松殿基房の木幡別業は城塞化されていたのか?

No.9868

 岩田君の家の近くの小高い丘の上には、松殿基房の別業跡があります。
 この周囲に巡らされた土塁については以前から知られていましたが、最近、宇治市によって発掘調査が行われたようで、9日の午後に現説があるそうです。

 この土塁が本当にこの時代に築造されたのなら、極めて興味深いものがあります。以仁王挙兵の時か、源行家が木曽義仲と同時に入京した時か、宇治川を突破した義経軍が通った時か、はたまた、承久の乱に関係するのか?

 という訳で、土曜日はこの現説に行ってから、踵を返して薩摩に向かうということになりました。翌日の研究発表はどうなることやら。

 ↓ 京都新聞の記事です。
 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130305000157

ほんとうに松殿基房邸跡か?

美川圭
No.9870

今日、京大の元木研究室での研究会で、出席されている上横手先生が、この遺跡がほんとうに基房邸跡なのか、その証拠はあるのかと、根本的な疑問を呈されました。考えてみれば、たしかにここが当時基房邸という当時の確たる証拠があるわけではありません。のちに後世の茶人たちが松殿邸として喧伝したのではないかと。上横手先生は、武士の館と考えるのが自然ではないかと言われました。先生は宇治の住民でもあるので、以前からここに土塁があることはご存知だったそうです。残念ながら、私は所用で今回の現地見学会に行けません。そのあたりのところ、野口先生、またお教え下さい。

土塁が何時築造されたのかが問題です

No.9871

 まったく上横手先生のおっしゃるとおりで、以前から土塁の存在は知られておりましたし、私自身、以前、山荘が公開されたときに現地を見て、中世後期の城郭遺構ではないか思われる地形を確認しています。木幡の奈良街道沿い平地部分の西浦遺跡では堀をめぐらせた中世後期の居館跡が検出されておりますし、立地からいって何らかの城郭施設が造られてもおかしくはないと考えています。

 ただ、報道ではそんなことには一切触れずに、「松殿」の話ばかりを載せているので、これは12世紀代の遺物が検出され、土塁そのものが松殿(藤原基房)の時代に構築されたと判断されたと受け取らざるを得ないのです。行ってみたら、「これは中世前期の遺構ではありませんでした」と発掘担当者が説明する可能性もあると思っています。ですから、その確認のために現説に行くようなものです。

なお、松殿の別業がここにあったかどうかは一次史料では確認できず、あくまでも伝承の域にとどまるのですが、隣接する地域も「京極殿跡」と伝えられています。松殿山荘のある丘の北側の平地には道長の建てた浄妙寺があり、山荘の周囲は摂関家の墓域(宇治陵)であり、鎌倉時代には九条家ゆかりの観音寺(西八条禅尼や安達氏と関係の深い真言律宗の真空がいた)もありましたから、この伝承は事実を伝えた蓋然性が高いものと、私は判断しております。

 そういえば、以前、角田文衞先生から、「源通親と結婚した基房の娘は、ここで道元を生んだと大久保道舟氏が言っておられる」とうかがったことがありました。たしか、この基房の娘というのは木曽義仲の妻だった人だったかも知れません。

 さて、これから数時間後の現説で、どんな説明がされるのやらといったところですが、私としては、一度出かけて、すぐに家に戻り、急いで鹿児島に向かわなければならず、まったく忙しいことになってしまいました。

中途退出の現説参加記

No.9872

 現説に行きました。時間がなく、遺跡全体の説明までしかいられなかったので、土塁の遺構は見学できませんでした。ただ、全体の説明では、すでに松殿基房との関係を前提にされていて、ほかの時代に関する論及がありませんでしたので、戻る前に調査員のお一人に、土塁築造の時期について直接お尋ねしてみました。ご回答を要約すると、土塁から奈良時代の遺物が検出されているが、それ以降のものは検出されておらず、中世後期とも判断できないとのこと。要するに、確実なのは奈良時代以降の築造であるというだけのようです。

 そもそも、私が疑問に思ったのは、多くの方のおっしゃる「関白の別邸だから築地塀が巡らせてあったと思われたのに、それが土塁であった」という意見で、京中ならいざ知らず、一族の墓所の空間の、それも丘陵上にそのような権威空間を示すものが築造されるとは思えないということです。東西南北の街路が区切られた忠実期以降の権門都市としての宇治に造営された小松殿や小川殿は築地塀で囲まれていたと思いますが、木幡の空間は性格が異なる。

 それから、もう一つ気になるのは、この台地上からかつて瓦が見つかったという情報があることで、そうだとすると寺院の遺構である可能性が高いのではないかということです。
 現説の資料は『明月記』の記事を根拠にして、基房が木幡に別荘を所有していたことが明らかであるように記していますが、それは「逆修所」ですから、仏堂と見るべきでしょう。さらに言えば、その「逆修所」が、この場所に所在したかどうかは別問題です。当時の地理感覚では「木幡」は相当広いエリアだからです。

