どこが、家盛決起?

美川圭
No.9542

今回の題名は「家盛決起」でした。

題名からして、家盛が清盛に対して挙兵して、殺されるとかいうような思いも掛けぬ創作をしてくるのかと内心期待していたら、単に頼長の男色の餌食になるというお話でした。
頼長の男色は、彼が自分の日記『台記』になかなか口に出せないような赤裸々なことを記し、それをもとにして東野治之先生とか五味文彦先生が論文を書いたため、たいへん学界では有名になりました。男色が主従関係につながるということもわかっています。しかし、今回の描き方は、単なる醜悪な貴族の薄気味悪い趣味という描き方でした。男色はまわりに女性のいない寺院とか、戦場で女性のいない武士の方に一般的ではなかったかと、私は考えているのですが。

家盛をものにした頼長の投げかける言葉の数々も、とてもではないが当時の主従の会話とは思えません。頼長がいろいろ問題がある人物であったことは確かですが、一流の学者ですし、あそこまでひどい描かれ方をされるのは、腹が立ちます。保元の乱での悲劇的な最期を考えると、あまりにひどい。『台記』の男色記事も、非業の死によって、清書するときに抹消する機会を逸した可能性もあるわけです。

よく分からないのは、なぜ外戚になれず衰退しつつある摂関家の御曹司の男色相手になると、平家の家督がえられることにつながるのか、さっぱりわからない。このドラマでは一貫して、鳥羽法皇にひどく力がないように描かれている。そのことと関係があるようなのだが、史実とは全く異なるので、よく理解できないのです。

あいかわらず、平家一門内での家督をめぐる会話が粗悪で、三文芝居です。一門の連中が、本人たちのいる前で、清盛よりも家盛にしろ、などと言うわけがありません。民放の二時間ドラマの方がもう少しリアリテイがあります。家盛と母との別れも、いかにものBGMが流れ、これから死ぬぞ、と予想されるシーン。私は家督を手に入れたいのではなく、母のよろこぶ顔がみたいのだ、とか臭い台詞をはかせ、何とセンスのない脚本だろう。

フカキョンの芝居、学芸会です。この人が安徳帝を抱いて壇の浦で入水するなんて、とうてい思えない軽薄さ。なんとかならないのか。

「平清盛と京都」    ① 平家の六波羅

No.9543

 『京都民報』に連載された『清盛・平家とその時代』の第2章「平清盛と京都」として、4回にわたって連載記事を執筆致しました。大河ドラマに関連した記事に関心のある方が多く御覧になっておられるようですので、ここに1回分ずつ転載させて頂くことに致しました。なお、付載の地図や系図は省略致します。
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  ① 平家の六波羅

 伊勢平氏の京都進出
 平清盛が活躍した時代、京都における彼の本拠が六波羅と西八条にあったことはよく知られている。しかし、どうしてそこが選ばれたのか、どんな空間を構成していたのか、その後どうなったのか等、といった点については、あまり関心が持たれることはなかったように思われる。大河ドラマで清盛が取り上げられたことは、そんなことを考えてみる、よい機会になるのではなかろうか。 
  清盛を生んだ「平家」は伊勢平氏を出自とする。伊勢平氏の初代は摂関時代に活躍した維衡(これひら)である。彼の父の貞盛(さだもり)は、常陸国を本拠とする軍事貴族であったが、10世紀の前半に発生した平将門の乱を鎮圧した功績によって中央に進出し、国家の武力として用いられるようになった。そのため、常陸と京都を往復する上で、海陸交通ルートの中間に位置する伊勢に進出したらしい。その子孫は伊勢に経済的な基盤を置きながら、京都を政治的な活動の場とするような存在形態をとったのである。だから、伊勢平氏は京都にも居住空間を設定していた。
 11~12世紀前半の段階で、伊勢平氏の一族が、京都の何処に居住していたかを、当時の貴族の日記で調べてみると、維衡の兄維叙(これのぶ)の「三条宅」(『御堂関白記』)、清盛の祖父正盛の従兄弟にあたる盛基の「五条烏丸宅」(『中右記』)などを知ることが出来る。「宅」とは四位以下の貴族の居邸の呼称で、規模はどの程度か不明だが、かれら伊勢平氏の一族も、一般の貴族同様に京中に居住空間を有していたことがわかる。

