ふたたび『義経』の話題にて。
No.3604
「もう、義経の話はしないのか」という苦言が殺到していますので、少しばかり。
昨日の放送で取り上げられた時期は、これまでの小生の研究の主要部分に該当します。とくに頼朝の挙兵の政治・社会的背景や安房上陸から鎌倉入部の経過などがそれなのですが、サラッと扱われてアッという間に話が終わってしまい、これは文句を言う筋合いではありませんが、さみしい思いを致しました。
ただ、三浦一族の軍事力を三千といっていたのは、何か軍記物にでも記事があるのかもしれませんが、前に北条氏の軍事力を数騎としたのに比しては多すぎでしょう。
丹波哲郎いや源頼政も、橋合戦もないままにアッという間に討死にを遂げてしまいましたが(※)、あの場面に出てきた武士の着用していた大鎧の甲(かぶと)の「しころ」(首の後ろ側を防御するための扇のような形をした部分)は12世紀末のものにしてはやや広がりすぎているように思えました。近藤先生のコメントを期待いたします。
それから、義経が頼朝のもとに参向した際に率いていた兵力ですが、事実ではとてもあんなに少ないとは考えられません。『源平闘諍録』には「二十騎ばかり」、古態本の『平治物語』には、何と「其の勢八百騎」と見えます。
※ 拙宅至近のバス停は「頼政道」。この地名は、以仁王を奉じた源頼政の一行が三井寺から南都に向かう逃亡路だったことに由来します。
昨日の放送で取り上げられた時期は、これまでの小生の研究の主要部分に該当します。とくに頼朝の挙兵の政治・社会的背景や安房上陸から鎌倉入部の経過などがそれなのですが、サラッと扱われてアッという間に話が終わってしまい、これは文句を言う筋合いではありませんが、さみしい思いを致しました。
ただ、三浦一族の軍事力を三千といっていたのは、何か軍記物にでも記事があるのかもしれませんが、前に北条氏の軍事力を数騎としたのに比しては多すぎでしょう。
丹波哲郎いや源頼政も、橋合戦もないままにアッという間に討死にを遂げてしまいましたが(※)、あの場面に出てきた武士の着用していた大鎧の甲(かぶと)の「しころ」(首の後ろ側を防御するための扇のような形をした部分)は12世紀末のものにしてはやや広がりすぎているように思えました。近藤先生のコメントを期待いたします。
それから、義経が頼朝のもとに参向した際に率いていた兵力ですが、事実ではとてもあんなに少ないとは考えられません。『源平闘諍録』には「二十騎ばかり」、古態本の『平治物語』には、何と「其の勢八百騎」と見えます。
※ 拙宅至近のバス停は「頼政道」。この地名は、以仁王を奉じた源頼政の一行が三井寺から南都に向かう逃亡路だったことに由来します。