Re: 速報・廣政さん、卒業生総代に決まる!
No.1410
総代...おめでとうございます。
僕は高校の卒業式の在校生代表はやったことありますが、
廣政さん、さすがですね☆
どんな事をするのかわからないのですが、体験談を聞かせてくださいね!!
掲示板つながりで、一つ情報です。
伊勢旅行中のこのホームページへのアクセスを調べてみました。
2月25日が、実質的にゼミ以外の人のアクセスと考えても良いと思いますが、予想に反してアクセス数はほとんど落ちませんでした。
普段は訪問数150くらいが平均値ですが、25日は120でした。厳密なデータではないですが目安としてみても、ゼミ以外の方がご覧になっているのがとても多いことが、数字として出ました。(ちなみに、翌日27日のアクセスは普段の3倍ほどありました)
掲示板は情報の更新が命です。リアルとバーチャル、両方の掲示板が盛況になればうれしいです。今後も、よろしくお願いします。
関幸彦著『北条政子』刊行
No.1416
このHPへのアクセスがどこからなされ、曜日ごとの件数の変化はどのようなものか、などといったこと、実に興味深いものがあります。それにしても27日のアクセスが普段の三倍だったとは。
いずれ、鈴木君にbbsに関わる分析の御報告をお願いしたいものです。
↓では、院試から、英語・入試のあり方にまで、話題が広がっていますが、小生もご多分に漏れず英語は大の苦手科目でした。青学に入れたのも、当時、史学科の配点が国語・英語各100、日本史200点だったからです。日本史は全部出来たと思います。英語は苦手でしたが、基礎的な問題をじっくりと解答するという出題形式なので、何とか答えられました。早稲田も受けましたが、当時は、予備校で、どうでもいいような知識とテクニックを身につけなければ受からないような設問ばかりでした。
ちなみに、私が大学を受験したのは1969年、東大が紛争で入試を行わなかった年です。
入試のあり方について、美川先生の仰ることはよくわかります。今の入試形態は、「本来の大学」の欲する人材を得るためのやり方ではなく、時間と労力の都合による便宜的・妥協的な方法だと思います。
ちなみに、元木先生は、まだ入試業務でお忙しいのでしょうか。「コラッ」の書き込みが懐かしくなってきました。
「書き込み」といえば、美川先生は、ここでもスゴイですが、諸方のbbsでお名前を見かけます。「鎌倉時代」「京大文学部同窓会」「後深草院二条」「東アジア怪異学会」などなど。『美川圭著作集』が刊行される暁には、こうした書き込みを集める必要がありそうですね。
さて、昨日、標題の御高著を拝受いたしました。関先生、御覧になっていたら、あつくお礼を申しあげます。ミネルヴァ日本評伝選の第7回の刊行です。前回は元木先生でした。
近藤先生の『源義経』、美川先生の『後白河天皇』にも、きっと先んじられてしまうだろうと思いますが、娘の政子に出遅れた今、小生も『北条時政』の執筆の準備を「粛々と」(保守政治家の好きな用語を敢えて使用)進めたいと覚悟を決めております。
関先生のご本の中身は、まだ拝読していないのですが、ただ、参考文献欄に、現段階における北条政子研究の最先端の成果である、野村育代氏の『北条政子』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)があげられていないことと、「野口実『源氏はなぜ三代で滅びたか』新人物往来社、二〇〇一年」という、タイトルも発行年も身に覚えのない本があげられているのが気になっています。
お疲れ様
No.1419
野口先生、美川先生、ゼミの皆さん、ご旅行お疲れ様でした。天候にも恵まれたようですし、充実したご旅行のようで何よりでした。土産話を楽しみにしております。美川先生、お祓い町入り口の岩戸屋尾置ける某大先生の鰻事件はご披露になりましたか。
当方も、年度末校務が終了し、これで一段落というところです。最近、特に視力が低下し、目を酷使する仕事は辛くなってしまいました。試験というのは、確かに酷いし、矛盾はあるし、向き不向きはあるし、どうやっても問題の残る制度ですね。学部、大学院、それぞれどのような試験がもっとも望ましいのか、常に厳しく検証を繰り返すべきだとは思いますが、反面、ころころ変えるのも受験生には酷ですし、このこと一つをとっても問題の深さが痛感されます。
当方は英語はさほど苦手ではありませんでした。大学受験のときも院入試でもさほど困ることはありませんでした。英語は日本前近代史や国文の研究者には不要、ともいえますが、英文和訳は、英語を媒介にした国語、文章力の鍛錬と悟ってしまえば、それなりに意味もありますし、乗り越える道もあると思います。
が、数学と理科はどうにもなりませんでした。現役の時、京大入試で社会は7割、国語、英語は6割強を得点し、同じ高校から受験した中でダントツでしたが、あとが無残な成績で、合格点に20点届かず(900点満点で520点がボーダー)、一年を棒に振りました。何で日本史を専攻すると決めているのに、数学と理科でこんな目にあうのかという、理不尽さに涙があふれました。何とか翌年はもぐりこめましたが、数学や生物の知識がその後、直接的に役立ったことはほとんどありませんでした。しかし、数学や自然科学のもつ論理性が、論文作成に有意義である等と言うことがうっすら分かってきたのは何本も論文を書いてからのことでした。
