治承三年政変

No.3444

 本日の義経、能天気なハイキングで巴にいたぶられる義仲と越後で出会うという、驚くべき無茶苦茶な場面設定でございました。
 越後城氏は、諸国源氏の御曹司に狩猟ツアーでも呼びかけておったようですな。
 あの軽くすっとぼけた義仲なら、短期間で滅亡も当然ではありますが。でも、あんな奴がどうやって上洛するんだ!もう少し、重厚さ、荒々しさは出せんのか?
 本日はめでたく、小沢、長嶋、小泉と、各界名士のご子息、七光りトリオの競演でござった。やれやれ。

 義仲と聞いてすぐに従兄弟と分かるとは、義経もなかなか情報通のようですが、それなら兄義平に父義賢を殺され、自分の父義朝と、義賢や、その父為義が犬猿の仲だったことくらい分かりそうなものですがね。まあ、その辺は源氏は一枚岩というドラマの単純化の結果ということでしょうか。
 頼政まで招いた平氏の奇怪な酒宴も、同様の意図ということになるのでしょう。

 治承二年以降の大火、犯罪は平氏に対する怨嗟を生んだというのも、無理が多い。後白河の王権の動揺が、清盛との対立を激化させ、政変に至るのですが、これも一貫して平氏横暴という図式に単純化されたようです。
 分かりやすく、単純化するならそれで徹底すればいいのですが、おかしいのは重盛です。清盛が決断が鈍いので彼が悪役をかっていた、その彼が死んだので清盛は鬼になったとのこと???
 単純化するなら、清盛を制止していた重盛が死に、清盛がいよいよ先鋭化したと通説通りにすれば宜しい。重盛が憎まれ役を買っていたというなら、殿下乗合事件は史実通り描くべきでしょう。どうせなら、鹿ヶ谷で清盛が助けた成親を彼が暗殺したことにすればよかった。あれでは重盛の印象が薄っぺらで、何とも中途半端です。
 後白河は唖然とするだけ。これでは、折角の名優平幹二郎を持ってきた甲斐もありません。こんな間抜けな後白河なら、これこそ蛭子某氏に演じさせれば宜しい。
 この辺、天皇・王権の描き方が、かつての「新平家」や「草燃ゆる」より甘くなった感を否めません。勘ぐりすぎでしょうか。まあ、そういえば今回梶原景時を演ずる中尾某のとんでもない後白河もありましたね。
 中途半端といえば、突然お徳なる奇怪なばあさんが清盛の下に現れ、息子?を諜報担当者に推挙するのも、唐突です。宮尾さんの原作は清盛の物語であり、清盛の若い日々を見守った人物としてお徳は描かれています。それでこそ、彼女の存在は活きるのですが、義経の物語にしておいて、彼女を大きく取り上げるのは無理があります。
 原作者と、脚本家の葛藤の結果ではないでしょうか。
 
 見ものだったのは、福原の町並み模型が登場したこと。どこの漁村かと思ったら、どうも福原だったらしい。福原というより、大輪田の泊の光景のようでした。別に静止して見直そうとも思いませんでしたが・・・。
 多少進歩した点は、清盛が福原に住んでいることになったこと。だったら、いつ引っ越したのや?

 

破綻したドラマ義経

美川圭
No.3446

先週、元木先生が指摘したように、
重盛が法皇処罰を言い出す、という奇妙なドラマを創作したため、
法皇近臣にして鹿ヶ谷事件の首謀者、そして重盛の妻の兄である成親の命乞い、
という問題が、ドラマの中で説明できなくなってしまった。

そこで、今回は、死の床の重盛が、なんだかわけのわからんことを言って、
成親を謀殺した父を、やはり正しかったとかいって讃えるという、
辻褄のあわないでたらめなドラマをつくることになった。
一つ嘘をついたら、辻褄があわないので、つぎつぎと嘘をついていく典型です。
しかも、ドラマというのは虚構という一種の嘘としても、
その嘘が、実に下手である。そして、重盛という人物像が破綻している。

それにしても、清盛=悪、重盛=善という『平家物語』をむりやり、ひっくり返し、
清盛=善、重盛=悪と単純化したため、やたらにほころびがめだつ。
つまり、古典としての『平家物語』の虚構は、やはり古典となるだけあって、
説得力をもった虚構であるが、今回のドラマの虚構は、まことにお粗末の至り。

しかし、嫌なのは、視聴者の中に、これが最近の歴史学の成果に基づいている、
と誤解する人がでてくることです。『平家物語』とちがい、こちらが真実、と
思われるのも、危険だが、やはり最近の歴史学はどうしようもない、
歴史学の危機だ、なんて知ったかぶりされるのも、困ってしまいます。

  声を大にしていいたい。

けっして、最近の歴史学の成果によって、つくられたドラマではありません。
事実無根の部分を多くふくんだ、あくまでも、脚本家や演出家のつくった、
虚構なのです。それもいささか出来の悪い。

時代考証家問題

No.3448

先週・今週とドラマは未見ですが、私は、時代考証家や風俗考証家は何をしているのかといいたい。もちろん、経験上、そうした考証家は、お飾りにすぎないのは分かっていますが、だったら、考証家の名前をタイトルコールに出すな!考証家の名前を出すだけで、一般の人は、ドラマが史実だと勘違いしてしまう。

治承三年政変と高倉天皇

No.3449

元木先生、美川先生、近藤先生、みなさん、こんにちは。

>>能天気なハイキングで巴にいたぶられる義仲と越後で出会うという、 驚くべき無茶苦茶な場面設定
 ハハハハ、ホントだ。どんどんムチャクチャになってきますね。同じムチャクチャでも、「天下御免」や、大河ドラマ「花の乱」(三田佳子さんが日野富子をやった)くらいに、もはや文句を言っても無駄というレベルにまで達したムチャならば許せる(?)のですが、「義経」はまだまだ修行不足といわねばなりません。

>>一つ嘘をついたら、辻褄があわないので、つぎつぎと嘘をついていく典型です。しかも、ドラマというのは虚構という一種の嘘としても、
その嘘が、実に下手である。
 これは名言ですね。心せねばなりません。

 治承3年政変の描き方も、なんとなく心もとないものを感じました。
 私は、この政変の中では、高倉天皇の役割に注目しなければならないと思っています。なんと言っても、この政変の結果にできあがった政権は、高倉天皇――関白内大臣藤原(近衛)基通――平宗盛というトライアングル体制(後には、 この三角形の中心に安徳天皇が置かれる)なのであり、在福原の清盛(とその武力)がそれをバックアップする、というものなのですから。だから、治承3年政変の成功の要は、清盛の武力発動だけではなく、高倉天皇を自分の陣営の中心に据えることができたからだった。
 私がもしドラマ製作者ならば、この事件のなかに必ず高倉天皇を登場させ、彼にどのような表情をさせるかに工夫を凝らすでしょうね。

 そもそも、この段階の清盛は当時としてはもはや老齢にさしかかっていた。そして、最適の後継者としての重盛に先立たれた直後であった。その清盛が、自分の後継体制をどのようなものにするか、苦悩しなかったはずはありません。考えに考えたあげく、彼は自分が去った後の体制として、前述したようなトライアングルを構想したはずです。私見では、いわゆる「福原遷都」構想もまた、このトライアングル体制の中で考えねばならない。さらにいうならば、福原もまた、清盛の都であったと同時に高倉上皇の都であった、という視点から考えねばならない、と思っています(このあたりは、おそらく議論になるところでしょうが・・・)。

 かつての大河ドラマ「新平家物語」では、片岡孝夫(現・仁左衛門)さんが晴れやかで気品にあふれた高倉天皇を好演しました。片岡孝夫さんは後の大河ドラマ「太平記」でも後醍醐天皇を演じ、そのカッコ良さに魅了されました。私は、それ以来の「高倉ファン」です。

また、「とばでん」。それは江ノ電の支線?

No.3452

 昨日はいささか疲れ気味で、ちゃんと視聴していなかったのですが、それでも「とばでん」には目を覚まされてしまいました。先週の「ほうじゅうじでん」に続いてのこと。
 近藤先生の御指摘のごとく、考証とか○○言葉指導なんていう人がおられるのに。なぜ?どうして?
 最近もありましたが、テレビ局の方は歴史関連の番組制作にあたってまったく場当たり・短絡的に取材やら質問を「電話で」してくる。時には実にわけの分からないことを言ってくる場合もあるのですが、これも研究成果の社会還元に資するのならと、なんとか協力しようとする。しかし、結果的には常に誠実さを感じられない対応しかしていただけない。
 こうした事実を前提にして、テレビというメディアに協力的か否かで歴史学者としての評価が定まるようなことにならないように、と願うばかりです。

Re: 治承三年政変

No.3453

 山田先生ご指摘の片岡孝夫演ずる72年の『新平家物語』の高倉天皇、誠に懐かしく思い出されます。

 当時、女優として絶頂期にあった佐久間良子演ずる徳子と並んだ天皇・中宮は、本当に見る者を魅了したように思います。ちなみに時子は、まだ美人とみなされていた?中村玉緒、建春門院は村松英子、ついでに常盤は若尾文子、静は登場せずでした。
 
 かつて66年の『源義経』では、安徳天皇を除いて、天皇・上皇は登場せず。公卿が「法皇様のお呼びでござる」とか言いながら院御所に行く場面があり、次の場面では「法皇様は、このように仰せであった」とかいう会話の場面になっておりました。
 66年というと、当方小学校6年。この義経が今日を決めた面もありました。

 それが6年後の『新平家物語』では、天皇在位中は御簾の中だが、上皇になると顔を出し、人間として長所、短所を赤裸々に描かれるようになりました。権謀術数の権力者後白河像は、まさに当時の領主制論の描く姿そのものでした。
さらに、79年の『草燃ゆる』では、もっと陰険な後白河と、武士に打ち負かされるおろかな後鳥羽が正面から描かれておりました。武士が築く新しい時代に抗い敗北する帝王像は、それまでドラマで取り上げられるはずもないものでした。
 天皇に関するタブーが10年余りで、大きく変化したことが分かります。

 源平物以外でも、78年の『黄金の日々』では一向一揆を虐殺する信長や、朝鮮を侵略する残忍な秀吉が登場し、「出世太閤記」の能天気なイメージが崩され、80年の『獅子の時代』では自由民権運動や秩父事件が取り上げられ、明治維新の暗い側面が描き出されました。
 こうした延長上に、91年、それまで禁忌とされた『太平記』の時代をとりあげ、後醍醐天皇を正面から描く力作が生まれたものと思われます。90年代までは確実に学問的成果を吸収した丁寧な作品作りがなされていたのです。
 ところが、その翌年には緒方直人主演の『信長』が作成され、翌年の『琉球の風』と続いて、大河ドラマは無残な?学芸会シリーズに転じてしまったのです。
 
 まさか、後鳥羽を演じた尾上辰之助が数年後に急死し、後醍醐天皇役の片岡孝夫氏も一時重篤な肺疾患に陥ったことから、恐ろしくて天皇、上皇を正面から描けなくなったわけではないでしょうが・・・。

 視聴率という根本の問題があるので、難解だったり、通説と余りに離れるのは困るのでしょう。また、王権の描き方には色々議論を呼ぶ面もあるので、デリケートな性格もあるとは思います。とはいえ、ドラマとしての品格と、学問的成果を積極的に取り入れたかつての気骨を失ってほしくないものです。

