしようかと思っております。
 
 >山本君
 このまえの『吾妻鏡』の日程のようなこともありますから、できるだけこの掲示板を覗いてください。なにしろ、何が起きているか分からないのがこの掲示板ですから。小生など・・・・・。
 猫(ペ<半濁音>ンとクゲ、8歳と7歳、ともに雌の親子、ペンは京都新聞に登場の経歴を持つ)は千葉に住んでいた頃は、外に出ていたので、時々、入浴させていましたが、今はほとんど家猫なのでブラッシングだけできれいです。猫を入浴させるコツは、温めのお湯を使うこと。それから、ふだんの信頼関係でしょうね。人間も同じですよ。
 本の件ですが、田中さんの御紹介のサイトで、試みに自著を検索したところ、幻の名著?『鎌倉の豪族』が出ていましたよ。手に入れられた方には正誤表を進呈いたします。
 それにしても、石井先生の『鎌倉幕府』のような不朽の名著が絶版というのは困りますね。最近の出版界は、本を消耗品のように扱っていますね。良い本を作って売るのではなくて、売れる本しか作らないというのは自殺行為だと思います。
 ところで、河合斉藤氏の某を閑院流藤原氏の某人が左衛門尉に挙申した史料の件ですが、じつに意味深いことなので、小生が論文に仕立ててしまおうかな?

Re: ご無沙汰しております。

廣政 愛
No.1537

田中さん、山本さん、ありがとうございます。早速覗いてみます。
野口先生、明日はどうぞ短大の方にいらして下さい。

先生から「鹿児島とは」というお話を拝聴したあとだったのでどきどきでしたが、到着後すぐ民宿に荷物を降ろし、近くの中学校をお借りしずっと稽古だったので、しっかりと「鹿児島」を味わう事ができませんでした。
(たまには場所を変えての稽古もいいものです。)
最後の日に少し観光があり、内之浦宇宙空間観測所を見学した後、桜島に行きましたが、実はあまり興味がなく・・・すみません、お土産だけ確保して帰ってきました。
少量ですが18日にお持ち致します。

東京遠征中

鈴木 潤
No.1545

内之浦のロケット射場に行ったのですか?
うらやましい…。

あそこは日本初の人工衛星『おおすみ』を打ち上げた場所だったと思うのですが。(うろおぼえ)
宇宙開発事業団と文科省の組織が合体して、JAXAになったけれども、H2Aロケットの失敗やらなんやらで、あまり良いニュースを聞かないので。
どんな施設でした?

P.S.高校の修学旅行は筑波の宇宙センター見学でした。(周りは興味なさげな様子の中)一人大はしゃぎでした(笑)

猫風呂

No.1548

猫ということで、関係ないところから乱入させていただきます。
家内が結婚前から猫を飼っており、そこに転がりこむかたちでしばらく、同居させてもらいました。
猫によってずいぶん違うようで、コマーシャルでは風呂に入っている猫を見かけたりしましたが、我が家の猫は風呂嫌いで、仕方なくシャワーしておりました。ただ、それも一苦労で、猫を拉致するためには、逃げられないように窓を閉め、家の中でも隠れる場所のないようにし、それからおもむろに抱きかかえて風呂場に連行するのですが、途中で察知されると大騒ぎになりました。うまく風呂場に連れ込むと、猫用シャンプーで洗うのですが、その間中ずっと大声で鳴いて・泣いておりました。ここで気をつけなければならないのは、耳の中に水が入らないように両耳をおさえながら洗うことでしょうか。洗い終えてからは、よく水分をふき取るまえに逃げられないことも肝心です。居間で、お返しとばかりに、水を周囲に撒き散らされますので。
外に出していらっしゃるなら、数ヶ月に一度くらいは洗ってあげたほうがいいのではないかと思います、周囲の状況にもよりますが。
うちの猫ですが、その後、子供が生まれて数ヶ月たってから、病気で亡くなってしまいました。子供が喘息持ちだったので、潔く身を引いてくれたのかなと、うちでは慰めあいました。ちゃんと火葬にし、骨はつぼに入れて、お守り代わりにおいてあります。

卒業式・猫。

No.1551

 たった今、卒業式から戻ってきました。廣政さんの「卒業の辞」は、落ち着いていて、なかなかのものでした。2年後に学部の卒業式でもまた総代になって下さい。
 平田さんも今、挨拶に来てくださいました。

