そろそろ?

No.1590

そろそろ田中さんは、東京へ出発でしょうか?
だいぶ下の方の記事にもありますが、今晩から明日にかけて、東の方へ気を送り続けますので☆
発表やその他もろもろ、頑張ってきてくださいね(^○^)v

P.S.携帯用の掲示板プログラムを少し改良しました。
レスがついた記事に関して、毎回表示させなくても良いようにしました。携帯でのパケ代が節約出来ると思います。

まだです

No.1591

まだ、京都にいますよ。
 本日修了式を迎えまして、無事に修士(国文学)の学位記を頂戴いたしました。で、先ほど帰宅しまして、まだ振袖です♪
 修了式は学部の卒業式と一緒にあるんですが、式の前に長村くんと遭遇しましたので、二人で写真を撮りました。デジカメなので、すぐ見れるわけですが・・・決して「七五三の息子を連れたママ」でも「若い衆を連れた極妻」でもありません(笑)
 明日の準備は、あとコンビニに行って印刷をするだけとなりました。明日の朝、早くの新幹線で東京に向かう予定です。ドキドキですが、鈴木君や野口先生からの「波動」に背中を押してもらおうと思って、あてにしています。(お願いなので「波動砲」はやめてください→分かる人には分かるでしょう)

気合い。

No.1592

 田中さん、コピー御苦労様です。
 「そのままで」「あまり肩に力を入れないで」というのが、研究発表に臨まれる若手へのアドバイスの常套文句なのですが、田中さんの場合には反対に「最初は気合いを入れて」と申しあげておきます。年寄り相手の教育実習だと思えば宜しい。「緊張していて当たり前だ!」と思い続けていて下さい。まあ顔見世興行です。失敗したって人の噂も何とやら・・・。
 とはいえ、場所は坂東、将門の乱のときみたいに、京都での祈祷の成果が、たちどころに現れると思いますよ。なにしろ、「現代の安倍晴明」鈴木潤君が味方についているのですから。
 それから、まあ早稲田を楽しんできてください。大学から高田馬場方面に向かって歩くと古本屋がいっぱいあって、神田なんかより大幅に安く、思わぬ掘り出し物が見つかることがあります。ただし、25年前の情報です。
 佐伯先生や鈴木彰先生をはじめ、当ゼミご贔屓の諸先生方にどうぞよろしくお伝え下さい。どなたがお見えになるか楽しみですね。
 ついでに、『紫苑』第2号の注文でも取ってきてください。
 なお、次回以降の報告者には、長村君を御推薦下さればありがたいと思います。

次回のゼミ旅行。肥前小城か伊豆北条か?

No.1581

 佐伯先生。倶利伽羅谷古戦場に関する情報をありがとうございました。いずれ、木曾義仲の遠征路も踏破したいものと思っております。挙兵の地はずいぶん大昔に訪ねたのですが、横田河原合戦以後の経路をたどりたいものです。平泉寺なども面白そうですし。越前斉藤氏研究の第一人者たる当ゼミ長老の山本君に案内してもらいたいと思っております。
 ところで、山本君は次のゼミ旅行は伊豆の北条に行きたいと仰っておられ、小生もつい賛成してしまったのですが、実は平田さんや田中さんとの間では、肥前小城案が固まりつつありました。久留米に笠さんもおられることですし、小城は阪大院の大根田君にとってもゆかりの地のようです。ほかに以前から薩摩や平泉案もあって、伊豆はかなり候補としては後退しそうです。しかし、小生、研究所共同研究および『北条時政』執筆の調査のために、今年中にはぜひ伊豆韮山の円成寺遺跡に行きたいと思っていますので、山本君をはじめ希望者はよかったらこれに同行してください。
 それから、今年は伊賀・近江・丹波・丹後・越前あたりの史跡見学に車でバンバン日帰りで出かける予定です。これまたご希望の方は御一緒しましょう。
 美川先生の指摘された地方での公共輸送機関の問題は仰るとおりだと思います。小生も車とは縁のない青春時代を送りましたが(もったいないことをしたと悔やんでいます)、高校教員になったとたん、車なしでは仕事が勤まらないことをさとりました。京都で博物館の学芸員をしていた時も、学芸員資格なんかよりは運転免許が必須だということを認識させられましたし、鹿児島に赴任したら、車なしでは生存すら難しい有様でした。勤務先の大学には学生用の千台以上も収容できる駐車場が用意されており、毎週火曜日には、非常勤出講のために宮崎まで往復三百数十キロの道のりを高速道路で通ったものでした。
 したがって、長村君のいう「在地系研究者」は運転免許なしではやっていけません。将来、いったんはそうなる可能性の高いゼミメンバー諸君に運転免許の取得を勧めるのはそのためです。
 かつて、南九州と北関東の国立大学の、ともに助教授(このお二人は現在、東北と関西の大都市圏内にお住まいです)に、車検切れ寸前の当家所有の中古車(トヨタのカムリ1800ccとカローラⅡ1500cc)を斡旋したことのある野口でした。

学芸員資格よりも運転免許

No.1582

野口先生。

「学芸員資格よりも運転免許」というのは至言ですね。

運転免許がなくては、博物館学芸員など、とてもつとまりそうもありません。地方の大学や歴史系機関につとめたりしても、必須でしょう。研究内容が在地に根ざしていても、そうでしょうね。

実は、私のような、それらにあてはあまらなかった人間でも、ここ5年前ぐらい前から、夏期、春期休暇前ぐらいになると、切実に、免許をとろうか、と考えはじめる日々かありました。

なにせ、生まれて以来、ずっと都会の中心(東京の東京タワー近く→1年だけ世田谷→京都五条河原町→四条烏丸)に住んできたので、幸いというか、日常生活のなかで、車が不要なのです。


ただ、免許を意識しだしたのは、研究内容が、ほとんと御所の内部だったのが、広がりだしたのと関係があると思います。ちょうど、都市をすこし扱いだした時期と関係するのでしょうね。

でも、大学の授業がない時期は、学生もないわけで、教習所が混んでいる。めんどくさいな。授業のある時期は、とてもじゃないが、時間がない、ということで、うまく教習所に通う決心をするにいたりませんでした。2年前には、実際に教習所の資料を集めたんです。

そして、もうこの2年ぐらいは、完全にあきらめてしまいました。しょうがないか、一人なら、はでにタクシー使うか、あるいは今回の伊勢や屋島・壇ノ浦のように、他のかたの旅行に便乗するか、ということで割り切りつつあります。
もう、授業のない時期に、教習所通う時間は、とてもとれる状態ではなくなりました。

若い人は、野口先生のおっしゃるように、いまのうちに免許とっておいてください。

それだけじゃなくて、実際に運転できるようにしておいて。今回も、運転しているのは、いずれも40代の方で、ちょっとないよな。これは。しかもナビゲーターは大先生がやってるわけだし。ちょっと頼りない。なさけない。

とまあ、自分のことを、すっかりたなにあげて、ちょっと苦言を。
ごめんなさい。

ゼミ旅行

No.1583

 野口先生、気が早いですね(笑)
まだ、伊勢旅行から一ヶ月と経っていませんよ。
 屋島・壇ノ浦旅行の皆様もおかえりなさいませ。話を聞けば聞くほど、「行きたかった~」の一言です。ただし、発表前に佐伯先生にお会いしては、緊張のあまり胃痙攣を起してしまったかもしれません。・・・ナイーブなので・・・(笑)
 さて、次回のゼミ旅行はどちらでも楽しそうですね。伊勢旅行で一応運転技術を持っていることは主張しましたから、伊賀・近江・丹波・丹後・越前への日帰り見学会でも、いつでも運転しますよ☆ただし、クジラのように大きな車はご勘弁ください。大きな車のときは、今年同じくフリーターになった、門屋氏にお任せしたいと思います。昨年の屋島への日帰り旅行の時に、7人乗りのイプサムを運転してくれました。少々スピード凶ですが、通常は安全運転です。
 公共輸送機関の不足は、佐賀県に行くと痛感します。本当に車でないと回れません。死活問題です。小城辺りは一応JRが通っていますが、それでも不便です。まあ、便利か不便かよりも、車に乗るのが好きで乗っているんですけどね(^^)
 先日の伊勢で思いましたが、車2台あれば運転出来る人が4人は欲しいところです。
 さて、ここからお知らせですが、私が使っていた学校のメールアドレスが3月23日までで使えなくなります。近々新しいアドレスを取得する予定ですが、それまでは上のアドレスにメールをお願い致します。
>永富さん
 そういうわけですので、MLからdlc0605で始まるアドレスを削除してくださいませ。携帯に届くので削除していただければ結構です。