 それが無理なら、美川先生の示唆されるように、学芸会・バラエティー路線で開き直るべきでしょうね。
 そして近藤先生のお怒りのように、誤解を招く時代考証などという古めかしい尻尾も切り捨てるべきでしょう。それがしたくないなら、逆に民放と相談して、水戸黄門にも時代考証の学者を起用してもらうようにすれば宜しい。

 今回のドラマ、清盛は貿易以外、何を目指したのかさっぱり分かりません。
 後白河幽閉も、単に個人的喧嘩のレベルでしか描かれておりません。
 平氏政権や、当時の朝廷に対する大きな見通しがないので、場当たり的な人物像になる面もあるのでしょう。
 義経の慈父であった清盛が、法皇幽閉のような暴虐をするのは、勇猛な重盛が死んだからという、何とも奇妙な話が強引に作られております。これで視聴者が納得するのでしょうか。
 宮尾さんの原作では、清盛は院政期の青年時代から描かれ、頑迷な貴族と戦う颯爽とした人物として活躍するのですが、テレビでは平治の乱から始めるように短縮したために、清盛の良さが描けず、無理を生じた面もある様に思われます。
 やはり脚本家の無能、不勉強ということでしょうかね。

 そういえば、当方が出演した某歴史番組では、福原からの還都の原因は疫病と飢饉だそうで、京に帰った清盛に対し、頼朝らが蜂起し、彼や義経の率いる源氏が攻め上ってくるというコメントがありました。
 番組制作者たちの頭の中は、いったいどうなっているのかと聞きたい気分です。
これも、最近の日本史教育の結果ですかね。
 そうであるならば、学生の無知、不勉強の背景も、深刻なものと受け止めて、考えなくてはなりません。
 
 山田先生、福原遷都問題と、清盛以降の政権構想については、簡単にではありますが、今度の『古代文化』の拙稿で少し触れました。
 ご意見をお願いいたします。
 
 

NHKの制作体制の変化?

美川圭
No.3456

元木先生のご意見だと、緒形直人主演の『信長』からですか、
大河の堕落は。うーん、確かにそうかもしれない。

私はある関係で、あの溝口健二監督のご遺族を知っているのですが、
溝口監督のご夫人が、生前あの『信長』を撮っていたカメラマンは、
監督に追い出された最悪のカメラマンだ、と言われたというのを、
当時、間接的に耳にしました。

とにかく、あの『信長』はやたらに画面が暗く、何をやっているのか、
よくわからない。鏡みたいに暗いので、
見ているこちら側の視聴者が画面に映りこんでしまう、
という噴飯物であったので、そのことがとくに記憶に残っています。
おどろおどろしいドラマを描く目的だったのか、画面を暗くしたら、
なにもみえなくなっちゃった、というのではとてもプロの仕事とは思えません。

たぶん、あのあたりで、NHK内での大河ドラマの制作体制に、
大きな変化があったと考えるべきなのでしょう。
配下のプロダクションへの外注、とか、NHK内での人材配置問題とか。
そう考えないと、この10年ほどの質の低下は、よくわからない。
NHK内にまったく人材が枯渇しているとは思えませんから。

去年の「新撰組」も、あまりよく見ていないですが、
脚本は売れっ子の三谷幸喜でした。
私は、なんといっても喜劇がいちばん好きなので、
けっこう三谷作品は見ています。
舞台の「笑いの大学」なんていうのは、
ほんとうにおもしろかった(映画化されましたが、映画は未見)。
あまり人気があるので、舞台のチケットがとれませんし、
「笑いの大学」も大阪近鉄劇場で、立ち見をしました。

その三谷が脚本を書いても、少し見たところでは、あの程度の大河、
ということは、やはり、制作全体の欠陥でしょう。
(彼の幕末ものは成功していないこともたしかですが)

現在の大河が、どのように制作されているのが、
非常に関心がありますね。たぶん、時代考証の歴史家が、
口をはさむ余地などないのでしょう。
時代考証に意見をもとめるときは、たぶん脚本はできていて、
撮影もすでに進みつつあり、もう直しようもないし、
そこで直しをもとめるような、うるさい歴史家には依頼しない。
といったことかと、素人目に推測しているのですが、
実際はどうなんでしょうね。

私は、物心ついたときにはもうテレビがあった、という第一世代、
ぐらいかもしれませんので、どっぷりテレビにつかって生きてきましたが、
最近のテレビは、とにかく欠陥ばかりが目につくメデイアになりました。
NHKの不祥事とか、フジ・ライブドア問題とか、大河ドラマの不調と
皆つながっているんでしょうか。

Re: 治承三年政変

No.3457

  美川先生のご指摘の通り、『信長』はひどかった!だから、最初を除いて、ほとんど見ておりません。
 確か、あの時からNHK何とかという下請け会社に委託するようになったはずです。番組の質の著しい低下の一因がそこにあったことは間違えありません。その体制がずっと続いているかどうかは存じませんが。

 時代考証の実態については、どこかで入間田宣夫先生が述べておられましたし、我らが近藤先生も、実質的にご担当だったとのこと。近藤先生の詳しい体験談など、お伺いいたしたいと存じます。

 当方出演の某番組では、下請けがいい加減なヴィデオを作成しており、こちらがコメントできるのは、向こうが聞いてきたことだけでした。清盛の「その時」が仁安2年ではなく、治承3年11月であったと変更したことは良かったのですが、ヴィデオの方はひどいものでした。
 平治の乱に「熊野水軍」が参戦した、一昨年発二重の壕とともに邸宅も発掘され、福原が考古学的に初めて裏付けられた、そして還都のあとで頼朝が蜂起した等等の、でたらめな情報が垂れ流しとなってしまいました。
 関係者によると、学問的な裏づけを取ってなかったとのこと。安易な下請け依存の結果でしょうが、視聴者をたばかるにも程があります。
 下請けビデオ優先の姿勢は、上横手先生がご出演になった日本テレビの「知ってるつもり」も同様でした。あの時は「民放はひどいですね」などと笑ったものですが、もはやそんなことを言っている場合ではありません。受信料を取られて、いい加減な番組を見せ付けられているのですから。

 美川先生の言われるように、テレビ界は大きな問題を抱えているように思います。
 その最たるものは、テレビ関係者の横暴、無自覚と言うことかもしれませんね。それが、国民にどのような影響を与えるのか。考えると恐ろしいことです。

テレビ関係者の常識

美川圭
No.3458

>テレビ関係者の横暴、無自覚と言うことかもしれませんね。

ということで、ちょっと思い出しました。
私、たまたま寝屋川市史の仕事をしているのですが、
例の小学校教諭刺殺事件のとき、市史編纂室のある
教育委員会の建物が、記者会見場になっていました。

編纂室の人の話だと、1週間たいへんだったとのこと。
一番驚いたのは、マスコミ関係者のハイヤー。
教育委員会の駐車場にぎっしりのそのハイヤーが、
一日中、運転手が待機してエンジンをかけっぱなし。

アイドリング状態なんだそうです。

いつでもすぐに移動できるためかもしれませんが、
実際には、そんなに出入りはなかったとのこと。
昔のポンコツ車ならいざしらず、昨今の車が、
そんなにエンジンがかかりにくいはずもなし。
緊急事態だったら、すぐエンジンをかければいいのでしょう。

ところが、昔の習慣を踏襲しているのか、
アイドリングしっぱなしを、不思議にも何にも思っておらず、
環境問題なんて、地球温暖化問題なんて、どこか別の星のこと。
自分たちは正義の味方の、特権階級とでも思っているのでしょうか。

とにかく、そういうところから、世間の常識をとりもどしてほしいです。
いざとなると、「庶民の見方」とか、を報道のなかで、ふりまわして、
攻撃するわけですから。

考証の実態

No.3461

今週分の義経、今日、ビデオでみました。このドラマ、はじめの頃は面白いかなと思っていたのですが(もちろんドラマとして)、今回は見るに堪えませんでした。いくかネタ探しとはいえ、もう見るのはやめようかとも思いましたが、来週からはいよいよ内乱が始まるということで、期待はできませんが、見続けることになると思います。

ところで、時代考証の件ですが、私が参加したのは、奥州藤原三代を扱った渡辺謙主役の「炎立つ」です。元木先生のレスで出ている「琉球の風」と抱き合わせで、はじめてともに一年間ではなく、数ヶ月という短い期間の大河ドラマでした。この制作は、NHKエンタープライズという子会社でした。ともに視聴率は最低レベルだったと思います。

その時の時代考証は、やはり元木先生のレスでお名前の出ている入間田宣夫先生、風俗考証は山中裕先生で、私は山中先生の補佐のような形で、武具考証を担当しました。だから、タイトルコールで私の名前は出ていません。

考証現場の実態は、美川先生のご推察の通りです。はじめに制作側の意向がありきで、こちらの意見を聞いて修正するなどという気はありません。すべてに「先生には正しいことを言っていただきました。でも、それには従えません」という感じです。実際にもそう言われました。しかも向こうからの質問は、こちらの意見を求めているのではなく、イエスという答えだけを求めるものばかりです。しかも即答で。では、考証の先生方はなんのためにいるのかと聞いたところ、一般視聴者に対する楯だという答えでした。つまり考証の先生がついているのだから、内容に文句をいうなよ、という感じですね。だから、考証家なんて、名前だけでいいんですよ。それも著名な。私のような無名の者は名前を出す意味がないわけですね。

実際に私が行った仕事は、甲冑を中心とした蝦夷の武具を作るということでした。蝦夷の武具など、ありもしないわけで、美術スタッフがデザインしたまったくの創作ですが、私の仕事はそれをいかに実際らしくみせて作るかということです。日本では、小道具の制作費が高く、鎧一領で一千万円くらいかかるそうですが、中国では五十万くらいでできるということで、三泊四日で中国に行かされ、中国の小道具制作の技術者に甲冑をはじめとする日本の武具の講義をしました。もっとも、昼・夜ともに豪華な中華料理の接待だったので、中華料理が大好きな私としては、その点では大満足でしたが。

それにしても、その後、歴博の「十三湊」展を見ていたら、最後の「伝説の十三湊」と題した展示室に、その時の蝦夷の甲冑や衣装が展示されているのを見てびっくりしました。それも、大河ドラマで使われた小道具であることを説明したキャプションもなく。しかも、所蔵先は、十三湊が所在する自治体(百石町でしか)所蔵となっていました。これでは、展示を見た人が実際の蝦夷の甲冑だと誤解しても当然です。当時から共同研究員などしていましたから、早速、佐原真館長に抗議文を出し、歴博内部ですったもんだの末、最終日前日にやっと撤去したようです。後で聞いた話では、NHKがその自治体にドラマ終了後に払い下げたそうです。そんなものを展示する歴博も歴博ですが、美術スタッフが創作した小道具をありがたがる自治体も自治体で、NHKの影響力の大きさを思い知ったわけです。

その意味でも、大河ドラマに時代考証、風俗考証やその他なんたら考証といって、研究者の名前を出すのはやめるべきですね。名前を出される方も、ドラマの内容によっては名前を出すのを拒否するとか、そういう気概はないんでしょうかね。もっとも、そういう人には考証依頼は来ないでしょうが。