 ところで、長い間飼っていた犬や猫に死なれるのはつらいものですね。小生、20歳前後の頃に、ドンという名前のコリーを飼っていました。この犬とは、まさに起居をともにしていました。朝方はいつも私の掛け布団の上にのっていて、じつに重かった。夕方はかなり長距離の散歩に連れて行っていました。散歩の途中、「ライオン丸」などと呼ばれて、子どもたちの人気を集めていました。
 どうしても、結婚して子どもが出来ると、昔のようには構ってやれない。それでも、死んだのは小生の腕の中で、心臓がとまったのがわかりました。
 猫は鹿児島の借家に住み着いていて、千葉まで連れてきた(というより自己選択してついてきた)チクワという名の、たいそう賢い猫(鹿児島では近所の人たちから「神様猫」と呼ばれていました)が飼った最初です。この猫は当家で大往生でしたが、次に飼ったアメリカンショートヘアーの雑種でネギという名前を付けた猫は、病院で死なせてしまいました。病院に連れて行った時、とても嫌がっていたことを思い出すにつけ、家で死なせてやれば良かったと、今さらながら悔やんでいます。
 最近、猫を家の中で飼うことを義務づけるような発想が強いのですが、小生には、昔のように、野良猫が塀の上を歩いていたり、七輪で焼いているさんまをかっさらっていったりするような光景が見られる方が、人間にも健全な環境だと思うのですが・・・。

 >鈴木君。先生とのお話はいかがでしたか?
 鹿児島は「ウチノウラ」にロケットの発射場があるところです。

猫権擁護委員会

No.1553

 野口先生、石浜さん、猫に関するレスありがとうございます。うちの猫は、基本的に室内猫なので、汚れることはないのですが、全然風呂に入れたことがないので少し心配していました。でも、猫自体はくさくないので、いいのかなぁと思っていました。しかしかなり大変そうですが、いつか風呂で洗いたいと思います。それと信頼関係ですね。ちなみに家族の中では、一緒にいる時間が一番長いはずの自分より、父親に何故か一番なついています。ちょっと不安ですが。
 ところで、末松さんご指摘の、十二支に猫が入っていないといい、「猫ババ」「化け猫」など、日本における猫のイメージってあまり良くないですね。古代エジプトでは、猫は神様の使いだったり、日本でも昔は、犬のケガレはあっても、猫のケガレはないように、今ほどマイナスのイメージは無かったのではないかと思います。自分が思うには、そのマイナスイメージは江戸時代になってから形成されたのではないかと思います。江戸幕府の官学であった朱子学の普及とともに、「忠君」「滅私奉公」といったイデオロギーが、近世においてプラスの評価をされるに従って、主人に忠実な犬は賞揚されて、勝手気ままに暮らす猫はマイナスに評価されたのではないでしょうか。それは犬を主人公にした滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの文学作品にもあらわれているように思えます。従って、猫は近世封建イデオロギーの隠れた被害者なのかもしれません。でもこんなに猫の弁護をしても、あまり猫本人に被害者意識がないのですが、ただ少し猫に対する見方がどこからきているのか、普段猫を飼っているものとして思う所を述べてみました。

東京遠征報告

No.1555

 東京工業大学の某先生の研究室へ訪問に行ってきました。さすが、東京のトップオブでした。規模や予算が全然違って、よだれが出そうな設備がそろっていました。(都庁の壁の材料を設計した研究室とか..平面のBSアンテナとか...)
 大学院でいけるかどうかは別として、しっかり眺めてきてよかったという感想です。
 希望の研究室の先生は、とても親切で不安に思っていたのがあほらしくなるくらいでした。
 ただ、田中さんの「何か無理をして背伸びをして行っても、結局は見抜かれるから、そのままで行けばいい」という助言がとても心強かったです。帰りに論文の抜刷をいっぱいおみやげにもらいました(^^
 夜行バスで新宿駅まで行ったのですが、道が碁盤の目状ではもちろん無いので、朝も晩も迷ってしまいました...。ヨドバシカメラがいっぱいあって頭がゴチャゴチャに。
 ホテルのチェックインまで時間があったので、代々木で降りて明治神宮を参拝して、新宿まで歩きました。途中、道に迷って周りがハングルばっかりの通りに出て、話している言葉も韓国・朝鮮語で「ここはソウルか?」と間違えそうなほどの空間を通ったり、東京都庁に登って夕焼けに染まる都心を眺めたりしました。
 やはり、京都人としては三方に山がないと“不安”です。