教習所攻略作戦。

No.1585

 美川先生。まだ、あきらめずに免許を取りに行ってください。小生など月から土までの間、朝から晩まで勤務の高校教員時代に教習所に通ったのですから、出来ますよ。
 小生、なんでも奥手で、自転車に乗れるようになったのも高校生の時でした。自転車に乗れたときもうれしかったですね。世界が広がりましたが、車はそれ以上ですよ。リスクはひどく大きいですが。
 それにしても、今は教習所もお客が少ないので、昔のように脚を蹴っ飛ばすような、おっかない教官はいないようですし、半クラッチなんていう中途半端な動作が難しければ、オートマチック車限定免許というのもありますし、教習所は遊園地みたいに面白いと思いますよ。どうですか、当ゼミの1・2回生の中で、美川先生と一緒に教習所に行こうという人はいませんか?
 ところで、車の話題で思い出しましたが、来週27・28日に奈良大学で開催される中世都市に関するシンポジウムに、あの「称名寺裏山、死の行進」事件でお馴染みの研究者O氏が、おそらく例の革ジャンのスタイルで、1000ccのバイクを駆って、奈良のみならず京都あたりにまで遠征されるとの情報がご本人から入っておりました。

京都の教習所おすすめは?

美川圭
No.1586

野口先生、乗せられつつあります。
おもしろそうになってきました。

一晩で、4月から教習所通いをしようかと、思い始めました。
実は、私の5つ下の妹が、最近免許をとったところなのです。
私は、子供のころ、遊園地の運転マニアでして、多摩にあった子供の国(いまでもあるのかな)の免許をとり(あれは確か乗用車の一定以上スピードがでない仕掛けを施したやつ)、けっきょくスピード違反までやってしまった経験があります。

妹は、遊園地のゴーカードでぶつかりまくり、私は馬鹿にしておりました。その妹でもとれたんだから、この私がとれないわけがない。きっと運転うまいんですよ。

ということで、京都の教習所のおすすめは、どこでしょう。最近京都で免許をとられた方、ぜひ教えてください。

4月からは、大学で授業をやり、教習所で研修をうけ、そして夏休みあけに、新書を一冊書き上げる予定です。うわー。

一夜明けたら。

No.1587

 劇的な展開というわけですね。
 どうも、美川先生は本来、天性の名ドライバーの素質をお持ちであったようですね。AT車はゴーカートと一緒です。でも、きっとこの調子だと、マニュアル車の免許を取りたくなりますよ。
 教習所はちょうど卒業をひかえた高校生や大学生がいなくなる時期で、入所(刑務所みたいですね)するには絶好の時期だと思います。最近では、すでにみんな運転免許を取得してしまっているので、教習生確保のために、ある教習所では教習生を個人的に送迎したりしているというような御時世ですから、いやな思いはしないと思います(今の大学問題を考えるにも最適)。それから、教習の時間も今ではインターネットで予約が出来るようで、受付に行列を作っていた頃とは隔世の感があります。
 京都の教習所で知人が通ったところといえば、「いっとう最初に」思い出されるのが、昔の勤務先の上司が通っておられた二条自動車教習所、それから最近の事例では、鈴木君が山科自動車教習所で取得されたそうです。ここは当家のすぐ近くです。摂南大学の近く、あるいは通勤の途中で、という選択肢もあると思います。
 ところで、当ゼミの無免許のメンバー諸君も美川先生を見習ったら如何ですか?いつも助手席で「前の車は何をやっているんだ!」なんて騒いでばかりいられては、「とうちゃん、情けなくて、涙が出てくらぁ」です。

教習所選び

No.1588

 どこの教習所にしようか、いろいろホームページなどで、
情報をあつめています。

やめたほうがいい、というのは1か所。そこは当然ボツ。

あとは、岩倉教習所の評判がいいですね。
うちからだと、北山駅とか国際会館から、送迎バス3分。
送迎バスというのが、ややひっかかります。
若い学生なら気が付いてくれそうだが、手を挙げても、私のようなおじさんに気が付いてくれるでしょうか。

とすると、一番行きやすいのが、宝ヶ池。地下鉄駅から徒歩ですぐ。
でも、ここは予約がとりにくい、という評判。

どの程度とりにくいのかが、今ひとつわからない。

まあ、早起きおじさんは、たぶん朝いちの9時に教習に行くので、遅起きの学生さんとは生活時間帯が違うのでしょうが。

その辺の事情を、だれか教えてくれないかな。

「いっとう最初に」の人がとった二条。これはその人から聞いて知ってます。ちなみに、あの人は何度も事故ってます。やはり本人の問題でしょうね。野口先生。

4月から通って、夏前には免許とってしまうぞ。
そして、8月は北海道で、訓練だ。

メカの好きな私としては、
実は、運転より、カーナビが使いたかったりして。

職場のややこしい改革にふさぎこんでいたのですが、
がぜん元気になってきました。野口先生ありがとう。

運転免許うんぬん

No.1589

 私の母親は、40代の時に免許を取りました。当時はAT限定が無かったので、補習を繰り返してやっとMT免許を取っていした。企業などの社用車に乗らなければ、MTは必要ないと思います。18日の吾妻鏡の帰りに広政さんとも、似たようなお話をしていました。

 一応、これから免許を取られる方への情報を書きます。
○教習所の空く時期
 一般的に、高校生の卒業シーズン(1月~4月)と長期休暇シーズン(8月~10月)あたりは、特に混みます。後者の時期は予約が取れないほどになります。入所したは良いが免許を取れないような人は、この時期にやる気をなくすパターンです。逆に、今からの時期4月~7月にかけては、空いています。(ちなみに僕もこの時期に取りました)
○予約システムについて
 美川先生がお書きの「どの程度とりにくいのかが、今ひとつわからない。」についての回答です。
 一般的には、技能教習(実際に車にのる教習)での車の予約が出来るかどうかが、取りにくさにつながります。技能教習は31~34の過程が設定されています。1日最高でも2コマしか技能は受けられません。また、予約も先の2回分しか取れないので、教習→次回の予約→教習→予約と繰り返す事になります。これが普通のパターンです。
 山科では、入所時にスピードコースとかいろいろなコースが設定されています。入所時に、1ヶ月分くらいの自分の予定を伝えておけば、場内での教習・路上教習の各段階ごとに、一括で技能教習の予約を取ってくれました。(これのおかげで、1~4限までびっちり講義を受けていても、2ヶ月かからずに免許をとれました。)
 たぶん、山科はとなりの洛東よりも人気が無く、空いているので出来るのだと思います。人気のない教習所のほうが、しっかり教えてくれる場合もあります。
○受講生の年齢層
 確かに、今の時期は18歳ばっかりですが、閑散期は美川先生のお歳くらいの方はたくさんおられます。だから、問題なしですよ☆(教習所の鞄、もしくは[とても派手な]紙袋を目印にする場合が多いので...)
○おすすめの教習所
 僕は、洛東よりは山科をお薦めします。他はわかりませんので他の方の情報をいただきたいです。(ちなみに、洛東は教習者がBMWなので人気です、山科は日産ブルーバード)
 理由は、ハイスピードコースやシニアコースなど、先の説明での一括予約ができるからです。ある程度予定が明確な方はとても楽チンに教習ができます。

>無免許のメンバーの方
 ゼミ旅行で、横にベテラン(田中さんや門屋さん)教官がつくので、レンタカーで運転練習でもしましょう!!(鬼教官かも?)

