雑感
田中裕紀
No.571
最近、修士論文の勉強で以前に読んだ論文を再読したりしています。卒論の延長に修論があるものですから、4回生の時に卒論で使った論文を今読み返すと新たな発見があってとても楽しいものです。が、同時に「よくもまあ、4回生の時に引用に使ったもんだ・・・」と当時の自分の無知さ加減に呆れてしまうこともあります。4回生から今までに多少の成長をしたからこそ・・・と自分を慰めてはみるものの、この先にも同じ事が起こるわけですよね?自分が修論で使った論文を、数年後に読み返したら「えー!思ってたことと違う!?」っていう具合に・・・考えるだけでもコワイ・・・(ー ー; 好きこそものの研究ですが、こういう「メビウスの輪」みたいな状況を楽しむには、もう少し成長が必要なようです。その辺りに私の「学問の醍醐味」というもののカギがあるのかもしれません。
さて、話は全く変わりますが、気分転換に映画を見てきました。北野武監督の「座頭市」です。さて、ここで問題です。「座頭」とはなんでしょう?あるHPによると「座頭:盲人の当道座(職業共済組織)の私設職位の一つ。最階位の階名納金等によって昇進。座頭の場合、いち名(市・都・一、と言った文字)が付く。」といったような説明がされてます。でも、きっと一番分かりやすい説明は
☆「座頭」は、元来は琵琶法師の階級称号(上から順次「検校<けんぎょう>」、「別当<べっとう>」、「勾当<こ うとう>」、「座頭<ざとう>」)であったものが、江戸 時代に入ると盲人の琵琶法師や按摩、鍼医などを指す言葉に変っていった
…ということになるでしょう。どちらかというと「盲」であることに重点を置かれた呼び名のようです。確かにこの「座頭市」は按摩さんなんですが、劇中「座頭」という呼び方では全く出てきません。なのに「座頭市」・・・「按摩市」ではサマにならなかったからでしょうか??按摩師イコール座頭というのは一般名詞だったのか??しかも、琵琶法師の座頭は「市」や「一」が付くわけですが(例:覚一)、この人は「按摩の市さん」であるからこそヤヤコシイわけで、じゃあ按摩にも「イチ」を付けたのか?という疑問もあったり・・・色んな意味で心穏やかにはいられない映画でした。
ちなみに、太地の鯨の博物館にもありましたが、「ザトウクジラ」というのは漢字で書くとで「座頭鯨」で、潜水の直前に見られる背中の形が琵琶法師(座頭)の背負っている琵琶の形に似ていることに由来するそうです。鯨にまで付いているなんて、日本人にとっては「琵琶」も「座頭」今よりももっと深い関わりのあるものなのです。さあ、みなさん、もっと平曲を聞きましょう・・・
ああ、おバカな事をつらつら書いてきてしまった・・・。おつきあい戴いた方々、お許しくださいませ(^^;A
さて、話は全く変わりますが、気分転換に映画を見てきました。北野武監督の「座頭市」です。さて、ここで問題です。「座頭」とはなんでしょう?あるHPによると「座頭:盲人の当道座(職業共済組織)の私設職位の一つ。最階位の階名納金等によって昇進。座頭の場合、いち名(市・都・一、と言った文字)が付く。」といったような説明がされてます。でも、きっと一番分かりやすい説明は
☆「座頭」は、元来は琵琶法師の階級称号(上から順次「検校<けんぎょう>」、「別当<べっとう>」、「勾当<こ うとう>」、「座頭<ざとう>」)であったものが、江戸 時代に入ると盲人の琵琶法師や按摩、鍼医などを指す言葉に変っていった
…ということになるでしょう。どちらかというと「盲」であることに重点を置かれた呼び名のようです。確かにこの「座頭市」は按摩さんなんですが、劇中「座頭」という呼び方では全く出てきません。なのに「座頭市」・・・「按摩市」ではサマにならなかったからでしょうか??按摩師イコール座頭というのは一般名詞だったのか??しかも、琵琶法師の座頭は「市」や「一」が付くわけですが(例:覚一)、この人は「按摩の市さん」であるからこそヤヤコシイわけで、じゃあ按摩にも「イチ」を付けたのか?という疑問もあったり・・・色んな意味で心穏やかにはいられない映画でした。
ちなみに、太地の鯨の博物館にもありましたが、「ザトウクジラ」というのは漢字で書くとで「座頭鯨」で、潜水の直前に見られる背中の形が琵琶法師(座頭)の背負っている琵琶の形に似ていることに由来するそうです。鯨にまで付いているなんて、日本人にとっては「琵琶」も「座頭」今よりももっと深い関わりのあるものなのです。さあ、みなさん、もっと平曲を聞きましょう・・・
ああ、おバカな事をつらつら書いてきてしまった・・・。おつきあい戴いた方々、お許しくださいませ(^^;A