法住寺殿最勝光院の遺構が検出されたという情報

No.9500

 最勝光院(法住寺殿の域内に所在)は、後白河院の寵姫である建春門院(平滋子)の御願寺で、その造営にそなえて後白河院と滋子が連れ立って宇治の平等院を見に行き(『玉葉』)、藤原定家をして「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」といわしめた寺院で(『明月記』)、建春門院の御所も付属していました。養和元年(1181)に平清盛が九条河原口の平盛国亭で亡くなったときに、ここから今様の声がきこえてきたというのは有名な話です。
 その最勝光院跡と推定される場所(京都市立一橋小学校跡地)が、京都市埋蔵文化研究所によって発掘調査され、ここから整地層や建物基壇跡、それに大規模な濠跡が検出され、そしてそれに伴う土器や瓦などが出土したとのことです。

 現地説明会は3月10日(土)とのこと。くわしくは京都市埋蔵文化研究所のHPを御覧下さい。
 →http://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-res-information/602.html?cat=6

 ゼミ関係者はぜひお出かけ下さい。
 京都女子大学から歩いて15分くらいのところです。

 なお、見学にあたっての参考文献として、髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣、2006年)を紹介しておきます。本書Ⅱの「後白河院御所論」に興味深く有益な論文(私のものを除く)が収録されています。

 【追記】 ☆ 神奈川県立金沢文庫の西岡芳文先生より、現在開催中の同館企画展「鎌倉めぐり」の図録を御恵送頂きました。
 当ゼミのメンバーも、最近続々と鎌倉に出掛ける人が増えているようです。
 西岡先生に、あつく御礼申しあげます。  
編集:2012/03/04(Sun) 08:40

いっきょうしょうがっこう

No.9503

久しぶりに母校の名前を見て懐かしくなりました。
父も、私自身も走り回って遊んでいた校舎のしたに、どんなものがあったのか大変気になります。

一橋小学校は、今は暗渠になっている音無川と本町通が重なるところ(銭湯、泉湯の斜め前です)にかかっていた『一の橋』が由来で、明治二年に下京第三十一番組小学校として開校されたところです。校舎も火事で燃えたりとかで、何回か建て替えられています。その時に遺構がつぶされてなければいいのですが‥。

以前、野口先生に最勝光院のお話を伺った時に、父にその話をしたところ「あそこは昔から竹やぶやった。古地図に載ってる」と、聞いてくれません。地元の認識はそのレベルです。この機会に、いろんなことがわかるとうれしいです。

ちなみに実家は、今回の発掘地点から100mほど真南のところです。掘ったら何か出るのでしょうか?

近所の三小学校と中学校が統合して、東山泉小中学校となるらしいです、母校の名前がなくなるのは寂しいですが、今年は辰年で、向かいの瀧尾神社もにぎわってます。今日の清盛でも最後に新熊野神社が出てきましたし、この界隈は何かありそうですね。

「歴史」の奥深さを感じながら、新しい命の誕生を寿ぐ。

No.9504

 鈴木君の御実家から直ぐの所だと書こうかと思ったのですが、「個人情報」云々のうるさい当節、遠慮したところでした。
 きっと、お家の敷地を発掘したら何か出て来ると思いますよ。改築などの際には、ぜひ山田先生に調査を委託したら如何?・・・かと。

 それにしても、一橋小学校も廃校になってしまったとは驚きでした。鈴木君やお父上が小学生時代を送った空間で、後白河院が今様を謡っていたわけですから、・・・そんなことを考えると、時の積み重ねというのは凄まじいものでありますね。

 ところで、さきほど、当ゼミの古参メンバー(九州の御出身)からメールで、第二子(女の子)御出産の御報告を頂きました。第二子ということで、どなたかお分かりですよね。そう、山本陽一郎君の「戦友」です。
 今は御実家におられるそうで、京都に戻ったら、二人のお子さんを連れて研究室にお出で下さるとのことです。
 当方の研究室にも、また新たな歴史の一コマが刻まれるわけで、楽しみにしています。