めんきょ

No.1595

しばらくパソコンを見ていなかったらなんだか免許のお話で盛り上がってますね!!しかも美川先生はさっそく教習に通われるんですね?
私も山奥に住んでいながら運転免許は持っておりません。
たいていのひとには「ええっ?京北町に住んでるのに持ってないの?!」とびっくりされます。
今地元の老人ホームでアルバイトしているのですが、そこへは愛車(マウンテンバイク)もしくは母の車で通っております。
さすがに早朝の早出(朝四時半に家を出る)に母を起こすのは良心がいたみます。でも暗闇の中自転車で峠を越えるのはもっと嫌なので結局母をたたき起こしております☆反省
春休み中にはせめてバイクの免許をとろうと計画していたのですが、なんだかんだバタバタしているうちにもう春休みが終わろうとしています・・・(泣)
私も免許がほし~い!!
この際、美川先生とご一緒させていただこうかしら。。。♪(え?お断りですって???)

田中さん>MLのアドレス削除しておきました。

私の夢記

No.1596

私が、むかしからよく見る夢は、二つあります。

一つは、体育の単位がとれていないので、卒業できない、
という夢です。これは、いつもびっくりして、目をさまし、
ああ、私は、もうはるか昔に、大学を卒業していたんだ、
と安心してThe END。

もう一つが、無免許運転の夢です。いつ警察に捕まるか、ひやひやしながら運転をつづけている夢で、幸いに一度も検問にひっかかったことがなく、ばれずに運転しつづけています。ですから、捕まったら、びっくりして目をさますのだろうけれど、いまだに、前の体育の夢のようにはなっていません。

この二つの夢は、いったいなんなんでしょうか。

たしか、「吾妻鏡殺人事件」というすごい夢を見られた先生がおられましたが、私の夢は、いつもこんなたわいもないものです。

迷い、迷って、熱がさめる

No.1597

2、3年前もそうだったんですが。
どこの教習所行こうか、迷い迷っているうちに、熱がさめていくのです。けっこうなお金がいるし、途中でやめるわけにも行かないので、どこへ行くか、決断がつかなくなるのです。
しかも、2カ所も3カ所も行った人はあまりいないので、比較のしようもないみたいだし。某掲示板には、宣伝マンが書き込んでいるかも知れないし。なかなか、えいやっ、というわけにはいかない。なんだか、ほんとうに1日で熱がさめてきました。

昨今の大学もこんな具合で、選ばれているのかなあ。
あそこの○川は最悪だぜ。なんて言われていたりして。
まあ、R大では、講師室の便覧に「○川はとってはいけない」と鉛筆ではっきり書かれていましたっけ。ね、なめかわさん。

あーあ

皆さん、お疲れ様

No.1570

すでに、美川・佐伯の両先生からのご報告にもあるように、屋島・壇ノ浦ツアーは天候にも恵まれ、大成功理に終わりました。元木・美川・佐伯の各先生、下関で運転をしていただいた石浜さんはじめ、参加の皆様、お疲れ様でした。私をはじめ、各自今回の成果を研究に活かせればと思っております。
 
また、この掲示板をみることはまずないと思いますが、ご多忙のなか屋島で運転と案内をしていただいた、私の畏友石川和子さんには、この場を借りて深く感謝申し上げます。

さらに、ツアー前には、色々とご教示いただいた野口先生にも感謝申し上げます。私事ですが、じつは3月9日に一家で転居し、その混乱の中で、レスを入れることができませんでした。その点、お詫びも申し上げます。

ただ、平家物語歴史館は、高松から屋島へ向かう途中にあり、また我々が宿泊したホテルの近所でもあり、その前を車で通り、場所も確認したのですが、時間の余裕が無く、佐伯先生のレスにもあるように、見学することはできませんでした。

また、何か企画したいと思います。今後とも、よろしくお願い致します。 

総大将の凱旋。

No.1572

 総大将の近藤先生は相模の新邸に、元木先生も摂津の本邸に無事御帰還との御報告をいただき、これにて在京守護のつとめを終了と相成りました。ご出征中、別事はありませんでしたが、懸案の『紫苑』がようやく納品されました。後刻、直接お渡しあるいは御送付申しあげたいと存じます。
 好天にも恵まれ、また何よりも、『平家物語』ツアー史上、信じがたいほどのベストメンバーでの御旅行でしたから、さぞかしの戦果があったことと推量いたします。石浜さんも来年の大河ドラマ対策は万全でしょう。今度は六波羅あたりを念入りに御案内いたしましょう。
 さて、それにしても論功行賞の結果や如何?留守居役への恩賞は如何?
 平家物語歴史館については、小生の偏向した性格に基づく「趣味」によるご推薦でありますので、お気になさいませんように御願い申しあげます。でも思うに、遠路高松を訪れた観光客などは、明るい間はフルに屋島などの野外の見学に時間を使いたいに決まっているのですから、こういう施設は夜間開館を考えたらよいのですが。

 >近藤先生。小生など耄碌して「起床時無呼吸症候群」になりそうです。冗談はともかく、お引っ越し大変だったと思います。小生、就職して以来、千葉→京都→鹿児島(この間、台風被災で一度転居)→千葉→京都と引っ越しのベテランですが、そのたびに書籍・研究資料の消失と散逸がどのようにして発生するのかを体験しております。そして、自ら所有しているはずの資料の所在がわからなくなり、自分の書いたものもわからなくなり、・・・研究に重大な遅滞をもたらす羽目に陥っております。もとより、日本各地の地域による社会風土の相違についての認識などなど、転居によって得るところも多大なのですが、このマイナス面は深刻なものがございます。京都に落ち着いて五年目になりますが、かかる後遺症のために、未だに、蔵書・資料についての整理はついておりません。
 図書館なみの書庫を御自宅に設置しておられる山田先生などのようなお大尽研究者がうらやましい今日この頃であります。
 
 >長村君。元木先生のご指示によるところの、詳細なる「合戦日記」の御注進を楽しみに致しております。今回の遠征軍における貴兄の役回りは中原信康だったようですね。

お礼

長村祥知
No.1573

みなさまおはようございます。
私も昨日無事に帰宅しまして、そのまま寝て今日起きたら○時(恥ずかしくて言えません)でした。駄目人間っぷりを発揮してしまいお恥ずかしいかぎりです・・・

さて、今回の旅行では近藤先生に宿・切符の手配をして頂き、元木先生・佐伯先生には個人的にお話を伺うことができ、多くの事を教えていただきました。
美川先生には伊勢の時にいろいろなお話をうかがうことが出来たのですが、今回の旅行ではあまりお話が出来ず残念でした。また今度宜しくお願いします。
石川さん(近藤先生のご友人の女性)・石浜さんが車の運転をしてくださったお陰で、一人では観る事の出来ない数々の史跡をたずねる事が出来ました。
若手研究者として身近なお手本である横沢さん・吉田さんとお話できたこともうれしかったです。
私一人が飛びぬけて若輩であるなか、先生・先輩方のお陰で、多くを学ばせていただき、楽しい旅となりました。ありがとうございます。

こちらはまじめなお礼として一旦掲示するので、遊び的要素の入った遠征軍の合戦日記はこの下に書き込ませていただきますね。

『合戦日記』「屋島」

長村祥知
No.1574

とはいえ、全体の行程は、>>No.569の元木先生の報告が要を得ていますので、私にとって印象的だったシーンに重点を置いてご報告申し上げます。先生方に失礼な表現があろうかも知れませんが、一笑に付していただきたく思います。

