メールで
No.1384
私は、知人からのメールで知りました。帰宅してからネットで調べましたが、オウム裁判と鳥インフルエンザのニュースで、詳細は分からないままです。どちらにしても、とても残念な事には変わりありません。ご冥福をお祈りします。
『東と西の語る日本の歴史』
No.1388
小生が、千葉→京都→鹿児島と渡り歩いて、いろいろな事態に遭遇していたとき、網野先生の標題のタイトルの本によって、カルチャーショックの理屈付けをはかることができました。
『武家の棟梁の条件』に書いた東西比較の武士論や鹿児島論も網野先生の研究から受けた大きなインパクトに基づくものです。
前任の大学で教えた学生には、網野先生の追っかけのようなことをやっていた人がいましたが、なんか、学問という枠を越えてファンのできる稀有の魅力ある歴史学者だったと思います。
20年ほど前に千葉大学で講演をされたときに、そのテープ起こしを担当したことがありますが、お声が素晴らしかったこと、それから、録音を文字に起こすと、それがそのまま論文になってしまうことに魅了されたり、驚かされたりした経験があります。
信念に基づいて勇気ある発言の出来る、情熱に満ちた魅力ある日本中世史の支え手が、また一人失われてしまいました。
学恩に感謝して合掌
無題
No.1392
鈴木君からの電話でこのニュースを知りました。
私も網野先生の「日本中世の非農業民と天皇」や「無縁・公界・楽」などの数々のご著書を読み、民衆の視点からとらえた独自の歴史観にかなり影響を受けておりました。
ご冥福をお祈りいたします。
Re: 網野先生のこと
山田邦和(花園大学・考古学)
No.1393
網野先生がお亡くなりになったこと、まさに「巨星墜つ」だと思います。
しばらく前から体調を崩されており、最近はまたお悪いということを聞いていました。
数年前の研究会で壇上に立ち、自らの病気のことを語り、「命ある限り学問を追究する」と淡々と語っておられたのに強い感銘を受けた覚えがあります。
もちろん学問である以上、「網野史学」には批判もあります。しかし、あれほど強烈な吸引力をもった歴史学を展開できる学者がめったにいない、ということを否定する人はいないでしょう。
私たちに与えられた使命は、網野史学を正しく評価し、継承するべきところは正しく継承した上で、いかにそれを乗り越えるか、というところにあるのだと思います。
合掌・・・
Re: 網野先生のこと
土屋光裕
No.1395
久しぶりにこの掲示板を覗いて運が良かったというか、何というか、ショックな情報を仕入れてしまいましたね。
私が網野先生を初めてお見かけしたのは、大学1回だったでしょうか?一乗谷のシンポジウムに足を運んだとき、背の高い、そしてとても低くて重みのある声の紳士だと思いました。もちろん、中世史を志す者として、網野先生の多くの著書に触れましたので、かなり動揺を隠せません。私のような者が発言するのもおこがましいですが、学説云々はともかく、中世史学界や一般的な歴史好きの人に与えた影響は計り知れなく大きいと思います。
ご冥福をお祈りします。
土屋君も一仕事を。
No.1398
土屋君、お久しぶりです。貴兄も網野先生の学恩に応えるべく、中世の佐渡をテーマに独自の歴史像を構築してください。ちなみに、来年度のことはどうなったでしょうか。
すでに滑川さんなどから、お知らせがあったことと思いますが、先日、日本史研究会の中世の部会報告で、関学大院DCの生駒孝臣さんという方が「鎌倉時代の滝口」という報告をされました。小生は出席できなかったのですが、すぐれた御報告だったようです。ただ、おそらく、事実の解明という点においては、貴兄の未発表論文「滝口の武士、その創設と中世的展開」と内容的に重複するところがあったのではないかと思います。研究の積み上げという意味からも、貴兄の論文は早急に発表されるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
もっとも、小生がこの研究会に参加できなかったのは、ゼミ主催のカラオケ歌合せが、以前から予定されていたからで、多少逡巡があったのですが、御自分の結婚披露宴で熱唱されていた土屋君なら、是非もなく・・・などと考えてもおりました。
それはともかく、網野先生もお亡くなりになってしまった今、これからの日本中世史の研究は若い貴兄達が引き継いでいかなければならないのですから、ぜひそれを形で示していただきたい思っているのです。北面の論文の方も、近いうちに発表して、貴兄の存在を学界に示してください。
Re: 網野先生のこと
美川圭
No.1399
