青年は荒野を目指し、老人は時頼を嫌う

No.7064

 昨日は出産のために帰郷される山田夫人(平田さん)が、わざわざ研究室に挨拶に来て下さいました。ほんとうに、もうすぐお母さんですね。
 何年か前、史学科の授業で「歴史学研究会の大会に行く人は?」との問いかけに、学部3回生だった平田さんが、ただ一人応じてくれたことが思い出されます。
 『吾妻鏡』講読会に参加するメンバーにケーキのお土産を頂戴しました。ご馳走様でした。

 新年度をひかえて、ゼミの古参メンバーから、異動・就職はもとより、新居購入(高級住宅地です)・学振採用などの情報が次々ともたらされております。
 こんな御時世だというのに、みんななかなか良くやっていると思います。あるいは、マスコミが騒ぎ立てるほど、世の中、そんなに悪い状態ではないのかも知れません。
 人生の新たな展開を期して、欧州(けっして「奧州」の誤りではありません)への旅立ちを決意した方もおられます。

 昨日の『吾妻鏡』講読会では、とても身につまされる記事に遭遇。建長六年閏五月一日条。私がこの場にいた御家人ならば「逐電、或令固辞」めていた一人。お酒で調子づいた北条時頼にはついていけませんね。
 今でも、このようなタイプの人が、いろいろな組織や集団で幅をきかせているケースが多いように思えます。

 なお、『紫苑』第8号、めでたく校了となりました。編集長の山本さんご苦労様でした。
 来月早々にも発送作業を開始したいと思います。お楽しみに!

 ☆ 成城大学の後藤昭雄先生より、科学研究費研究成果中間報告書『真言密教寺院に伝わる典籍の学際的研究-金剛寺本を中心に-』を御恵送頂きました。
 後藤先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 京都造形芸大の野村朋弘先生より、御高論「史料紹介『綱光公記』自文安五年八月一日至九月二十九日」(『史学研究集録』35)を御恵送頂きました。
 野村先生に、あつく御礼を申し上げます。

『紫苑』第8号校了&御家人はつらいよ

山本みなみ
No.7065

 昨日、無事『紫苑』第8号を校了することができました。あとは、来月初めの納品を待つばかりです。
 これも野口先生と執筆者の皆様のご協力のおかげです。お忙しい中、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
 私も納品を楽しみにしております。

 ところで野口先生も触れておられました建長六年閏五月一日条。読むにはとてもおもしろい記事でしたが、当の御家人たちは大変だったろうなと思いました。いきなり相撲をとらされ、勝者及び引き分けの者には褒美、敗者にはしっかり罰ゲーム?が用意されておりました。六試合中三試合が引き分けなのは互いに示し合わせていたからでしょうか?何れにせよ、御家人もいろいろと大変ですね。
 特に『吾妻鏡』第四巻は新しい発見や考えさせられることが多々あり、読んでいて楽しいです。

新年度目前の『吾妻鏡』

No.7066

 慌ただしく2009年度が暮れようとしておりますが、その仕上げとなる『紫苑』第8号は出来上がりがとても楽しみです。
 その『紫苑』第8号はまだ出来上がりませんが、次回の火曜日の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2010年3月30日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長六年(1254年)十一月十六日・十七日・二十一日、十二月一日・十二日・十七日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日の各条
    建長八年(康元元年、1256年)正月四日・五日・十日・十二日・十四日・十六日・十七日、三月十一日・十六日・二十七日・三十日、四月十日・十三日・十四日・二十七日・二十九日、六月二日・五日・七日・二十七日、七月六日・十七日・二十六日、八月十一日・十五日・十六日・二十日・二十三日、九月三十日、十月二日・三日・九日、十一月二日・二十二日・二十三日・二十四日・二十六日・二十八日、十二月十一日・二十日・二十五日、
    康元二年(正嘉元年、1257年)正月十三日・二十五日、二月二日・二十六日、三月二日、閏三月二日、四月七日・九日・十四日・十五日、五月二十二日、六月十四日・二十三日・二十四日、七月十日・十二日、八月十二日・十四日・十五日・十七日・十八日・二十一日・二十三日・二十五日・二十八日、九月十六日・二十四日・三十日、十月一日・十三日・十六日・二十六日、十一月八日・十六日・十七日・二十三日、十二月六日・二十四日・二十九日、の各条

ああせい、校正。そうさ、黄砂。

No.7057

 天気予報では晴なのに、ちっとも日が差さないではないかと思っていたら、原因は黄砂でした。車は汚れるし、洗車も大変です。
 もっとも、私は鹿児島の「はい」ソサエティーで暮らした経験がありますから、こんな程度では驚きません。
 そんなことを言っていたら、なにやら桜島が懐かしくなって参りました。

 昨日は、「ちょっと」という気分で奈良に出掛けたのですが、国道24号線は大渋滞。それもそのはず、三連休の初日で、平城京はブームですし、初夏のような陽気。「ちょっと」という訳にはいかなかったのですが、久方ぶりに東大寺を歩き、柿の葉寿司を買って帰りました。

 東大寺は高校の修学旅行以来、大学の研修旅行など、何度も訪れているのですが、南大門から大仏殿に向かう参道の喧噪はいつもどうり。しかし、ここを楽しそうに歩いている人たちのほとんどは、あの修学旅行の頃には影も形もなかったのだと思うと、実に不思議な気持ちになります。
 まさに「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。
 このところ、諸行無常を実感すること、ただならぬものがございます。

 私は疲れ果てて、そんな感懐にばかりふけっておりますが、50歳になっても未だ若々しいある先生は、こんなお写真を添えたメッセージをのこして欧州に旅立たれ、
   http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2010/03/post-226c.html
また、ある若手研究者は長年の研鑽を経て、ついに博士論文を提出されたとのこと。
 充実した春を過ごされているようで、羨ましい限りであります。