 猫の話題で盛り上がっていますが、我が家の黒猫「クロ」は今年の1月中旬に帰ってこなくなりました。僕が小学校低学年の時から、野良ネコの状態ではありますが、我が家に居着くようになりました。もう結構な年で、1月の一番寒い晩に顔を見せなくなりました。死に際を見せないと良く言われますが、本当にそうなりました。縁起はあまり良くないみたいですが、大事なかわいい黒猫でした...。

東横イン新宿から書込でした...。

猫について

No.1558

>山本さん
 ちょっと、調べてみました。日本のネコは仏典と共に中国から入ってきたようです。中国では、随の時代(589~617AD)には、早くも猫鬼という妖怪が登場しますが、これは人を殺したり、財を奪ったりする悪者です。もちろん架空の物語ですが、光に反応してスリット状に変化する目や、静電気を帯びて青光りする毛など、実際の観察からも猫に魔性を見るようになり、さまざまな言い伝えや「金花猫」などの怪奇談を生むことになったようです。
 金花猫は老猫が化けたもので、月光を吸って怪異をなし、美男、美女に化けるそうです。他にも、猫は老いると人間のことばを話し、歌を歌う、猫は妓女の生まれ変わり(日本でも芸者を隠語で猫と呼ぶ)などの伝承があります。そして黒猫を殺せば祟る、瀕死の病人や死人に猫を近付けるな、といった禁忌も生まれました。もちろんその姿形から、平安時代から愛猫家がいたことも事実ですが、上に書いた中国から輸入された影響から、鎌倉時代あたりには「怪猫」が登場するようですよ。『明月記』に登場するらしいです。
 どちらにしても、猫についてはプラスとマイナスのイメージが極端で、猫の報恩が近世になってからも出てくる事を考えると、「マイナスイメージ」が強いとは言い切れない気がします。
 ちなみに、わが家は猫のナワバリ争いの真っ只中にあるらしく、ちょくちょく家の敷地内で猫のケンカが見られます。昔、犬を飼っていた頃は、その犬がギリギリで届かない塀の上をうろうろする、いけずなボス猫がいたものです。以上、イヌ派の田中裕紀でした(笑)
 
 
>鈴木くん
 東京出張ご苦労様。私も今週末に「出張」する予定です。東京工大の先生への面会、無事終わったようで何よりでした☆

史蹟見学会のお知らせ

野口 洋平
No.1511

皆様こんにちわ。前にも少し触れましたが冬の旅のお寺を中心とした史蹟見学会を主催したいと思います。
場所は東福寺本坊、塔頭光明院と退耕庵で余裕があれば泉湧寺も行きます。期日は主催者の独断によりネハンエの公開にあわせて3月16日(火)にします。

東福寺のネハンズは室町の画僧吉山明兆により描かれたもので、日本最大級の大きさがあり毎年この時期にだけ公開しています。このネハンズには猫が描かれている点、大変珍しいものです。興味ある方は是非御覧ください。

塔頭の光明院は明治の廃仏毀釈により荒廃していたのを当時の住職が全国を托鉢してまわり、建て直したお寺です。虹の苔寺と称される重森三玲作のお庭とお茶室羅月庵は一見の価値あります。

同じく塔頭退耕庵は南北朝時代の創建で、応仁の乱で荒廃した後安国寺恵瓊により再興されたお寺です。
茶室作夢軒は石田三成等が関ケ原合戦の謀議をしたとされる名席で、忍び天井や伏侍の間が設けられており歴史的にも貴重なお茶室です。

16日は光明院と退耕庵は無料で通れるようにしておくので、拝観料は東福寺と泉湧寺のネハンエ公開のみになります。参加希望の方は掲示板に書き込みいただくか、僕の方まで直接ご連絡下さい。たくさんの参加をお待ちしています。
またこの日に参加できなくても光明院に関しては僕の名前を出せば無料で通す事ができるようにしておいたので、この機会に是非ご利用下さい。ただその場合でも一応必ず僕の方まで御一報下さい。
ではでは皆様よろしくお願いします。

