映画「ヒトラー 最期の12日間ー」を見る
No.4084
先日、話題の映画「ヒトラー 最期の12日間ー」を見に行った。
まず、最近の映画の音響というのは凄い。あの地下防空壕にひびくソ連軍の砲弾の炸裂音が鈍く響くのが、ぶるぶる伝わってくる。あれは家のビデオでは味わえないものだ。映画館は当然のことながら暗いので、まさにヒトラーと空間と時間を共有している感じがする。
この映画は、ヒトラーを人間的に描いたということで、評判をよんでいる。もちろん賛否両論という評判である。しかし、「人間的」というのはどういうことだろうか。あるいは、非人間的というのは。ヒトラーが怖いのは、人間であるからで、あれが野獣だったらさして怖くないだろう。たくさんえさをやればおとなしくなるだろうから。あれほど残忍になれたのは、まさに人間だからであって、野獣や機械がああなるはずはないのである。だから、自分に好意的な人間に対してやさしいのは当然であって、好意的であったと思っていた人間に裏切られると、とたんに残忍そのものとなるのは、まさに人間そのものの特性かも知れない。純粋なアーリア人種の優位性なんてばかなことを考えたり、ユダヤ人の絶滅なんてことを考えたりするのも、ヒトラーが人間であるからだ。
ともかくしょうもなさそうな(あるいはしょうもない)人間が、国民の合法的支持(つまり選挙)を背景に、巨大な権力をにぎるというのは、20世紀的、あるいはなってはほしくないが、21世紀的な独裁者のすがたであって、あぶないあぶない。大衆というのは愚かであるから、できるだけ単純なことを、何度も何度も繰り返すと、ついてくるというのは、ヒトラーの専売特許ではないだろう。
後半はとにかく、自殺とか一家心中とかが多い。ゲッペルスのこどもたちの場面は、背筋が寒くなった。しかし、これも、現在の日本でもよくある一家心中の話にすぎないといえば、いえなくもない。国家の中枢にいる恵まれた人間が平時にはこんな一家心中をすることはないが、不運な庶民にはときどきある。もう一つ、手榴弾でも一家心中のシーンがあったが、第三帝国の最後には、この手のことが頻発したのだろうか。大日本帝国では集団自決はよくあったが、国家中枢をしめていた一家ではあまり聞いたことがない。なんでなんだろうか。この映画では、ゲッペルス自身より、奥さんのほうに、この一家心中の原因があるように描かれていた。非ナチス世界でこどもたちを教育するわけにはいかない、という台詞があった。必ずしも、敗戦後の報復をおそれてのものではなかったようだ。
ともかく、完成度の高い映画である。リアリテイがある。大河『義経』とは大違いだ。しかし、登場人物の人間関係が一度見ただけではつかめないところが多々あった。こちらが、ナチスの人物に関する知識に乏しいためなのだろうか。だから、その確認にもう一度見なければとも思うのだが、ほとんど救いのない陰惨な映画なので、正直言って再見したくはないのである。人間がリアルにつぎつぎ死ぬ、しかも自殺が多いのは、はっきりいってもういやなのだ。いやいや、私は人間が銃で撃たれたり爆撃で死んだりする瞬間を体験したことはないから、リアルかどうかもわからない。ほんとうはもっとどうしようもないのが現実のようだ。このあたりが、戦争映画の限界である。映像でえがけりゃしないのだ。
といいながら、また翌日も見に行った。(以下文体も変わります)
きのうはゲッペルスのほんとうにかわいいこどもたちが、静かに殺されていくシーンがあまりにショッキングで、そのあと、思考停止におちいったのですが、今日は、さすがに冷静に見ることができました。そして、昨日よりも、ずっといい映画であることがわかりました。
ゲッペルスのこどもたちの死って、その裏のおそらくゲッペルスも深く関わったユダヤ人のこどもたちの虐殺を描いているのです。ユダヤ人のこどもたちを殺した報いが、ゲッペルスのこどもたちを、ゲッペルスの妻が殺していく。あそこは、いろいろな見方ができるでしょうね。そして、もう一つの一家心中があるのですが、そちらはどうも、人体実験をおこなってきた医者の一家なのです。こちらも死ななきゃならんだろうな。ゲッペルスの無茶な指令のために、ベルリン市民が犠牲になっていくという場面もきっちり描かれているのです。ヒトラーはブロンデイという愛犬を飼っているのですが、ゲッペルスというのもまさにもう一匹のヒトラーの愛犬であることがよくわかります。しかも犬よりもはるかにどう猛であり、とうぜん人間ですからずっと冷酷であります。ただ、実際のゲッペルスはもっとハンサムで、俳優はあまりに不気味な風貌でした。あの不気味顔では、あのあまりにかわいいこどもたちが生まれるはずがない。実際の写真とくらべると、よくぞと思えるほど、よく似たこどもたちを配役に選んでいます。あの6人の寝ているような遺体写真と両親の黒こげ写真がならんでいるのは有名ですよね。
ヒトラーの話にもどりますが、目撃者となっているユンゲという秘書が、エバ・ブラウンに「総統はとてもおやさしいのに、ときにとても冷酷なことをおっしゃるので、ほんとうの総統はどんなかた」と問いかけるシーンがあるのですが、エバは「総統のときは冷酷なの」とこたえます。ヒトラー自身が「同情は抑圧せねばならぬ」と何度も述べるシーンもあります。
ゲッペルスの発言だったかもしれませんが、市民がもうむちゃくちゃ犠牲になることを「かれらがわれわれを選んだんだから、かれらの報いだ」なんていいます。これ恐いですね。選挙によって選ばれた合法政権が暴走するとこうなるのです。王政とか、クーデターでできた軍事政権では、権力者はこういう心性はもちにくいでしょう。もちろん白河法皇も。
相手はべつにもともとモンスターではなく、しょうもない人間なのですが、それが権力の座に、人々によって選ばれてついたとき、とくにたいへん人気があったりすると、暴走することがある。そして、一度暴走しはじめると、止めるのは至難のわざとなります。暴走を「決断力」「リーダーシップ」と誤解する人間が山のようにいますからね。
とにかく、ネタバレで見た方が良いような映画だと思います。1度目はスリリングすぎて、つぎに何がおこるのかこわくて、綿密に組み立てられた映画の構造が見えにくいのですね。2度目だと人間関係も非常によくわかりました。それと、中間部の砲撃がやんだつかぬ間のエバと秘書たちとの散歩、そして最後のところの秘書とこども(これもかなり重要な役)との逃避行のときの静けさ、これはほんとうに美しい。平和ってほんとうにきれいなんですねえ。でもちょっと気をゆるすと、人間たちはまたすさまじい殺し合いへ。
イスラエルでは「ドイツはユダヤ人大虐殺の歴史を取り繕い美化している」とかドイツでも「殺人鬼の人間性を振り返る必要など、どこにあるのだろうか」という評があることがプログラムに書かれていましたが、わたしはそうは思いませんでした。この映画は、すぐ身近にいる人間が、殺人鬼となるその飛躍をみごとに描いていたと思うのです。歴史学にかかわっている人には必見の映画です。
いま、この映画の原作のひとつである『私はヒトラーの秘書だった』というユンゲの著作を読んでいます。すぐれた記録です。そして、このすぐれた映画が、その原作をもとにいかなる部分を創作したか、その緊張感がよく分かります。こういう歴史を題材にしたすぐれた映画を見ると、もう才能のない連中がいいかげんに作っている大河の『義経』など、見る必要もないことが思い知らされます。