日テレ特番の「虚偽」

美川圭
No.3463

歴史の話ではないんですが、
今日のYahooニュースで一瞬、かなり大きく取り上げられ、
朝日新聞にも、小さな記事で載っていた問題があります。

日本テレビが26日に放送した
特番「ビートたけしの歴史的大発見 名画モナリザはもう一枚あった」
に対し、北大大学院の田中英道教授(西洋美術史)が、
「存在はすでに知られ、コピーであることも学界では結論づけられている。
あたかも『大発見』であるかのような演出で、虚偽報道だ」と指摘している、
というのです。

私は、ひょんなことから、この番組の後半を見ていたのです。
というのも、たけしと大竹しのぶとともに、出演していた
絹谷幸二という洋画家を知っているためなのです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050329-00000036-sanspo-ent

http://www.ntv.co.jp/louvre/0326sp/main.html

たけしにほとんど興味がない私が仕事をしていると、
家内が「絹谷さんがたけしの番組に出ているわよ」と
呼びにきたので、思わずそのあとを見てしまったのです。

番組自体は、『ダビンチコード』という最近話題の小説にからませた、
民放らしい胡散臭さがにおってくるような番組でしたが、
問題は、「新発見」とされる、もう一つのモナリザが、専門家の鑑定により、
間違いなく、ダビンチの真筆だということを前提としていること。
(前半を見ていないので、その「科学的」根拠は私にはわからない)

でも、ルーブルのモナリザと比較すると、素人目にも魅力がない。
引きつけるところがない。描写があきらかに平板である。
つまり出来がちがうのである。ということで、ダビンチにも、
失敗作もあるのか、と思いながらも、合点がいかなかったわけ。

しかし、もしも田中教授の言が正しいとすると、
たけしなどとテーブルを同じくして座っていた、
絹谷には責任はないのか、ということになります。

絹谷幸二の肩書きは、東京芸術大学教授 日本芸術院会員です。
とくに日本芸術院会員の洋画家は、現在13人しかいない。
しかも最年少です。
肩書きはまあ、日本の絵描きとしては、これ以上ない。

私、この人、40年近く前(つまり私の子供時代)から知っているのですが、
どちらかというと能天気な人なので、
おもしろそうだというので、ほいほい出て行ったのでしょう。
この前の話だと、倒れる前の長島茂雄に絵を教えていたとのこと。

あるいは、たけしがこんど東京芸大教授になるそうなので
(映画学科をつくるんだったか、これもちょっと信じられませんが)
そういう関係もあるのかもしれません。

私としては、素人の目にもおかしいとわかるものを、
あつかっている、かなりあぶない番組になんで出るのか、
なんで現在の日本を代表する洋画家のはずなのに、
あの絵の不出来がわからないのか、
と思うのですが、いずれにせよ、近藤先生がおっしゃることは、
歴史番組だけではないのです。
そのことが、このたぶんに個人的な事件でも、身にしみました。
思いっきり、利用されてしまうのです。

千葉で義経の展覧会があります。

No.3466

 小生の本貫地千葉県に所在する千葉市美術館で、「義経展-源氏・平氏・奥州藤原氏の至宝-」という企画展が開催されますので御紹介いたします。
 ご期待に違わず、主催者には同美術館のほかNHK千葉放送局、NHKプロモーションが名を連ねております。
 出展されるのは、高野山金剛峯寺所蔵の国宝「源義経自筆書状」、厳島神社像の国宝「紺糸威鎧 兜・大袖付」(伝・平重盛所用)・国宝平家納経のうち「法華経 如来神力品第二十一」、静岡県鉄舟寺所蔵の「龍笛 銘 薄墨」などで、全国各地に散在する義経関連の名宝が一堂に会するというのはなかなかの企画だと思います。

   http://www.city.chiba.jp/art/

 ただし、いつも思うのですが、もっとも義経と関係の深い京都関係の出展があまり目につきません。関連の遺品・遺物はいくらでもあるのに、平泉などばかりがクローズアップされているのは、実に不可思議なことで、「義経好きは京都嫌いなのか」と勘ぐりたくなってしまいます。

『日本史研究』511号の21頁に御注目。

No.3441

 このところ、書き込みを小生一人が独占しています。ゼミ崩壊の前兆現象かも知れませんが、まあそれも「諸行無常」ですから仕方ないとして、お知らせしたいことがありますので、また書き込みます。
 タイトルに示した件ですが、一つは樋口知志「蝦夷と太平洋海上交通」の「むすびにかえて」注5です。ここで樋口氏は小口雅史氏が「延久蝦夷合戦をめぐる覚書」で清原「貞」衡は清原「真」衡の誤読と断定したことを批判し、関係写本を調査の上、近く御自身の見解を公表されると述べておられます。
 この件については、既に当BBSにおいて、「真」衡こそ誤読とする認識で一致しております。このことを確認させていただきたいと思います。過去ログで、737,739,741,744,745,746,747,769,770,1095を御覧下さい。
 この問題については、ほかに、前川佳代さんも「貞」衡説の立場から独自の書き込みをされていたはずです。樋口氏の御見解の提示も楽しみですが、ずいぶん以前から独自に写本の調査を進めておられた前川さんによる早々の御発表を待望しています。
 『史学雑誌』の回顧と展望(2003年)で、清原真衡説にほぼ確定というように紹介されており(75頁)、これは困ったことだと思っておりましたので、再び検討の俎上に上ることになれば、よいことだと思っています。

 もう一件は、タイトルの同じ頁の日本史研究会による「会告」です。これによると日本史研究会の本年度大会(10月8・9日)の会場は京都女子大学の由。たしか3年前もそうだったので、驚いております。しかし、これは京女の学生さんには朗報です(すくなくとも2割引で、日本史関係の書籍が購入できる)。当ゼミとしても、大学周辺(六波羅・法住寺殿跡)の史跡見学会や独自テーマの研究会など、いろいろ企画してみたいと思いますが、みなさん如何でしょうか?

 >植村先生  さっそく書き込みをいただいて、ありがとうございます。今後とも宜しくお願いいたします。国文学専攻院生のメンバーに研究の指針などをお示し下されば助かります。文科系の研究者は研究室に閉じこもっていては全く仕事になりませんから、ぜひ例会・見学会・ゼミ旅行などに御参加いただければ、幸いに存じます。
 また、自動車の運転技術についてもゼミ生への御指導を期待いたしております。
 
 >高重先生  御依頼の住所の件、週明けに研究室よりEメールでお知らせいたしますので、少しお待ち下さい。

 >山岡さん  お引っ越しは無事に済みましたか?

無事完了。

山岡 瞳
No.3443

>野口先生
ご心配をおかけしましたが、先日引っ越しを終えることができました。
超特急で片付けをしましたので、部屋はもう落ち着きました。あとは段ボールを捨てるのみです。

>田中さん
遅くなりましたが、幹事お疲れ様でした。

Re: 『日本史研究』511号の21頁に御注目。

No.3454

 野口先生ご指摘の『日本史研究』511号の樋口論文のご指摘、全く同感です。
あの字は、どのように見ても「貞」としか読みようがないと思います。
 東北の方は「真衡」で一致していたかのように思えましたが、その中から「貞衡」派が登場されたことは、心強いことですね。
 やがて公表される樋口氏が見解が注目されるところです。
 これによって、さらに議論が展開されることを期待したいと存じます。
 
 ついでで恐縮ですが、511号の表紙にの目次に見える書評の三つ目の著者、「仙田善雄」さんは、杣田善雄氏の誤りです。
 表紙は書物の顔であり、かつて当方が関与していた雑誌などでは、こうした表紙のミスが発見されようものなら、訂正のシールを貼ったりしたものです。
 これでは杣田先生に余りに失礼ではないでしょうか。
 本号の表紙の校正を担当された方、もしもご覧でしたら善処をお願いいたします。
 もちろん、すでに対策は立てておられることでしょうが。

Re: 『日本史研究』511号の21頁に御注目。

前川佳代
No.3472

野口先生、紹介していただきありがとうございます。「前陸奥守源頼俊申文」については5年前に盛岡で開催されている蝦夷研究会で報告したままでした。小口氏の論考にその時のレジメが引用されており、これではマズイ(小口氏は私の報告は聞いておられず、レジメだけが一人歩きしているので)と、書陵部蔵の写本の他にいくつか残る写本を調査中です。現在のところ、写本は3系統に分けられそうですが、問題の「貞」か「真」かは、「貞」であると思います。写本による確認も第一義ながら、いかんせん近世の写しであるため、「貞」か「真」かという問題は、「鎮守府将軍貞衡」の存在について掘り下げることも必要かと存じます。そのあたりは、野口先生の御領域かと・・・。樋口氏の見解も楽しみですし、私のお尻にも火をつけざるをえません。

複合権門都市としての「宇治」。

No.3433

 昨日のゼミ宇治見学会は27日に予定されている「明月記研究会」の宇治見学御案内の予行とはいえ、院政期政治史、とりわけ宇治の都市的発展に大きく関与した藤原忠実に関する御著書のある元木先生、院政研究の第一人者にして最近「権門都市」に着目されている美川先生、考古学の立場から巨大都市複合体としての中世京都都市圏の研究を提唱・推進されている山田先生の御参加をいただいて、たいへん得るものがありました。
 当初、天候が心配されましたが、徒歩の見学の間は、幸いにも降雨に遭遇せず、宇治陵の実態について山田先生から詳しい御案内をいただくことが出来ました。
 また、宇治市歴史資料館では、同館で発掘調査に携わっておられるすべての先生方から御教示を仰ぐ機会を得、また、27日の見学会についても積極的な御協力をいただけることをうかがって、本当に楽しく、かつ安堵の思いをさせていただいた次第です。あつく御礼申し上げます。
 近年、考古学的な調査の成果に基づく新たな情報が蓄積される中で、摂関家の権門都市宇治にたいする研究は、今後活況を呈することになると思います。昨日の見学会は、若いゼミメンバーも含めて、これからこの時代の宇治の都市史研究を牽引すべき人たちが、一堂に会した観があり、ある意味で記念すべき日となったのかも知れません。
 そのようなことと、見学会が無事に終了し、27日もどうやら御案内の手順が整ったようだし・・・といった安堵感が夜の宴会における小生の饒舌につなかったのだと思います(しかし、本日は寒いこともあって、さっそく腰痛にさいなまれております)。

>元木先生  お疲れの所、遅くまでおつきあい下さり、ありがとうございました。
>田中さん  例によって目的と参加者が多様化した宴会の幹事、ありがとうございました。なかなか、良いお店でした。
 ついでながら、研究室においてある本をお忘れなく。

『明月記』研究会の皆様へ。

No.3434

 27日の宇治見学会について、幹事の尾上先生に直接メールをお送りいたしましたが、あるいは既にご出発になっておられるかも知れず、また参加者の方には事前にお知らせしておいた方がよろしいかと存じますので、ここに同内容の情報を掲載させていただきます。
 昨日、上記のように、見学会の予定コースを回ってきました。JR六地蔵駅から浄妙寺跡・宇治陵などを経て京阪木幡駅まで、約2時間を要しました。木幡からはJRでは電車の本数が少ないので、京阪を利用しました。当初は宇治に着いてから宇治市街の遺跡を御案内してから歴史資料館に向かうつもりでしたが、27日は昼食の時間や歴史資料館までの移動方法の問題で、京阪宇治駅からタクシーで直接歴史資料館に向かうことに致します。
 歴史資料館では館員の浜中邦弘先生が資料を用意して御案内してくださり、さらに平等院など宇治市街の見学についても対応していただけるとのことです。歴史資料館から昼食のお店までは、タクシーを利用することになると思います。私はこの時点で失礼させていただきたいと思います。
 なお、気のついた点を列挙しておきます。
① 朝JR六地蔵駅集合後、徒歩で2時間ほど見学の間、トイレ休憩の場所がありま
せん。
② 27日は観光シーズンの日曜なのでタクシーがつかまりにくいかもしれません。
歴史資料館への往路は駅前で客待ちの車に順次乗車ということになりますが、帰路は
電話で呼ぶことになります。なお、運賃は片道一台800円くらいです。一台に4人
乗車としても7台必要です。
③ 当日は小生の助手役として当ゼミ所属の院生・学生2名ほどが同行させていただきますが、よろしくご了承下さい。