重箱のすみ

鈴木 潤
No.1512

16日は僕は東京出張中なので参加出来ないです。残念です

ちなみに、泉湧寺ではなくて、泉涌寺ですよ~☆
依然、NHKでも「せんにゅうじ」のところを「せんゆうじ」と呼んでいたり、よく間違えられます…
(自宅の住所にも含まれる地名なので)こだわってみました。
一年前を振り返ると、今くらいに南禅寺ツアーをやっていたんですね。なつかしいです

Re: 史蹟見学会のお知らせ

末松憲子
No.1523

今晩は。
その日はあいにく私もバイトが入っていて参加出来ません。
本学の田中貴子先生オススメの猫入り涅槃絵なので一度見てみたいと思っているのですが・・・
それにしても、十二支といい猫は何故つまはじきにされる事が多いのでしょうねえ。

追加連絡と変更

野口 洋平
No.1544

16日は13時にJRと京阪の東側出口集合にします。アポなしで直接来ていただいても全然かまいませんが、遅れる場合は必ずご連絡下さい。
それとMLのアドレスが間違っていたようなので改めて連絡します。gucci_0529@k.vodafone.ne.jpです。何か質問意見のある方は遠慮なくどうぞ。

研究発表

No.1507

本日ゼミに参加してくださった皆様へ。
 プレ発表を聞いていただいて、ありがとうございました。自分の頭で考えているだけでは、考えの及ばない事も多く、卒論からずっと建礼門院を扱っているからこそ、指摘されて初めて気づいた事もありました。まだ、準備も勉強も終わっていませんが、自分の方向が定まってきたような、そんな気がして、楽しく勉強できそうです。ただ・・・お聞きの方は分かると思うのですが、口頭でのプレゼンがとても苦手です。お気づきの点がありましたら、本当にどんなに些細な事でも教えていただけたらと思います。

>山内さんへ
 たぶん、とても分かりにくい発表だった事と思います。ごめんなさいね。

歴史学からの『平家物語』研究。

No.1509

 田中さん、昨日は御苦労様でした。田中さんの御報告は、時にレジュメに示されていないところにも、とても優れたところがありますので、研究会に参加された方が、いかにそれを上手く引き出されるか・・・でしょう。それにしても、せっかくの持ち味を上手くレジュメに反映されるよう、一頑張りされたらよいと思います。
 ちなみに、昨日は野口タクシーの利用者がおられませんでしたが、みんなで何処ぞに繰り出したのですか?
 それにしても、昨日の御報告の本題からはズレますが、延慶本と四部本の記事から、建礼門院が六波羅を望見できる鷲尾に住み、ここで亡くなったというのは、確定的な事実なのに、一般に知られていないのは残念ですね。
 それから、話は飛びますが、後出本の『源平盛衰記』にしか見えない記事に、結構、歴史の方から検討したさいに正確な記述が多いというのも注目すべき事だと思っています。最近、軍記関係の国文学の学会に歴史の研究者をお呼び下さるケースが多いのですが、歴史の方も積極的に国文学の研究者と交流する機会を設定していかなければならないことを痛感させられます。
 ちなみに、京都女子大学宗教・文化研究所では、本年6月26日(土)に、国文学からは兵藤裕己氏(学習院大学)、歴史学からは高橋昌明氏(神戸大学)をお招きして、平家ないし『平家物語』をテーマにした公開講座を開催する予定です。乞う、ご期待!!。

多気町河田の清盛塚。

No.1510

 上記の記事とは直接関係がありませんが、先般のゼミ旅行の際に、河田の清盛塚を地元の方に案内していただきましたが、あの塚に生えていた巨木というのは何の木で、いつ伐採されたのか、それとも自然災害で倒れたのだったのでしょうか?
 ようやく、河田について記録し、空間の位置づけについて考えようとしたのですが、地図は返していただいていないし、記憶はかくの如しで、唖然としています。覚えておられる方がいたら、すぐにお知らせ下されば助かります。

Re: 研究発表

山内梓
No.1513

返信が遅れてしまって申し訳ありません。
謝らないで下さい!あの発表を難しく感じたのは私の勉強不足が原因なんです。もっとちゃんと予習して参加すれば良かったと今はとても反省しています。こんな情けない後輩ですがこれからもご指導よろしくお願いします。あと、もしよければ今度是非お酒を飲みに行くときに連れていって頂きたいです。そっちの方もよろしくお願いします。

