福原の二重堀について
前川佳代
No.1167
お久しぶりです。先日送付された『日本史研究』に、楠・荒田町遺跡の保存要望書が載っており、遺跡の重要性が指摘されておりました。私も1月11日の緊急シンポジウムに出席し、先生方の報告を聞いたのですが、二重堀については、多分に疑問がありますので、投稿いたしました。
岡田先生の報告と図面、スライドを見た限りでしかもうせませんが、ほんとうに二重堀かどうかという議論が考古学側で必要であると感じました。あれだけでは、先に箱堀があり、その後ほぼラインを同じくして薬研堀が掘削されたと思えます。薬研堀が急仕事であったというのは、平面プランが直線的でない点などから納得できます。しかし、二重堀にするのなら、両者があれほど近接し、しかも構造が異なるという点に合点がいかないのです。
考古学で検出された二つの溝の時期を問う場合に考えられる条件は以下の通りです。①新旧関係があるか(溝が重複している場合には容易です)。②出土遺物の時期。③埋土の状態(埋められ方、埋め土の色など)。④構造の違い。 これらが考えられるのですが、溝の時期決定で一番配慮しなければならないのは、溝は浚渫されるということです。
箱堀は平面がきれいな直線で、しかも直に掘られています。薬研堀にくらべ、掘削に時間がかかったでしょうし、メンテナンスしていることが考えられます。あまり遺物が出土していないというのは、浚渫している可能性があるのではと思うのです。反対に、薬研堀のほうには遺物がある。これは故意に捨てられたのか、あるいは埋まる時に入ったのかも問題です。
埋め土の色は福原のような短期間の構造物では見分けがつかないでしょう。また遺物でも時間差は難しいです。
あの報告で考えられるケースは、次になります。
①箱堀が先に掘られ、埋められたのちに、ほぼ同じラインで薬研堀が掘られた。
②箱堀が先に掘られ、のちに箱堀に沿った形で薬研堀がほられた。結果的に二重堀になった。
②なら「二重堀だ」と言い切ってもよさそうですが、両者とも幅が2M足らずで、深さも2M弱のもので、飛び越えようと思えば飛べるものです。
同志社の鋤柄先生が、伊勢の事例を類例としてあげられておりましたが、あれは、溝の構造の違いから、機能の違いを指摘されているだけで、伊勢の事例が則二重堀だということではないと思います。
また、平泉との類似が指摘されておりましたが、柳の御所の堀は二重ではありませんし、構造や規模も段違いです。奥州合戦時の福島の厚樫山の二重堀はくらべようがないくらい大規模なものです。
楠荒田町遺跡の発掘調査が終了して間もない報告であったゆえ、調査者も検討時間がなかったのではないでしょうか。今後の検討を期待いたします。
なんだか遺跡の評価にケチをつけるように思われるかもしれませんが、そうではありません。二重堀でないとしても楠荒田町遺跡の特に神大病院校内では過去にも多くの重要な遺構が検出されては破壊されております。私は、当地は新造内裏ではなかったかと推測している場所なのですが(シンポで須藤先生が報告された図面は、私の修論では高橋先生案と同じでして、神大病院敷地を新造内裏に比定しました)、平氏の根拠地であった可能性は充分ありますので、過去の調査の整理と今回の遺跡の保存には大賛成です。
花園大の山田先生は現場をみてられるでしょうが、どのように考えておられるのか、お聞かせ願いたく思います。
岡田先生の報告と図面、スライドを見た限りでしかもうせませんが、ほんとうに二重堀かどうかという議論が考古学側で必要であると感じました。あれだけでは、先に箱堀があり、その後ほぼラインを同じくして薬研堀が掘削されたと思えます。薬研堀が急仕事であったというのは、平面プランが直線的でない点などから納得できます。しかし、二重堀にするのなら、両者があれほど近接し、しかも構造が異なるという点に合点がいかないのです。
考古学で検出された二つの溝の時期を問う場合に考えられる条件は以下の通りです。①新旧関係があるか(溝が重複している場合には容易です)。②出土遺物の時期。③埋土の状態(埋められ方、埋め土の色など)。④構造の違い。 これらが考えられるのですが、溝の時期決定で一番配慮しなければならないのは、溝は浚渫されるということです。
箱堀は平面がきれいな直線で、しかも直に掘られています。薬研堀にくらべ、掘削に時間がかかったでしょうし、メンテナンスしていることが考えられます。あまり遺物が出土していないというのは、浚渫している可能性があるのではと思うのです。反対に、薬研堀のほうには遺物がある。これは故意に捨てられたのか、あるいは埋まる時に入ったのかも問題です。
埋め土の色は福原のような短期間の構造物では見分けがつかないでしょう。また遺物でも時間差は難しいです。
あの報告で考えられるケースは、次になります。
①箱堀が先に掘られ、埋められたのちに、ほぼ同じラインで薬研堀が掘られた。
②箱堀が先に掘られ、のちに箱堀に沿った形で薬研堀がほられた。結果的に二重堀になった。
②なら「二重堀だ」と言い切ってもよさそうですが、両者とも幅が2M足らずで、深さも2M弱のもので、飛び越えようと思えば飛べるものです。
同志社の鋤柄先生が、伊勢の事例を類例としてあげられておりましたが、あれは、溝の構造の違いから、機能の違いを指摘されているだけで、伊勢の事例が則二重堀だということではないと思います。
また、平泉との類似が指摘されておりましたが、柳の御所の堀は二重ではありませんし、構造や規模も段違いです。奥州合戦時の福島の厚樫山の二重堀はくらべようがないくらい大規模なものです。
楠荒田町遺跡の発掘調査が終了して間もない報告であったゆえ、調査者も検討時間がなかったのではないでしょうか。今後の検討を期待いたします。
なんだか遺跡の評価にケチをつけるように思われるかもしれませんが、そうではありません。二重堀でないとしても楠荒田町遺跡の特に神大病院校内では過去にも多くの重要な遺構が検出されては破壊されております。私は、当地は新造内裏ではなかったかと推測している場所なのですが(シンポで須藤先生が報告された図面は、私の修論では高橋先生案と同じでして、神大病院敷地を新造内裏に比定しました)、平氏の根拠地であった可能性は充分ありますので、過去の調査の整理と今回の遺跡の保存には大賛成です。
花園大の山田先生は現場をみてられるでしょうが、どのように考えておられるのか、お聞かせ願いたく思います。