「半世紀後の大学で」
No.20016
京都女子大学の宗教部から発行されている『芬陀利華』第344号に以下のような拙文を載せて頂きました。御笑読頂ければ幸いです。
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半世紀後の大学で
宗教・文化研究所教授 野口 実
また温かい春がやって来てくれました。初々しい学生諸姉が入学して来ます。毎年繰り返されるこの光景に、鴨長明『方丈記』の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」という名文が思い起こされます。
まだ二十年も生きていなかった頃は、「そんなものかなぁ」と思っていたことが、老いた今になって痛切に実感されるようになりました。私の生まれたのは一九五一年、戦争が終わってからまだ数年後。しかし、私自身の感覚としては、戦争とは大昔の別世界の出来事のように思って過ごしてきました。
ところがどうでしょう。今年二十歳の若者が生まれたのは一九九五年。私にとってはごく最近のことなのです。しかし、私が学生時代を過ごした一九七〇年代などというのは、彼らにしてみれば生まれる二十年以上も前の話。私にとっての一九三〇年代と同じということになります。そうなると、私の学生時代も、今の若者たちにとっては遠い昔。もう生きている時代が違う。価値観も世界観も別物だろうし、生きる前提となる知識も異なると言ってよいのかも知れません。
ジーンズから就活スーツへ
それに、とりわけここ半世紀ほどの日本社会の変化は急激なものがあります。グローバリズムとIT化は、とくに経済活動の現場において個人が積み重ねてきた経験の価値をほとんど無価値なものにしてしまいました。近現代の一世紀以上の間、アジアの先進国を自負し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと欧米からも持ち上げられてきた状況は、近隣諸国の発展によって一変してしまいました。そして、こうした事態に対する怖れ、危機感のようなものが経済界を中心に社会に充満しています。
それを克服するために、歴史や哲学のような教養教育よりも英語や情報処理などの実務能力の養成を優先すべきだという意見が声高に叫ばれるようになりました。まず、生きていくためには富を確保しなければならない。競争に勝利するためには国際基準に合わせて、なにしろ収益をあげなければならない。国家存立のためには全てを経済的利潤追求に奉仕させるべきであるというような風潮が世を覆うようになりました。
私が学生だった時代、大学は、人生はもとより政治や社会を語る場でした。学生たちは自主ゼミを開いたり、世界を知るためと称して大きなリュックを背に放浪の旅に出たりしていました。また、「破壊なくして建設なし」を合言葉にして現実にある社会や政治の体制を批判し、その意志を行動で表すような集団もありました。
それから半世紀を経た今。大学のキャンパスには立て看板もビラ配りをする学生の姿も消え失せ、アジ演説の声も聞こえなくなりました。長髪に薄汚れたジーンズの姿の学生は見られなくなり、そこは黒いスーツを身にまとった、(自分を学生ではなく「生徒」と認識するような)従順でおとなしい若者たちの空間へと変わっていきました。
若者たちにとっての課題は、現状の矛盾を批判して変革することから、いまある体制を全て受け容れて、その中にどうやって自分の場所を得るのか。いかに経済的に優位なポジションを確保するかということに大きくシフトされてしまっているようです。
しかし、これはちょっと面白い現象です。なぜなら、規格化された黒いスーツに身を固めた若者を迎え入れる側のトップにいるような人たちは、かつて長髪とジーンズで体制批判をこととした世代に属するからです。
大学の存在証明
とても平板かも知れませんし、決してすべて昔の方が良かったと言っているわけではありませんが、私は上記のような現状認識をもっています。
しかし、これを踏まえて、大学の将来については大いに懸念しています。大学というところは学問・研究とそれを前提にした教育の場であるはずなのですが、まず、学問・研究というものは無条件で全面的な現状肯定を前提にしては成り立ち得ないからです。教育も人類が今まで築き上げてきたものの伝授と同時に、批判精神のような、これからの社会を前進させるための力を養う側面があるのですが、これが不要になったり、排除されてしまう可能性があります。こうなると、大学が存在する意味はなくなってしまうでしょう。
私は三十年ほど前、千葉県で公立高校の教員をしていましたが、その時、生徒たちに、経済的に少しばかり苦しい面があっても出来るだけ大学に進学するように勧めました。それは、二十歳前後の数年間を自由に生き、多様な価値観に遭遇することが一人の人間の一生の中でとても大きな意味を持つものだという確信を自らの経験に基づいて持っていたからです。いわゆる「世間」あるいは「娑婆」の価値観とは異なる「ものさし」と出会える稀有な空間が大学だからです。「大学」はいつまでも、そうであらねばなりません。
京都東山の地に願う
私の研究の専攻領域は日本中世の政治・社会史です。十五年前、宗教・文化研究所に赴任したのを契機に、本学の教学理念を構築した親鸞の行動の社会的な背景を研究課題にしてきました。とくに、なぜ越後への流刑を解かれた親鸞が京都に戻らずに関東に赴いたのかという問題が、長く東国武士社会の研究に携わってきた私にとっての最大の関心事だったのですが、最近ようやく納得のいく理由を見いだすことが出来ました。詳細は別の機会に譲るつもりですが、一言でいえば、当時の関東が既成の価値観に制約されることの少ない空間であったこと、そこに彼の教えを求める人々が存在したこととともに、そうした環境の中でこそ内省のための時間と場を得ることが出来た─ということです。東国への道を歩んだ親鸞にとって、在来権力の所在する京都は、喧噪かまびすしい忌むべき価値観の牙城の如く捉えられたのではないでしょうか。
しかし、二十一世紀の現在は東西の位相がまったく逆転しています。そんなことからも、この京都東山の地こそ、親鸞精神のもと、いつまでも、最も真理探究にふさわしい場であってほしいと願わざるを得ないのです。