16日。
私は京都駅8時23分発の鈍行列車で高松着12時30分。その日のお昼は駅構内の立ち食いうどん屋で月見を食べました。いきなりうどんです。
改札を出ると、半そで姿の近藤先生にお会いしました。(以前11月にお会いした時も半そでだったような・・)
佐伯先生から「屋島」・「八島」の御論文を頂戴して感動。(謡曲にも言及されていて、部活で狂言をしている身として、夜にホテルで興味深く拝読させて頂きました)
駅を出て、石川さんにお会いしました。やさしそうな女性で、ジムを経営されているそうです。
その後、石川さんに車を運転して頂き屋島見学。
大雑把に言うと、長崎の鼻→古戦場一帯→屋島寺→六万寺→志度寺と回りました。
古戦場のうち、「菊王丸の墓」での一光景をご紹介しましょう。
その墓域は小学校の隣にひっそりと佇んでおり、我々が訪れた際には小学生の下校姿がちらほら見られました。そこへ8人乗りのワンボックスカーが横付けし、前のドアから体格の良い半そでの男が、後ろのドアからも体格の良い男(某国立大学教授)がぬっと現れたわけです。ちなみに、八人乗りの車に九人乗るため、後部座席(三人仕様)に旅行参加者の中で若い四人(学生・院生×2・カリスマ編集者)が詰め込まれているのです。小学生、びびってましたね。はたから見ても、小学生を拉致しかねない不審者集団だったでしょうし(笑)
通報される事は無く、佐藤継信墓等付近の史跡を回って、屋島寺に行きました。宝物館で近藤先生の解説を伺い、その後、寺のある山の裏側(談古嶺)から古戦場一帯が一望できました。
志度寺には、藤原房前にまつわる宝珠の伝承が縁起として伝わっていました。謡曲「海女」というのがあり、志度寺の縁起と大枠は似ていながら、謡曲のほうは藤原氏がひどいのですが、寺の解説板では謡曲の事には一切触れられていませんでした。
そして時間が無くて、残念ながら、野口先生やゼミの先輩方からお勧めしていただいた平家物語歴史館には行けませんでした。(もしかして、「破門」・「野口ゼミで村八分」ですか??)
夕食は素人っぽい名前の店に行きました。
待たされること40分ほど。美味しいお刺身が来ました。でも天麩羅が来るのに、さらに一時間近く待たされ、あまつさえ煮付けに至っては、その時点でまだ作り始めてもいなかったのです。
味はほんとに美味しかったのですが、あれはちょっと・・・総大将や副将軍から「私的制裁」が加えられても仕方有りませんよね(誰も何もしていませんよ。念のため)
ちなみに、四人がけテーブル二つで座ったのですが、私のついたテーブルには近藤先生と横沢・吉田両先輩。近藤先生の「遠慮すんな」という言葉もあり、あれだけ待った料理が10分足らずで無くなりました(笑)。支払いの際には先生方のご好意に甘えさせていただきました。有難うございます。
次に行った店では、常識的な時間差で料理が来ました。
ホテルの朝食はバイキングでした。なんと、うどんがあったのです。さすが讃岐。おいしかったですよ。

『合戦日記』「壇ノ浦」

長村祥知
No.1575

17日。
下関に移動して、石浜さんに運転していただき、住吉神社→覚苑寺→功山寺→赤間神宮→火の山→関門海峡大橋を渡って門司の和布刈公園の順で見学しました。
屋島も含めて、今回の旅行では高い所から古戦場の景観を眺める事が出来ました。それも一つの所からではなく、色々な角度から見ることが出来たので、占地の重要性や、どこから何が見えるのかといったことが実感できました。
というのは、海岸がいりくんでいることもあり、山から見るとはいっても、場所によっては別の山が視界をさえぎる事があるのです。高さ・地理ともに火の山が最も壇ノ浦を見渡せる場所であるということが良く分かりました。
夜に横沢さんと美川先生がお帰りになり、夕食は残る六人でふぐを食べました。お刺身・から揚げ・鍋・雑炊。近藤先生はさらに丼まで。勝てません。
カクテル一瓶を吉田さんと半分こにして飲みましたが、それすら最後まで飲みきることが出来ませんでした・・・
こちらでも先生方のご好意に甘えさせて頂きました。ご馳走様でした。
その後ホテルに戻り、佐伯先生のお部屋に押しかけてお話を伺わせて頂きました。以前から先生にお会いしたいと思っていたので、お話ができて感動です。佐伯先生、お疲れのところ多くのご教示を賜り有難うございました。

『合戦日記』「壇ノ浦」続

長村祥知
No.1576

18日。
朝食のバイキングでは明太子がありました。ホテルの朝ごはんには名物を出すようですね。この日は、海峡夢タワー→唐戸から海峡連絡船で門司→海上クルーズ(ボイジャー号)→門司港レトロ展望室
、解散でした。
やはり海に出ると、広さや地形が実感できます。出発前の天気予報では雨50%で、雨が降ったら僕が人柱に立てられるのかなぁなどと考えていたのですが、17日夜に降ったので当日は好天でした。船、最高ですよ、ほんとに。
とはいえ、アクシデントが無いわけではありません。船の上で吉田さんに海水がかかった瞬間は、僕も一瞬何が起こったのか分かりませんでした。
お昼ご飯は中華料理。これも美味しかったです。
下関、門司には展望台の類が多いような気がしますが、気のせいでしょうか??

『合戦日記』こぼれ話

長村祥知
No.1577

解散後、元木先生と門司駅周辺を少し歩いて九州鉄道記念館に行きました。先生に解説して頂き、展示自体もなかなか楽しかったです。町並みを背景に、先生が僕を写真に撮って下さったのですが、我々は親子のように人目に映ったのではないでしょうか。伊勢の「野口パパ」に続き、「元木パパ」ですね(笑)
その後、新幹線で大阪に帰り、先生お勧めの「すえひろ」で夕食を食べました。肉が美味しすぎです。ここでもまた先生にお気遣い頂きました。先生ご馳走様です。
そして、さらにさらに続きます。ホテルの地下のバーのようなところ(あのような店を正式には何というのでしょうか?そして店の名前は??)に連れて行って下さいました。とてもよい雰囲気の店でした。そこで出されたウィスキーのボトルには「熱田様」と書かれた札が掛かっていたのです。元木先生曰く、「ここにきたら熱田先生に会えるんだ」。感動的な一こまでした。そして時を忘れて話に興じていたらもう十時。家路につきました。
元木先生、とても楽しかったです。ありがとうございました。

旅行を通じて、自分が史跡を見るだけでなく、先生方の学問的な会話を真横で聞く事が出来たのも大きな収穫でした。また、先生・先輩方と親睦を深める事が出来た事をなによりうれしく思っています。同行させていただきまして本当にありがとうございました。

『合戦注進状』拝読了。

No.1578

>長村君。
 遠征の感動さめやらぬ間の御注進、かたじけなく候。それにしても、貴兄は、あっという間に書き込みの最長記録を樹立しましたね。
 「菊王丸」の墓の近くの小学生たちは、さぞかしビックリしたことでしょうね。佐伯先生あたりが監督で、付近の人たちの中には、ヤクザ映画のロケが始まるのではないかと期待された向きもあったのではないでしょうか?
 ご馳走の接待攻勢で、いつも3講時の授業のあとに定食を召し上がっている大食の長村君にとっては夢のような三日間であったことと思います。
 元木先生をはじめとする先生方や諸先輩、カリスマ編集者とのお話しで、多くのことを学ばれたことと思いますが、とりわけ思想史に造詣の深い貴兄にとっては、佐伯先生とじっくりお話しできたことは大収穫だったと思います。『紫苑』掲載論文の御批評もうかがえると良かったですね。
 大阪での熱田先生のボトルのお話は、元木先生のお人柄を彷彿とさせます。良い話しですね。貴兄も良き師に巡り会ったというわけですよ。
 いずれにしても、たった三日で大学の単位なら20くらい取得できたように思えます。野口パパとしては、「とうちゃん、うれしくて、涙が出てくらぁ」です。