『中世の都市と寺院』などの御紹介。

No.3435

 高志書院から吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』が刊行されました。同書には山田邦和先生の「院政期王権都市嵯峨の成立と展開」や今回の見学会でたいへん御世話になった浜中邦弘先生の「宇治の都市的空間成立と平等院」をはじめ、福原・大宰府などをテーマにした興味深い論文が収録(満載)されています(本体2500円)。
 山田邦和先生の嵯峨に関するもうひとつの論文「中世都市嵯峨」は、京大の金田章裕教授を研究代表者とする平成14~16年度科学研究費補助金基盤研究得(A)(1)研究成果報告書「平安京-京都の都市図・都市構造に関する比較統合研究とデジタルデータべースの構築」に収録されています。
 昨日、上記の『中世の都市と寺院』および掲載御高論抜刷、「中世都市嵯峨」の抜刷をいただきました。また、前にこのbbsでご紹介させていただいた元木先生の御高論「伏見中納言師仲と平治の乱」も、直接頂戴いたしました。両先生にあつく御礼申し上げます。

東大史料編纂所の高橋・保立先生から。

No.3436

 先般の東京方面のゼミ旅行で大変御世話になった東大史料編纂所の保立道久先生と高橋慎一朗先生から御高論抜刷および御共著の書籍をいただきました。
 ・保立道久「都市王権と貴族範疇-平安時代の国家と領主諸権力-」(奈良女子大学「日本史の方法」研究会『日本史の方法』創刊号、2005年3月)
 ・五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』(小学館)
    高橋先生は、第四章「『平家物語』ゆかりの地」を担当され、ここに山田先生御夫妻の作図(当研究所紀要17号掲載)をべースにした「六波羅、法住寺殿周辺図」を掲載されています。
 ちなみに、この本については山田ちさ子さんのblog「平家物語」に詳しく紹介されています。
 保立先生・高橋先生に御恵送をあつく御礼申し上げます。

『中世の都市と寺院』

No.3439

野口先生、皆様、昨日はありがとうございました。楽しかったですね。

拙稿の掲載された、吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』、ご紹介いただき、ありがとうございました。(ただ、岩田書院ではありません、高志書院です)。なかなか刺激的な論文揃いです。中世の奈良の考古学なんて、他ではちょっとお目にかかれません。

定価2500円+税。希望者が集まればご連絡いただければ、著者割引もききます。

お世話になりました

No.3442

 野口先生、ご心配頂き有難うございました。
 最近行事続きで飲みすぎたのと、少々ややこしいことでめげておりました。昨秋からの疲労がボディーブローのように効いて来たようです。
 もう自分の体力、気力と相談しな意図、仕事ができない年になったことを、痛感いたしております。何がショックといって、あの程度のビールで胃がもたれ、胸焼けがするとは・・・。
 
 それはともかく、宇治というと、どうも平等院周辺のイメージしかなく、今回のように宇治陵から宇治の旧来の市街地まで、歩いてみると、宇治に対する新しいイメージが得られたように思います。
 山田先生のご解説で、宇治陵の実態が良く分かりました。道長までの摂関家は、実に貧弱な墓所しか設けておらず、先祖崇拝と結びつくイエ観念が乏しさが実感されました。
 資料館の杉本、荒川両先生の懇切なご説明には本当に感謝しております。
 浄妙寺と離れた宇治川沿いに頼通が別業をつくり、少し離れた場所に師実の泉殿、忠実の富家殿が造営され、白河金色院が出現する。12世紀初期までの宇治は、浄妙寺、平等院、金色院、諸邸宅が散在する地域だったように思われました(荒川先生のご指摘のように、こうした理解は今後の発掘によって大きく変化する可能性も高いのですが)。
 ところが、大殿忠実の時に、平等院を中心として碁盤の目のような町並みが整備され、権門都市として、凝集と発展を遂げた様相が浮かび上がります。
 逆に、保元の乱後、摂関家の別業は、松殿、あるいは岡屋と、再び散在し、平等院付近は衰退するとのこと。
 まさに複合権門の時期に、宇治は都市として最も発達したことになります。
 美川先生のご指摘のように、王家では皇統の変化とともに、権門都市は移転するのですが、宇治が衰退し、別荘が散在せざるを得なかった所に、摂関家のおかれた状態が明瞭に示されているように思われます。

 田中さん、懇親会の幹事役お疲れ様でした。多彩で味付けもあっさりした、いい料理でしたね。近藤先生ならともかく、分量も適当でした。
 あそこは、レストランスターのチェーンとのこと。スターといえば、74年春、大学に入って初めてコンパをしたのが、当時四条木屋町にあったスターでした。外観が変わっても、古くからの店が健在だと少しうれしくなります。
 こういうのも、年寄りの繰言ですかね?
 
 明日の義経、見たいような、見て血圧が上がるのも怖いような。

24日の宇治歴史散歩はこうします。

No.3429

 まさに天に見放されたらしく、京都府南部の24日の天気は午前中は晴天にもかかわらず、昼を過ぎるといきなり雨とのこと。白河上皇なら「雨水の禁獄」必定。
 とはいえ、本日(23日)、単騎、伊予国から応援に駆けつけてくれた山岡さんと、家内制手工業で一生懸命に作成した資料もあることですから、予定通りに敢行の所存です。 ただし、雨量や気温の具合で、徒歩による見学は多くを割愛に委ね、宇治市歴史資料館・平等院鳳翔館・源氏物語ミュージアムなど、屋内施設中心の見学への変更を考慮したいと考えています(入館料を御用意下さい)。
 ということですので、それでは面白くない、お金がかかるのは困る・・・と判断される方は、不参加もやむなしと考えます。まあ、歴史散歩が雨と寒さの地獄でも夜の宴会で極楽気分になっていただければ幸いとするところであります。
 小生が閻魔大王、否、ヒラの鬼なら、田中さんは天女といったところでしょう。
 いずれにせよ、JR六地蔵駅改札口前13:00集合、即スタートします。

 >石浜さん  またNHKブックス(石原千秋『評論入門のための高校入試国語』)を頂戴して、恐縮です。
 ちなみに、小生も山田邦和先生との共著で『原典作者には絶対正解のわからない大学入試国語』という本が書けるかも知れません。

野口先生絶好調

美川圭
No.3432

昨日の宇治歴史散歩、なんとか天気も予想ほどの崩れはなく、
野口先生の行き届いたご解説とご案内、
山田先生の宇治陵でのご解説などで、
たいへん有意義な見学ができました。
とくに、小生、浄妙寺跡、宇治陵、松殿山荘周辺、許波多神社など、
行ったことがない遺跡が目白押しで、楽しかったです。
とともに、宇治の平等院、市街地遺跡などとの関係を、
どう考えたらいいか、という難しい課題の重要性を、
認識できたと思います。
また、準備をしていただいた幹事長の田中さん、山岡さんにも、
深くお礼申し上げます。

また、宇治市歴史資料館で解説をしていただいた、
杉本先生、荒川先生にも、たいへん感謝しています。

なお、当日の詳細については、ゼミ生のどなたか、
まとめて報告してください。
勉強になりますよ。

と堅い話はここまでにして。

夜の宴会はたいへん盛り上がりました。
とくに、野口先生は最近にないほど絶好調。
その理由は、どうも、前に座られたお美しい2人の先生、
とお見受けしました。
まあ、野口先生、その先生方に、しゃべる、しゃべる、しゃべる。
最近、ちょっと、お疲れ気味かな、と心配していたのですが、
やはり、野口先生も・・・・とたいへん、ほほえましく思えました。

Re: 24日の宇治歴史散歩はこうします。

No.3437

 昨日はありがとうございました。
 初参加でしたが、淨妙寺跡や松殿山荘など、野口先生、山田先生の懇切な資料プリント付のご解説もあって、大変興味深く、有意義な一日を過ごさせていただきました。特に、研究熱心な若い方々とご一緒できまして、久方ぶりに清新な気分を味わえました。
 夜のお疲れ様会も、楽しく過ごさせていただいて本当にありがとうございました。

 >野口先生、このところお疲れ気味であったとか?お腰の具合は大丈夫でいらっしゃいますか? 孝子さまにはいつもお世話になっています。お心遣い、感謝申し上げます。
 >幹事長の田中さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 来年度はどうなるかわかりませんが、また参加させていただける機会がありましたら、よろしくお願いいたします。

24日の宇治歴史散歩の写真。

No.3455

 「ぼんやり夫人」こと山田ちさ子さんのblog「平家物語」・・・ではなく、ラン2さんのHP「平安京探偵団」に、24日の見学会の時の写真がupされています。植村先生・山岡さんらしき後ろ姿あり。

 ちなみに、このところ人気blogランキングでは、山田御夫妻のトップ独占は変わらないものの、1位がこの「平家物語」、2位が「平安京閑話」と逆転の形勢。これでは「婦唱夫随」です。

「お疲れさま会」参加者の確認

No.3417

タイトルの件、最終確認です。
 野口実先生・野口孝子先生・元木先生・美川先生・山田先生
 植村先生・高重先生・山内さん・山岡さん・長村くん・門屋くん
山田さん・永富さん・末松さん・鈴木くん・鍛冶くん・田中
以上17名です。今日・明日中にお店に最終の連絡をしなければ
なりませんので、間違い等ありましたらお手数ですが上記のメール
アドレスまでご連絡下さい。

山田先生御夫妻の健闘に拍手。

No.3418

 田中さん、面倒な幹事役をありがとうございます。田中さんの「お疲れ様会」もやらねばならなくなりそうです。
 ところで、前に「人気blogランキング」(歴史ジャンル)というのを御紹介いたしましたが、先程覗いてみたところ、山田邦和先生の「平安京閑話」が第一位、ちさ子さんの「平家物語」が第二位とトップを御夫婦で独占されていました。「夫唱婦随」(死語?)とはこのことを言うのでしょう。まずは、おめでとうございます。
 「平安京閑話」は、無論歴史学・考古学(さらには国文学)に関する山田先生の新鮮な御見解のみならず、第一線に立っている研究者の生活を知る上で後進にとってはとくに貴重なものと思えますし、「平家物語」はまさしく『平家物語』関連の情報(それも、学問的な枠組みを踏まえながらも楽しみつつ)の山が構築されています。ぜひ、末永く上位を独占してほしいものです。
 これに肉薄している中村武生先生の「歴史と地理な日々」のご健闘も祈ります。

 小生も本日は研究室で「宇治歴史散歩(六地蔵・木幡編)」のレジュメ作りに「健闘?」しておりましたが、途中、「弁慶」云々で朝日放送「探偵ナイトスクープ」の担当の方から電話があったりいたしました。後で調べてみたら、この番組はずいぶん視聴率が高いようです。ちなみに、当bbsも諸先生方の『義経』評のためか、日に400件もアクセスがあったりして驚いています。

 ところで、山田さんと言えば、ゼミ旅行に参加してくれた千葉の山田さんはお元気ですか?
 