 ☆ 身延山大学の長又高夫先生より、御高論「鎌倉幕府成立論」(『身延論叢』14)を御恵送頂きました。法制史の立場から鎌倉幕府の成立について研究史を整理され、適切なコメント(卓見)を加えられた好論です。ゼミメンバーにも一読をお勧めいたします。
 長又先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 駒場東邦中学・高校の田中大喜先生より、御高論「惣領職の成立と「職」の変質」(『歴史学研究』851)・「入間河公方府と武蔵国一揆」(『南北朝遺文』月報3)・「鎌倉~南北朝期の在地領主組織における被官の位相」(『鎌倉遺文研究』24)・「偽文書に記された「惣領職」」(『日本歴史』742)を御恵送頂きました。
 惣領職の出現は、武士社会における嫡家正統説話の形成と時期的にオーバーラップするように思え、武士論のみならず、軍記研究の側面からも見逃せない御研究だと思いました。
 田中先生にあつく御礼を申し上げます。 

『草燃える』で『今夜は最高』

No.7056

 本日、『紫苑』の三校ゲラが届きました。さっそく、山本編集長が執筆者宛に速達で送付してくれましたので、明日には必ず到着するはずです。執筆者は御確認の上、早々にお戻し下さい。23日(火)に印刷屋さんに渡します。これで、責了としたいので宜しく。
 
 『紫苑』も順調に進んでいる。某論文集に掲載する拙論の初校ゲラの控のコピーをとって、やれやれと思って帰宅してみると、別の論文集掲載の再校ゲラが届いておりました。
 いつまで続く校正の日々・・・。

 そのむかし、日本テレビでタモリ出演の『今夜は最高』という番組がありましたが、そのようなわけで、「今夜は再校」なのであります。
 しかし、このゲラは編集者の内校がしっかりなされていて有り難い。 

 ちなみに、前者の論文集には、短いものながら、長村君と岩田君の論文も掲載されることになっています。
 御両人、校正は済まされましたかな?

 『草燃える』のDVDは山本さんにもお貸ししましたが、あまりに面白いので、石橋山の合戦からの5話を一挙に視聴してしまったそうです。
 岩田君、23日にDVDを交換してあげて下さいね。

 『草燃える』。芸能通の元木先生のお話しを、是非とも伺いたいものであります。

Re: 『草燃える』で『今夜は最高』

元木泰雄
No.7058

 お久しぶりです。野口先生のお招きに応じて出てまいりました。

 年度末の繁忙に加え、学内で都合6種類の委員をこなし、神戸市史の中世編全体の校正(監修)、さらには三田市史等々の業務に加え、連日の飲み会をこなすうちに、風邪をこじらせ、ひどい咳で声が出なくなり、委細かまわず業務を続けた(そうせざるを得なかったのですが)ら、肺炎になり、おまけに左肩が動かなくなり、それでも仕事をし続けたら、薬の効果もあって快方に向かったのですが、今でも依然37度前後の微熱(電子体温計の誤作動?)と全身倦怠が続く毎日です。
 それでもビールがうまく感じるのですから、まあ死にはしないでしょう(笑)。

 それはともかく、『草燃える』は、1979年の大河ドラマ、あの年はまだ当方も25歳!そんな年があったのですな。「平安後期の侍所」と題した修論執筆に励んでいたのが懐かしく思い起こされます。
 岩下志麻の政子、のちの「ゴクツマ」を彷彿とさせる貫禄の演技でした。当時まだ30代ですから、さすが大物です。ちなみに彼女は10代のころ、世界の小津安二郎監督や大スターを待たせて、悠然と撮影所に乗り込んだとか。大物ぶりは本性かも知れません。
 石坂浩二の頼朝、いかにも頼りなく、少し好色な感じ(これは地でしょうか)で、『源義経』(66年)の芥川比呂志、『新平家』(72年)の高橋幸治といった、それまでの怖い頼朝像を一変させた感がありました。それでも、「だんだん神護寺の絵に似てきたやないか」と上横手先生がおっしゃられたことが思い出されます。

 一番印象に残るのは、やはり時政の金田龍之介ですね。巨漢で、コミカルな一方で迫力もあり、まさに時政像を定着させた感があります。しかし、本来の時政役には、東映時代劇の悪役山形勲が予定されていたのですが、彼の急病で、清盛役の金田と交代したはずです。山形も名優で、吉良上野介等貫禄がある悪役を得意とする(どういうわけかもう70が来ているのに『水戸黄門』で、長いこと憎たらしい柳沢容保を演じておりました)一方、映画『不毛地帯』で近畿商事の社長を少しコミカルに演じていましたから、金田よりやや堅めですがそれなりの時政を演じたのではないでしょうか。
 ちなみに清盛役は、金子信雄に変更でした。これはやくざの親分みたいな清盛でした。
 もう一人印象に残るのは、冷徹で知的に描かれた梶原景時。幕府創設の影の主役という役割を与えられておりました。インテリ役を得意とした名優江原真二郎が見事に演じておりました。亡くなられた熱田公先生が「あれは立派やね」と絶賛しておられたのが思い出されます。滅亡の時の鬼気迫る演技は見ものです。
 その景時に切り殺される上総介広常は、悪役の小松方正。石母田流の解釈による「バーバリアン」として描かれていましたが、ちょっとやりすぎの演出ではないかと思いました。いかがでしょうか?

