二子浦・厳島神社そして高橋先生の『吉記』
No.4457
10・11日の両日、関東に出かけておりました。10日は中世下総内湾の交通拠点「二子浦」伝承地の調査。市川歴史博物館の湯浅治久先生の御高論「中世の“二子浦”覚書-伝説・地名・空間-」(http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/yuasa/yuasa86.htm)
に導かれながら、疲労で頭の痛くなるまで歩き回りました。最近たくさんのマンションが建ってしまいましたが、しかし品川などに比べると、まだまだ中世の痕跡が至る所に発見できました。「二子浦」は前々から気になっていながら、現地を歩く機会を得られませんでしたが、ようやく実現できました。さらにイメージを具体化するために今後も調査を重ねたいと考えています。
中世前期、ここは六浦~京都から肥前小城(九州)に至る日蓮宗中山門流の教線のスタート地点というべきところでした。
11日は佐倉の国立歴史民俗博物館で三浦正幸先生(広島大学大学院教授)の「出雲大社と厳島神社の建築の実像」という講演を拝聴しました。
出雲大社の本殿は、かつては現在の倍の16丈(48㍍)の高さがあったと信じられているが、それは誤りで、鎌倉時代の本殿も、実際には現在と同じ8丈と考えられること。厳島神社の本殿は平清盛が陸地だったところに人工の海を掘って社殿を造営したものと想像され、島自体は神体ではなかったことなどが指摘され、神社建築に関する近代以降の学説への厳しい批判が提起されて大変おもしろい内容でした。
とくに厳島神社については、清盛の国家構想を考えるうえで大きな示唆を与えられました。「王権」などという、とりとめのないテーマを考えるには建築や庭園の勉強が肝要であることを、またしても思い知らされました。
☆ 文部科学省の高橋秀樹先生から先生編『新訂吉記 本文編三』(和泉書院)を御恵送いただきました。治承・寿永内乱期の研究に大きな裨益をもたらすことは必定。史料講読のテキストにも安心して使用できます。
高橋先生にあつく御礼を申し上げます。
☆ 国立国会図書館から『紫苑』のISSN(国際標準逐次刊行物番号)取得の通知がありました。山岡編集長の御尽力によるところです。山岡さん、ありがとうございました。
番号など正式な報告は、追って山岡編集長よりなされることと思います。
> 鹿児島の有村さん 薗田さんの言われるように、部屋探しについては、早めにアクションを起こされた方がよいと思います。
に導かれながら、疲労で頭の痛くなるまで歩き回りました。最近たくさんのマンションが建ってしまいましたが、しかし品川などに比べると、まだまだ中世の痕跡が至る所に発見できました。「二子浦」は前々から気になっていながら、現地を歩く機会を得られませんでしたが、ようやく実現できました。さらにイメージを具体化するために今後も調査を重ねたいと考えています。
中世前期、ここは六浦~京都から肥前小城(九州)に至る日蓮宗中山門流の教線のスタート地点というべきところでした。
11日は佐倉の国立歴史民俗博物館で三浦正幸先生(広島大学大学院教授)の「出雲大社と厳島神社の建築の実像」という講演を拝聴しました。
出雲大社の本殿は、かつては現在の倍の16丈(48㍍)の高さがあったと信じられているが、それは誤りで、鎌倉時代の本殿も、実際には現在と同じ8丈と考えられること。厳島神社の本殿は平清盛が陸地だったところに人工の海を掘って社殿を造営したものと想像され、島自体は神体ではなかったことなどが指摘され、神社建築に関する近代以降の学説への厳しい批判が提起されて大変おもしろい内容でした。
とくに厳島神社については、清盛の国家構想を考えるうえで大きな示唆を与えられました。「王権」などという、とりとめのないテーマを考えるには建築や庭園の勉強が肝要であることを、またしても思い知らされました。
☆ 文部科学省の高橋秀樹先生から先生編『新訂吉記 本文編三』(和泉書院)を御恵送いただきました。治承・寿永内乱期の研究に大きな裨益をもたらすことは必定。史料講読のテキストにも安心して使用できます。
高橋先生にあつく御礼を申し上げます。
☆ 国立国会図書館から『紫苑』のISSN(国際標準逐次刊行物番号)取得の通知がありました。山岡編集長の御尽力によるところです。山岡さん、ありがとうございました。
番号など正式な報告は、追って山岡編集長よりなされることと思います。
> 鹿児島の有村さん 薗田さんの言われるように、部屋探しについては、早めにアクションを起こされた方がよいと思います。