 >永富さん  路上に出れば、免許取得まであと僅かです。

探偵ナイト・スクープ

美川圭
No.3420

>野口先生
24日はよろしくお願いします。
ところで、探偵ナイトスクープからどんなお電話?
あの番組、ここのところ、『義経』以外で唯一私が毎週見ている番組です。
たしか、野口先生もよくご存じの在東京の歴史家(もと在関西)
もこの番組を欠かさず見ているという話を聞きました。
実にくだらないのですが、そのくだらなさがなんとも心地よい番組です。
うちの娘もいっしょに見ているので、私をねたに応募するかも知れないと、
さいきん戦々恐々としているのですが。

Re: 山田先生御夫妻の健闘に拍手。

No.3422

>野口先生
「人気blogランキング」(歴史ジャンル)のお話、ご紹介いただいて恐縮です。でも、なんか恥ずかしいので、もうこのランキングから撤退しようかと、家で話し合っています。急に消え去ってもご不審に思われないでくださいませ。
でも、こういう形で自分の記録を残しておくのは悪くないと思います。遠い将来の文献史学は、紙に書かれた記録よりも、あちらこちらのメイン・サーバーに埋もれているデジタル文字情報を「発掘」するのが中心的な仕事になるという予感がいたします。明るい未来なのか悲惨な未来なのかは知りませんが・・・・

年寄のぼやき

美川圭
No.3423

>山田先生
>「人気blogランキング」(歴史ジャンル)のお話、ご紹介いただいて恐縮です。でも、なんか恥ずかしいので、もうこのランキングから撤退しようかと、家で話し合っています。急に消え去ってもご不審に思われないでくださいませ。

「人気blogランキング」(歴史ジャンル)1位2位独占。やー驚きです。
私など、自分の日記さえ、いつも半月遅れで、電子手帳の予定をながめながら、
時間のあるときに書いているぐらいですから。

さて、インターネットが一般に本格化したのは、1995年(異論もありましょうが)。
ウインドウズ95が出た年だったと思います。
私は、その年の夏、学生を98人も引き連れて、
シアトルのワシントン大学に行ったのですが、
シアトルはいわずと知れたビル・ゲイツの本拠。
インターネットの段違いの普及に目をみはり、
ホリエモンじゃないけれど、
これからは、このメデイアが世界を支配すると確信しました。
その後の10年間、予想通り、インターネットの普及はものすごい。
でも、私は、もうかなり冷めているところもあります。
裏もずいぶん見てしまったから、95年のころのような、すべてバラ色、
ではありません。しかも95年のアメリカも輝いていた。
なにせ、部外者にとてもやさしかった。
ワシントン大学の図書館の本が、書庫まで入れて、自由に読めたのは、
感激でした。あれから、アメリカもずいぶんと変わりました。

>でも、こういう形で自分の記録を残しておくのは悪くないと思います。遠い将来の文献史学は、紙に書かれた記録よりも、あちらこちらのメイン・サーバーに埋もれているデジタル文字情報を「発掘」するのが中心的な仕事になるという予感がいたします。明るい未来なのか悲惨な未来なのかは知りませんが・・・・

しかし、紙とちがって、電子(デジタル)情報はもろいですからね。
テレビは残っているとしても、昔のものはすべて磁気情報でした。
これもフィルムより弱い。あっというまに消滅するのです。
記録媒体の問題は、歴史家にとっても、総合的に考えてみる必要があります。

前にウイーンの街で、建物の外壁をはがして、
何百年前の建物を「発掘」するのを目にしました。
考古学は、地下を掘るだけではないのですね。
日本で言うと木造古建築の解体修理のときの調査にあたるんでしょうか。

昔の大河ドラマが、ほとんどといっていいほど、
もう消えてしまっています。
あの、私の将来を決めた1965年「太閤記」など、本能寺の変しか、
残っていないのではないでしょうか(詳細は拙著『院政の研究』あとがき)。

それから、大河ではないですが、
やはりNHK、1971年の「天下御免」。山口崇が平賀源内を演じた歴史ドラマ。
早坂暁の脚本は冴えまくり、あのわくわくする史実を離れた創作には、
毎回、熱中しました。とんでもないドラマでしたが、とにかくおもしろかった。
たしか、最後、源内はフランス革命のさなかのフランスへ行くんじゃなかったかな。
今年の「義経」チンギスカンにさえ、ならんだろう。
歴史家をコケにして、史実をふみはずすんだったら、そこまでやらなかったら。

当時中学生だった私は、東京六本木が通学路だったのですが、
あるとき、テレビ朝日のまえの交差点で、源内の恋人役を演じていた
デビューしたばかりの中野良子さんにすれちがったときは、
狂喜乱舞したのを覚えています。
このドラマももうほとんど消えてしまって、
山口崇が自分で個人的に家庭用ビデオで録っておいた1回分のビデオしかありません。
民放のドラマの方が保存されているようですが、それにしても、
1970年代のテレビ作品でもこのありさまです。
そのおかげて、今年の「義経」程度のできでも、みな喜んで見ているのかも。

若い皆さん、昔のNHKの歴史ドラマはおもしろかったんですよ。

Re:年寄のぼやき

No.3424

>美川先生
完全同意です。

理系(特にコンピューター関係)の連中や、文系でもやたらにコンピューターを使いたがる連中は、これからはすべてデジタル情報の時代だ、といいたがりますが、彼らは情報の保存ということにまったく興味がない。
理系では論文を公表するとき、紙媒体ではなくインターネットで流すことがもはや常識となっていて、文系でもそれに追随する方向性があるようですが、しかし、その論文の「保存」は誰が保証してくれるのか? 紙媒体であれば、少なくとも近代のものであれば、探しまくればどこかには保管されているだろう。しかし、電子情報は、世界中のどこにでも瞬時に流せる代わりに、気が付いてみたら世界中のどこにも残っていなかったということが起こりうるのです。日進月歩で過去の論文などすぐにゴミになる理系ならばいざしらず、何十年・何百年先を見透さなければならない文系の学問としては、これでは困るのです。

さらに、コンピューターの場合、情報が残っていても、それを読むことのできるアプリケーションが使えないということがありうる。コンピューターやソフトの技術者は未来ばかりを見ていますから、そういうことをまったく考慮しないのですね。
私の論文や図面のかなりの部分は、古い古いソフトで作られています。ソフト会社がなくなっていたり、会社は残っていてもそのソフトは見放されているのです。今、手元にあるパソコンではなんとかそのワープロや図面ソフトが動くのでまだ安心なのですが、パソコンを買い換えたら、それらはもう動かないかもしれない。そうなると、せっかく蓄えてきた資産がパーになるかもしれないのです。

コンピューター関係者にそう愚痴ると、今のソフトに対応できる形式に変換すりゃいいじゃないか、と言って一顧だにしてくれません。しかし、数限りないデータをいちいち変換するのは考えただけでも気が遠くなりそうな作業です。図面データにいたっては変換すらできません。
ですから、最近では、文字情報はテキストファイルで、写真はJPEGでとにかく残すようにしています。この両者とていつまで持つか安心はできませんが、栄枯盛衰の激しい他の形式に比べるとまだしもだろう、ということです。(しかし、テキストファイルは漢文の返り点がちゃんと打てないという別問題がでてくる)。困るのは図面。将来を考えると薄氷を踏んでいるような気がします。

とにかく、文系が一致して、コンピューター業界の暴走を食いとめる方法はないものでしょうかね。

Re:??年寄のぼやき2

No.3425

>美川先生
書き忘れた。山口崇の「天下御免」、私も子供の頃見ていました。とにかく楽しかった~っ。テーマソングの断片を今だに覚えています。たしかに、今から思い出しても、あれだけハチャメチャならば、逆に歴史学研究者は文句のつけようがありませんよね。

パソコンの功罪、手書きの効用。

No.3426

 >山田先生  人気blogランキングは、ベストセラーのランキングみたいなものですから、あえて撤退の要はないかと思います。
 それから、元木先生や美川先生・山田先生までが老人とか年寄りと自称されるのは困ります。小生、身の置き所がありません。
 先日、16歳の伊藤さんからの書き込みをいただきましたが、このbbsに書き込んだ最高齢者はひょっとすると・・・?

 コンピューターの件は、理系の鈴木君からコメントをいただきたいところですが、小生が問題にしたいのは、手書き論文の消滅によって学問そのものが如何なる影響を受けているかということです。
 手書きとパソコン入力とでは、脳の活動にだいぶ差がある由。我々の世代は、院生の頃までは論文を手書きで書いていました。拙著『坂東武士団の成立と発展』など、全部手書きで、索引はいちいちカードを作って、たいへんな時間を要して完成させたものです。
 史料からの検索など、今ではパソコンで済ます人が多いようですが、かつては、これも本をめくりながらカードやノートを作成してという方法でした。しかし、その作業の過程で、予期せぬ多くの発見や思考の整理がされたり致しました。
 いまの院生等若い方たちの論文を読むと、データはびっしりなのに、変な表現ですが、血の通った論旨が伝わってこないものに出くわすことがあります。
 論文が手書きからワープロやパソコンで書かれるようになってからの変化、プラス・マイナスについて、そろそろ考えるべき段階に来ているのかも知れません。
 パソコンを使えないと生きてはいけない時代ですが、これからは手書きやアナログが再評価されるようになると思います。やはり、研究者たる者は、すべからく、家に大きな書庫を持ち、本の重さを体感しながら、学問に打ち込まざるを得ないでしょう。
 小生も能書の山岡さんから毛筆の手ほどきを受けたいと思っております。ちなみに、近刊の『紫苑』第3号の題字は、山岡さんの手になるものです。

 >美川先生  小生も『天下御免』視ておりました。林隆三がよかったです。
 ほかに、あのころのNHKでは、柴俊夫と西田敏行の出ていた『坊ちゃん』の愉快さも忘れがたいです。たしかに、昔のNHKはまともでした。大河ドラマでも美川先生の人生を決した『太閤記』や『龍馬がゆく』など、じつに少年の心を捉えるようなインパクトがありましたね。

『天下御免』の田沼意次像

美川圭
No.3427

『天下御免』についてもう少し。
実は、はちゃめちゃなドラマに見えて、きちんと歴史学の成果も受け入れて、
作られていたということを思い出します。
学校の教科書などでは、田沼意次は賄賂政治の権化で、ひどい扱いをうけていたのですが、ドラマの中では、源内を支持する準主役級で、非常に魅力的で清新な政治家として登場していました。
江戸時代の商業流通経済の発達に見合った、あるいはその流れを積極的に推進した政治を行った政治家という、意次再評価の流れを受容したドラマ作りがなされていたのだと思います。ということで、最近の大河ドラマなどの、歴史学説のつまみ食い、本質無視の姿勢とは、はちゃめちゃドラマといっても、その性格が大きく異なっていたのです。
ひとこと付け加えておきます。ただし、なにせ中学の記憶ですから、間違いの可能性もありますが。

白河のきよき流れに耐えかねて・・・

No.3428

 美川先生の『天下御免』における田沼意次像の御指摘、その通りでした。たしか仲谷昇が演じていたはずです。今は秋野太作と名を変えている津坂匡章も稲葉小僧という役で出ていて、これも良かった。

