正月五日
No.6062
ようやく「承久の乱」を脱稿。先程、原稿とFDをポストに投函してきました。慈光寺本『承久記』を現代語訳して、さらにそれを圧縮したに過ぎない内容ですが、執筆中にいくつか新たな発見があり、よい勉強になりました。しかし、以前は、原稿執筆中に生じた疑問について徹底的に究明したものでしたが、最近はその辺りのエネルギーが薄れてきて、満足のいくものが書けなくなってきたように思います。そのうえ締切すら守れない。若い頃は厳守していたのですが。
締切といえば、『紫苑』の原稿、いよいよ明後日(7日)正午までですから、万難を排して宜しくお願いいたします。実はすでに、原稿も付図もレイアウトの指示も完璧に済ませた執筆者がおられます。しかも、内容は抜群に良い。もちろん形式も整っているし、誤字脱字もない。
研究者の卵はかくあるべしです。
これから、またすぐに別の原稿に取りかからなければならないのですが、とりあえず年末年始を寝込むことなく乗り切れたのは幸いでした。私は鹿児島と千葉で一度ずつ、年末年始を病院で過ごしたことがあります。ちなみに、私の幼・少年期に健在だった曾祖母二人の命日は十二月二十六日と正月五日で、私もいずれそれを踏襲するかも知れません。
十二月二十六日に亡くなったのは母の父の母。正月五日に亡くなったのは父の母の母です。ですから、今日は父方の曾祖母の四十何回忌かにあたります。たしか、私が小学校の五年生の時だったと思いますが、母や妹と消防出初め式を見に行った千葉公園に、叔母が自ら曾祖母の死を知らせに駆けつけてくれたことを覚えています。
曾祖母の死因は、餅を喉につまらせたことによる窒息でした。耳は遠いものの、とても元気で、杖をつきながら町内を歩き回り、いつもご近所の縁側で話に花を咲かせているというような人でした。食べることが大好きだったので、私は子供心にも殉死のような幸せな死に方だったのはないかと思ったことでした。
それにしても、曾祖母がもう一世紀とすこし後に生まれていたら、きっとどこかの誰かさんたちのように、ブログにやたらに自分の食べたご馳走の写真をupして、ストレスに苛まれて胃腸の具合の悪くなった中高年のオジさんたちをゲンナリさせたことでしょう。
彼女は、房総半島は九十九里の浜育ち。生まれは慶応年間。明治・大正・昭和をどのような思いで生き抜いてきたのか、今さらこれを問う術はありません。享年は九十四歳でした。
※ 今年はゆえあって、年始の御挨拶は松の内が開けてから、お送りするつもりでおります。なにとぞ、御容赦下さい。
締切といえば、『紫苑』の原稿、いよいよ明後日(7日)正午までですから、万難を排して宜しくお願いいたします。実はすでに、原稿も付図もレイアウトの指示も完璧に済ませた執筆者がおられます。しかも、内容は抜群に良い。もちろん形式も整っているし、誤字脱字もない。
研究者の卵はかくあるべしです。
これから、またすぐに別の原稿に取りかからなければならないのですが、とりあえず年末年始を寝込むことなく乗り切れたのは幸いでした。私は鹿児島と千葉で一度ずつ、年末年始を病院で過ごしたことがあります。ちなみに、私の幼・少年期に健在だった曾祖母二人の命日は十二月二十六日と正月五日で、私もいずれそれを踏襲するかも知れません。
十二月二十六日に亡くなったのは母の父の母。正月五日に亡くなったのは父の母の母です。ですから、今日は父方の曾祖母の四十何回忌かにあたります。たしか、私が小学校の五年生の時だったと思いますが、母や妹と消防出初め式を見に行った千葉公園に、叔母が自ら曾祖母の死を知らせに駆けつけてくれたことを覚えています。
曾祖母の死因は、餅を喉につまらせたことによる窒息でした。耳は遠いものの、とても元気で、杖をつきながら町内を歩き回り、いつもご近所の縁側で話に花を咲かせているというような人でした。食べることが大好きだったので、私は子供心にも殉死のような幸せな死に方だったのはないかと思ったことでした。
それにしても、曾祖母がもう一世紀とすこし後に生まれていたら、きっとどこかの誰かさんたちのように、ブログにやたらに自分の食べたご馳走の写真をupして、ストレスに苛まれて胃腸の具合の悪くなった中高年のオジさんたちをゲンナリさせたことでしょう。
彼女は、房総半島は九十九里の浜育ち。生まれは慶応年間。明治・大正・昭和をどのような思いで生き抜いてきたのか、今さらこれを問う術はありません。享年は九十四歳でした。
※ 今年はゆえあって、年始の御挨拶は松の内が開けてから、お送りするつもりでおります。なにとぞ、御容赦下さい。