 後半では、頼家の郷ひろみもなかなかの名演。岩下志麻の夫篠田正浩監督が、彼を『瀬戸内少年野球団』などの大作の主人公に起用したのもむべなるかな。また「実朝像」を見て、よく似ているとひそかに思っていた篠田三郎が、まさにその役に起用されたのには笑いました。誰しも同じことを考えるようです。

 今では考えられないのは、後白河・後鳥羽院の描き方です。歌舞伎の大スター尾上松緑演ずる後白河は、当たり障りない描き方に終始したこの前の『義経』異なり、いかにも「都の大天狗」と呼ばれるにふさわしい権謀術数の主と描かれていました。松緑の子辰之助演じる後鳥羽は、奇怪な人物をはべらせ、亀菊(役の上では違う名前になっていましたが)の色香に迷う愚かな帝王として描かれておりました。その後鳥羽を演じた辰之助は、1987年に父松緑に先立って40歳の若さで夭折しております(大酒が原因とか。他人事ではありません)。『太平記』で後醍醐天皇を演じた片岡孝夫も出演後、重い肺の疾患にかかっており、あたかも不幸な天皇を演じると祟りがあるような感がありました。もっとも、『新平家』で崇徳を演じた田村正和はいたって元気ですから、あまり関係はないようですな。
 亀菊役は美人女優として絶頂期にあった松坂慶子。確かに魅力的ではありました。後鳥羽がうつつを抜かすのもやむを得ないか?ちなみに彼女は、ドラマの前半では伊藤祐親の娘で、義時に愛されながら頼朝の落胤をもうけ、平家の女官となって壇ノ浦で死ぬという役も演じておりました。どういうわけか、その落胤を義時が養育し、泰時になるという設定だったと思います。
 真野響子の阿波局が、現代語で喋りまくって違和感があったこと、間抜けな藤原定家が登場し、冷泉家から抗議が出そうな気がしたことなど、懐かしく思い起こされます。

 あの頃は、天皇制タブーを打破り、最新の学説を踏まえた演出が行われ、俳優の名演技と相まって、本当に風格のあるドラマになっていましたね。
 大河ドラマの質も、日本の品格も、当方の体力もみんなどん底に転がり落ちたようで・・・

大河ドラマにおける「東国武士」の評価

No.7059

 元木先生、御寄稿ありがとうございました。
 昨日は、関学の方たちを引率して神戸の平家関連の史跡を回られたとのこと。お疲れのところ、恐縮に存じました。

 元木先生の強靱な体力にはいつも驚かされておりますが、鶴岡八幡宮の大銀杏のようなこともありますから(例として相応しいか疑問ですが、私が「柳」であるとすれば)、くれぐれも御身お大事に、お願い申しあげます。

 さて、『草燃える』でありますが、松坂慶子は全編を通して二人の役を演じており、はじめは大庭景親の娘として登場していました。ドラマの設定では中宮の徳子に仕えておりましたが、これは、当時の東国武士の子弟のみならず、子女も京都に出仕していた事実と整合しております。一方、最近の大河ドラマ『義経』では、政子の一人称が「おれ」であるなど、北条氏も京都文化から隔絶した「土豪」的イメージで描かれていました。大河ドラマの質の低下と、一般の歴史理解の劣化との相関がよく理解できる一例かとも思われます。

 ともあれ、この『草燃える』は、日頃『吾妻鏡』や『玉葉』・『明月記』に親しんでいる者にとっては、古くからの知己がテレビの画面に登場する趣があって、面白くてたまらないと思います。

 ※ 『紫苑』の三校のゲラは明日、印刷屋さんにお渡しいたしますので、執筆者は昼過ぎまでに確実に編集長までお届け下さい。 

失礼致しました。

元木泰雄
No.7060

 野口先生、レスを有難うございました。
 松坂慶子の女官は大庭景親の娘でしたか。まったくの記憶違いでした。申し訳ありません。
 東国武士の娘が、京で女官になる、東国武士自身が上洛するという、東国と京の交流が当然のこととして描かれておりましたね。
 ただ、広常の描き方などをみると、貴族と武士を峻別し、武士が京を忌避するという領主制論が強い影響を与えていたこともわかります。
 いずれにせよ、学問に対する敬意が根底にあったのは疑いようもないと思います。
 91年の『太平記』を境に、大河ドラマの制作姿勢が極端に変化したのには、何か裏があったのかもしれません。あの頃からバブルに浮かれて国民の知能が急激に劣化したとか・・・?

 昨日は、不調でダウンし、見学会も延期致しました。
 いよいよ銀杏の木ですな。 

小松方正の演じた上総広常と京都嫌い。

No.7061

 元木先生、お大事になさって下さい。
 銀杏に例えるなら、先生の落とされたギンナンを研究の糧にしているのは私ばかりではございません。
 
 それにしても、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのは、鎌倉ゼミ旅行直後のことで驚きました。私は自分の胃腸の方が心配で、あの大銀杏のことは気にもとめていませんでしたが、さすがに初めて鎌倉を訪れた山本みなみさんは、しっかりと写真におさめられておりました。なにか象徴的なことのように思っております。

 ところで、『草燃える』の上総介広常。まったく元木先生の仰せのとおりだと思います。小松方正の演じる広常は、まさに「むくつけき東夷」そのもの。あの、「朝家のことをのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かはひきはたらかさん」という『愚管抄』の一節が戦後歴史学では拡大評価されてしまったわけですね。
 『草燃える』放送当時の私も領主制論の信奉者でしたが、あの広常には絶句を余儀なくされたことを覚えております。

 『愚管抄』の記事がそのままには受け取れないことについての私見は、手っ取り早いところで、『源氏と坂東武士』P167以下を御参照下さい。

 しかし、今でも東国武士好きな方の中には、当時の東国武士よりも偏狭な、京都嫌いの「東国独立論者」みたいな方がおられて、閉口することがございます(笑)。
 当時の京都は、今の東京のようなもので、居住者は地方出身者の寄り合い所帯の側面が大きく、それが首都たる所以というものだと思うのですが。

 また、私の昔の話ですが、大学院生の頃に学習塾でアルバイトをしていた千葉県市川市国分には、「小松縫製」という会社があり、バスに乗って「こまつほうせい前」というアナウンスを聞くたびに個性的な俳優である小松方正氏を思い出しておりました。  

公開講座「京・六波羅と鎌倉」の御案内

No.7052

 昨日から本日にかけて、連載原稿一本と校正一件を終わらせることが出来ました(お待たせ続けている原稿はさておき、差し迫った校正は、まだ2件のこっていますが)。
 そこで、ようやく新年度公開講座の御案内を書き込みます。

