名著の効用
No.9552
元木先生の『平清盛と後白河院』(角川学芸出版)をお読みになって、胃痛が収まった方がおられるという情報を頂いております。
以下、お約束の拙文です。
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「平清盛と京都」 ② 六波羅と法住寺殿
法住寺殿の造営
平治の乱の結果、信西や藤原信頼らの近臣を失い、二条天皇と競合せざるを得ない立場に置かれた後白河院は、その権力基盤を平家に依存せざるをえなかった。院が平家の本拠である六波羅の南方に隣接する七条末・東山山麓の地に院御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営したのは、こうした政治的な事情に求められる。ちなみに「法住寺」とは、10世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、その名の由来である。
現在、豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の界隈は、いつも多くの観光客で賑わっているが、法住寺殿は、ここから、南は大谷高校にいたるエリアを占めていた。豊国神社や博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていた。
法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、院の御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で、御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻で、清盛の妻時子の妹にあたる建春門院滋子の御堂。宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよい。
重盛の小松殿
法住寺殿最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)が清盛の手によって造営されたことに象徴されるように、平家にとっても院と本拠の空間を隣接させることは、軍事権門として大きなメリットを期待できたものと思われる。
平家一門は六波羅に住んでいたのだから、法住寺殿の近くに宿所をもつ必要がなかったようにも思われるが、建春門院の猶子になっていた宗盛や、後白河院庁の別当に連なった重盛(清盛の嫡男)・頼盛(清盛の弟)は、ここにも宿所を設営していたらしい。
平家一門中最も後白河院と親密な関係にあり、『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の本邸「小松殿」は、祇園社西門前に至る車大路という南北路と六条大路の延長線から山科に抜ける間道である久々目路(苦集滅路・渋谷越・汁谷越)の交差点付近に所在していたと想定される(現在の馬町交差点のあたり)。ここは山麓の傾斜地であることや、間道と幹線道(六波羅は奈良方面からの幹線道である大和大路の終着点に位置する)の交差点付近という交通・軍事の要衝に位置する点において、福原の清盛別業に擬せられている祇園遺跡(神戸市兵庫区)や鎌倉の源義朝の居館「鎌倉之楯(たて)」(鎌倉市扇ヶ谷)と立地条件が類似しており、平家一門における重盛の軍事的役割をよく示しているように思われる。
法住寺殿の北限は六条末から南に1町(約120㍍)の左女牛小路末であるが、鴨川東岸・東山西麓という地理的環境は六波羅と同一で、両者を地形的に区画するものはなく、むしろ、六波羅の主郭部から南東に突出したところに位置した小松殿は両者を東の端で結びつけるような位置関係にあったのである。
院御所の転変
後白河院は、治承3年(1179)11月の清盛によるクーデターの結果、翌年の5月までは鳥羽殿(南区上鳥羽・伏見区下鳥羽周辺)、その後は福原や六波羅といった平家の本拠に置かれたが、養和元年(1181)正月、息子である高倉院が死に、さらにその翌々月に清盛が没して後白河院政が本格的に再開されると、もとのように法住寺殿に戻っている。しかし、寿永2年(1183)11月、木曾義仲が法住寺殿を襲撃して南殿に被害が及んだ後は、本邸を六条西洞院殿(六条殿)に定め、法住寺殿には精進や参籠あるいは法会のために域内の鎮守社・御願寺を訪れるばかりとなった。建久2年(1191)源頼朝によって新たな法住寺殿が造営されても、院はここにもどることはなく、その翌年3月、六条殿で死を迎えたのであった(66歳)。しかし、その遺骸は法住寺殿のエリアである「蓮華王院東法花堂」に葬られたことが確実な史料から明らかである。
なぞの武将墓
1978年、七条通を挟んだ京都国立博物館の向かいにホテルが新築されるに際して行われた考古学的な調査で、法住寺殿の時代に該当する地層から武将のものと思われる墓が見つかり、ほぼ三メートル四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が検出された。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられており、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されている。
この墓の被葬者について、かつて私は平重盛にその可能性を想定したことがある。しかし、考古学サイドの研究により、墓の築造時期が13世紀に下ることが判明したことで、その説は成り立たなくなった。
現在、最有力の候補と考えているのは、院近習の武士として活躍するとともに、最高の技術を持つ工人集団を従えて院の細工所別当を歴任した源仲兼(なかかね)ら宇多源氏の一族である。
(『京都民報』2012年2月19日付 より)
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☆ 名古屋学院大学の早川厚一先生より、御高論「源平闘諍録全釈(七-巻一上⑦(一一ウ6~一三オ4))」(『名古屋学院大学研究年報』24)・「『保元物語』『平治物語』合戦譚の検証」(『名古屋学院大学論集(言語・文化篇)』23-2)ならびに早川厚一・曽我良成・村井宏栄・橋本正俊・志立正知「『源平盛衰記』全釈(七-巻二-3)」(『名古屋学院大学論集(人文・自然科学篇)』48-2)を御恵送頂きました。