蛇足的補足

No.1584

 長村君、早速丹念な旅の一コマ一コマを髣髴とさせる旅行記をお書きいただき楽しく拝読しました。
 ただし、厳密には不正確なところもあります。菊王丸の墓の後に見学したのは嗣信の供養塔で、安徳宮見学後、屋島寺に行き。しかるのちに嗣信の墓、平家総門跡、弓流しのあとを見学して、六万寺に行きました。また志度寺のあと、石川さん経営のフィットネスクラブにも立ち寄りましたね。
 貴君は、朝食に讃岐うどんがあって旨かったと淡々とお書きですが、近藤先生の4玉につぐ3玉を平らげたことが話題になっておりましたね。野口先生のお話で、貴君が日ごろから大食の由と伺い、合点が行きました。
 近藤先生の丹念な解説と言う点では、住吉神社の宝物館の鞍も忘れてはなりません。あの様子を見た神官氏の報告のためか、わざわざ宮司さんが見送りに来た?のも特筆ものです。その宮司さんの兄上が赤間神宮の宮司さんの由。残念だったのは、神宮のすぐ近くに高層マンションが相次いで建設され、神宮からの海峡の眺めが随分阻害されていることです。何とかならないものかと思いますね。そのうち、神罰が下るか、幽霊が出るか・・・。
 ちなみに自画自賛ではありませんが、和布刈公園への道では、当方老眼にもかかわらず、カーナビより早く道を確認いたしました。大分ガタが来ておりますが、まだまだ、捨てたものではありません。
 門司港レトロ、なかなかの人気で団体ツアーなど、多くの観光客でにぎわっておりました。屋島とは大違いというところでしょうか。関門トンネルのルートからはずれ、古い町並みが残ったことを上手く利用したわけですが、海上遊覧、展望台、鉄道博物館、グルメ、美術館などの付加価値が結構効果的に機能しているようでした。
 下関にも同様の要素があり、一体化した観光地として集客力があるようですね。海峡をはさむ独特の地形は、高いところから見ると一層興味を引きます。あちこちに展望台やタワーが出来るのも当然といえましょう。しかし、公営施設である下関の海峡夢タワーは、場所が中途半端なこともあって、ガラガラ。次に行く時まで残っているでしょうか。それはともかく、下関、門司双方とも巌流島を重視しており、大河ドラマの影響力の大きさを再認識させられました。来年の義経で、また壇ノ浦がブームでしょうか。なお、佐伯先生のお話では、宮尾さんは義経は大嫌い、清盛大好きで、ドラマの当初のタイトルは清盛と義経だったとか。それがいつのまにか義経になってしまったとのことです。ますます期待出来そうにありませんね。下関で野口先生が取り上げられた藤原義江の記念館に行く余裕がなかったのが、唯一心のこりです。
 長村君には14時の解散後、22時にまでお付き合いいただきました。馬鹿話も多かったし、歓談時を忘れる思い出はありましたが、この業界の裏面、暗い部分も色々お話したと思います。そちらの方も、お忘れなきように願います。なお、御連れしたレストランは「スエヒロ」(カタカナです)、二次会はバーラウンジ「ビーツ」です。お姉さんが楽しいサービスをしてくれる店、ではありません。ここは、昨秋、多田神社見学会の「前夜祭」を行ったところです。また前途有為な青年を酒食の道に引き入れてしまいました。これが本当の「酒呑」童子?

卒業・教職・進学

長村祥知
No.1603

元木先生、訂正ありがとうございます。
半分寝ている頭と体を起こして、うけそうな話題を忘れずにと思って書いた結果、部分々々でいささか杜撰になってしまいました。
しかし「酒呑」童子とはいいえて妙ですね(笑)

さて、田中姉さんの書き込みにあったように、私長村祥知は去る3月20日、大学を卒業しました。
高校三年生の時に読んだ夏目漱石の『三四郎』の時代と現代とに大きな隔たりがあることは言うまでもありません。しかし、学問への思いや友情・家族・クラブ等々、かくありたいと思った大学生活と『三四郎』に垣間見たそれは、明治・平成間の時代の隔たりほど大きく乖離するものではなかったように感じています。
そう思うと、大学への進学が何ら珍しいことではなくなったとはいえ、学位記に「学士」とあるのがとても嬉しく感じられます。

現行の制度では中・高校で教鞭をとるには教員免許が必要です。
思い出せば子供の頃から教職につきたいと考えており、また、大学に進学して好きなだけ日本史・文学の勉強がしたかったので、両方をかなえる為にそれなりの無理もしました。
年間履修単位数の上限が定められている中で、教職必修ということで限度一杯まで登録した単位は成績表に担当の先生のお名前が記されているのですが、自分が本当に学びたいと思い単位と関係なくもぐりで聞かせていただいた講義の先生は、当然記されていません。
それでも返ってきた成績表を見ていると、在学中にお世話になった多くの先生方のことが思い出されてきます。
いずれも申請中では有りますが、大学在学中に、中学国語・同社会、高等学校国語・同地理歴史・同公民の教員免許、博物館学芸員の資格を取得した事は、決して楽ではなかった忙しかった日々の結晶であり、自分にとってだけ価値のある、ほんのささやかな喜びでもあります。
教育実習で得た感動は、ともすれば辛さだけを感じることもあった講義の思い出を忘れさせるものであり、いつ教壇に立つ事になろうとも望むところです。

そんな教員免許取得と並行して学部四年間しかできないと思っていた研究を、大学卒業後も続ける事を許してくださった元木先生や、ここまで教え導いて下さった野口先生をはじめとする(多くがこのHPは見ておられないであろう)先生方には感謝の気持ちで一杯であり、これからもご指導をお願いする次第であります。


付。
3月24日って何の日かご存知ですか?

遠征軍の足手まとい帰京

No.1563

ただいま、遠征軍の足手まといが一匹、京都にもどりました。

初日と2日目の午前中は、単独行動。
白峰寺を中心にして、崇徳院配流地の旅。
山田・野口両先生のおかげで、頓証寺と陵墓との関係が、
わかりました。というか、わかりにくくなっていることが、
よくわかりました。ありゃ、近代天皇制の悪弊でしょうか。
あるいは、神仏分離とかのためでしょうか。
頓証寺からほんとうに、御陵が望みにくい形に、なってました。両者の関係、ふつうは気が付かないでしょう。残念だな。

それから、讃岐国府と配流御所の関係もわかりました。崇徳は国府にいた時期が長いのですね。
ちょっと、京都を模した、景勝地に見えました。
天気もいいし、京都より気候もいいし、
隠岐なんかにくらべると、ずいぶんましな配流地です。
そんな、こんなで、国府を歩き回り、国分寺まで足を延ばしました。

翌日午前中は、栗林公園。いやー讃岐の殿様の文化的なレベルの高さを実感しました。現代のテーマパークは、どこもだめですが、江戸時代のパークは、いいですよ。栗林公園を歩きながら、しばし、強烈なナショナリストになっていました。

そして、県の歴博。どこの地方の歴博もあまり特徴がない。ここもそうでした。ぼくが中世が専門のせいかな。近世以降の人はそうは感じないのかも。でも、どこも展示の雰囲気が同じだ。同じ展示業者が担当しているんでしょうか。

