境界空間としての六条河原と船岡山
No.9625
「梅雨空の合間の日曜日。久しぶりに部屋の窓を大きく開けて・・・、と思ったら、ついに近所で大騒ぎをしながらのバーベキューが始まりました。こんなに密集した住宅街の狭い庭でバーベキューをしたら、周囲にどのような災厄がもたらされるのか、少し考えれば分かると思うのですが・・・。共生の難しい時代になってしまいました。」
ある親しい友人から、こんなメールが届きました。
さて、義朝や清盛による親族の処刑。ドラマに仕立てるには「情愛」が重視されるのでしょうが、政治的な評価、それに、なぜ親族が処刑を担ったのか、どうして処刑の場が京域の外側だったのか、そして日本の貴族社会では死刑は行われない風潮のあったこと等については、以下の文献を参照してください。
元木泰雄『河内源氏』p161~163
元木泰雄『平清盛と後白河院』p43~44
伊藤喜良「中世における天皇の呪術的権威とは何か」(『歴史評論』437)
上横手雅敬「天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36)p6~8
今週もコメント代わりの連載。もう6回目ですね
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第六回 なぞの武将墓
七条通を挟んで京都国立博物館の向かいにあるホテル、ハイアットリージェンシー京都は、一九七八年に建てられた京都パークホテルを改装したものです。このパークホテルの新築に際して、平安京の考古学的調査に先鞭をつけたことで知られる(財)古代学協会の手によって発掘調査が行われました。この地が後白河院の御所法住寺殿の一画を占めたことは既に述べたところですが、この調査ではその時代の武将のものと思われる墓が検出されました。ほぼ三㍍四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が見つかったのです。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられていましたが、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されています。
被葬者としては、当初、法住寺合戦で討死した院方の有力武士源光長が候補にあげらましたが、この合戦で院は木曽義仲に敗北し、討ち取られた武士の首は五条河原に晒されていますし、墓には堂が付属していたと見られことなどから、この説は否定されました。そこで私は、墓の南側が院の墓所として用意された空間であったことから、これを守護しうるような院の信頼あつい有力武士を被葬者と想定し、『源平盛衰記』等の記事と埋葬状態の整合などを傍証として治承三年(一一七九)に死んだ平重盛説を提示したのです(拙著『武家の棟梁の条件』中公新書)。ところが、その後、京都市埋蔵文化財研究所の上村和直氏が、出土した土器の年代から武将墓の築造時期を十三世紀前半に特定されたので、この説は成り立たなくなりました。(同研究所『研究紀要』九)。文献史学の立場から、新たに被葬者を見つけ出す必要が生ずる事態となったのです。
被葬者特定の手がかりとして、①この武将墓が院の墓所を守護するような位置にあること ②副葬された武器・武具が他に類例のない優品であること ③十三世紀前半の頃、人々が後白河院の霊をどのように意識していたか、などを考慮してみる必要があると思います。そのようなことを踏まえて、私は新しい説を古代学協会の会報『土車』第一二〇号に発表しました。今度こそ学界の承認を得たいところなのですが…。
ある親しい友人から、こんなメールが届きました。
さて、義朝や清盛による親族の処刑。ドラマに仕立てるには「情愛」が重視されるのでしょうが、政治的な評価、それに、なぜ親族が処刑を担ったのか、どうして処刑の場が京域の外側だったのか、そして日本の貴族社会では死刑は行われない風潮のあったこと等については、以下の文献を参照してください。
元木泰雄『河内源氏』p161~163
元木泰雄『平清盛と後白河院』p43~44
伊藤喜良「中世における天皇の呪術的権威とは何か」(『歴史評論』437)
上横手雅敬「天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36)p6~8
今週もコメント代わりの連載。もう6回目ですね
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第六回 なぞの武将墓
七条通を挟んで京都国立博物館の向かいにあるホテル、ハイアットリージェンシー京都は、一九七八年に建てられた京都パークホテルを改装したものです。このパークホテルの新築に際して、平安京の考古学的調査に先鞭をつけたことで知られる(財)古代学協会の手によって発掘調査が行われました。この地が後白河院の御所法住寺殿の一画を占めたことは既に述べたところですが、この調査ではその時代の武将のものと思われる墓が検出されました。ほぼ三㍍四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が見つかったのです。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられていましたが、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されています。
被葬者としては、当初、法住寺合戦で討死した院方の有力武士源光長が候補にあげらましたが、この合戦で院は木曽義仲に敗北し、討ち取られた武士の首は五条河原に晒されていますし、墓には堂が付属していたと見られことなどから、この説は否定されました。そこで私は、墓の南側が院の墓所として用意された空間であったことから、これを守護しうるような院の信頼あつい有力武士を被葬者と想定し、『源平盛衰記』等の記事と埋葬状態の整合などを傍証として治承三年(一一七九)に死んだ平重盛説を提示したのです(拙著『武家の棟梁の条件』中公新書)。ところが、その後、京都市埋蔵文化財研究所の上村和直氏が、出土した土器の年代から武将墓の築造時期を十三世紀前半に特定されたので、この説は成り立たなくなりました。(同研究所『研究紀要』九)。文献史学の立場から、新たに被葬者を見つけ出す必要が生ずる事態となったのです。
被葬者特定の手がかりとして、①この武将墓が院の墓所を守護するような位置にあること ②副葬された武器・武具が他に類例のない優品であること ③十三世紀前半の頃、人々が後白河院の霊をどのように意識していたか、などを考慮してみる必要があると思います。そのようなことを踏まえて、私は新しい説を古代学協会の会報『土車』第一二〇号に発表しました。今度こそ学界の承認を得たいところなのですが…。