デジタルにおける情報の保存について

No.3430

 電子化、高度情報化におけるメリット・デメリットというのは、新しい処理手段が出てくる時にかならずついてくる問題でもありますが
 やはり、便利だからこれだけ普及するのだと思います。

 山田先生のご指摘の、理系人間は情報の保存に興味がないとの事ですが
 僕個人としては、理系の人間ほどデータのバックアップに細心の注意を払っているのでは、と感じています。
 大学の情報処理センターのバイトでも、学部生・院生の場合で、論文をフロッピー一つで管理しているような危うい状態の人は、国語・社会の学科の人間が多かったです。
 コンピュータの雑誌等でも、企業向け広告の3分の1は、バックアップ関連製品でもあったりします。大量に情報を扱うような業務の場合は、情報の管理や保存はとてもシビアにやっていると思います。

 情報の「保存」の保障は、自分でやらなければならないと思います。紙媒体でも地震や災害に対しては全く太刀打ちできません。コピーを取ろうと思うとお金もかかります。逆にデジタルデータは、全く同一内容のものを瞬時に複製できます。面倒ではありますが、いろんな場所に複数のコピーを作成するのが、鉄則です。

 東大史料編纂所の感想にも書いたように思うのですが、大きな所でも予算などの関係上、離れた場所への遠隔バックアップなどはまだまだ整備されていないのが現状です。紙媒体の保存にくらべて、電子情報に関することもまだまだ理解されていないからだとも思います。メディアの特性にあった管理方法さえきっちりしていれば、紙も電子データも有意さは変わらないと僕は思います。

 逮捕者がでたファイル共有ソフトのWinnyですが、自分の持っているファイルを他の人のディスクへ分散させて保存し、データの散逸を防ぐという機能もあったりします。不正コピーはだめですが、コミュニティ全体で情報を共有しデータも相互に持ち合うという仕組みは、↑にあるようの管理方法の新しい形を示していたとも言えます。

 安くコピー出来てしまうだけに、面倒だったり高価なバックアップサービスは敬遠されてしまうのですが、対価を払わない限りはやはり安全性は保障されないのは、紙媒体もデジタルデータも同じだと思います。

P.S.僕自身は、プログラムを書くときなど、紙に印刷してチェックすることがほとんどです。パソコンの中で完結してしまうのは、未だに怖いです。
 こういった、メディアの違いによるメリット・デメリットをきっちり把握して、適切な手段を選ぶことができるような、そういう勉強のできる「情報」の授業を4月からやっていきたいなと考えています。(不安でいっぱい☆)

情報の発掘に関して

No.3431

情報の保存に関しては、いろいろと問題があるのですが
発掘に関しては、もうあと数年で解決しそうな感じです。

来年あたり、トレンドになるのが「デスクトップ検索」という機能です。
ホームページの検索については、ここ数年でめざましい進歩をとげて、とても便利になりました。その技術を個々のパソコンへ応用しようとするものです。
[参考]http://www.google.co.jp/intl/ja/press/desktopsearch.html

また、Windowsの次のバージョンでは、ファイルの検索をすばやくするための仕組みが、はじめから導入されて、「デスクトップ検索」も標準装備の予定です。

ジャストシステムなどの研究によって、日本語の文脈解析などは使い物になるようになってきていますし、「○○についての資料」というキーワードだけで、過去に収集したハードディスク上のワードファイルを探しだしてくれる...みたいな事はもう少しで実現されそうです!!

Re: デジタルにおける情報の保存について

No.3438

?>鈴木 潤様

 ちょっと議論がすれ違っていますね。私は、個人個人のデータのバックアップを問題にしているわけではないのです。情報を、未来永劫、人類社会がどう保持してくか、ということを心配しているのです。

 紙媒体が万全でないことはいうまでもありません。しかし、その万全でない紙媒体を人間は数千年使い続け、試行錯誤しながら、そこに載せられた情報を永久保存する方法を開発してきました。それが、図書館や文書館、文庫、土蔵、(敦煌の石窟や正倉院も含まれるかも)といった設備です。もちろんこれらにしても、保存される紙媒体は九牛の一毛にすぎないかもしれません。しかし、そうした設備は、「情報を未来に伝えよう」という、人間の熱い思いの結晶だということができます。

 それに比べて、電子データはどうでしょう。人間は、電子データの永久保存について紙媒体のような苦闘の歴史を持っていません。たとえば、インターネットに流される情報はほとんど無限大に近い。しかし、その情報のすべてを永久保存するシステムは、世界のどこにおいても存在しないはずです。

 そもそも、電子データは刻々と変わるものです。掲示板などはリアルタイムで成長するし、ホームページも毎回更新されます。その点では、電子データを固定し、保存するというのは論理矛盾なのかもしれない。しかし、日々刻々と変わるということは、ある日突然なくなってしまう、ということもありうるのです。それは、個人的なバックアップの範囲を遥かに超えている問題であり、全社会的な課題であるはずです。

 さらに、前項で指摘しましたが、電子データだけを残していても、それを読むことのできるアプリケーションが使用不能になる、という危険は、バックアップをとることによっては決して解決されません。ある研究者は、すべての情報はテキストファイルかHTMLかPDFに変換して保存すべきだ、と主張しています。確かに、無数にある電子データ形式の中では、この3者はまだしも信頼に足るかもしれない。ただ、本当は、この3者でさえ未来永劫かといわれると、首をかしげますね。

たとえば、この掲示板の情報、千年後に残すためにはどうしたら良いか、それを真剣に考えるべきだと思います。
(電子データが不便だといっているわけではないし、電子データ不必要論を唱えているわけでもない。紙媒体の方が電子データよりもすべての局面で優れているといっているわけではない。そのあたりのことを誤解しないでください)

 

Re: 「お疲れさま会」参加者の確認

No.3440

山田先生

 僕自身、感情的になっている所もありましたので、その点についてはお詫びいたします。
 千年の保存という点では、先生の仰る通りで、電子データに勝ち目はないと思います。
 ただ、図書館や文書館も「情報を未来に伝えよう」という思いの根元には、持っていると価値がある、身分が保証される、「かっこいい」等の、保存する側のメリットが存在するから、行われていた行為だとも思います。その分、電子データについては容易に複製が聴くために、所持している事自体へのメリットはあまり無いでしょう。
 このあたりは、CDのデジタル複製についての議論とも同じだと思いますが。

 銀行や役所でも、電子化はしていても情報を持っている事自体の価値があるために、マイクロフィルムやプリントアウトなどの、いわゆる物理的な媒体への複製は行われています。結局は、再利用(つまりコピー&ペースト)するための利点は無くなりますが、現状でも保存については印刷するしかないのだと思います。

 電子データ、特にインターネットは、声の同じような特性のものだと思います。結局は他人とやりとりする回線でしかないと。固定するためには、やはり変換が必要です。
 インターネットに関しては、発信者側が保存する努力をする、という事しか対処が出来なさそうです。

 50年くらい先の事を考えると、電子データも“電子”ではなく、物質的にガラスみたいな材質のものに、ホログラムとして記録するという事が可能になるはずです。
 電子データはかなり若いメディアです。数年もすると、古文書演習の授業のように、古データ形式解析演習のような授業も出てくるかもしれません。
 コンピュータ業界の暴走という表現になるのが残念なのですが、情報の価値、媒体の特性をきっちり理解されているような、世の中になって欲しいと思います。

『歴史に見える義経』の御案内

No.3413

毎日文化センター講座の御案内を再掲します(もう一度くらいする予定です)。

     『歴史に見える義経-判官びいきの背景-』
 平氏追討にあたって、武将としての天才を発揮した源義経は、後に兄頼朝にうとまれ、奥州・平泉で悲劇的な最期を遂げました。義経を愛惜する人々の心情は「判官びいき」を生み出しましたが、それだけに義経については伝説的な部分も多い。講座では、義経の生涯について真実と虚構との別を明らかにしていきます。
 【開講日】第2・4火曜 15:15~16:45
 【会場】毎日文化センター(大阪梅田・毎日新聞ビル2F)
 【講師】京都大学名誉教授・皇學館大学教授 上横手雅敬 
      京都女子大学教授            野口 実
 【内容】4/12,26 義経についてのさまざまな見方(上横手)
     5/10,24 平治の乱後の政情と雌伏期の義経(野口)
     6/14,28 義経の合戦と政治(野口)
     7/12.26 後白河・頼朝・義経(上横手)
     8/ 9,23 逃亡する義経とその支援者たち(野口)
     9/13,27 「判官びいき」とその背景(上横手)
 
 申し込み・お問い合わせ 毎日文化センター (お早めに)
Tel:06-6346-8700
Fax:06-6346-8703
E-mail:info@maibun.co.jp
URL:http://www.maibun.co.jp/
 
☆ 源義経について、その人物、背後の政治・社会情勢について、現在、世界中で一番理解されておられるのが上横手先生だと思います。義経ファン必聴!
 のみならず、史学・国文専攻の方たちにも広くお勧めいたします。

また『義経』です。

No.3400

 この掲示板に書かれた、大河ドラマ『義経』に対するコメントをもとにして、さらにコメントを付したサイトのあるのを見つけて驚くとともに、これはいい加減な発言は出来ないと思い、今日は放送前に今までの放送で気になったことを先に述べておきたいと思います。
 ① 元木先生が講演会で速射砲のように指摘されたように、制作者に中世前期の各層における女性の存在形態に関する認識に欠けるところが大きく、近世・近代的な日本女性のあり方が再生産されている。あるいは、意図的にでしょうか?
 ② 「武士」と「貴族」に対する理解も同様の旧態依然たる認識に基づいていて、それに立脚することによって、実は大変面白くできるはずのストーリーを単純化している。これもまた、あるいは意図的にでしょうか?

 これらは、大河ドラマが国民の歴史認識を形成する上で、あるいは学校教育以上の威力を有している現状を踏まえるならば、いささか問題とせざるを得ません。
 なにしろ、この国では高等学校で自分の国の歴史が必修科目になっていないのですから。
 
 義経の家来については、みなさんの言われるように、桃太郎・三蔵法師や水戸黄門の家来を思い出してしまいます。
 伊勢三郎は、実在が確認できて「侍身分」を有した存在と考えられるますし(拙著『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』参照)、金売り吉次のモデルは、当時、列島規模の遠隔地交易に携わっていた摂関家あるいは院の御厩舎人であることが五味文彦氏によって指摘されているのですから(同氏「日宋貿易の社会構造」参照)、ちょっとやり過ぎという印象をもっています。

Re: また『義経』です。

No.3402

こんばんは

>これらは、大河ドラマが国民の歴史認識を形成する上で、あるいは学校教育以上の威力を有している現状を踏まえるならば、いささか問題とせざるを得ません。
とのお話ですが...実際に影響を与えている例を見つけてしまいました。

アルバイトの関係上、同志社香里中の過去問を数年分のぞいていたのですが
 社会の問題で、大河ドラマのタイトルとテーマ・時代と放映年における主な出来事を表に示して、虫食いの穴埋めという形式で出題されていました。
 もちろん、ドラマの内容に関する出題では無いですが、このような形で取り上げられるとなると、小学生や中学生の受験生達もニュース同様に大河ドラマを見なければならない状況だとも言えると思います。

 確かに、大人からみれば「おもしろい問題」ですが、受験する彼らにとってはシャレにならないので難しい所ですね。

 P.S.福岡・佐賀の方で大きな地震があったようですが、野口ゼミ関係者にも震源地近辺にお家があるという方もたくさんおられたと思います。大丈夫でしたか??
 松山市内の友達にきくと、愛媛でもかなり揺れたとの事でした。(NHKでは、80周年記念番組をずっとやっていましたが...)