というぐあいで、遠征軍本隊に、その日の午後合流。
あとの報告は、他の方にお任せ。
疲れたので、今日は寝ます。おざなりな報告で失礼。

御還京祝着にて。

No.1564

 美川先生、お疲れさまでした。崇徳院の配流先は、院政期の国衙在庁機構を文学的側面?から考えさせてくれて、このジャンルの研究をするには、とっつきやすい所ですね。
 香川県の歴博については、まあ「教科書」みたいな所だと思いました。特に中世は材料が乏しいのかも知れません。展示形態そのもののやり方もそうですが、博物館自体のコンセプトが問題だろうと思います。隣の県がやるからうちも、みたいなことだとやはりダメです。また、いろいろな事情があったのだろうと思いますが、香川県の歴博は見学順路の導線が、京都文化博物館なみによくありません。
 平家物語歴史館は行かれたのでしょうか。こちらはコンセプトがあまりにも明確で・・・。本体合流後のお話しが楽しみです。

関東下着

No.1566

 私も先ほど自宅に帰って参りました。
 全行程参加組も、全員無事に壇ノ浦見学を終え、見るべきほどのことは見て、そのまま海に…ではなくて、帰路に就いたことと思います。門司港レトロ展望室に昇って海を眺めた後、現地で解散致しました。とりあえず早馬で御注進。
 屋島での時間が足りず、お勧めの平家物語歴史館に行けなかったのは、野口先生からの譴責を受けることとなろうかと覚悟しておりますが、屋島も壇ノ浦も天候に恵まれて、古戦場の地理を展望するという目的は十分に達したかと思っております。
 おいしい魚もふぐも食べたし、合間の会話も勉強になったし、すばらしい旅行でした。皆様どうも有り難うございました。とりあえず御礼まで。

 

距離認識の世代間格差と古典理解。

No.1568

 佐伯先生、北陸から屋島、さらには壇ノ浦への御転戦、さぞかしお疲れのことと思います。12世紀末においては、想像を絶する空間移動。この距離感というのも、網野善彦氏のいう日本歴史における第二番目の分水嶺の直前に生まれた小生などの世代と、今の若い人たちとの古典理解に、大きな溝を構築するものと思います。壇ノ浦から数時間で、関東というのは本当に驚くべき事です。
 佐伯先生。下の鵺の件について、御教示ありがとうございました。高松の平家物語歴史館は学生さんを引率される旅行のおりにでも、是非にと思います。
 それにいたしましても、『平家物語』を語りあうには最高にデラックスなメンバーによる御旅行、土産話と共に、これからの御研究への反映を楽しみに致しております。

無事、帰還いたしました。

No.1569

 相次いで帰還報告が入るのは、あたかも源平合戦の故事に倣ったようですね。3番目は梶原景時ですかね。
 ともかく、無事帰還いたしました。旅行中、文字通り横殴りの雨に遭遇しましたが、ちょうど17日の夜半がそのピーク。18日は曇りのち晴れで、結果的には17日が曇りだったほかは好天に恵まれました。平家の霊も、歓迎してくれたのかも?
 16日は近藤先生のパワーリフティングのお仲間の石川さん(ご婦人)の運転で、屋島周辺を存分に見学いたしました。長崎鼻、談古嶺などの景色に見とれるうちに時間はたちまちに経過、あとまわしにした歴史館の見学時間がなくなってしまった次第です。
 ちなみに、屋島寺はお遍路さんでにぎわっておりましたが、談古嶺は人影も無く、付近の旅館はともに閉鎖、茶店もつぶれたようで、ひどい寂れ方でした。四国は観光客が全盛期の三分の一に激減の由で、まさに「盛者必衰の理をあらわす」というところでしょうか。
 17日は、12時17分新下関到着(朝、高松のホテルの朝食バイキングで讃岐うどん4玉を平らげた近藤先生は、列車中でパン六個、しかし、まだ物足りないご様子)、石浜さんの運転で住吉神社、長府、赤間神宮、火の山、関門海峡大橋、門司の和布刈公園、同神社を見学いたしました。
 最終日は、駅近くの海峡夢タワーから彦島、下関市街を中心に眺望を楽しみ、唐戸から海峡連絡船で門司に渡ったのち、今回のハイライト、壇ノ浦の海上クルーズを満喫いたしました。最後に、野口先生お勧めのレトロ門司展望台から海峡を眺めて旅行を終えました。
 実際海上に出てみると、上から見た景観とは全く異なる感覚が体感されましたし、パノラマのような火の山、門司側からの眺望と、壇ノ浦を出来る限り、様々な角度から見学いたしました。この経験を研究に生かせるように、努力したいと思います。
 運転をお願いしたお二人には感謝の言葉もありません。また、チケットの手配など、雑務を御担当いただいた近藤先生、旅行中ご教示を頂いた佐伯先生に御礼申し上げます。
 しかし、近藤先生のすごさは食べっプリばかりではありません。なにせ、下関東急インの壁を越えて響き渡るいびきで、当方睡眠不足と相成りました。
 以上、情報を賜った御礼を兼ねて、ご報告まで。もっと詳細なレポートは長村君にお任せします。

睡眠時無呼吸症候群?

No.1571

レスを入れている間に、元木先生からもレスが。ツアーでは、お世話になりました。

いびきの件、失礼しました。花粉症でもあるのですが、私自身、睡眠時無呼吸症候群の疑いを抱いております。検査した方が良いのかも。自分では分かりませんからね。

倶利伽羅のこと

No.1579

 屋島・壇ノ浦については、元木先生や長村さんから詳しい報告が出揃ったようですので、私の方からはもう一つ、その前に行った倶利伽羅峠について、失敗談を交えて、今後いらっしゃる方のために役立つかと思うことを若干。
1)倶利伽羅峠方面へは、ガイドブックによっては、「石動駅からバス」などと書いてありますが、そのバスは、月に一度、28日の倶利伽羅不動寺の縁日にしか運行しないようです(他に正月)。ぶらりと行ってその日に乗れる確率は30分の1ぐらいですね。20年ぐらい前には、一日1本か2本は運行していたように記憶していたのですが…。従って、ハイキングの装備で歩くか、タクシーしかありません。タクシーも貸し切り制度がないので、高くつきました。
2)ハイキング装備で歩く場合、歴史国道「倶利伽羅いにしえの道」というのが整いつつあるようですが、完成したとしても、隣の倶利伽羅駅まで歩ききるには、一日分の時間と、かなりの体力を要するように見えました。また、三月半ばでも、山中はあちこちに雪が残り、革靴では時々「ズボッ」という感じで雪だまりに足がはまってしまい、歩くのは無理でした。
3)雪といえば、猿ヶ馬場に建っている火牛像ですが、三月半ばではまだ兼六園の木のような雪づりをしていて、牛の頭や角、松明には藁が巻いてあり、何の動物だか全くわかりません。この写真を撮るという目的については、完全に失敗でした。もっとも、とてもお間抜けな写真が撮れたので、話題にはなるのですが…。
4)倶利伽羅谷(現在は地獄谷と呼称)の写真は、前にも何が何だかわからないものを撮りましたが、今回も撮ってみると何を撮ったのかわかりません。やっぱり古戦場の理解は、写真で切り取るのではなく、現地をできるだけ時間をかけて歩き回るしかないなあ、と思います。屋島や壇ノ浦のように、上から見下ろせる場所は、それでかなりわかるのですが(特に今回は壇ノ浦を、角度を変えつつずいぶん見下ろしました)、山中の古戦場は全体像をつかむのが難しいですね。
 以上、まとまらないご報告でした。

運転できないおじさんの嘆き

美川圭
No.1580

佐伯先生に触発されて、崇徳院配流の地について、ひとこと。

地方では、ほとんどの家で、車をもっている(たぶん人数分)ので、公共交通機関の衰退が著しいようです。そのために、どんどん、観光客が行きにくくなっている感じです。あたりまえの観光地は、それなりに来ても、ちょっとはずれるともうだめのようです。史跡めぐりなどとなると、もう悲惨きわまるんですねえ。もう、屋島あたりでも、その影響をもろにうけているみたいですね。