研究発表のインパクト。

No.1514

 同じ日本史の研究者どうしでも、すこし時代やジャンルが違えば、研究発表の内容を完全に理解するのは難しいことです。 たしかに、当ゼミの報告においては、初心者にもおおよその意図のつかめる報告を心がけて欲しいとは思いますが、良い報告というのは、理解できないなりにも、若い人にはインパクトを与えるところがあるものです。聴いた側が、刺激を得て、やる気になってくれればOKだと思っています。
 >山内さん 多方面において田中先輩の御指導をいただくことは実によいことであるとは存じます。それは小生も認めます。しかし、お酒の出るお店に連れて行ってもらうのはよいけれど、飲むのは20歳になってからですからね。20歳の誕生日には「盛大に」お祝いをしましょう。
 ちなみに、<歴史学者たる者?は「今は知らず」>、江戸時代には、女性の20歳前後を「年増」、23・4歳から30歳までを「中年増」、それより上を「大年増」といったそうです。
 現代の成人20歳というのは、遅すぎますね。選挙権を20歳まで与えないというのは、変革を好まない老人の策略でしょう。かの北条時宗が、連署から執権に就任したのは18歳ですから。  
 なお、NO.1510への返信、お待ちしております。みんなで、忘れてしまったのでしょうか?さては、健忘症のウィルス蔓延か?

清盛塚

No.1515

>野口先生へ。
 清盛塚ですが、塚の巨木はヒノキで(これは確実)、伊勢湾台風のときに倒れたと仰っていたような気がします。
 なお、「年増」については了解いたしました(笑)江戸時代ですと、私は「中年増」に当たるところを、野口先生が「年増」とちょっと若いめに仰っていただいたという事ですね(^^)なるほど、納得です。
>山内さんへ
 「20歳」と、長村くん言うところの「野口パパ」からのお達しです。では、今度美味しいご飯を食べに行きましょう・・・という話は、私が東京から帰った後、3月の末辺りにしようかと思っているのですが、都合の悪い日、良い日を教えてください。
>伊勢旅行参加の女性の皆様へ
 伊勢のときのお約束です。(覚えてますか?)美味しいご飯をみんなで食べに行きましょう☆というわけで、山内さん同様に、三月末で都合の良い日、悪い日を教えてください。

Re: 研究発表

No.1516

清盛塚へは行っていないので、野口先生のQuestionにはお答えできませんが...。野口タクシー、出発後のお話は出来ます☆
 研究発表会終了後、女坂を下っていたのですが、どこかへ食べに行こうという事になりました。(ウフカトーの場所はもう通り過ぎてしまっていたので)京阪七条より東に入ったところの「まんぞう(以前、『あちょぼ』という立ち呑みだった所です)」に於いて、反省会?が行われました。店員になかなかオーダーが通じないというハプニングがありましたが、9時半くらいまでみんなで談笑しました。

>田中さんへ
くだらない質問しか出来ませんでしたが、僕にとっては(もちろん詳しいことはわからないですが)聞いていて“なるほど!”と感じることのできる発表でした。
 男なので、お食事会には参加できないのが残念ですが(^_^;
 発表本番は京都の方から応援の波動を送ります(/_・)/~~~~~~

Re: 研究発表

山岡 瞳
No.1517

発表を聞きに行きたかったのですが、バイトの関係で聞きに行くことができませんでした。とても興味のある内容で、もしレジュメが余っていたらわけてくだい。m(__)m
発表頑張ってください。
どこかにお酒を飲みに行くことがあればぜひ私も誘ってください。まだ未成年なのですが…。こんなに堂々と掲示板に書き込んでもいいのでしょうか。
こんな私ですが今後ともよろしくお願いします。

Re: 研究発表

No.1519

 本日、研究発表があったため、その準備もあって、ここ数日、掲示板を覗いておりませんでした。田中さんのご発表は、バージョン・アップしたものを東京で伺えると思い、楽しみにしております。
 建礼門院の晩年、鷲尾住まいの件は、確定事項でいいですよね。歴史家の某大先生の反対もあるようなのですが…。私は、間もなく仕上げる「一般向け」の拙著(屋島・壇ノ浦ツアーに行って書き上げる予定)の最後を、女院はこの高台から京都の街を見下ろして、何を思ったのだろうか、といった結びで締める予定ので、確定事項といってもらえると嬉しいのですが…。