もう、先週に意識がない、という話を聞いておりました。
再発したということでしたので、来るべき日が来たか、という感想です。私は、京大での集中講義をうけたので、まさに「先生」でもあります。10年以上前、名古屋の中世史研究会で、丁重なごあいさつをうけたのも、記憶にのこります。いろいろな意味で、歴史学に大きなインパクトをあたえつづけた歴史家でした。石井先生がなくなり、網野先生で、やはり一つの時代が終わりましたね。個々の論点では、いろいろ批判すべき点は多かったのですが、全体として網野学説は魅力的でした。ここのところ、ずっと一回生の入門の授業は、網野説を使っているのです。ご冥福をお祈りいたします。でもやっぱり寂しいなあ。
Re: 網野先生のこと
長村祥知
No.1406
僕が網野善彦氏の名前を知ったのは、高校生の頃でした。隆慶一郎の小説のあとがきで網野氏の研究を参照されたとあったのです。
大学に入り、いろいろな事を学びたかったので、田辺校地にある歴史資料館の収蔵庫で開かれていた学生の自主的な勉強会に参加させてもらいました。そこで鋤柄俊夫先生のご指導もあって、考古学と文献史学・文学の接点を求めて、網野氏の著書をいくつか読みました。
氏の主張の一つに、「百姓」は農民ではない、というものがあります。また、中世都市論や単一国家観の見直し・地域の独自性、アジール論等、興味深いものばかりでした。
ただし、自分には戦後の中世史全般の大きな流れの中でその意義を理解すると言うことが出来ませんでした。今出来ているかと問われても、自信は持てません。世代の違いと言うだけで片付けられないものがありますが、1980年代生まれの自分が戦後史学を受け継ぐにあたって、今後も同様の感覚を持つ事が多くあるでしょう。
先行学説の批判は後進に課せられた義務であり、同時に後進は研究の進展を活用できる権利を有します。
網野氏と同じ時代を共有し研究に従事された、戦後すぐ生まれ世代の先生方の、氏に対する批判的な意見だけを継承するのではなく、氏の研究史上の意義を正しく評価する事が、我々孫世代の学生にとって必要であると思われます。
Re: 網野先生のこと
No.1418
この掲示板での石浜さんの書き込みで、網野先生がお亡くなりなった事を知りました。正直ショックと驚きがごっちゃになった気持ちです。偉大な先生がお亡くなりなった時に、こういう事を述べるのは、不謹慎なのかもしれませんが、一学生の意見として自分なりの意見を述べたいと思います。
自分は、一番最初に読んだ網野先生の本は、『無縁・公界・楽』でした。しかし自分にそのスケールの大きさを受け止める力量がなっかたせいか、ショックを受けると言うより、妙な違和感みたいなものを感じたのを憶えています。それは、話が抽象的だったせいもあります。また何かの書評で「学界に衝撃を与えた歴史書」とあって、その衝撃の意味すら分かりませんでした。読んだ後に、自分には中世史を勉強する感性みたいのものが欠けているのではないか?と少し悩んだ事があります。また周囲の人(特に考古学専攻の人)は、先生の著書を絶賛しているのを聞けば聞くほど、なぜそこまで心酔できえるのか分かりませんでした。ただ、『無縁・公界・楽』を読んで思った事は、近代=管理と抑圧の時代との対比で、中世=自由の時代という、何か中世にユートピア的なものを求めているのではないかという事でした(あくまで主観的な感想ですが)。自分には、その点が納得がいかなくて上手く理解できなかったんだと思います。従って、自分の中では、網野先生は歴史学者と言うより、思想家だと思っています。ただ何冊か読んだ本の中で、『中世荘園の様相』だけは、自分の中で理解でき、石母田正の『中世的世界の形成』のように、「太良荘」という一個の小宇宙を活き活きと叙述していて、吸い込まれるように読んだ事を憶えています。ただ家永三郎氏や石井進氏などのように自分にダイレクトに影響を与えた歴史学者とは違うので、正直複雑な気持ちです。また上手く吸収できないことは、今だにあまり変わっていません。それは自分の興味の対象とも関係するのかもしれませんが、網野史学には、やはり「中世史」という枠組みでは捉え切れないスケールの大きさと重みがあるのだと思います。ご冥福をお祈りいたします。
Re: 網野先生のこと
美川圭
No.1426
山本さん。こんにちは。
ラストサムライの議論もそうだけど、自分の率直な思いをなんとか、文章にしようとされる態度。ぼくは大好きです。遠慮することないから、もっとやって。