 ちなみに、現説の資料には『明月記』該当記事について「(1227年記事)」というように表記していますが、これは安貞元年閏3月21日条で、『民経記』5月2日条にも関連記事があります。これらの記事によると、この逆修所で詩歌会が開かれたことがわかるので、別荘的な遊興の場としての機能を有する施設であったことは認められるのですが、場所は特定できません。後世、松殿の逆修所の存在が言い伝えられる間に、周囲に土塁をめぐらせた、この台地がそれにふさわしいものと考えられるようになった可能性も否定できないと思われます。
 いずれにしても、この土塁はもっと広い時間的なスパンで評価すべきではないかと考えます。木幡周辺は大変な要地ですから、史料所見を前提にして様々な可能性を考えていく必要があると思います。

 この土塁、たしかに治承・寿永内乱あるいは承久の乱との関連で構築されたのなら面白いのですが、鎌倉時代にこのあたりに造営された観音寺とか、南北朝期~戦国期になんらかの軍事的な意図で構築された可能性も、周辺の中世遺跡との関連の中で検討する余地があるのではないかと思います。

 なお、この遺跡については岩田君も『明月記』の記事を引くなどして、より学問的に「呟いて」おられますのでご参照下さい。
 
 その岩田君ですが、私が帰った後に、現場に到着されたようですね。現説には私が到着した時、すでに朧谷先生がお出でになっていましたし、帰る途中で、山田先生ご夫妻、ついでタクシーで駆けつけられた(宇治の中心を本拠とされる)佐藤さんにもお会いすることができました。
編集:2013/03/13(Wed) 15:18

素人の雑感

No.9874

 遅ればせながら、私も現地説明会に行ってまいりました。現地は自宅より徒歩五分くらいの場所なのですが、中にまで入らせていただくのは今回がはじめてとなりました。

 私が行ったのは説明会終了間際でしたので、見学者の方もほとんどおられず、むしろじっくり見学させていただくことができました。といっても、眺めただけでは具体的なことは何もわからなかったのですが…。

 見学した感想や疑問は野口先生がお書きのとおりだと思います。
 まず『明月記』の嘉禄三年(安貞元年・1227)閏三月二十一日条は以下の通りです(国書刊行会本から抄出)。

 「~中略~家長朝臣兼来臨、入北門相逢、大納言殿御使也、於木綿御逆修所可有詩歌会之由、禅閤頻被仰、老者殊可参有御気色云々、於彼御命者実難背、雖老病難治可扶参、抑密々申、任槐之最中、詩歌御興遊、頗可有御存知旨哉、如何、~以下略~」

 条文中の「木綿」が「木幡」を指すわけですが、おおよそ北は現在の京都市伏見区桃山周辺、南は同じく宇治市黄檗のあたりまでを当時は「木幡」と称していました。そのため、この記述だけでは「御逆修所」が「木幡」のどのあたりに存在したのか、場所の特定は困難と言わざるをえません。また、遺構から具体的な年代を示すほかの出土遺物などは確認されていないそうです。ですから、今回確認された遺構と、『明月記』の条文との関連は不明とせざるをえないと思います。

 遺構とは別に、松殿山荘の周辺からは奈良時代頃の遺構・遺物も発見されているそうです。その頃から何らかの人々の営みが見られるというわけですね。また、今回確認された遺構の南側には、いわゆる「宇治陵」といわれる遺跡も二ヶ所存在します。

 今回は土塁と見られる遺構が発見されましたが、その周辺では堀に該当する遺構は確認されていないということで、単純に「城郭」と見なすこともできないというようなご説明も調査員の方からいただきました。
 ただし松殿山荘の南北にはそれぞれ川が流れていますし、東側には尾根を南北に切り通したような道が通っています(いつ頃から存在する道なのか知らないのですが)。「城郭」といえるかどうかの判断は、それら周辺の地形も含めて検討してみてもよいのではないかと思われます。

 確認された遺構が積極的に十二~十三世紀頃と特定できるわけではないのなら、もっと中世後期まで時期を広げて検討すべきではないかと思います。木幡が京都-奈良を繋ぐ水陸交通の要衝であったことは事実ですし、ここを押さえるために何らかの“施設”を設けるという発想も理解されるところです。しかし、繰り返しになりますが今回発掘された遺構が十二~十三世紀頃のものであるかどうかというのは、それとは別問題だと思うのです。
 木幡周辺の水陸交通路を掌握しつつ、いざというときの高い軍事的機能を持つ一種の城郭、というのが素人ながらの感想です。

 ※なおこの雑感は、べつのところで「呟いた」(※学問的なんてとんでもない!)内容に一部加筆して掲載しております。
編集:2013/03/13(Wed) 13:09

発掘現場が基房邸であるという既成事実化を防ぐ

美川圭
No.9876

野口先生、岩田さん、ありがとうございました。自分で行ければよかったのですが。

京都市埋蔵文化研究所だと、現地説明会の資料をアップしてくれるので、たとえ現説に行けなくても助かりますが、今回は宇治市ですね。たぶん、資料はアップされないし、ホームページもなかったと思います。京都新聞が大きくとりあげましたが、きわめて問題のある記事だと思います。これで、ここが基房邸跡という大前提で、貴族の邸宅に土塁とか防御施設がある、源平合戦期だからだ、とか、学問的にはきわめて危険な議論です。

京都新聞の担当は誰なのでしょうか。きちんとした記事を書いて欲しいと思います。

この程度の検証ではだめ、と強く主張しておきます。
編集:2013/03/13(Wed) 14:37

ご教示深謝

美川圭
No.9880

野口先生。現説資料のありかをお教えいただきありがとうございます。ほんとうに助かりました。