学校の生徒さんについて
No.10049
>野口先生 残暑お見舞い申しあげます
「生徒」「学校」は私も違和感あります。この違和感の、たとえば世代的な境目はどのあたりにあるのでしょうね。
私が通った大阪の府立高校は「自主・自由・自立」がモットーだったのですが、そういえば先生方や生徒会の皆さんもことあるごとに、『自由とは?』『自由な学生とは?』といったようなことを学生達に問いかけ、私たちも私たちなりに考えていたような気がします。そういう問いかけは、今から思うとなかなか大事なものだったように思います。
そのようなわけで、私にとっては「学生」=「自主・自由・自立」を体現しながら学ぶ人、といったイメージです。「生徒」といってしまうとそれらが制限された、ずいぶん窮屈なイメージですね。
そういった面から考えますと、いまはずいぶんとミスを恐れたり、とにかくミスをさせないように仕向けることが“教育”や“訓練”と呼ばれるような世情ですから、若い人たちが普段から「自由」について考えたり、実践してみたりする機会もずいぶん少ないのだろうと思います。社会全体が、個人の裁量という意味での「自由」が許容されにくい方向へ傾斜しているようですし、「自由」と「放置・放任」の違いについて考える機会も少ないのかもしれません。
これは、若い人の育成を担う年配者(※私も含む)の責任でもあると思います。
「学生」とはこういうイメージですよね、「生徒」といった場合はこういうイメージですよね、…というように、折に触れて地道に意見交換してみることが大事なのかもしれません。
ところで、まだ一ヶ月ほど先ですが、次回の『吾妻鏡』のご案内でもさせていただきます。
日時:2013年9月19日(木)午後3時頃~(予定)
場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
範囲:秋学期に向けての試運転
※しばらく“振り返り”を続けていきますが、それが終わった後の範囲は以下の通りです。
承元四年(1210)正月一日、二月五日・十日・二十一日、三月十四日・二十二日、四月九日・十九日、五月六日・十一日・十四日・二十一日・二十五日、六月三日・十二日・十三日・二十日、七月八日・二十日、八月九日・十二日・十六日、九月十一日・十四日・三十日、十月十二日・十三日・十五日、十一月二十二日・二十三日・二十四日、十二月五日・二十一日の各条
承元五年(建暦元年、1211)正月十日、閏正月九日、二月二十二日、三月十九日、四月二日・十三日・二十九日、五月四日・十日・十九日、六月七日・二十一日・二十六日、七月四日・十一日、九月十二日・十五日・二十二日、十月十三日・十九日・二十日・二十二日、十一月二日・三日・四日・二十日、十二月一日・十日・十七日・二十日・二十七日の各条
『吾妻鏡』講読会は基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、再開する頃には秋を感じさせる季節になっていてほしいところですが、そんな季節に何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞ「ご自由に」ご参加ください。京都女子大の方限定ではありませんよ。
大学の根幹に関わる問題
美川圭
No.10050
大学生が自分たちを生徒と呼ぶようになったという問題。大学の根幹に関わると思います。大学というのはもともとヨーロッパ、そのうちイタリアでうまれたものです。しかも近代国家が成立する以前ですね。ですから、大学の自治、つまり国家からかなり独立した存在なのです。国家や権力から相対的に独立している。つまり学問の自由です。そういういわば権力からみれば危険な存在があることによって、近代的思惟というものが発達した。その空気に少しでも触れることは、とても重要なことだ。とくに国家のリーダーになるような人物は、それによって自らの暴走を抑制できる。一般の職業人になっても、国家権力に安易に盲従することがなくなる。ときの権力はしばしばこれを胡散臭く思うことがある。国家の支配下におこうとするのである。しかし、国家の支配に完全に入ってしまうと、その大学の価値は劇的に低下する。それは大学や学問の本質に関わることである。そんな風に思っています。大学の学生という呼称は、そうした国家からの相対的な独立、つまり自由を象徴しているのです。自由にものを考え、発表できなくなったらおしまいです。
答えは見えているのですが。
No.10051
美川先生のFacebookにコメントを書き込ませて頂いていたら、美川先生がこちらに書き込んで下さいました。(ちなみに、イメージが元木先生のと同じになっておりますが・・・。これまでのイメージがとても美川先生らしかったので。)
大学が本来の大学足るべくあってほしいというのが私の願いです。大学生を生徒と呼んでも違和感を感じない世代の出現は、日本社会からほんらいの大学が失われつつあることを示すひとつの指標だと、私は思っています。
こういうことを専門に研究している方たちは、どんなことを考えているのか知りたく思い、いま、岩波書店の『シリーズ大学4 研究する大学-何のための知識か』を読んでいます。収められている論文の中では、小林傳司「序論-知の変貌と大学の公共性」と野家啓一「人文学の使命」から学ぶべきところがありました。
なにしろ、将来、まっとうな日本史の研究を行う人と場が確保されるのかが心配でならないのです。