いずれも複数冊頂きましたので、ゼミ関係者で必要な方はお申し出下さい。
早川先生に、あつく御礼を申し上げます。
以下、お約束の拙文です。
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「平清盛と京都」 ② 六波羅と法住寺殿
法住寺殿の造営
平治の乱の結果、信西や藤原信頼らの近臣を失い、二条天皇と競合せざるを得ない立場に置かれた後白河院は、その権力基盤を平家に依存せざるをえなかった。院が平家の本拠である六波羅の南方に隣接する七条末・東山山麓の地に院御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営したのは、こうした政治的な事情に求められる。ちなみに「法住寺」とは、10世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、その名の由来である。
現在、豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の界隈は、いつも多くの観光客で賑わっているが、法住寺殿は、ここから、南は大谷高校にいたるエリアを占めていた。豊国神社や博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていた。
法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、院の御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で、御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻で、清盛の妻時子の妹にあたる建春門院滋子の御堂。宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよい。
重盛の小松殿
法住寺殿最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)が清盛の手によって造営されたことに象徴されるように、平家にとっても院と本拠の空間を隣接させることは、軍事権門として大きなメリットを期待できたものと思われる。
平家一門は六波羅に住んでいたのだから、法住寺殿の近くに宿所をもつ必要がなかったようにも思われるが、建春門院の猶子になっていた宗盛や、後白河院庁の別当に連なった重盛(清盛の嫡男)・頼盛(清盛の弟)は、ここにも宿所を設営していたらしい。
平家一門中最も後白河院と親密な関係にあり、『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の本邸「小松殿」は、祇園社西門前に至る車大路という南北路と六条大路の延長線から山科に抜ける間道である久々目路(苦集滅路・渋谷越・汁谷越)の交差点付近に所在していたと想定される(現在の馬町交差点のあたり)。ここは山麓の傾斜地であることや、間道と幹線道(六波羅は奈良方面からの幹線道である大和大路の終着点に位置する)の交差点付近という交通・軍事の要衝に位置する点において、福原の清盛別業に擬せられている祇園遺跡(神戸市兵庫区)や鎌倉の源義朝の居館「鎌倉之楯(たて)」(鎌倉市扇ヶ谷)と立地条件が類似しており、平家一門における重盛の軍事的役割をよく示しているように思われる。
法住寺殿の北限は六条末から南に1町(約120㍍)の左女牛小路末であるが、鴨川東岸・東山西麓という地理的環境は六波羅と同一で、両者を地形的に区画するものはなく、むしろ、六波羅の主郭部から南東に突出したところに位置した小松殿は両者を東の端で結びつけるような位置関係にあったのである。
院御所の転変
後白河院は、治承3年(1179)11月の清盛によるクーデターの結果、翌年の5月までは鳥羽殿(南区上鳥羽・伏見区下鳥羽周辺)、その後は福原や六波羅といった平家の本拠に置かれたが、養和元年(1181)正月、息子である高倉院が死に、さらにその翌々月に清盛が没して後白河院政が本格的に再開されると、もとのように法住寺殿に戻っている。しかし、寿永2年(1183)11月、木曾義仲が法住寺殿を襲撃して南殿に被害が及んだ後は、本邸を六条西洞院殿(六条殿)に定め、法住寺殿には精進や参籠あるいは法会のために域内の鎮守社・御願寺を訪れるばかりとなった。建久2年(1191)源頼朝によって新たな法住寺殿が造営されても、院はここにもどることはなく、その翌年3月、六条殿で死を迎えたのであった(66歳)。しかし、その遺骸は法住寺殿のエリアである「蓮華王院東法花堂」に葬られたことが確実な史料から明らかである。
なぞの武将墓
1978年、七条通を挟んだ京都国立博物館の向かいにホテルが新築されるに際して行われた考古学的な調査で、法住寺殿の時代に該当する地層から武将のものと思われる墓が見つかり、ほぼ三メートル四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が検出された。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられており、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されている。
この墓の被葬者について、かつて私は平重盛にその可能性を想定したことがある。しかし、考古学サイドの研究により、墓の築造時期が13世紀に下ることが判明したことで、その説は成り立たなくなった。
現在、最有力の候補と考えているのは、院近習の武士として活躍するとともに、最高の技術を持つ工人集団を従えて院の細工所別当を歴任した源仲兼(なかかね)ら宇多源氏の一族である。
(『京都民報』2012年2月19日付 より)
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☆ 名古屋学院大学の早川厚一先生より、御高論「源平闘諍録全釈(七-巻一上⑦(一一ウ6~一三オ4))」(『名古屋学院大学研究年報』24)・「『保元物語』『平治物語』合戦譚の検証」(『名古屋学院大学論集(言語・文化篇)』23-2)ならびに早川厚一・曽我良成・村井宏栄・橋本正俊・志立正知「『源平盛衰記』全釈(七-巻二-3)」(『名古屋学院大学論集(人文・自然科学篇)』48-2)を御恵送頂きました。
いずれも複数冊頂きましたので、ゼミ関係者で必要な方はお申し出下さい。
早川先生に、あつく御礼を申し上げます。