広範な可能性を試す学部入試と、院入試は同じレベルではありません。しかし、直接的な有益性のみではなく、学問の可能性や思考力の深さを試すという方針は同じではないでしょうか。無論、これは試す側の理屈でしょうが、かく申す当方、浪人時代に悟りました。この世の中は理不尽である。この先、どんな理不尽に遭遇するか分かったものではない。されば、理不尽を乗り越える精神力が必要である。だから数学と理科を勉強せねばならないのだ、と。
ミネルヴァ、関先生の御著書刊行で、毎月刊行が守られ手いるようですね。参考文献というと、かく言う当方も苦い思い出があります。昔さる本の参考文献欄で上横手先生の書名を間違えてえらくお叱りを頂戴してしまいました。本文の校正で精力を使い果たし、付録のころは心が浮ついていたためでした。今回も高橋昌明氏の書名に校正ミスがありますが、あれはチェックしたはずなんですがね。毎月二巻刊行が一巻となり、編集者も焦慮のようです。それが杜撰な校正につながった面もあるかもしれません。再校の時のこと、仕事納めに合せて編集側の校正を済ませ、正月5日に返すようにとゲラを送りつけてきたときは、さすがに腹が立ちました。売るために本を書くのではない、納得が行くように本は書くものであるという近藤先生の名言は、編集サイドも銘記してほしいものです。
ちなみに拙著、一時よく売れて、アマゾンで見ると井沢元彦と並んでいた時もあったようです。おかげで、現在在庫切れとのこと。多田源氏愛好会ご一同様にでもまとめ買いしていただいたのかいな。そう売れる内容ではないのですがね。内容も井沢某並だったりして。
久々の緑の文字。
No.1420
元木先生、入試業務お疲れさまでした。もう、こちらは伊勢のことなど遠い昔のことの如しです。実に目まぐるしい毎日が続いております。それにしましても、お久しぶりです。
「理不尽云々」至言だと思います。小生、常に敵前逃亡ばかりで、高校時代も数学・物理に立ち向かう気力などはなく、早々に私学一本でした。そのあたりが、結果で大きな差をもたらすわけですね。
さて、もう遠い昔のゼミ旅行ですが、見学による収穫のみならず、やはり三日間一緒にすごしたことで、メンバー相互に多大の認識の深まりがあったようです。小生は、メンバーの人間的優秀さをあらためて思い知らされました。
伊勢内宮参道の岩戸屋には、大挙して昼食に立ち寄り、美川先生から鰻一件のお話しをうかがいながら、伊勢うどんを食しました。「やはり○○に限る」というところへは、小生のミネルヴァ担当巻の執筆取材のために近く訪れる予定ですので、そのさいに、その真偽を確かめて参りたいと思っております。
それにいたしましても、近頃、鳥インフルエンザとやらで、そのうち焼き鳥の肉が、某先生の言われるとおりになる哉も知れませんね。未来を読む慧眼とでも申しましょうか。
岩戸屋の変貌
美川圭
No.1429
某大先生の逸話に名をとどめし、岩戸屋なんですが、
すっかり、変貌しておりました。
かつては、土産物売り場の2階に、いかにもという食堂があったわけです。たしか、小学生の元木先生が、修学旅行で昼食を召し上がったところですよね。
(ここで、その情景をしばし想像し・・・)
そこで、カレーライスや親子丼などを食するのは、まあ常識的なのですが、そこで鰻丼を注文するというのは、かなりの勇気のいることでした。なにせ、お重はプラスチックでしたから。それゆえ、大先生といわれるかたのユニークさが際だつわけです。ましては、ご故郷の鰻の老舗との味を比較されるとは・・・。
それを思うと、このたびの旅行で訪れた岩戸屋は、外見こそ当時とそれほど変わりませんでしたが、食堂は1階に移り、食券購入というのが、かつての大衆食堂の雰囲気をいくらかのこしているとはいえ、かなりこざっぱり清潔感あふれるものになっておりました。たぶん、おかげ横丁の特徴ある飲食店に対抗して、岩戸屋なりの精一杯の経営努力の成果なのでしょう。といったことで、1500円の鰻丼を注文することに、それほど違和感をもちませんでしたが、けっきょく400円の伊勢うどんですませてしまいました。やはり、凡人は逸話をうめません。
岩戸屋の思い出
No.1434
美川先生、そうですか。岩戸屋も多少は変化したようで。以前、行ったときは伊勢うどんもなかったような気がしますが、如何でしょう。あの、たまり醤油の辛さはなかなか刺激的のように思います。
ちなみに、当方の修学旅行は1966年5月、西宮の夙川小学校6年の時でした。鳥羽で島巡りをして、真珠島を見学、二見浦の旅館に泊まって枕を投げて怒られました。翌朝、夫婦岩と朝熊山を経て、外宮、内宮に参詣したのち、岩戸屋で昼食でした。あれから40年近くを経た昨年の同窓会、その時、級長だった親友は救急医師、すっかり禿げ頭になってしまいました。少し胸をときめかした美少女が・・・どうなったかは言わぬが華ですかね。担任の先生の訃報に接したのは残念でした。まさに往時茫々です。
ところで、松坂ではどうなさいましたか。牛肉は堪能されましたでしょうか?そんなことより、史跡見学の成果を伺うべきでしょうが・・・。
野口先生とゼミ生諸君のキャッチボールとか、何か青春ドラマを髣髴とさせるシーンもおありの由、いずれ詳しくうかがう機会を楽しみにしております。