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    ◇ 2010年度宗教・文化研究所公開講座 ◇ 
   「東山から発信する京都の歴史と文化 ⑫ 「京・六波羅と鎌倉」」

  日時   2010年6月26日(土) 13:00~17:00

  会場    京都女子大学 J校舎525教室(予定、変更の可能性あり)

  講演①  「考古学からみた鎌倉北条氏 -伊豆から鎌倉への足跡-」
        池谷初恵(静岡県伊豆の国市教育委員会,考古学)

  講演②  「北条氏一族女性の在京生活-六波羅探題金沢貞顕の周辺-」
        福島金治(愛知学院大学文学部教授,日本中世史)

  司会    野口 実(本学宗教・文化研究所教授)

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 2010年度は、北条氏の存在形態を通して、平安末期から鎌倉時代における京都と東国(鎌倉)の関係について考える機会にしたいと思っています。
 これまでと同様、ゼミメンバー・関係者の御協力を御願いいたします。

 岩田慎平君と長村祥知君が遠征発表される次回の中世戦記研究会ですが、5月8日(土)に開催されることになりました。会場は学習院大学の予定ですが変更の可能性もあるということです。長村君の報告テーマは、
 「北条義時追討計画と伝奏葉室光親―承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨―」(仮)
 岩田君は「小鹿島橘氏」に関するものだそうです。
 当ゼミからは常連の藪本君も出席されるはずですので、当ゼミメンバー・関係者で少しでも軍記研究に関心をお持ちの方は、ぜひご参加下さい。
 中世文学の著名な先生方や東京で御活躍の日本中世史の若手研究者とお目にかかることの出来るまたとない機会になると思います。

 ※ 冷泉家展の招待券ですが、続々と申し込みを頂いております(もちろん広島からも)。のこり少々なのでお早めに。

古くて新しい『吾妻鏡』

No.7054

 前回(昨日)のご案内は、なぜか自宅のパソコンから投稿できなかったため掲出できず申し訳ありませんでした。その昨日の『吾妻鏡』の時間は、条文を読みながらいろいろと現代的(現実的)な話題にまで及びました。考えさせられることは多いですね。
 次回の火曜日の『吾妻鏡』は以下の通りです。

 日時:2010年3月23日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長六年(1254年)正月十日、二月十二日・二十日・二十四日、三月十二日・十六日・二十日、四月十八日・二十七日・二十九日、五月一日・五日、閏五月一日・五日・十一日、六月三日・十五日・二十五日、十月二日・六日・十日・十二日・十七日、十一月十六日・十七日・二十一日、十二月一日・十二日・十七日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日の各条

 *野口先生よりお借りした大河ドラマ『草燃える』のDVDを少し拝見しました。まだ一話だけですが、武田鉄矢さんの藤九郎盛長が妙に印象的でした。このあとの話も楽しみです。

北条政子は岩下志麻。

No.7055

 岩田君の書き込みに【不正投稿です】というような表示が出るようでは、いよいよ私の独占排他的な状態(世の人々の一部は、この掲示板をブログと誤解しています)が継続してしまうのでは、と危惧していたのですが、復旧されたようで幸いでした。


 『草燃える』のDVDは高校以来の親友の寄贈によるものです。
 千葉常胤や上総広常も登場しますから、大喜びだったはずなのですが、放送されたのはちょうど私が高校に就職した年(1979年)でしたから、じっくり視聴する余裕がありませんでした。

 今見てみると、さすがに永井路子氏の原作だけあって、脚本に『吾妻鏡』の文言がそのまま使われていたりしますし、一応今から40年ほど前の日本中世史学界の共通認識(領主制論的な武士論)を前提にして、フィクションを交えつつも丁寧に作られた作品だと思います(監修は近藤好和先生の御師匠である鈴木敬三氏)。
 したがって、『吾妻鏡』講読の教材にも使えます。山本さんをはじめ現2回生は、大いに楽しめることでしょう。

 それにしても、当時のNHKが全作品をビデオとして保存していなかったという話には驚かされました。研究者が「口頭報告でおしまい」みたいな話で、潔いことこの上ありません。
 視聴者の録画したものだから、画質が悪く残念なのですが、よくぞのこしてくれたと感謝すべきでありましょう。

 当然ながら出演者も若い。北条時政は美川先生の御親戚である金田龍之介が演じていて、私はとても気に入っています。ミネルヴァ日本評伝選はこのイメージで書いてしまいそうです。
 北条義時役の松平健も、この頃はまだ痩身の青年で、どことなく米澤君に似たところがある。米澤君もこれから将軍に就任して暴れ回り、やがてレレレのオジさんになるのかも知れませんね(笑)。


 ところで、先に3月12日を出張講義の吉日と書きましたが、それは記憶違いで、島根県立出雲高校にお邪魔したのは、2005年の3月18日のことでありました。訂正致します。

 昨日は一日がかりで校正。
 どうしても書き加えなければならないことがある一方で、編集者の方からの行数削減の要請にお応えしなければならず、なかなか充実した作業でした。

日本史講座・冷泉家展の案内と連絡など

No.7051

 今日は京都女子大学の卒業式の日です。式は3回に分けて行われますが、私は文学部・現代社会学部の式に出席してきました。

 当ゼミ関係では、大谷さんが目出度く大学院博士前期課程を修了。
 その(粋な赤い振り袖姿の)大谷さんから、『紫苑』再校ゲラをお預かりいたしました。修論も40枚程度にまとめ直して活字化をはかられるとのことです。

 ところで、しばし失念いたしておりましたが、2010年度春期ラボール学園日本史講座の受講受付が始まりました。講座内容については、↓を御覧下さい。
 http://www.labor.or.jp/gakuen/kouza_school/school_2010haru.html   
 ひろく受講をお勧めする次第です。

 それから、当ゼミメンバー・関係者のためにということで「冷泉家 王朝の和歌守展」
        http://www.asahi.com/reizei/
の招待券を頂いております。必要な方はお知らせ下さい。もちろん数に限りがありますからお早めに。
 >広島の江波さん お送りしましょうか?

