座頭の衣装
新地 浩一郎
No.695
こんばんは。学園祭の季節ですね。鹿児島大学の学園祭は…自分が酔いつぶれたり、酔いつぶれた人たちの看病に追われた思い出しかありません。私のサークルでは鹿児島名物の「じゃんぼ餅」を売っていました。決して大きい餅、ではなく、2本の棒が刺さっているので「両棒餅」がなまり「じゃんぼ餅」となったそうです。今では磯庭園周辺の名物となっていますが、もともとは南北朝時代に征西将軍宮懐良親王に谷山隆信が作って食べさせたもので谷山名物だったそうです。
あと、以前書き込みました町内に伝わる永田日送踊りの座頭(ザッツ)の衣装をHPにアップしました。記憶がごちゃごちゃになっていたようで、以前書き込んだ衣装は胡弓と座頭が混ざったものになっていました。
それと、先日の江戸時代の道の調査ですが、意外とよく残っていました。阿多へ通じる仏坂もきれいに残っています。山頂付近には石垣で整備された田の跡も残っているそうですが、今回は時間的な都合で確認しませんでした。
山田(勝目)方面への道は実際に踏査しましたが、人工的に掘り込まれた道でした。近世の道が必ずしも中世までさかのぼるか分かりませんが、加世田や阿多から川辺へ通じる道が必ずしも現代の道と一致しないこと、全般的に川沿いよりも台地上を通るパターンが多いことが分かりました。
ザッツ(座頭)・エンターテイメント
No.696
鹿児島では毎年、学園祭で鹿児島大学と鹿児島経済大(現、国際大)が、急性アルコール中毒をおこした学生のために何回救急車の出動を要請したかを競ってましたね。随分はた迷惑な習慣だったと思います。ゼミのコンパ=「飲ん方」(他地方でいう「飲み会」のこと。ちなみに軍隊用語の「撃ち方はじめ」の「撃ち方」も薩摩弁)で、たいてい指導教授は飲み崩れて天文館の路上にへたりこみ、それを懐抱してタクシーで自宅まで送り届けるのが、ゼミ長の職務であったことが思い出されます。まさしく、師弟関係の醇風美俗。京都の女子大などでは想像を絶する世界がそこにはありました。
「じゃんぼ餅」は、なぜ「両棒」が「りゃんぼ」でなくて「じゃんぼ」になったのか納得がいかないのですが、息子の通っていた私立鹿児島中学(私立に入ってもらったのは、当時、鹿児島の公立中学は男子丸刈り強制で、親として耐え難かったからです。今はすこしは変わったのでしょうか?)の学園祭で食べたことがあり、なかなか美味しかったことを覚えております。
新地さんのHP「南九州探訪記」は自然・歴史・民俗の写真満載ですから、みなさん、ぜひ御覧になって下さい。アドレスはNO.595にあります。田中さん、ご感想はいかがでしょうか。
地方で聞き取りをすると中世に関係する道は尾根づたいが多いような気がいたします。万之瀬川河口から内陸部へのアクセスについては柳原先生の御研究がありますが、薩摩半島の他の港津における事例が明らかになれば、南九州中世史の解明に資するところ大だと思います。
丸刈り強制
新地 浩一郎
No.699
鹿児島の公立中学の丸刈り強制は、もうほとんどないようです。川辺の中学校(一校しかありませんが)でも丸刈りは野球部くらいですね。大学の教養部で野口先生の講義を受けたときにこの丸刈りの話を聞き、中学生は丸刈り、小学生は制服が当たり前だと思っていたのでショックを受けたのを思い出しました。今では茶髪の公務員もいる時代ですし、鹿児島も変わってきたのでしょう。
昔の道についてですが、狩猟(特にイノシシ猟)をされる方と一緒に行くと、色んな情報を教えてもらえます。幸いにもうちの史談会に狩猟をされる方がいらっしゃり、現在使われていない道や、山頂付近の様子(田畑・石垣・道などの遺構)や目標となる地点(岩や巨木)、山中の地名の由来などを教えていただき、郷土史等に記載されていない情報が多く、大変勉強になりました。
HPは…独学で試行錯誤しながら作ってますので、見づらい点が多いと思います。内容がどうも中途半端なので、そろそろ生物関係と歴史・民俗関係と分けようかなと。無料HPなのですが、いつの間にか容量が半分を切ってます。
秋はどうしてもイベントが多くて(今年は選挙も…)、なかなか更新できませんが、もうちょっと見やすいようにしようと思います。それでは。
座頭の衣装
田中裕紀
No.722
新地さんこんにちは。
遅くなりましたが、HPを拝見させていただきました。