ぼくは、学部時代に、石母田正の『中世的世界の形成』を最初に読みました。中世史のバイブルみたいにいわれていた本ですから。でも、衝撃をうけませんでした。自分とは別世界、というか自分の歴史好きとは、まったく違い、そのよさがよくわからなかったのです。とにかく、くらーい気分になりました。きっと、戦時中に書かれた作品ということもあるんでしょうね。でもほんとうのところはよくわかりません。一度、上横手先生にたしか3回生のころ「石母田さんという人は、あんなこと(領主制論?)本気で考えていたんですか」という愚問を発し、「なにをいうんだ、あれが石母田さんの本質だ」と怒られたことがあります。それほど、違和感があった。
網野さんの『無縁・公界・楽』は、楽しめました。というよりは、なにか歴史に光がさした。歴史をやりたいな、と思わせる魅力がそこには満ちていたのです。山本さんと違い『中世荘園の様相』はきちんと読んだ記憶がありません。あまり、新しい感じがしなかった。
なぜ、そういう印象をもったのか、これから、少しずつ考えていこうと思います。
Re: 網野先生のこと
No.1437
私がはじめて日本史に接したのは、網野先生と鶴見先生の対談『歴史の話』でした。この本を読んだのは、なんと会社に入って数年たってからで、ということは、それまで日本史とは無縁の生活を送ってきたわけです。高校では、世界史がメインでしたので、大学入試も世界史と何かだったと記憶しております。ただし、『無縁・公界・楽』については、思想史(それもラテンアメリカの)をやっている人から、すごいらしいよと聞かされていました。ですが、どうせ難しいのだろうくらいの考えで、敬して遠ざけていたのが実情です。けれども、『歴史の話』は面白かった。こんなに面白い世界だったのかと、網野先生のご著書をむさぼり読んだものでした。『無縁・公界・楽』も、読んでみれば結構面白いじゃないかと、不遜にも思ったものです。
網野先生の本は、出せば売れるという評価が出版社側にはあったようで、うちの編集者もさかんに出入りしていたようです(結局、実りませんでしたが)。
宮本常一先生のところにも大勢の編集者が詣でていたようで、人間大学で宮本先生のことを取り上げたときに、担当の編集者がお借りしてきたのを見せてもらったのですが、編集者の名刺が山のように残っています。その中に、やはり当社の人間の名刺が同じものが何枚も残っており、熾烈な争奪戦のようなものがあったのではないかと想像されます。
今後、そうした網野先生のお名前がどう消費されていくのかが心配です。例えば、進化論について何か本をつくるときには、とりあえず「ダーウィンを超える」と謳っておくと受けそうだといったことがあるようなので、そうした使われ方が網野先生に対して行われないことを願います(自分がつくったりして)。
異端?網野
美川圭
No.1438
京大に集中講義で、網野先生が来られたのは、
いつだったか、いまひとつ記憶がさだかではありません。
80年代で、たぶん、『無縁・公界・樂』が出たことでしょうか。元木先生なら正確にご記憶だろうと思います。
講義には、もう大学に就職された先輩たちが、
ずらっと聴講にならぶ、というちょっと異様な光景でした。
そのため、網野先生も、やや構えられたのか、
とても学生向けの講義、というよりは、学会報告、
といった感じで、緊張して授業をされたので、
われわれ学生には、やや難しすぎる、という印象でした。
とにかく、典拠となる史料を、これでもか、これでもか、とあげられるので、正直言って、退屈といっても過言ではないものでした。
ということは、かなり「警戒」をしていたのではないか。
つまり、当時の、反網野の風は、関西を中心に、かなりのものであったように、記憶しています。
某サイトで、大山喬平先生の網野批判の話が、出ております。
しかし、ぼくの印象では、すでに亡くなったK先生の批判は激烈をきわめるものでした。というのも、拙稿をK先生にお送りしたところ、そのお返事は、ほとんど網野批判で埋め尽くされておりました。その批判は、かなり感情的ともいえるものでして、網野が歴史学をだめにする、といった感じでした。いわゆる危険思想扱いですね。K先生も網野先生もマルクス主義者でしたから、そこには一種の深刻な路線闘争があったようです。
集中講義の学生を中心とする懇親会では、ややリラックスした先生と談笑する機会をえました。先生は、自分は「異端」だということをくりかえし、のべられておりました。当時、すでに学生から見ると、学界の主流派の中心をなそうとしていた網野先生でしたから、その言はたいへん違和感のあるものでした。しかし、先生は「四人組」などといるレッテルをかなり気にしておられるご様子でした。
もはや、そんな雰囲気は、皆無なのかもしれませんが、当時の雰囲気の一端でもお伝えできたら、と存じます。