 6月の公開講座の講演テーマなども既に決まっているのですが、お知らせはあらためて。

 ※ なにしろ、原稿やら校正やらで忙しくてたまりません。
 しかし、詳しくは書きませんが、結局徒労となるような仕儀に陥らされるようなこともあり、いささか腹を立てております。
 そのような次第で、本日は、せっかくのお招きにお応えすることが出来ず申し訳ありません。

富岡西高校の出張講義から戻りました。

No.7050

 まず、岩田君からの御連絡です。
 次回の火曜日の『吾妻鏡』。 3/16(火)14:00~共同研究室にて。
 範囲は建長五年九月十六日条より。

 この日は『紫苑』の再校返しも予定されていましたね。

 さきほど、徳島から帰って参りました。高速バスを利用したのですが、始発の段階で15分遅れており、さらに夕刻の渋滞に巻き込まれて高速舞子に30分ほどの延着でした。
 舞子から乗った快速電車がいつもより、とりわけ軽快に感じられた次第です。

 もう昨日のことになってしまいましたが、徳島では、阿南市にある県立富岡西高校で出張講義を行ってきました。たしか数年前には同じ3月12日に島根県立出雲高校で出張講義をしたように記憶します。あの時、私の話を聞いてくれた生徒さん(もう今年で大学4年生になりますが)とは今でも親交があり、そのお友達までがゼミに参加してくれたりしていますから、3月12日は出張講義の吉日なのです。
 「地理・哲学・歴史」に関心を持つ1・2年生が対象で、受講者の数は少なかったのですが、じつに熱心に聴いてくれました。

 この富岡西高校は、地元では知られた名門の学校で、卒業生には政治家の後藤田正晴氏などがいます。また、今から20数年前、関西テレビの「お天気おじさん」として一世を風靡した福井敏雄氏もこの学校の出身だそうです。福井さんの天気予報はほんとうに楽しかった。あの頃、福井さんの天気予報を見ることが出来たのは、京都に引っ越したメリットの一つでした。

 徳島を旅行できたことで、平家の家人田口成良や西光を生んだ阿波の在庁官人近藤氏についての理解が深まりました。山下知之「阿波国における成立と展開」・野中寛文「阿波民部大夫成良」・五味文彦「阿波民部大夫と六条尼御前」といった論文を現地で読むと、よ~く分かる。
 屋島を攻撃すべき源義経が、なぜ阿波の勝浦に上陸したのかということも、よ~く理解することが出来ました。彼はやはり軍略家として素晴らしい才能の持ち主だったと思いました。 
 
 しかし、家に戻ると、たくさんの「催促」ないしは「お誘い」のメールが届いていました。
 15日締切の原稿が間に合うかどうかの瀬戸際という状況ですので、どれだけお応えできるか分かりませんが、可及的速やかに少しずつ対応させて頂きたいと思いますので、御返信は、しばしお待ち頂きたくお願い申しあげる次第です。
 正直、結構疲れております。

無理やり一件落着

No.7049

 あまりにも仕事がたまり過ぎてしまいましたので、本日は研究会を欠席させて頂いて、机に向かっております。校正一件を終わらせましたが、校正というのは、ほんとうに完全に出来ているか分からないという強迫観念に駆られて、なかなか終わることのできない作業です。
 したがって、今回は強制終了。

 大切な研究会は欠席するし、ようやく書き上げた論文の校正には完璧をつくさない、というような有様では、一体何のために生きているのか分からないと思うのではありますが。なにしろ、時間と体力がたいへん不足しております。
 しかし、明日はまた海外出張に出掛けます(・・・・・四国です!)。

 昨日は印刷屋さんから『紫苑』の再校ゲラを受け取りました。ゼミ講読会には執筆者全員が顔を揃えておられましたので、山本編集長の裁断で、即、一週間でゲラを戻すことが決定。
 鎌倉旅行の写真も岩田君と山本さんの分は研究室PCに記録することが出来ました。

 ちょうどこの頃、拙宅には鈴木御夫妻が来て下さって、PCにメモリーの増設をして下さいました。おかげで、作業がスムースになり、助かっています。ありがとうございました。
 ちなみに、鈴木夫人(もと永富さん)は、4月から宇治市内の有名私立高校に勤務されることになったとのことです。就職難の御時世が嘘のようで、流石だと思います。

 ☆ 先般、共同研究員の畠山誠先生と実施した磐田市・森町の調査の際に大変お世話になった森町教育委員会の北嶋恵介先生より、森町教育委員会による町域所在遺跡の発掘調査報告書2冊と磐田市教育委員会による『見附城端遺跡調査報告書』コピー、小国神社のパンフレットなどの資料を御恵送頂きました。今回の調査地点を記した詳細な地図も同封して下さり、とても助かります。
 北嶋先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 秋田大学の志立正知先生より、御高論「『平家物語』の〈終わり〉を読む-盛衰記における断絶平家記事の欠落-」(『国文学 解釈と鑑賞』第75巻第3号)と田嶋一夫・佐倉由泰・志立正知「シンポジウム〈日本〉像の再検討-〈東北〉を視座に-」(『説話文学研究』44号)を御恵送頂きました。
 志立先生にあつく御礼を申し上げます。
 
 そういえば、今年の軍記・語り物研究会の大会は秋田大学で開催されるとのこと。当方のゼミでも懸案の平泉旅行の実現が取り沙汰されております。

伝説のドタバタ娘&女性史総合研究会

No.7048

 >大谷さん
  すでに岩田君が書き込んでくれたように、明日の午後はゼミがありますから、山本さんも私も14時からは共同研究室におります。
 伝説の「ドタバタ娘」。なるほど、さすがは文学が御専攻のF先生。適切な(失礼!)ネーミングだと思いました(笑)。
 でも、ドタバタがうまく回れば、伝説の「大研究者」になれるのではないでしょうか。
 期待に応えて頑張ってください。