今回の崇徳院配流地めぐりも、白峰寺と山陵行きについては、ずいぶん迷いました。坂出からバスで行けるところまで行って、そこから徒歩、とも思いましたが、天気でも悪かろうものならたいへんですし、それだけで1日がかりとなりそう。やむをえずタクシーチャーターと相成りました。

JRの坂出と高松との間は、四国の幹線なので、かなり頻繁に電車が走っています。ただし、快速が多いので、途中の史跡が多い八十場とか、鴨川、讃岐府中、国分寺などに停車する普通は、1時間に2本といったところ。これは、ずいぶんめぐまれているほうです。ですから、八十場の高照院、讃岐府中の鼓岡神社、県埋文センター、国府跡など、国分寺の旧国分寺跡などに行くには、JRで十分でしょう。

タクシーは、どこを走っているのか、わからなくなってしまうので、どうしても行けないところに限りたいところですが、ある程度コースが決まっていて、運転手も、それほど細かいところまでは知らない様なので、痛し痒し、です。

やはり、車の運転ができておれば、と思うのですが。こんなときしかきっと運転しないと、けっきょくペーパードライバーになり、だめかもしれない。なんだか、うまくいきませんね。

数年前に、北ウエールズへ一人で行って、バンゴールという町を拠点に、古城巡りをしたのですが、もっとバスの便はよかったですね。日本の地方も、もう少し考えた方がいいと思います。車でドライブに来る人は、あんまり現地でお金落とさないような気がしますし。まして、史跡はめぐりませんよ。

いまどき、運転できないおじさんの嘆きでした。

大失敗→やる気喪失→掲示板書き込み

田中裕紀
No.1561

日曜日の発表の準備で学校に来ています。女性史の論文で見落としているところは無いかと、同志社の院生室から出て、人文学研究所やら、同志社女子大図書館やらをうろうろしていましたが、どれも不発。同女の図書館にあった論文に至っては、「中世文学」で検索した論文が「ヨーロッパ中世」の物で(「国文学」研究資料館のDBで検索したのに!)、げんなりして帰ってきました。というわけで、タイトルの通りです。あと5日で今年最初の山場も終わりを迎えることでしょう。その後の予定が、まだ何も立っていないんですけどねぇ・・・(--;

同類、あい憐れむ。

No.1562

 東下りの鈴木君に立派なアドバイスをされた田中さんが、そんな弱気でどうするのですか!
 ・・・かく申す小生も、たった15枚、しかも一般向け雑誌の原稿執筆に、目下お手上げ状態で、逃げて参りました。
 田中さん。小生の経験から言うと、先行研究の渉猟というのは、実はかなり気休め的な要素がつきまといますので、それよりもむしろ、この前の御報告をきっちり整理する作業をすすめられることをお勧めします。他人様の論文に、自分の期待するような話しはそうそう出てこないものです。それより、あるだけの材料で自説をしっかり固めるべきです。
 それから、マクラになる話しとか、脱線用の話しを今ある材料によって整理しておくのも良いと思います。そんなところから、本筋に関わる思わぬヒラメキが得られたりするものです。
 佐伯先生はきっと、この掲示板に書かれた建礼門院が晩年を過ごした空間についてなど、御質問されるに違いありません。ぜひ、お考えおき下さい。この問題は、『平家物語』の構想と構成を考える上できわめて重要だし、分かりやすく整理のつく問題だと思います。
 それにしても、今頃、佐伯先生をはじめとする遠征軍御一行は、どのあたりにおられるのでしょうね?戦果のほどは如何なものか?「合戦日記」の注進は、ご帰還の後の楽しみですね。
 
 そういえば、小生、明後日の『古代文化』編集委員会に提出する査読の原稿も書かねばならなかったのでした。大変です。
  
 ふたたび田中さん。『紫苑』も出来ておりますので、直前ですが、研究発表の用意に気が乗らないようでしたら、明日の『吾妻鏡』、少しの間でも御参加になられたらと思います。

猫。

No.1559

 「ラスト・サムライ」の論評で名をあげた山本君の猫論はさすがです。「犬は人につき、猫は家につく」とよく言いますが、けっこう猫も人になつくものです。それがまた、気分次第で、これがまた良い。小生、家のソファーで2匹の猫を膝の上にのせて、「猫仙人」をやっているのが一番リラックスできる一時です。すこし重いけど。
 近年、新興住宅地ではやたらに大型犬を飼うのが流行っており、このような社会現象の背景については自分の経験からも一家言あるのですが、ここでは止めておきましょう。
 >山本君。猫はきれいなら、とくに風呂に入れる必要はないかと思います。それより、「日本近代における忠孝イデオロギーと猫の思想的処遇」とでも題して、おおいに論じ尽くしてください。
 ちなみに、おりよく新地さんのHP「南九州探訪記」のトップページには鹿児島の猫の写真がUPされております。
 鹿児島で思い出しましたが、新地さんの鹿児島大学時代の恩師で、現在東北大学におられる柳原敏昭先生も大の猫好きです。

卒業式

平田樹理
No.1554

野口先生をはじめ、皆様のおかげで本日無事卒業式を迎える事ができました。厚く御礼申し上げます。気持ちを新たにまた頑張りますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
>1、2回生のゼミの皆様へ
先日から予告していましたが、四月から本などを読んでいこうと思いますので、考えておいて下さいね。


誕生日。

No.1556

 平田さん、おめでとうございます。京都女子大の学部の段階からゼミに在籍したメンバー初の院進学者として、大いに期待しています。当然、後輩は「お手本」にするでしょうから。
 それにしても、進学先は神戸大学の大学院で、平田さんのこれまでの住所は「六波羅第」ですから、清盛みたいですね。今後はゼミの「指導者」として、よろしくお願い致します。
 1・2回生のみなさん、史料の講読でも何でも平田先輩に、遠慮なくお願いされたらよいと思います。

 ところで、トップページに明記されているように、このHPは2003年3月15日に世に現れたわけで、とすると昨日で1周年を迎えたことになります。管理人の永富さん・鈴木君、いろいろありがとうございました。昨年の7月1日、アクセス数はわずかに1000でしたが、その後、飛躍的に増加の一途をたどり、今や各方面・・?から、かなりの「社会的使命??」を期待されるに至っております。今後ともよろしく、お願い申し上げます。
 
 追伸:さきほど東大史料編纂所の高橋慎一朗先生から、史料編纂所の書庫に『紫苑』を置きたいがどうすれば入手できるかというメールをいただきました。2号が印刷屋さんから届いたら、創刊号(残部僅少)とあわせて、急送です。それにいたしましても、これは小生の言うべきことではありませんが、執筆者に代わって申し上げると、まさに「嬉し、恥ずかし」ですね。次号への力作を期待します。

『紫苑』第2号入荷。

No.1557

 驚くべきタイミングですが、本日午後、『紫苑』第2号が入荷致しました。300部あります。平田さんの正誤表を該当ページに挟み込んでから、配布の段取りですが、編集長の永富さん、執筆者への配布部数などについて、御裁定をお願い致します。大学の各部署や関係機関などへお渡しする分と保存分を除いて、配布できます。
 まあ、一件落着と言うところですね。18日の研究会では、出席者にとりあえず一部ずつ配布したら如何かと思います。

ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

山田ちさ子
No.1549

新地さんのお名前を拝見して、以前話題になっていました薩摩琵琶についての情報を書き込みます。
3/18(以後何度か再放送あり)、CS放送の日本映画チャンネルで、ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」が放映されます。
わたしは以前、京都で開かれた上映会で見たのですが、非常に感銘を受けました。
特に琵琶をかき鳴らしながら、経文を唱える姿は、中世の琵琶法師を彷佛させられました。
今回の放送を録画するつもりですので、野口研究室に置いておきます。
以下は日本映画チャンネルの番組紹介から引用。
★800年前から鹿児島地方に深く根付いている「薩摩盲僧琵琶」の神秘的な魅力を追った異色ドキュメンタリー。桜島の大噴火の惨劇が起こらぬよう祈りつつも、土用の日毎に檀家を回り、地神・氏神など家の神々を供養して回る盲僧たちの年間を通しての姿を描く。実際に6年間盲僧と寝食をともにした諏訪淳が監督を手掛けている。ベルリン国際映画祭正式日本代表作品。★