総大将の御裁定。

No.1522

 >山岡さん
 山内さん同様、お酒は20歳になるまでダメですよ。
 
 >田中さん
 「清盛塚」のこと、お知らせ下さり、ありがとうございました。そうですね、伊勢湾台風と小生も記憶しています。
 また、20歳前後の「若い」女性の呼称の件、御了承下さり、ホッとしています。
 それから、相次いでご本人達から指導要請のあったことでもありますし、このさい、山内さんと山岡さんの生活指導・相談役をよろしくお願い申しあげたいと思います。
 ところで、この掲示板は、ゼミメンバーのお母上もご覧になっているとのことです。というわけで、・・・
  
 >お母様をはじめ保護者の皆様
 田中さんにお任せすれば大丈夫です。ご安心ください。
 
 >鈴木君 
 御報告ありがとうございました。田中さん応援の波動は御一緒に送りましょう。後白河院陵や将軍塚から波動を送れば、関東では「鳴動」と思って、さぞかし震撼することでしょう。

 >佐伯先生
 お久しぶりです。
 建礼門院が鷲尾で晩年をおくったことに異論をさしはさんでおられる某先生について、小生は不勉強にて存じ上げないのですが、何か一次史料に反証でもあるのならともかく、鷲尾で確定として問題なしと思います。さまざまな思いをこめて、日々六波羅を見下ろしながら、彼女はここで人生の最終章を過ごしたのだと小生も想像しています。
 なお、総大将のお一人である元木先生からいただいた私信によれば、高松の平家物語歴史館には全軍で進攻されるご予定とのことです。

鷲尾住まい

No.1528

 野口先生、有り難うございました。
 うろ覚えで書いてしまいましたが、上横手先生の『平家物語の虚構と真実』末尾(私の持っている最初の版では389頁)に、延慶本の記事を批判して、「とうてい女院が静かに余生を送るような場所ではないし、こんな所で、大原御幸から数えると四十年近くも住んでいて、女院のことがまったく記録に載っていないのは不思議であり、あり得ないことである」として、女院の生存自体、承久の乱に関連づけるための虚構であるとの説が展開されています。大原終焉説が正しいと結ばれるわけです。
 もっとも、これは、延慶本の「法性寺周辺」との記述に対する批判であって、「鷲尾」を問題にされたわけではありません。そもそも、1973年の本ですから、『平家後抄』よりも前なので、角田説をふまえているわけはありません。その点、私の書き方は不正確でした。現在、上横手先生がどうお考えかは、私は存じません。ただ、『虚構と真実』の論旨によれば、「鷲尾」説に対しても、同様の批判が展開できるはずです。
 しかし、あまり積極的な論拠であるとはいえず、私はやっぱり鷲尾あたりで長生きしたという説が、現在最有力であると認識しているわけですが。

追記

No.1531

 上の私のレスへの追記です。
 「『平家後抄』よりも前なので、角田説をふまえているわけがない」というのも不正確な書き方でした。角田先生の「建礼門院の後半生」の初出は1973年ですね。(『王朝の明暗』の初出一覧によれば)。
 で、『虚構と真実』刊行と同年なので、上横手先生は、やはり角田説への批判として書いたわけでもないのだろうという点に変わりはないわけですが。
 いい加減なことを次々と書いて、大変申し訳ありません。
 