 大谷さんのよくご存じの方が研究報告をされる研究会の紹介です。
 近世・近代の女性に感心のある方や、『小右記』講読会に参加されている当ゼミメンバーは、ぜひ、行ってみてください。

    ◆ 女性史総合研究会 3月(第152回)例会の御案内 ◆

 日 時:   3月13日(土) 13:30~17:00

 場 所:   滋賀大学大津サテライトプラザ

 報 告:   伊藤麻祐子氏「近世後期の上層商家における妻役割」
  
        水田ひろみ氏「王朝物語における「細殿」―「細殿」に生きる女性たち―」

波多野氏と千葉氏の本拠を歩いてきました

No.7045

 先ほど、波多野氏の本拠と千葉氏の本拠の空間を考えるための調査旅行から戻って参りました。波多野氏は学生時代以来、関心を深めていた存在なのですが、その本拠の現地調査には赴いたことがなく、大いに気にしていたのですが、ようやく念願を達することが出来ました。

 一方、千葉は生まれ故郷であり、千葉氏の存在が私を歴史学の世界に誘ってくれたところなのですが、その本拠の空間については最近、千葉市教委の簗瀬裕一先生が新たな研究を示されており、もう一度取り組んでみたいと考えておりました。

 昨日(5日)は秦野(金剛寺・伝源実朝首塚・東田原中丸遺跡・金蔵院・桜土手古墳展示館)、本日(6日)は千葉(宝幢院・香取神社・大日寺跡・八坂神社・北総天満宮・本円寺・本敬寺・千葉氏居館跡候補地)を回ってきました。

 波多野氏の居館跡と目される東田原中丸遺跡の周辺は、未だに中世の風情を遺しており、近年、考古学的な調査が精力的に進められているところです。伊豆の国市教委の池谷先生に御紹介頂いた桜土手古墳展示館で発掘報告書も入手して参りました。
 拝読してみて、文献史学の成果がまだ十分に吸収・反映されていないのが少し残念に思えました。鎌倉幕府成立以前の波多野氏の存在形態は、従来の武士認識を克服する上で重要な事実を提供してくれるものなので、今後の調査と研究の進展に期待したいと思います。

 それにしても、昨日はとても暑く、歩くのが大変で、一部タクシーのお世話にもならざるをえませんでした(これを堕落というなかれ)。ちなみに、小田急線に乗ったのは久しぶりのこと。新宿に着いたとき、学生時代の、あの西口広場の喧噪が待ち受けているような錯覚に囚われました。「友よ~!」

 初夏のような昨日の陽気に反して、本日の千葉は雨と寒さの中を傘を差しながらの調査と相なりました。この辺りは、小学生時代によく歩いたところなのですが、その変貌ぶりには唖然とするばかり。50年でこれですから、800年以上前を探るのは大変なことだと思いました。
 これらの成果は、いずれ何らかの形で発表の機会を得たいと思っています。

 旅行中も校正作業を続けておりましたが、帰宅するとまた一件届いておりました。こうなると、もう「校正地獄」です。


 ☆ 広島大学の渡邊誠先生より、御高論「鞆の浦の伝承と信仰-平家伝説・福禅寺縁起と熊野信仰-」掲載の『芸備地方史研究』第268・269号を御恵送頂きました。渡邊先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 東京大学史料編纂所の高橋慎一朗先生より、新刊の御高著『中世都市の力 京・鎌倉と寺社』(高志書院選書)を御恵送頂きました。高橋先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 愛媛大学の寺内浩先生より、御高論「九世紀の地方軍制と健児」(栄原永遠男ほか編『律令国家史論集』塙書房)・「九世紀地方軍制の一考察」(『愛媛大学法文学論集 人文科学編』第28号)・「伊予守藤原知章と静真・皇慶-『今昔物語集』巻一五-一五説話の基礎的研究-」(愛媛大学人文学会『人文学論叢』第11号)を御恵送頂きました。寺内先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 日本放送出版協会の石浜哲士さんから、編集を担当された松尾剛次著『親鸞再考 僧にあらず、俗にあらず』(NHKブックス)を御恵送頂きました。石浜さんにあつく御礼を申し上げます。

津波警報の日に巨福呂坂の雨中行軍※

No.7040

 昨夜、ゼミ旅行から帰ってきました。現地解散だったので、まだ伊豆方面を旅行中の方や郷里に帰省した方もおられますが、まぁ、一段落。私はすっかり疲れ果てて、またしても耄碌を実感しております。
 それにしても、帰ってきたら校正2件のほか、授業評価アンケートに対する所見執筆等々の近日締切厳守の仕事がいくつも待ち構えており、次の調査出張の準備など、とてもしている暇は無いようです。
 しかし、せめてゼミ旅行の記録は残しておく必要がありますから、ここに報告書に記した程度のことは記録しておきたいと思います。なお、参加者諸姉兄の追記を期待しています(どなたか『紫苑』の次々号に旅行記を書いて下さいね!)。


 2月27日(土)。江ノ電藤沢駅に集合。参加者は当初予定の10名のほか、学習院大学大学院の伊藤さんが、この日のみ参加。見学先は、稲村ヶ崎・極楽寺・御霊神社・高徳院(大仏)・光則寺・長谷観音・甘縄神明社・妙本寺。江ノ電の一日乗車券を利用しましたが、京都と打って変わっての寒さの中をほとんど徒歩で移動しました。途中、御霊神社近くで名物の「力餅」を食べたので少しばかり元気がでました。
 妙本寺境内の竹御所の遺跡を見る頃にはすっかり暗くなったので、鎌倉駅近くで解散して夕食をとり、それから藤沢に戻って宿泊。

