野口先生、有難うございました。

元木泰雄
No.6163

 野口先生、ご丁寧なご挨拶有難うございました。
 上横手先生喜寿記念祝賀会も、無事に終えることが出来ました。
 ご協力の賜物と、厚く御礼を申し上げます。

 上横手先生は、心身ともに喜寿とは信じられない若々しさ。京大の教官になられてからも院生と間違えられることがあったとのことですから、昔から若々しいということもあったのでしょう。
 しかし、それだけではありません。つねに新しい目標、課題を設定され、果敢に挑戦される御姿勢が精神の若さをもたらしたことは間違えないと思います。あれだけの「大家」が、新たな方法と分野を切り開かれるお姿には、ひたすら敬服させられます。
 また、74歳で各大学の院生を集めて、新しい研究会を立ち上げられたこともすばらしいことです。段々、若い人とは話が通じないことなどから、付き合いを避け勝ちになりますが、先生は常に若い方々に接し、ご自身も若返っておられるように思います。研究にも通じますが、精神の柔軟さが若々しさの根源かもしれません。
 先生から教わったことはいくつもありますが、心に強く残るものの一つが、礼儀礼節と節度の大切さということと思います。それは実生活はもちろんですが、学問においても同様のこと。気をてらったような、新奇な「研究」が横行する昨今、特にそのことを痛感致します。
 そしてもう一つが、記念会のご挨拶でも仰られましたが、一般読者への還元を忘れてはならないということ。大家であっても決して象牙の塔に閉じこもってはならない、という御姿勢の表れであるのはいうまでもありません。それは同時に、戦前・戦後を生き抜かれて、歴史認識が現実に大きな影響を持つことを厳しく認識された結果でもあると思います。我々は、単に眼前の研究のみに満足するのではなく、学問を通して現実にどのように参画できるのかを心にとどめる必要があると思います。
 もちろん、そうした現実とのかかわりを、特定の政治的な目的に結びつけるのではありません。常に柔軟で自由な精神によって行われるところに先生の真骨頂があると思います。少しでも近づけるように努力したいものと思います(→無理)。
 今回の記念会には、40名の参加者がありました。大家から現役学部生まで幅広い世代が集まったのも、先生の会に相応しいように思われました。様々な交流が生まれたのも、大きな成果だったのかもしれません。

 27日は上島有先生のご解説による、亀岡での古文書学会見学会でした。
 すでに岩田君のコメント(6160)にもありますように、大変充実した内容でした。関東からも多数の参加者があり、総勢40名の盛会となりました。
 歴史に大きな意味を持つ原文書を間近に見させていただけることに、関西の大きな利点を感じた次第です。上島先生は、文書の料紙、折れ目、墨色等、非文字情報の重要性を強く主張されておられます。影写本ではなく、原文書の詳細な分析による、新たな古文書学のあり方を提唱されておられますが、昨年の東寺・府立資料館に続く毎回のご解説からもその重要性を痛感させられる次第です。
 ちなみに、先生はじめ有志の方々は、翌日、亀岡から唐櫃峠を越えて京都に向かわれました。尊氏の六波羅進撃、光秀の本能寺攻撃のコースを実地踏破されたとのことです。参加された美川先生、花田君、宜しければ様子をご披露ください。
 上島先生、上横手先生、そして大山先生と、中世の先生方は皆さん若々しく、常に精力的でいらっしゃいます。いつまでもご指導をお願いいたしたいと存じます。
 
 一週間で二つ、大きなイベントを企画、実行させて頂きました。ご協力いただいた方々に厚く御礼を申し上げます。終わってやれやれ。かなりふらふら。そりゃ、あれだけ飲めば当然でしょうな(笑)。
 本当は野口先生へのレスのつもりだったのですが、誤って上になってしまいました。かかる失策を毎度繰り返し、申し訳なく存じます。いよいよ老耄も進行してまいりました。どなたか引退祝賀会?の準備をお願い致します。 