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

No.1552

 山田先生のお宅では、いろんなテレビ番組が観られて羨ましいですね。当家など、最近になってようやくNHKBSを観られるようにした段階です。
 昔、テレビがまだ一般家庭に普及していなかった頃、日曜の夜になると、テレビのある家に、近所の子どもが集まってきて、「怪人二十面相」や「少年探偵団」をワイワイ言いながら観ていたという光景が全国各地でみられたものですが、こんどゼミで山田先生のウチまでテレビを観にに行くことにしましょうか?
 冗談(じつは本心)はさておき、ビデオ楽しみにしております。

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

新地 浩一郎
No.1565

 こんばんは。鹿児島でも、薩摩盲僧琵琶は吹上町の常楽院の妙音十二楽くらいしか生で聞く機会がないかも知れませんね。それも様々な楽器との合奏ですから。笠沙町で薩摩琵琶の復興事業が取り組まれていますが、こちらは「武士のたしなみ」としても薩摩琵琶らしいので、盲僧のものとは少し異なるのでしょう。川辺町にあった盲僧寺は「大徳院」という寺院だったそうです。
 ところで、民俗関係の仕事をしていると、色々と面白いことがあります。町内に、平家の落人の末裔だと自称しているある集落があります。平成4年に出た民俗調査では、平家云々と書かれているのですが、昭和51年に発刊された郷土史では日向から逃れてきた安東(安藤)氏の末裔で、系図も残っていると書かれています。ここでは12月に面白い氏神祭りをするので取材に行った際に、その系図を見せて欲しいと頼むと、捨ててしまったとの事。集落の方々に祖先のことを聞くと「ここは平家の落人で…」という返答が全員から帰ってきました。わずか十数年の間に集落の全員が自分たちの祖先を平家の落人だと思い込むような事があったのか、それとも「平家の落人集落」というブランドイメージに惑わされて捏造してしまったのか、「歴史が作られる(作り変えられる)」という事例を目の当たりにしたようで不思議に感覚に陥りました。

鵺の正体

新地 浩一郎
No.1538

 こんばんは。ご無沙汰をしています、鹿児島の新地です。昨日鹿児島市内では九州新幹線が一部開業ということで、様々なイベントがあったようですが、JRの通っていない私の町ではあまり関係ないです。
 ところで、今鳥インフルエンザが話題ですが、私の身の回りでも鳥の死体が見つかると、私が学生時代に野鳥研究会に所属していたために、種名と死因の鑑定をしています。3月1日と3月11日には、鵺のモデルといわれるトラツグミの死体が見つかりました。どちらもインフルエンザとは関係のない死因でした。最近はHPを更新していないのですが、とりあえず写真だけをアップしましたので、興味のある方はご覧下さい。

Re: 鵺の正体

新地 浩一郎
No.1541

 すみません、さっきのURLでは見れなかったので、こちらのURLでどうぞ。

Re: 鵺の正体

No.1542

 新地さん、お久しぶりです。このところ、鹿児島にうかがう機会が得られず、残念に思っています。
 HP「南九州探訪記」をしばらくぶりに覗かせていただきました。トラツグミが鵺のモデルというのは知りませんでした。根拠は何なのでしょうか。写真で見る限り普通の鳥で、『平家物語』に出てくる鵺のイメージと異なるように思えるのですが?
 それから、ご当地の伝統芸能に関する調査の方はまとまったのでしょうか。

鵺の「声」の正体

新地 浩一郎
No.1543

 野口先生、こんばんは。
 川辺町は加世田市・坊津町・大浦町・笠沙町と来年1月に合併する予定です。現在は合併前に未指定の文化財をできるだけ指定してしまおうという事で、細かい調査に入っています。
 トラツグミは鵺の正体というよりも、鳴き声の正体と言ったほうが正しいですね。名前のとおりツグミの仲間で、古い呼び方で「ヌエ」ともいいます。夜行性で、夜中から明け方にかけて口笛のような「ヒー」とか「ヒョー」という、か細い悲しげな声で鳴くのですが、この鳴き声と妖怪の鵺の鳴き声が似ていた、という事で、野鳥関係者は観察会などで必ずと言っていいほど「鵺=トラツグミ」という話をします。
 秋に取り組んでいた永田日送踊りですが、やっとビデオができましたので、近いうちに送らせていただきます。ごらんいただいて、色々とご意見をお聞かせいただきたいと思います。皆さんにご指摘いただいた座頭の足袋の色については、地元の方々に色々聞いているのですが、これといった答えは返ってきておりません。今回の事業で伝承者の方々といい関係ができましたので、気長に研究を続けたいと思います。

源頼政の鵺退治。

No.1560

 トラツグミがいつの時代から鵺と呼ばれるようになったのかが分かれば面白いですね。中世からなら、妖怪じみたものの現れる場所は、実はトラツグミの生息地であったなんてことが言えるかも知れませんね。ひょっとしたら神楽岡も、そうだったりして。
 >山田先生。拙著『武家の棟梁の条件』P48にも書きましたように、呪的武芸の担い手としての源頼光のイメージは、12世紀末の貴族社会には広くいきわたっており、その嫡流として源頼政が大内守護などの職務をにない、また『平家物語』において鵺退治の主人公とされることになったりしたようです。中世後期に成立した伝承の背景はこんなことも考慮する必要があるのだろうと思っているのですが。

Re: 鵺の正体

No.1567

 トラツグミがヌエと呼ばれるようになったのではなくて、『古事記』や万葉の時代から「ヌエ」と呼ばれていた、夜鳴く鳥の正体が、トラツグミのことだろうと言われているのですね。詳しくは、山口仲美「怪鳥ヌエの声」(日本語学1985年5月)などをご参照ください。
 ヌエが合体獣を指す様になるのは『平家物語』あたりからです。『平家物語』でも、二種類あるヌエ説話のうち、片方は合体獣ではない単なる鳥です。

京都女子高等学校について

risa
No.1530

私は四月から、京都女子高校1類に通うのですがわからないことだらけです。まず、一番難しい教科はなんですか?また体育が苦手です。準備体操はどんなことをしますか?先輩の方、教えてください。

Re: 京都女子高等学校について

No.1532

 risaさん、こんにちは。まず、この掲示板は、ハンドルネームでの投稿はお断りしていることをご承知おき下さい。でも、京女に関連する御質問であることと、まあ、このような御質問だとお名前は書きにくいことは理解できるので、一応回答をいたします。
 当ゼミは大学付属の研究所のものですから、高校のことは分かりません。ゼミメンバーも、京都府以外や公立高校の出身者がほとんどです。たった一人、京都女子高校御出身のメンバーがおられますが、彼女は現在、同志社の大学院生で、高校を卒業されてからすでに6年ほど経過しています。うかがっても、今とはだいぶ状況が異なると思います。ですから、どうしても、その情報をお知りになりたければ、高校のサークルのHPでも探されて、質問されたら如何でしょうか。
 しかし、これは一般論ですが、難しい教科というのは一人一人違うはずですし、体育も楽しいかも知れませんよ。新学期が始まってから対応しても、よいのではありませんか?

Re: 京都女子高等学校について

No.1539

risa さん。野口先生もおっしゃるように、
できれば本名をお教え下さい。
私の妻が、京都女子高校の国語を担当しております。ただし、今年は高2の国語だというふうに聞いています。
いちおうメールアドレスを公表しますので、メールでお知らせいただいてもけっこうです。
でも、一番難しい教科は、人によってちがうと思いますよ。
体育のことも知らないと思います。
でも、いろいろ相談にはのれるかもしれません。