 28日(日)。JRにて北鎌倉駅に出て、以後徒歩にて移動。見学先は、円覚寺・東慶寺・浄智寺・明月院・建長寺・鶴岡八幡宮・(一時解散して昼食)・大倉幕府跡・源頼朝法華堂跡・北条義時法華堂跡・荏柄天神・永福寺跡・鎌倉宮・勝長寿院跡・宝戒寺・若宮大路幕府跡・宇都宮辻子幕府跡など。午前はとても寒く、しかも雨。靴下までずぶ濡れになる者多数。午後は天候が回復。
 チリの地震による津波の警報で江ノ電が止まっていたため、JRで藤沢に戻り、懇親会。宿舎への帰途、ある「光景」を目にした藪本君・米澤君が「ハーメルンの笛吹き男」について議論すること有り。

 3月1日(月)午前、鎌倉に出て、寿福寺・浄光明寺・相馬師常墓所・いわや堂を見学の後、鎌倉駅前にて解散。この後、岩田君以下、院生中心のメンバーはレンタカーを駆って、三浦半島を席捲したとの情報有り。

 鎌倉幕府の公的歴史書である『吾妻鏡』の講読に際して、鎌倉の空間の地理的認識は不可欠だと思いますが、今回の旅行で実際に脚で確かめることが出来たことは、今後のゼミ活動に大きなプラスになったものと思われます。もちろん親睦の効果も甚だ大きかったはずです。

 ※ 前回の鎌倉ゼミ旅行の(結果的な)テーマは「称名寺裏山死の行進」でした(笑)。 

笛吹けど踊らず

No.7041

 鎌倉のゼミ旅行にご参加いただきましたみなさん、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。冷たい雨や津波など、天候に恵まれたとは言えませんが、それでもみなさんのおかげで充分に実りある楽しい見学旅行ができたと思います。

 日程と行路は野口先生からご紹介いただいたとおりです。今回はとくに「どこに何があって、どこから何が見えるか」といったことに注意しながら歩いた見学旅行となったように思います。そういった意味では、稲村ヶ崎・極楽寺坂・長谷寺・円覚寺など比較的高くて見晴らしが良い場所からの光景はとても印象深く、しっかり記憶しておきたいと思います。
 いずれの日もかなりの「過密日程」だったのですが、みなさん元気でサクサク歩いて回ったため、初日は余分なコースを消化したり、二日目も見学時間に余裕ができたりしました。それで夜もしっかり飲み食い遊びをこなした(?)のですから、出発前に予想していたとおり驚くべきフィジカルといえるでしょう。

 ちなみに、「ハーメルンの笛吹き男」ですが、彼も案外、『何か別の理由で歩き続ける子供たちと、笛を吹きながらたまたま同じ方向に歩いていただけ』なのでは…と思わないでもありませんでした…。しかし笛を吹く以外にもできることは、あるのです。

 三日目は解散後に横須賀へ移動し、クルマを借りて(今度はキズ一つ付いてないはず)三浦半島を横断・縦断しました。衣笠山公園から衣笠城跡にかけての上り下りは本当にきつかったですが、これも行ってみて初めてわかることでした。衣笠山からは三浦半島の東西南北が手に取るように眺めることができました。その後、三浦半島の先端・城ヶ島に移動しここでも四方の眺望に感動しました。残念なのは、その日の午前は快晴だったにもかかわらず、午後から曇りがちで、結局一度も富士山が望めなかったことでしょうか。数年前に伊豆に行ったときもちょっとしか眺められませんでしたし、よほど縁が無いようです…。

 三日間にわたり、懇切丁寧、密度の濃い解説をいただきました野口先生に深く深く御礼申し上げます。

 *次回の火曜日の『吾妻鏡』のご案内です。
 範囲は以下のとおりですが、これ以外にもせっかくですから鎌倉旅行の振り返りやデジカメのデータの交換などもできればと思います。旅行に参加された方はご出席いただけると嬉しいです。

 日時:2010年3月9日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長五年(1253年)七月八日・九日、八月十五日・二十九日、九月十四日・十六日・二十六日、十月一日・十一日・十三日、十一月二十五日・二十九日、十二月八日・九日・二十一日・二十二日、
    建長六年(1254年)正月十日、二月十二日・二十日・二十四日、三月十二日・十六日・二十日、四月十八日・二十七日・二十九日、五月一日・五日、閏五月一日・五日・十一日、六月三日・十五日・二十五日、十月二日・六日・十日・十二日・十七日、十一月十六日・十七日・二十一日、十二月一日・十二日・十七日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日の各条

いざ、鎌倉!

山本みなみ
No.7042

 私たち2回生にとっては初めてとなるゼミ旅行から帰ってきました。雨で靴下がずぶ濡れになったり、津波で江ノ電が止まったりと大変なこともありましたが、それ以上に多くのものを得られた三日間だったと思います。
  
 特に源頼朝法華堂跡では大倉幕府以下鎌倉全体を見渡せる位置にあったことを景色から実感できました。また、そのすぐそばに北条義時法華堂跡があったことから、義時の鎌倉幕府にとっての重要性も感じました。
 二日目は鶴岡八幡宮など鎌倉の中心部をまわりましたが、二階堂氏に興味をもっている私としては、やっぱり永福寺跡周辺の二階堂に行くことができたのは一番嬉しかったです。永福寺が現存しないのは残念だったので、そうなると今度は平泉に行きたいなぁと思ってしまいました。しかし、二階堂から幕府までの距離感や、二階堂大路が非常にまっすぐな路であったことがわかり、得るものは多かったと思います。
 三日目は解散後に三浦半島に行きました。衣笠山の上り下りは手を使ってよじ登る箇所もあり大変でしたが、三浦半島全体を眺めることができました。その後行った城ヶ島は物凄い突風で海も荒れていましたが、(何故かここには猫がたくさんいて、みんな丸まっていました)展望台からの景色はとてもよかったです。三浦半島は私一人では行くことができなかったと思います。レンタカーの手配から運転までしていただいた岩田さん、本当にありがとうございました。

 日ごろ一緒に『吾妻鏡』を読んでいる先輩方や同回生と記事に出てくる場所を野口先生の解説でまわるというのは、この上なく恵まれたことだったと思います。実際に歩いてみないとわからない距離感や高低差を身をもって感じることができました。
 また、ゼミメンバーとの親睦も今回の旅行を通して深まったと思います。鶴岡八幡宮でひいたおみくじの結果に一喜一憂したり、一緒にご飯を食べたり、トランプをしたり、おしゃべりしたり・・・本当に楽しかったです。本当に充実した三日間でした。