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半世紀後の大学で
宗教・文化研究所教授 野口 実
また温かい春がやって来てくれました。初々しい学生諸姉が入学して来ます。毎年繰り返されるこの光景に、鴨長明『方丈記』の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」という名文が思い起こされます。
まだ二十年も生きていなかった頃は、「そんなものかなぁ」と思っていたことが、老いた今になって痛切に実感されるようになりました。私の生まれたのは一九五一年、戦争が終わってからまだ数年後。しかし、私自身の感覚としては、戦争とは大昔の別世界の出来事のように思って過ごしてきました。
ところがどうでしょう。今年二十歳の若者が生まれたのは一九九五年。私にとってはごく最近のことなのです。しかし、私が学生時代を過ごした一九七〇年代などというのは、彼らにしてみれば生まれる二十年以上も前の話。私にとっての一九三〇年代と同じということになります。そうなると、私の学生時代も、今の若者たちにとっては遠い昔。もう生きている時代が違う。価値観も世界観も別物だろうし、生きる前提となる知識も異なると言ってよいのかも知れません。
ジーンズから就活スーツへ
それに、とりわけここ半世紀ほどの日本社会の変化は急激なものがあります。グローバリズムとIT化は、とくに経済活動の現場において個人が積み重ねてきた経験の価値をほとんど無価値なものにしてしまいました。近現代の一世紀以上の間、アジアの先進国を自負し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと欧米からも持ち上げられてきた状況は、近隣諸国の発展によって一変してしまいました。そして、こうした事態に対する怖れ、危機感のようなものが経済界を中心に社会に充満しています。
それを克服するために、歴史や哲学のような教養教育よりも英語や情報処理などの実務能力の養成を優先すべきだという意見が声高に叫ばれるようになりました。まず、生きていくためには富を確保しなければならない。競争に勝利するためには国際基準に合わせて、なにしろ収益をあげなければならない。国家存立のためには全てを経済的利潤追求に奉仕させるべきであるというような風潮が世を覆うようになりました。
私が学生だった時代、大学は、人生はもとより政治や社会を語る場でした。学生たちは自主ゼミを開いたり、世界を知るためと称して大きなリュックを背に放浪の旅に出たりしていました。また、「破壊なくして建設なし」を合言葉にして現実にある社会や政治の体制を批判し、その意志を行動で表すような集団もありました。
それから半世紀を経た今。大学のキャンパスには立て看板もビラ配りをする学生の姿も消え失せ、アジ演説の声も聞こえなくなりました。長髪に薄汚れたジーンズの姿の学生は見られなくなり、そこは黒いスーツを身にまとった、(自分を学生ではなく「生徒」と認識するような)従順でおとなしい若者たちの空間へと変わっていきました。
若者たちにとっての課題は、現状の矛盾を批判して変革することから、いまある体制を全て受け容れて、その中にどうやって自分の場所を得るのか。いかに経済的に優位なポジションを確保するかということに大きくシフトされてしまっているようです。
しかし、これはちょっと面白い現象です。なぜなら、規格化された黒いスーツに身を固めた若者を迎え入れる側のトップにいるような人たちは、かつて長髪とジーンズで体制批判をこととした世代に属するからです。
大学の存在証明
とても平板かも知れませんし、決してすべて昔の方が良かったと言っているわけではありませんが、私は上記のような現状認識をもっています。
しかし、これを踏まえて、大学の将来については大いに懸念しています。大学というところは学問・研究とそれを前提にした教育の場であるはずなのですが、まず、学問・研究というものは無条件で全面的な現状肯定を前提にしては成り立ち得ないからです。教育も人類が今まで築き上げてきたものの伝授と同時に、批判精神のような、これからの社会を前進させるための力を養う側面があるのですが、これが不要になったり、排除されてしまう可能性があります。こうなると、大学が存在する意味はなくなってしまうでしょう。
私は三十年ほど前、千葉県で公立高校の教員をしていましたが、その時、生徒たちに、経済的に少しばかり苦しい面があっても出来るだけ大学に進学するように勧めました。それは、二十歳前後の数年間を自由に生き、多様な価値観に遭遇することが一人の人間の一生の中でとても大きな意味を持つものだという確信を自らの経験に基づいて持っていたからです。いわゆる「世間」あるいは「娑婆」の価値観とは異なる「ものさし」と出会える稀有な空間が大学だからです。「大学」はいつまでも、そうであらねばなりません。
京都東山の地に願う
私の研究の専攻領域は日本中世の政治・社会史です。十五年前、宗教・文化研究所に赴任したのを契機に、本学の教学理念を構築した親鸞の行動の社会的な背景を研究課題にしてきました。とくに、なぜ越後への流刑を解かれた親鸞が京都に戻らずに関東に赴いたのかという問題が、長く東国武士社会の研究に携わってきた私にとっての最大の関心事だったのですが、最近ようやく納得のいく理由を見いだすことが出来ました。詳細は別の機会に譲るつもりですが、一言でいえば、当時の関東が既成の価値観に制約されることの少ない空間であったこと、そこに彼の教えを求める人々が存在したこととともに、そうした環境の中でこそ内省のための時間と場を得ることが出来た─ということです。東国への道を歩んだ親鸞にとって、在来権力の所在する京都は、喧噪かまびすしい忌むべき価値観の牙城の如く捉えられたのではないでしょうか。
しかし、二十一世紀の現在は東西の位相がまったく逆転しています。そんなことからも、この京都東山の地こそ、親鸞精神のもと、いつまでも、最も真理探究にふさわしい場であってほしいと願わざるを得ないのです。