Re: また『義経』です。

No.3403

なんと、母校がそんな入試問題を・・・(^^;)
社会科の先生方は個性的だったからなぁ。

小学生時代に通っていた塾の先生は「大河ドラマを見て勉強しよう」
なんて言ってたような気がしますが、果たしてちゃんとした歴史認識が
あっての発言だったのかどうかは定かではありません。

香里の歴史の先生にはテレビ番組の歴史認識に電話で抗議した、なんて
誇らしげに言ってた人もいましたが・・・ねっ、門屋くん!(笑)

「ほうじゅうじでん」は困ります。

No.3404

 今日の放送は、「ドラマはドラマ」と雲の上から高みの見物というわけにはいきませんでした。
 ドラマがはじまる前の「解説」?で、「家人と家礼」の説明がはじまり、「おっ、佐藤進一説の紹介」かと思いきや、「家礼には恩賞がないが複数の主人に仕える権利があり、家人は一人の主人しか仕えられないが恩賞がもらえる」というような変な解説がされていたと小生には受け取られたのですが如何でしたか?これは、マズイのではないでしょうか。明らかに嘘でしょう。
 そのうえ、ドラマでは、あの気持ちの悪いナレーションで「ほうじゅうじでん」とやられては堪りません。これから、講演や授業で「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と話すと、かならず「先生、それは『ほうじゅうじでん』と読むのではないですか」という人が出てきて、「いや『ほうじゅうじどの』です」と答えると、疑わしそうな目つきで「でも、大河ドラマでは『ほうじゅうじでん』って言ってましたよ」・・・という場面が想定される訳であります。なにしろ、NHK大河ドラマの権威はたいそうなものなのです。
 ところで、山田先生も同志社香里の御出身でしたよね?

 ★ 北九州の地震ですが、福岡県の平田さん・笠(旧姓)さんの御実家、佐賀県の田中さんの御親戚やゼミ旅行でお世話になった小城市の方々のことが心配です。
 大丈夫だったでしょうか?

不可!

No.3406

 野口先生、お怒りはごもっとも。家人・家礼の解説は全く話になりません。
 最近は見るたびに腹が立つので、見るものかと思っていたのですが、本日の『義経』、たまたま食事と重なり、最初から見たところが、あの珍妙な「家人」と「家礼(来)」の解説。ドラマの中なら、所詮はフィクションですから多少でたらめも許されますが、今回は冒頭の解説ですから、いい加減な解説は許されないはずです。
 仮に試験で、家人と家礼について本日のように説明した答案があれば、ためらわずに不可をつけます。こんな誤謬がどうしてまかり通るのでしょうか。
 どこの馬の骨やら分からんということになっている義経の従者連中が、どうして主君に対し自立的性格を持った「家礼」なのでしょうか。「家礼」は同盟軍的であるがゆえに、主君から尊重されるのであり、恩賞ももらえないとは、よく言ったものです。 
 大河ドラマの国民に対する影響力を考慮すると、由々しき事態です。
 
 また、鹿ヶ谷事件では、重盛が法皇処罰を言い出すとの事。『平家物語』で周知の挿話をどうして珍妙な形にデフォルメするのか、やはり意味が分かりません。
 今回のような事態を目の当たりにすると、毎回きちんとチェックする必要があると思い直しました。
 それにしても、『義経』、回が進むにつれてだんだんひどくなるようです。
このような無法がまかり通るなら、もう受信料は払いません!!

10時からの再放送

No.3407

 やっと見れました。
 そして「ほうじゅうじでん」には、音速でツッコミを入れました。「清涼殿」「紫宸
殿」の並びだとでも思っているのでしょうか?
 そして時子の「もしも姫が生まれても、私は男として育てます」というような発言には
「んんん??」と。嫌な予感がしてきました。まさか「姫」として生まれてきたり・・・
しませんよね?
 義経周辺の話では、えらく軽装で船に乗り込んだうつぼを見た母が「こんな軽装でいい
の?」と怪しんでいました。更に、うつぼを見送る人たちを見て、平安時代の人たちは手を振るときには前後に振っていたの?と。ぜひ先生に聞いて欲しいそうなので、書いておきました。

 今朝の地震、佐賀県に住む祖母にすぐ連絡をしたところ、幸いにも「こけし」が二つ倒れただけで済んだようです。この地震で祖母が得た教訓は「こけしは高いところに置いておくと危ない」まるで落語のような祖母です。ご心配ありがとうございました。

Re: また『義経』です。

No.3408

 皆様、こんばんは。
 田中さんおっしゃる通り、松坂慶子さん演ずる時子さまのセリフに仰け反りましたね。何を言い出すかと思ったら、「もし姫宮ならば、男の子として育てる」って・・・ オイオイ、このドラマ、それで押し通すつもりじゃねぇだろな・・・
 確かに、安徳が実は男子ではなく女の子だったという「俗説」はありました。出所は『平家物語』(巻3、公卿揃)に、「后が御産の時には御殿の棟より甑<コシキ>を落とす風習がある。皇子誕生の時には南へ、皇女誕生では北へ落とす。それが、安徳誕生の時には最初に北へ落とし、あわてて南へ落とし直した」という記事です。
 無責任な江戸時代の連中はこれを囃し立て、まことしやかに安徳=女性説を言いふらしました。川柳には「檜扇子<ひおうぎ>の 御手を清盛 笏にさせ(女の子の持つ檜扇を、男の子用の笏に無理矢理持ち替えさせた)」、「人の見ぬ 方へ二位殿 ししを遣り(時子は安徳におしっこさせるのに、人の見ていない方にさせた)」などというのが残っています。(いささか品のない話ですみません)。
 でも、それでこのドラマを作ってしまうと、たぶん収拾がつかなくなるでしょうね。でも言い出してしまったからには、まったく意味のないセリフにするわけにもいかないだろうし・・・ どうするんでしょうね?

 ただ、平家の女人がみんなで泥塔を作っていたのは、ちょっと面白かった。モデルは六波羅蜜寺の本堂下から出土した泥塔群(国指定重要有形民俗文化財)かな? 六波羅蜜寺のよりも少し大きめに見えましたがね。ただ、どっちかというと「円塔」(空飛ぶ円盤のような形の土製品で、緑釉をかける)の方がふさわしいような気もするんですが・・・

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野口先生、ご明察の通り、同志社香里高校は私の母校です。

毎週楽しみにしてます

重政 誠
No.3409

ご無沙汰しております。学習院の重政です。
毎週日曜更新のこのコーナー楽しく勉強しながら拝見させていただいております。
数日前、田中さんにもその旨伝えた所なので、今回は初めてコメントを。

嗚呼.....「安元御賀」!青海波を舞うのが維盛と資盛だなんて.....。
成宗とは言わないまでも、せめて隆房あたりでお願いしますよ......。
私、そのあたりの論文をこの前書いたばっかりなので非常に気になりました。
摂関家を押しのけて平家二人で青海波を舞えるほど、平家の権勢が強かったと言う事でしょうか?
『花揃』が使われてたのは面白かったですけどね、変な所でマニアック!

野口先生、次回の平家物語研究会を楽しみにしております。

完全に、出遅れました

美川圭
No.3410

義経10:00からのBSで見たのですが、出遅れて、冒頭の解説は未見です。

ばかばかしいので、今日借りてきた
名匠山本薩夫監督の『白い巨塔』(田宮二郎主演)のDVDを見始めたら、
とまらなくなり、さっき見終わったところです。
原作は、続編が蛇足ですが、この映画は、財前勝訴で終わります。
はじめて見たのですが、傑作です。原作を凌駕する映画といえましょう。
俳優もすごいです。こんなにすごい俳優が昔はいたのか、と改めて。

ということで、義経評に完全に出遅れました。
というより、ああいう映画を見た後だと、
義経のような学芸会並みのドラマ(小6娘の評)はもういいということで、
今回はコメントなし。

老人の繰言?

No.3411

 美川先生、『白い巨塔』の映画をごらんの由ですが、あれはテレビと異なり、短い時間にストーリーが凝集されているだけに、緊張感と迫力のある作品でしたね。
 田宮はまだ若いのですが、財前のぎらぎらした野心をよく表現していたし、医学部長の狡猾で小役人的ないやらしさを見事に演じた小沢栄太郎、学者馬鹿を絵に描いたような大河内役の加藤嘉は、ともにのちに78年の田宮版のテレビでも同じ役を演じただけに、まさに当たり役でした。
 ただ、里見の田村高広は、善人ではあるが弱弱しい感じで、78年の山本学に及ばなかったように思います。
 しかし、映画の出演者で白眉は、やはり東大船尾教授役の滝沢修でしょう。
 東教授(東野栄治郎、名優だがどうも水戸黄門のイメージがつきまとうようです)の後任をめぐる人事にさいして、東大系のポストを守るためになりふり構わず、耳鼻科学会会長のポストをえさに耳鼻科教授(加藤武)を篭絡しようとする裏工作も平然と行ったかと思えば、財前の医療裁判では今度は国立大学の権威を守るためと称して、突然煮え湯を飲まされた財前の弁護に回る。 
 船尾豹変の背景は、裁判後の大阪空港の場面に見事に描かれておりました。東京に帰る船尾を三拝九拝して見送る医学部長。つまり、船尾は東の後任ポストは奪われたが、財前を弁護することで難波大学医学部そのものを屈服、従属させたことになる・・・。
 滝沢は、何ともえげつない学界ボスを、たなんる悪党ではなく、社会的名士であり、堂々たる貫禄の持ち主として見事に演じておりました。あの姿と、京大の某総長が重なって見えたものです。
 
 昔の大河ドラマは、歌舞伎、時代劇映画(多くは歌舞伎の流れ)といった時代劇の型をもった俳優と、長年新劇で鍛え上げられた俳優が中心でした。だから、ドラマは品格があり、表現も芸術的でした。
 ちなみに滝沢修は、64年の『赤穂浪士』で、子供心にも恐ろしい吉良を演じ、当方恥ずかしながら本当の悪人と思い込んでおりました。それが66年の『源義経』では、まさに威風堂々として、義経には慈父のごとき秀衡を演じ、前のイメージをすっかり忘れさせてくれました。ついでに言えば、72年の『新平家物語』では、まさに権謀術数の後白河。領主制論のイメージを見事に演じきっておりました。
 近年はそういう力量のある俳優が減少してしまったこと、それに中心人物にアイドル・お笑い系の連中を多数起用して、様々な層に迎合しようとする無理が重なって、ドラマとしてのレベル低下は目を覆うばかりです。
 しかし、今回の最大の問題は、脚本のお粗末さ、とくに、清盛中心の原作を無理に義経中心に変えたために、義経周辺の珍妙な話題をかき集めなければならなくなったことも、無理が多いストーリーになった一因でしょうね。
 それに、今回の「解説」の出鱈目さからも分かるように、制作側にまともな歴史知識もないのですから、ドラマに品格とリアリティーが欠如するのも当然でしょう。NHKの杜撰さには呆れるとともに、憤慨を禁じえません。
 『その時歴史が動いた』の制作姿勢といい、あまりに学問を軽視してはいないでしょうか。
 受信料を制作に使わず遊興に使った結果でしょうかね。