建礼門院の終焉の地。

No.1534

 佐伯先生。ありがとうございます。
 「某大先生」はやはり上横手先生でしたか。『虚構と真実』は小生もピンク色の旧版で読んだはずなのですが、このことはすっかり忘れていたようです。
 たしかに、建礼門院が承久の乱後まで生存していたのなら、公卿の日記にあらわれてないのは不審のようにも思えますが、重要人物(とくに女性)が生存中にもかかわらず史料に名を見せないことはよくあるわけですし(実朝の夫人で、文永の頃まで京都西八条の遍照心院にいた本覚尼も、貴族の日記には長く名を見せていないのではないでしょうか?)、文学的虚構というのなら、まさに大原終焉説がそれに当たるのではないかと思います。そうした方が若くして亡くなったことにもなるわけで、こちらこそ出来すぎです。
 それから、女院が善勝寺をへて、鷲尾に住んだ背後事情についての角田先生の考察は説得力があります。また、静かに余生を送る場所としてふさわしいかどうかという問題については、近年の研究によって明らかにされている当時の女性の心性に照らしても、むしろ鷲尾がふさわしいと思います。
 北条時政の後妻で、娘婿を将軍に擁立しようとして失敗し、夫と共に失脚したはずの牧の方が、承久の乱後の京都で、きわめて羽振りの良い生活をしていたことなどを考え合わせますと、死ぬまで「なよなよ」と安徳や一門の菩提を弔うことばかり考えていた旧態依然とした徳子のイメージを払拭したくもなってきます。
 最も尊敬する歴史学者である上横手先生に異論を唱えるのは、きわめて僭越な話しなのですが、小生はそのように考えております。あるいは、上横手先生も、今は大原終焉説を否定されているかも知れません。
 上横手先生の直弟子であられる元木先生や美川先生は、この問題についてどのようにお考えなのか、旅行中、ぜひうかがってみて頂ければと思います。

わかりました

No.1540

 野口先生、重ね重ね有り難うございました。
 この件、私は、以前からカルチャー・センターのような場で建礼門院の晩年のことを話すたびに、「私はその時は生まれていなかったので、事実かどうか知りませんが」といった枕詞で鷲尾説を話しては、内心ひやひやということの繰り返しなので、一度お伺いしてみたかったという次第です。
 私も角田説に説得力を感じますが、自分自身で見つけた新たな論拠は何もありません。ただ、「大原で若くして亡くなるっていうのは、いかにも語り本らしい話の作り方だよなあ」という程度の感覚はあります。『平家物語』としては、建礼門院は安徳天皇と一門の菩提を弔うことに、残りの人生のすべてを傾注してほしいというのが、物語としての要請でしょう。
 というわけで、元木先生、美川先生、旅行中のご教示、よろしくお願い致します。

建礼門院徳子に関する研究。

No.1502

 明日の例会の予習をしていて、あらためて角田文衞先生のお仕事に舌を巻いております。ふつうの常識的な感覚から「知りたい」と思うことは、徹底的に追究し、史料も博捜してある。これが並の研究者にはなかなか出来ないことなのです。叶いませんね。「建礼門院の後半生」をはじめ、『王朝の明暗』(東京堂書店、1977)所収の人物をとりあげた論文、読みふけってしまいました。
 また、故・須田春子先生も晩年、平家の女性に関する研究を進めておられました。あまり、流布していない雑誌なのでご存じない方が多いと思いますが、『古代文化史論攷』6(1986)に「女人入眼の日本国(一)-平氏・清盛傘下の女院-」を書いておられます。明日の報告者である田中さんは、すでにこの論文の存在にお気づきで、その所在について問い合わせを頂いております(>田中さん。コピーしておきます)。
 やはり、確実な基礎的事実を先ずおさえておくということが、『平家物語』研究でも、ひとつの基本的な出発点となるもの思います。福原についても、大森金五郎(小生の郷里の千葉県出身。昔は千葉県からは、八代国治、白鳥庫吉など、錚々たる歴史学者が輩出)などという昔日の大家の研究があり(『武家時代の研究』第二巻)、先行研究の渉猟は怠りなく行いたいものです。
 ゼミメンバー諸姉兄は、徳子さんについて、どのくらい勉強が進んだでしょうか?山田知佐子さんは、どうやら猛勉強されている御様子ですよ。

建礼門院徳子に関する研究

No.1504

 明日の発表準備から逃げて・・・いやいや、息抜きにやってきました。
 肝心な事は明日発表で言う事にしますが、建礼門院に関する研究は数々ありますが(一応、明日これに関しては簡単に説明するつもりです)、角田文衛氏のように、人物そのものにスポットを当てた詳細な研究はなかなかありません。論文を読むたびに、本当に「知りたい」ということに貪欲な方なんだな~と思っています。
 明日の発表は21日の発表の雛型です。皆さんから意見をいただく為には、こちらの準備が必要です。この「準備」がすごく危ないのですが・・・・そろそろ勉強に戻ります(--;
 では、皆様また明日。