西行きの新幹線で『西行』を読む。
No.9596
たしかに、歴史家にとって、「正確は義務であって、美徳ではない」のです(E.H.カー『歴史とは何か』参照)。
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第三回 後白河院の御所 法住寺殿
京阪七条駅を出ると、そこは七条通(七条大路末)と川端通の交差点です。信号を渡って七条通を東に五分ばかり歩くと、通りの北には国立博物館、南には三十三間堂があって、いつも観光客で賑わっています。十二世紀後半、この辺りから、南は大谷高校全域、東は本学にいたるエリアを占めたのが、後白河院(一一二七~九二)の御所であった法住寺殿(ほうじゅうじどの)です。博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていました。
法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻・建春門院滋子の御堂で、宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいましたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよいでしょう。
ちなみに「法住寺」とは、十世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、院御所としての「法住寺殿」の名の由来です。現在、三十三間堂の東側にある法住寺は、明治時代までは大興徳院と呼ばれていたお寺で、平安時代の法住寺とは直接の関係はありません。
法住寺殿で最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)は平清盛の手によって造営されましたが、鎌倉時代(一三世紀半ば)に焼失してしまいました。現存する建物は鎌倉幕府の負担によって再建されたものですが、これが法住寺殿の唯一の遺構と言えましょう。
次回からは、この法住寺殿を舞台にした事件や、ここにまつわる人々について語っていきたいと思います。
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☆ 広島大学の下向井龍彦先生より、御高論「承平六年の紀淑人と承平南海賊の平定-寺内・岡田両氏の研究に接して-」(『史学研究』274)を御恵送頂きました。
下向井先生に、あつく御礼を申し上げます。
☆ 髙橋昌明先生より、御高論「養和の飢饉、元暦の地震と鴨長明」(『文学』隔月刊13巻2号)・「平家政権の新しさ」(『歴史地理教育』788)を御恵送頂きました。
髙橋先生に、あつく御礼を申し上げます。
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第三回 後白河院の御所 法住寺殿
京阪七条駅を出ると、そこは七条通(七条大路末)と川端通の交差点です。信号を渡って七条通を東に五分ばかり歩くと、通りの北には国立博物館、南には三十三間堂があって、いつも観光客で賑わっています。十二世紀後半、この辺りから、南は大谷高校全域、東は本学にいたるエリアを占めたのが、後白河院(一一二七~九二)の御所であった法住寺殿(ほうじゅうじどの)です。博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていました。
法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻・建春門院滋子の御堂で、宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいましたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよいでしょう。
ちなみに「法住寺」とは、十世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、院御所としての「法住寺殿」の名の由来です。現在、三十三間堂の東側にある法住寺は、明治時代までは大興徳院と呼ばれていたお寺で、平安時代の法住寺とは直接の関係はありません。
法住寺殿で最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)は平清盛の手によって造営されましたが、鎌倉時代(一三世紀半ば)に焼失してしまいました。現存する建物は鎌倉幕府の負担によって再建されたものですが、これが法住寺殿の唯一の遺構と言えましょう。
次回からは、この法住寺殿を舞台にした事件や、ここにまつわる人々について語っていきたいと思います。
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☆ 広島大学の下向井龍彦先生より、御高論「承平六年の紀淑人と承平南海賊の平定-寺内・岡田両氏の研究に接して-」(『史学研究』274)を御恵送頂きました。
下向井先生に、あつく御礼を申し上げます。
☆ 髙橋昌明先生より、御高論「養和の飢饉、元暦の地震と鴨長明」(『文学』隔月刊13巻2号)・「平家政権の新しさ」(『歴史地理教育』788)を御恵送頂きました。
髙橋先生に、あつく御礼を申し上げます。