座頭の衣装ですが、小さな琵琶が案外リアルなのに驚きました。琵琶には通常、「乾坤」という太陽と月を表した象嵌が入っているのですが、手描きで太陽と月が入っているのもかなりリアルな表現と言えるのではないでしょうか。ですが、一つ気になるのは両足で色の違う足袋と履物です。黒と白という足袋の色は何を表しているのでしょうか?最初はドイツ児童文学に登場する浮浪児のように、そろっていない着衣を身に着けることは貧しさの表象かと思ったのですが、よく考えてみるとそれらの児童文学に登場する子供たちがいわゆる「異形」であることから、やはり「異形」の表現として捉えるほうが的確ではないかと思います。琵琶法師は決して「貧しい」人々ではなかったはずですから。この辺は門屋くんにご登場いただいてください。門屋くんの師匠のほうがスペシャリストですが。
鹿児島の習俗についてよくわかりませんが、琵琶のように「陰」と「陽」を表していたりしたら面白いのにな~~~と思っていますが、そう簡単にはいかないでしょう。掲示板をご覧になってる方で、何かご存知でしたら教えていただきたいです<(_ _)>
Re: 座頭の衣装
新地 浩一郎
No.723
田中さん、こんばんは。
座頭の履物については、盲目の方の足取りを表現するためだと地元の方には聞いたのですが、足袋の色が違うことについては何も情報がありませんでした。
この踊りの装束は、時代ごとに変わっているようで、座頭の衣装は戦後まもなくの装束だということでした。以前野口先生がおっしゃった吹上町の中島常楽院とならぶ盲僧寺(名前は忘れてしまいました…)が川辺にもあり、廃仏毀釈後にそこの盲僧たちがあんまや祈祷、琵琶演奏などで生計をたてていたということです。「川辺ザッツに 知覧ゴゼ」という言葉が今でも残っています。
あと、うちの町の郷土資料室にも薩摩琵琶がありますが、おっしゃるとおり太陽と月が象嵌され、白の塗料が塗り込まれています。この琵琶は破損していて使用に耐えられるものではないです。踊りの乾坤は、金と銀の色紙を張ったものでした。
参考になるかどうかわかりませんが、一応記憶している情報でした。
HP拝見いたしました。
門屋 敦
No.731
新地さんはじめまして。長らく書き込みをしておらず、ご挨拶が遅れました。学習院大(院)の門屋と申します。野口先生にも田中さんにもお呼び頂いたので登場致しました。HPを拝見いたしましたが非常に興味深い写真でした。座頭の足袋の色は非常に興味があります。履物に関しても納得させられました。
座頭はもちろんですが、種まきの存在に非常に興味を抱きました。土から作物を作る過程を表象している存在がやはり恐怖の対象となって一人中央で踊っている風景は新たな文化を持ち込む異形・異人に対するものとして興味深く考えさせられました。
このような行事の写真を見ていると、共同体の周縁に位置する様々な人間に改めて興味をそそられました。
感想みたいになりましたが非常に楽しく拝見致しました。
Re: 座頭の衣装
新地 浩一郎
No.736
門屋さん、はじめまして。
座頭の衣装では皆さんから色々なご意見をいただき、大変参考になります。小さな自治体で文化財を担当していると、専門(文献史学)だけではなく、考古学や民俗学、場合によっては生物学まで範囲が広がります。民俗学は学生時代に2・3コマ受講しただけですので、学問的なことはあまり分からず、自分の感じた感想だけで書いています。
種まきが輪の中心で踊ることについては、南九州の民俗学の第一人者、下野敏見先生が「種まき以外の登場人物は「神」で、種まきの動きを見守っている」と著書「南九州の民俗」で書かれています。ですが、門屋さんのおっしゃるようにとらえるのも面白いと思います。
私も登場人物については「神」ではなく、この踊りが始まった頃の代表的な職業を表しているのではないかと思っています。
ナギナタや太鼓のかぶっている帽子は、髷をデフォルメしたような装飾があり、武士を表現しているように見えます。
一方、シベと呼ばれる「御幣」らしきものを振り回す役の帽子には飾りはなく、見ようによっては坊主頭を表現しているようにも見え、神官や僧侶などの宗教関係者を表現しているように見えるのです。
分からないのはヒョウタンなのですが、動きは大道芸のジャグリングのようです。胡弓、座頭とともにヒョウタンが芸能民を表現しているのかとも思います。
種まきは農業民、魚すくいは漁業民、オンガメ(カマキリ)は人以外の異形(神や妖怪、或いは動物)を表現しているのかなと素人考えでは思っているところです。
他の職業の人々が種まきの動きを見守っているのは、結局農業が産業の基幹であり、豊作・不作によってその他の人々の生活にも影響が出るからなのではと。
この踊りは、文化庁の「ふるさと文化再興事業」で補助をいただいており、昨年度は用具の整備と後継者育成、今年度は映像記録を作製しています。HPの写真もその立会いをしながら撮影したものです。私もビデオを撮影しておりますので、ダビングが終了し次第、野口先生の研究室にお送りします。皆さんで見ていただいて、感想などをお聞かせ願えればと思います。写真ではなかなか伝わらないのですが、面白い踊りですよ。