 境界空間としての六波羅
 伊勢平氏の一族で、平安京の京域の外側にある六波羅とはじめて関係をもったのは、右の盛基なのであるが、そのことを述べる前に、六波羅とはどんな空間だったのかを考えておこう。
 六波羅は平安京の左京六条の末(すえ)、すなわち左京六条を鴨川の東岸に延長した地域一帯の呼称である。ちょうど、葬地である鳥部野への入口にあたるから、鴨川が三途(さんず)の川にオーバーラップするというわけで、平安京に住む人々にとっては、この世とあの世の境界として意識されていた空間であった。そんなことから、六波羅の地名の由来については、白骨の転がる「髑髏(どくろ)原」とか、東山の山麓の「麓原」から転じたという意見もあるが、やはりここに所在した六波羅蜜寺の存在によるというのが、東京大学の高橋慎一朗氏の説である。
 そんな空間であるから、平安時代の貴族たちはここに墓堂を建てるようになる。六波羅蜜寺の近くには、今でも「六道詣り」や「迎え鐘」で有名な珍皇寺があるが、当時この寺は広大な敷地を有していたらしく、康和3年(1101)の頃、右に見た伊勢平氏の盛基が、そのうちの二段を借地していたことが知られている(『東寺百合(ひゃくごう)文書』)。
 ついで、ここに土地を求めたのが、白河上皇に仕えて頭角をあらわし、「平家」の祖となった平正盛である。天仁3年(1110)6月、彼は六波羅蜜寺の寺領内の借地に三間四面で檜皮葺の阿弥陀堂を造立。その後さらに珍皇寺領に、その領域を拡大して南北に塔を建てたのである。この堂は「正盛堂」あるいは「六波羅堂」などと呼ばれたが、正盛は死後ここに葬られることとなり、その墓堂(法華堂)は常光院と呼ばれた。それを取りこむ形で一町規模(約120メートル四方)の邸宅を造営したのが、正盛のあとを継ぎ、瀬戸内海の海賊討伐のみならず、白河・鳥羽両院の近臣として並々ならぬ手腕を示した忠盛である。

 平家一門の集住地
 忠盛の子の清盛は、平治の乱後、国家の軍事警察権を掌握して、公卿の地位に昇り、ついには王家(天皇家)の外戚となって国政をも掌握した。一方、日宋貿易など交易活動にも力を入れ、その結果、京都は東アジア経済の一大拠点としての機能も有するようになる。
 これに並行するように、六波羅の拡大も著しいものがあった。『延慶本(えんぎょうぼん)平家物語』(第三末)は、この当時の六波羅の有様を以下のように伝えている。

南門は六条の末、賀茂川の一丁を隔つ。・・・この相国(清盛)の時、四丁に造作あり。これも屋敷百二十余宇に及べり。これのみならず、北の倉町よりはじめて、専ら大道  を隔て辰巳の角の小松殿に至るまで二十余町に及ぶまで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属のの住所に至るまで、細かにこれを算うれば、屋敷三千二百余宇・・・

  清盛の泉殿(いずみどの)、頼盛の池殿(いけどの)、教盛の門脇殿(かどわきどの)をはじめとする平家一門の邸宅がたちならび、周辺には平家に仕える家人郎等の宅が軒を連ね、その北側の倉町には日宋貿易や諸国からの貢進によって蓄積された財物が貯えられていたのであろう。そして、六波羅の東南の角には、清盛の子で内大臣に任じた重盛の邸宅小松殿があった。建築史家の太田静六氏はこれらを総称して「六波羅団地」と名付けているが、些かイメージにそぐわない。一門の祖である正盛の墓所を守るようにして居住空間が営まれているのは、武家における族的結合の意識の強さを示すものといえ、その形態は、源氏の鎌倉や奥州藤原氏の平泉と共通するものがうかがえるのである。
  ちなみに、重盛の小松殿の所在地は、おおよそ現在の馬町交差点の辺りに比定することが出来る。現在、その近くの東山武田病院には広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がある。庭園史家の重森三玲氏はこの池庭に平安末期の浄土様式を見出し、これを小松殿の遺構と推定している。知られざる京都の平家関連史跡といえよう。
             (『京都民報』2012年2月12日付 より)