唐櫃越の踏査

No.6164

 3月28日、上島先生と唐櫃越、という貴重な体験をしてまいりました。元木先生の要請もあり、とり急ぎ、簡単なご報告と感想を。

 朝、8:10にタクシーに上島先生、漆原先生らと分乗して、亀岡駅前のビジネスホテルから、篠村八幡宮にまいりました。八幡宮で亀岡市文化資料館の黒川先生をはじめ、資料館の方、地元の有志の方、そのご家族の小学6年生のお嬢ちゃん、などと合流。私は八幡宮さえもはじめてなのでした。当初、八幡宮から、唐櫃越の稜線に直接登るルートも考えたそうですが、黒川先生によると道の状態が確認できないとのことで、迂回して宝泉寺裏から一気に430メートルの「みすぎ山」に登攀しました。これがけっこう急な登りで、たしか84歳になられる上島先生のお元気ぶりにびっくり。若い人たちの方が、けっこうねをあげていたようでした。
 稜線に出ると、典型的な尾根道の旧道か、と思いきや、かなり広い林道がまもなく現れます。しかも、車の姿も。途中、なんだかだだっ広い、やたらに風通しの良い場所に到着。正午前ですが、ここで少し早い昼食です。左下には、保津峡が望めます。黒川先生の話では、山陰本線の付け替えの時、ここに資材を置いたとのことです。ヘリでも発着したのではないか、という広場です。そしてしばらく歩くと、舗装道路になってしまうのです。もちろん信号もあります。どれほど歩いたのか、距離感がまったくつかめません。林道の上に旧道があったような感じもするのですが、まったくわかりません。何本か、南側、つまり旧山陰道側に降りる道があるようですが、それが地図上のどれにあたるのかもよくつかめません。林道のために、地形が一変しているのです。西山団地に下りる道のところで、上島先生など数人、それに黒川先生がついて、お別れです。途中までタクシーがお迎えの予定。

 実は、そこからが、旧道でした。アップダウンは少々ありますが、全体としてはだらだら下り。林道とは比べものにならない、狭さです。人1人が通れる山道。多くは、右側が崖です。ときには、両側が崖です。踏み外すと、何十メートルか落ちていってしまいそうです。こうした道を、ひたすら2時間ほど、くねくねと下りていきます。明らかに、何百年かの歳月をへている道です。大きな竹林のあたりで、上島先生らを送った黒川先生が上桂駅から逆にいらして、そこで落ち合います。そして、午後3時前に広い墓地に出ました。そこからは住宅地の中を、阪急上桂の駅まで。けっきょく、実質歩いた時間は6時間弱ぐらいだと思います。

 意外と近いという印象です。ただし、旧道は狭い。馬一頭通れるかどうか。何千という兵が通るのは、あまりに隊列が長くなりすぎ、という印象です。旧山陰道の老の坂が正規の道ですから、この唐櫃越はやはり間道です。大軍勢の通過は想定しにくいのではないか。『太平記』には高氏が篠村八幡宮から「大江山ノ峠」を越えたとはあるが、この唐櫃越をしたという記録はないし、明智光秀も『信長公記』には「老の山に上り」とありますから、やはり老の坂を越えたと考えるべきだと思っています。「大江山」とは現在の「大枝山」で、それこそ老の坂のことではないでしょうか。『太平記』に高氏の八幡宮出発時「二万余騎」とあるのはおおげさにしても、数千騎の可能性はあるので、唐櫃越は無理でしょう。本隊は老の坂、一部が唐櫃越はありえると思いますが。

4月1日といえば美川先生。

No.6166

 元木先生、週に二度もの大きなイベントの企画・実施、お疲れ様でした。ともに大成功で祝着至極です。
 私にとりまして、上横手先生の祝賀会には、出席させて頂いただけでも光栄であるのに、祝辞を述べさせて頂く機会も与えて下さり、恐縮の極みでした。また、御出席の数多の著名な先生方とも御挨拶の機会を得ることが出来、本当に感謝に堪えません。
 また、元木研究室の院生の方々の御活躍ぶりにも感心させられました。

 美川先生、唐櫃越の詳報、ありがとうございます。ひょっとすると、義経の率いた平家追討軍の一手も逆方向にその峠を越えたのではないでしょうか。

 しかしながら、美川先生の4月1日の書き込みというと、思い出されるのが2004年
>>No.1671
http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/yyregi.cgi?mode=past&pastlog=0004&page=70

それに2005年の>>No.3488
http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/yyregi.cgi?mode=past&pastlog=0007&page=20
でありましょう(>>No.3505も)。

 懐かしい方たちのお名前も出てまいりますし、この掲示板も当時の方が活気がありましたね。

たしかに昨日は4月1日

No.6168

野口先生。たしかに昨日は4月1日でした。
もう一度、お読みいただければ幸いです。

エイプリル フール

No.6171

 わかりません。降参です。

エイプリルフール

No.6172

唐櫃越をしていただければ、すぐわかります。是非とも。いひひひ。

ようやく解決。

No.6188

 美川先生
 なるほど、「もちろん信号」は無いわけですね。

 本日の御報告「二つの古道-東高野街道と唐櫃越-」、たいへん勉強になりました。
 ありがとうございました。
 東高野街道は在京武力の供給ルートだったようですね。