 行く先々で親切な解説をしていただきました野口先生、旅行中の三日間はもちろん、事前勉強会の準備等いろいろとお世話になりました岩田さん米澤さん、本当に本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。 

晴れのち雨でまた晴れる

米澤 隼人
No.7043

 掲示板上ではご無沙汰しております。みなさまこんにちは。
 このたびの鎌倉ゼミ旅行には私も参加させていただきましたので、少しばかりご報告と感想を申し述べさせていただこうと思います。


 野口先生の書き込みにもございますように、初日(2/27)は江ノ電藤沢駅に集合し、一日乗車券「のりおりくん」を買い求めた上で、まず稲村ヶ崎に参りました。
 海岸は寒風吹きすさび、崖の上から海面を見下ろすと、大波が岩かどに砕けて白く散るという有様でした。新田義貞がここを渡渉したという、あまりにも有名な話が『太平記』巻十にございますが、この日のコンディションを見た限りではとても不可能。
 サーフボードでもあれば話は別ですが!
 大森金五郎氏が実際に稲村ヶ崎を歩いたときの記録を、野口先生がお持ちとのことなので、今度ぜひ拝見させていただければと思います。

 次に向かったのは長谷・甘縄方面。この周辺では光則寺がもっとも「穴場」的スポットであることは皆様にもご理解いただけると思います。ここには日蓮が佐渡に配流された折、その門弟の日朗が監禁されたという土牢が残っています。
 しかし私にはこれとやぐらとの区別がつきませんでした。これをあえて土牢と称して、保存することが、宗旨にかかわるのではないかなどと考えてしまった次第です。
  ※なお一部の人は土牢を見て、某探検隊シリーズにでてきそうだと言っていました…
 
 この日は江ノ電を移動手段として利用しましたが、民家の軒先をかすめたり、路面電車区間があったりと、これは鉄道素人の私でも興奮の路線でした!天気が良ければ、さらに水天一碧たる風景を楽しめるということですから、ぜひまた乗りにいきたいと思います。

 二日目(2/28)、懸念されていた雨が降ってきました。オマケに津波警報。
 もっともこの日は北鎌倉を中心に散策する予定でしたので、警報の影響はとくにございませんでした。大仏も前日のうちに見ておいてよかったですっ!
 
 北鎌倉では明月院やぐらが圧巻でした。やぐらは本堂をぐるりと取り囲む岩盤層をくり貫いて、いくつも造られておりました。鎌倉の石は建材として用いられるという話を小耳に挟んだことがあったのですが、この辺りの地質を見て、鎌倉の石文化を実感した次第です。
 北鎌倉一帯のお寺を隈なく見学して、一行が鶴岡八幡宮に到着したのは正午でした。その頃には雨もあがっておりましたが、足は疲れ体は冷えて、すっかり衰弱していました。
 前日でしたら、ここで力餅!というところですが、この日は鳥居前の定食屋さんで元気が出るお水(未成年禁止)を少しだけいただきました。ごめんなさい。
 ※世が世ならこんな代物を購入することもできないんですよね(例えば『吾妻鏡』建長四年〈1252〉九月三十日条)。
 午後は大倉から小町方面にかけて散策。ほとんどが「跡」でしたが、それぞれの距離感をつかむことができました。これは今後『吾妻鏡』を読む上で、活かされそうです。
 山本さんも念願の地を踏むことができてよかったですね。でも自分の願望をかなえるために、現在そこにあるものを潰そうという発言は良くないと思うんです(笑)
 この日の晩は宴会(懇親会)でした…
 ※「ハーメルンの笛吹き男」を目撃したのはこの夜のことですが、「ハーメルン」であると同時に「ハーレム」状態でございました。

 楽しかった夜が明けて三日目(3/1)の朝は晴天。
 しかし私の気分は完全に土砂降りでした… きっと前日の昼間から悪いことをした罰だと思います。
 この日は寿福寺を見学した後、泉ヶ谷方面まで歩き、浄光明寺・相馬師常墓・窟堂などを見てまわりました。この近辺で思い出されるのは宗尊親王の方違先となった「亀谷泉谷右兵衛督教定朝臣亭」ではないでしょうか(『吾妻鏡』建長四年五月十九日条)。
 重たい頭を持ち上げて、「きっと陰陽師がこのあたりの崖を攀じ登って、方角の吉凶を占ったんだろうなぁ」などと眺めておりましたら、野口先生が
「この崖の向うは鶴岡八幡宮です。米澤くん、登ってみては如何ですか?」
「せ、先生・・・」
先生のそういうジョークは個人的に好きなのですが、グロッキーな顔つきの人が岩壁に張
り付いていたら、近隣にお住まいの方々にご迷惑をかけると思いましたので、やめておきました。
 その後は、野口先生の書き込みにありますように、鎌倉駅で解散。午後は三浦半島方面に出かけましたが、途中から人事不省に陥っておりましたので詳細は覚えておりません。


 私からのご報告と感想は以上でございます。
 効率的にたくさんのスポットを案内してくださった。野口先生に心よりお礼申し上げます。先生は掲示板上でのご発言とは裏腹にとてもご健脚でございました。また鎌倉におけるご自身の楽しいエピソードもお聞かせいただきました。
 また今回の旅行計画を立ち上げてくださった岩田さん・藪本さん・山本さん、ありがとうございました。お三方に声をおかけいただかなければ、斯様に貴重な機会に邂逅することはございませんでした。
 そして旅行に参加してくださった学習院の伊藤さん・神大の小野さん、京女の尾田さん・井草さん・今井さん・船津丸さんにも感謝申し上げます。参加者が多ければ、そのぶん楽しさも増すものです。
 また機会がございましたら、皆様ぜひご一緒いたしましょうね☆