義経にもマツケンサンバを

美川圭
No.3412

往年の名画といったら、この人、という元木先生。
白い巨塔劇場版についての詳細な書き込みどうもありがとうございます。

アマゾンの書き込みなどを見ると、この映画はヒットしなかったようで、
これが一つの原因で大映が倒産に向かったとのこと。
田宮二郎の大映内での評判が悪く、宣伝がろくになされなかったとか。
その辺の事情の真偽は、私にはよくわかりません。

でもこの映画(というか山本薩夫の作品が)、社会派作品といわれていますが、
私は非常に良質な娯楽大作だと思います。
人物は、大多数の悪人と、里見のような弱々しい善人とではっきり区分けされてます。
それぞれの人物の内面描写なんて、ほとんどなきに等しい。
そのなかで、田宮が1回目の教授会投票のあとにみせる、ガラスのような弱々しい内面が印象的です。あれ演技に見えません。こちらが田宮の最後を知っているからかもしれないのですが。あれだけの名優のすごい演技のなかにあって、若い田宮の迫力。私のようなクイズ・タイムショックの田宮の印象が強い人間にとっては、衝撃的です。いやあ、語り継がれているだけあります。

うちの家内は、手術や解剖シーンがあまりにリアルでいやだ、と目をそむけました。私は、あれは白黒ゆええがけるので、カラー作品だったら、撮れないんだと妙なところで感心しました。しかしそんなところが拒絶反応をよんだ可能性もあります。

それから、小川真由美の愛人は、あまりにも薄っぺらで嫌ですね。その後のテレビリメーク(田宮主演)では太地喜和子。どうなんだろう。ここだけはやはり、最近のテレビ版での黒木瞳がいい。たしか原作では医学部出身(中退?)のマダムという設定だったはずです。黒木瞳はあれだけ貧弱な体でしかも知的なのに、演技でエロスを見せられる希有の女優です。小川も太地もむっちりで痴的ではあるが、あまり知的な感じではないので、ここはかないません(といっても太地喜和子の愛人よく覚えていませんが)。

それにしても、この映画を見ると、滝沢修がどれほどすごい俳優かが実感できます。
最後の裁判での証言から大阪空港までの存在感、思わず笑ってしまうほどです。
私、なんども滝沢の舞台をみたのですが、私が未熟だったのか、うまいうまいといわれるほどに、舞台上ではそれを実感できたことがありませんでした。

最後に、義経についてちょっと。
せっかくマツケンが出ているんだから、
毎回、どっかで「突然・マツケンサンバ」を入れると視聴率あがるのにな。
今回でいえば、だれきった義経とうつぼの学芸会シーンの間とか。
あるいは、おざなりの鹿ヶ谷事件の最中に、脈略なく突然とか。

娯楽だったら、もっと視聴者楽しませなけりゃ。
今回は、どのタイミングでマツケンサンバがあるか、
と少なくとも根が不真面目な私は期待します。

実は去年の末の紅白、マツケンサンバだけ見ました。

地震のこと

平田樹理
No.3415

野口先生>ご心配ありがとうございます。
昨日は地震発生から二時間近く実家と連絡がとれなくて心配しましたが、家族・家ともに何事もなかったようです。
ただ、余震はずっと続いているらしく(二十分前にも震度三のものがきたようです)、皆不安気に過ごしています。
九州北部は百余年ほど大規模な地震はなかったので(私自身も地震の体験はほとんどありません)、今回の地震は本当に驚いています。

ゼミ関係者にたいする御礼と御連絡です。

No.3397

 >永富さん  謝恩会でいただいた薔薇の花は、大切に持ち帰って玄関に飾ってあります。ありがとうございました。記念品をお渡しいただいた服部さんにも宜しくお伝え下さい。
 このゼミにおいて永富さんの果たした役割は、とてつもなく大きいものがあり、小生としても感謝するところ多大なものがあります。卒業されて相対的に近くにおられなくなるのは残念ですが(でも、まあご近所ですよ)、ゼミメンバーであることは変わりなく、今後ともなにとぞ宜しくお願いいたします。
 さらにこれからは、京都文教中学・高校で、永富さんのように賢くて、センスが良く、しかも行動的な生徒をどんどん育ててください。永富さんの教え子が当ゼミを担う時代の来ることを楽しみにしています。

 >高重久美先生  御高著『和歌六人党とその時代』の御上梓、おめでとうございます。また、当方にまで御恵送にあずかり、恐縮いたしております。まことに、ありがとうございました。また、お暇な折、見学会・例会などに御参加下されば幸いです。
 この高重先生の論文集には「後朱雀朝歌会を軸として」という副題が付せられておりますが、われわれ武士論を専攻する者にとっても、摂津源氏に関する詳細な追究におおいに蒙を啓かれるところがあります。古典文学の老舗である和泉書院からの刊行です。

 ☆ 24日の宇治史跡見学会の参加者の確認です。
  元木先生・美川先生・山田先生・植村先生・野口先生・山田さん・長村君・山岡さん・平田さん・門屋君・田 中さん・末松さん
から、参加の申し込みをいただいています。植村先生は神戸学院大学で国文学を教えておられる植村真知子先生で、今回初参加です。永富さんと鈴木君も研究室で参加の御意向をうかがったような気がするので、含めておきますが、そのほかで参加希望を伝えたのに名前がないと言う方がおられましたら、ご面倒をお掛けしますが、メールでお知らせ下さいますようにお願いいたします。

24日の宇治歴史散歩の参加者確定。

No.3405

 宇治歴史散歩の参加者が確定しました。バイトがあって無理なのかなぁと思っていたゼミ代表の山内さんからも申込みがあって、小生も含めて総勢14名と、ほとんど「お疲れ様会」参加者と同数に近くなりました。
 尻池さんは帰省中でしょうか?よかったら、どうぞ。
 宇治の歴史資料館では渡辺貴代さんが紹介してくださったおかげで、白川金色院などの発掘調査を担当された浜中邦弘さんから、直接、お話をうかがえるかも知れません。
 
 ☆ ところで、23日の午後に研究室で24日と27日の見学会資料の印刷をする予定なのですが、もし暇のある方がおられましたら、ぜひ援軍をお願いいたします。

ありがとうございます

No.3416

野口先生>お礼が遅くなりすみません。
教習所をなんとか三月中に終えるべく毎日朝から晩まで車に乗っているため最近家に帰るとパソコンの前にすわる気力がなくてすぐ寝てしまうのです☆
今まで授業がないのをいいことにぼーっと夜更かししたりしてついてしまった怠け癖を四月までにたたきなおすには絶好の機会かもしれません(笑)
ただ忙しすぎて授業のネタづくりがまったく進んでいないのが心配なのですが・・・☆

あらためまして卒業式・謝恩会の日はありがとうございました。
その時の写真が印刷できましたのでまたお渡ししたいと思います。
私自身が「賢くて、センスが良く、しかも行動的」かというとちょっと持ち上げられすぎな気がしますが、一人でも多くの生徒に歴史のおもしろさを教えられるよう頑張ります。



国際熊野学会の設立について

No.3396

すみません。国際熊野学会の設立について,貴掲示板で宣伝させてください。もし,宣伝がダメであれば,削除していただいてもかまいません。

国際熊野学会が2005年3月27日(日)に和歌山県新宮市で設立されます。
国際熊野学会は,宗教,文学,歴史,民俗・風俗,環境,海洋,観光,人材交流・国際交流などのすべての面に渡って,世界遺産としての熊野をインターナショナルに考えていこうという趣旨の下に設立される学会です。
呼びかけ人の代表は明治大学教授の林雅彦氏です。
当日,講演会(元高野山大学教授・日野西真定「山岳霊場としての高野・熊野・大峯山」)と交流会があり,翌日,記念イベントとして熊野三山巡りと熊野川船下りがおこなわれます。
興味のある方は奮って御参加下さい。

なお,詳細は以下の新宮市熊野学情報センター準備室の国際熊野学会事務局にお尋ね下さい。
  郵便番号:647-8555
  住所:和歌山県新宮市春日1-1
  電話番号:0735-23-3369

以上,宣伝でした。

島根県立出雲高校の皆さんへ。

No.3395

 昨日は出張講義「武士の都としての平安京・京都」を、とても熱心に聴いてくださってありがとうございました。伯備線で島根県まで出掛けたのは、じつに約30年ぶりのことだったのですが、みなさんのようなとても将来楽しみな高校生の存在を実感できて、たいへん嬉しく思っています。
 帰りに駅までお付き合いいただいた3人の一年生には、とくに御礼を申し上げます。彼女たちは、とても高校1年生・16歳とは思えない、しっかりした知識をもち、意志も明確で、将来が非常に楽しみです。2年したら京都の大学に進学して、ぜひ当ゼミに遊びに来てほしいものです。
 最後になりましたが、進路指導部の先生ならびに講義を聴講してくださった先生方に、あつく御礼を申し上げます。

先日はありがとうございました。

No.3398

こちらでははじめまして。
あの時の伊藤です。
先日はありがとうございました。
学校の授業とは一味も二味も違う授業が聞けてとても楽しかったです。

今日も、部活の時間に昨日の講義の話を大國さんとしていました。
『5つの鎧が見つかったって書いてあるけど、結局人は埋まってたの?』
という疑問が浮上し、部活中にも関わらず二人で頭を抱えていました。
結局はどうだったのでしょう?

電車の時間さえなければもっとお話をしたかったのですが、残念です。
最近、進路の授業なども増えていて将来について考える事も多かったのですが、先生のアドヴァイスやお話を聞く機会を持つことができて、本当に良かったと思います。
ありがとうございました。

法住寺殿跡出土の武将墓について。

No.3399

 >伊藤千春さん  こんばんは。本当に昨日は時間が無くて残念でしたね。
 ところで、5つの鎧が見つかった武将の墓ですが、じつは昨日配ったプリントの図面に波線で示してあるように、南北に棺が一つ置かれていた痕跡があり、歯も一つだけ残っていたのです。ですから被葬者は一人。この重要なお話をする時間がありませんでした。
 では、その被葬者は誰なのか?そして、どうしてあのような埋葬形態がとられたのか?ということが次の問題になるわけですね。・・・・・どう、思いますか?
 その答、というより、私の考えは、昨日御紹介した『武家の棟梁の条件』(中公新書)に書いてありますから、ご覧になって下さい。講義を聴講してくれた日本史の先生が、学校の図書館にあると仰っていましたよ。
 
 この掲示板には、院政期政治史研究の第一人者である京都大学大学院の先生や業界のカリスマ編集者をはじめとする、その道の「権威」から、今月は大学生だけど来月から中学・高校の先生になるという前途洋々たる「新人」まで、なにしろ今、学問・文化の世界の最前線で活躍している方たちが、ご覧になったり書き込まれたりしていますから、もし進路のことなどで聞きたいことがあったら、遠慮なくドンドン書き込んでアドバイスを求めて下さい。そういえば、伊藤さんは出版・編集に関心があると言っていましたね。
 大國さんや秦さんにも宜しくお伝え下さい。君たちとは本当に良いご縁が出来たと思っています。本当に一人くらい京都の大学に来てほしいものです。

 ところで、高校1年生の伊藤千春さんは、おそらく、この掲示板に書き込んだ人の中で最年少の新記録を樹立されたのだと思います。スゴイ!!