研究教育者の矜恃

No.9965

 『京都大学大学院文学研究科専攻(専修)案内』(平成24年7月)に、こんなことが書いてありました。
 「本専修では,大学院生の独自性を重んじて,できる限り指導しないように努めている。必要な場合には最良,最少限の助言を与えることもある。」

 本日の「基礎・教養科目」。
 先週の授業の際に申し上げたので、ここには書きませんでしたが(もう書いたような記憶があるのですが・・・)、シラバスどおり、テーマは「ムクリ・コクリ」、元寇のお話です。
編集:2013/05/23(Thu) 11:46

 問題とすべきは大学院生の矜持でしょうか?

No.9967

 人文系の大学院生が、ひたすら所属する大学に閉じこもって履修要綱に沿って単位を取り、手取り足取りの指導を受けて修論・博論を仕上げるという受身の態度では困ります。

 近年は、資格を取るための、昔でいえば専門学校とか各種学校に類するような存在に見える大学院もありますから、そんな院生も実在するかも知れません。とはいっても、人文系のジャンルの研究は、そんなわけには行かないはずですので、その辺りのことを確認する意図が、上掲案内の文言に反映されているのかもしれません。でもそれは、最近問題になった高等教育院設立の発想などとは齟齬するようにも思えるのですが。

 一方、必要な場合には「最良」の助言を与える-というところには、自負と迫力を感じました。これは、なかなか出来ることではありませんから。


 ちなみに、自分の話で恐縮ですが、私は院生時代には授業料を払っていないところばかりで勉強させて頂いておりました。
 安田元久・土田直鎮・桃裕行・豊田武・田中久夫といった錚々たる先生方には、授業や研究会で、ずいぶんお世話になりましたし、そこで知り合いになった同学の方たちとは、今に至るまで長いお付き合いをさせて頂いております。
 そういえば、史料編纂所に行って、新田英治先生に青学の研究室で欠号になっていた『日本史研究』所載の論文のコピーお願いするという、思い出すと冷や汗の出るような、図々しい所行をしでかした事もありました。

 もっとも、ほとんどの場合、こうした先生方の所にお邪魔するにあたって、仲介の労を執って下さったのは、指導教官である貫達人先生だったのです。