海賊追捕の賞?

美川圭
No.9483

 よくわからない小細工。『中右記』保延元年(1135)8月19日条には、忠盛が海賊26人を検非違使に引き渡したとあり、21日に忠盛の海賊追捕の賞として清盛が従四位下になったとあります。ふつうは、検非違使に海賊を渡したので、その恩賞が朝廷から与えられる。この場合嫡男の昇進というわけです。

 ところが、今日のドラマでは、検非違使に引き渡さなかった。清盛の従四位下は、上皇が忠盛を公卿に昇らせないためであるというようなやりとりがあるわけです。検非違使に引き渡さなかったら、たぶん恩賞は出ないでしょう。それから、嫡男の昇進が父の昇進に対する妨害というのは、よく理解できません。一般視聴者は理解できるのでしょうか。

 重盛の母となる高階基章の娘、この人との和歌のやりとりというまったくのフィクションが出てきます。清盛があまりに粗野で歌などわからないので、西行がかわりに詠んで、それでもふられるが、清盛の率直さにうたれた基章娘が結婚に応ずる。身分が低い者との恋愛結婚に、忠盛夫妻も見合い結婚話を院近臣家成通じて(たぶんその娘)進めていたが、あきらめるというような話でした。

 私はあんな「単細胞」が長じて、のちの清盛になることはまったくありえないと思います。脚本家が「単細胞」粗野おとこが趣味という次元の問題でしょう。

 それから、時子がまるで基章女とお友だちみたいな雰囲気でした。時子は大治元年(1126)生まれですから、現在で言うとまだ満9歳です。時子との最初の子宗盛が生まれたのは久安3年(1147)です。たぶんその少し前に結婚したのでしょう。あんな風にお友だちではありえないのです。しかも時子の家は代々摂関家に仕える名門家司の家。基章のところとは家柄がかなり違う。このあたりも、脚本家の勉強不足はあきらかです。

 さらに、得子が鳥羽院の上にのしかかるようなシーンもやめていただきたいものです。あのシーンで、私の娘は自分の部屋にもどって行きました。ありえないシーンですし、日曜8時です。今上陛下も心臓の大手術されたばかりです。あんなことで、八条院が生まれたとか、近衛天皇ができたとか・・・・。考えるだけでもおぞましいので、やめていただきたい。

高階基章女

山田邦和(同志社女子大学)
No.9484

 美川先生、みなさま、こんばんは。本日の「平清盛」、メロドラマでしたね。見ていてちょっと恥ずかしかった。

 清盛の最初の妻で重盛と基盛の母となる高階基章女(ドラマでは明子という名になっている)が初登場! この女性については、角田文衞先生と高橋昌明先生の考証がありますが、やっぱり決め手に欠けており、実体がもうひとつよくわからない。
 でも、せっかくドロドロぐちゃぐちゃの人間関係が大好きな脚本家と演出家だし、高橋先生が時代考証をされているということもあるのに、どうして高階基章女については高橋説を採用しなかったのかな? 高橋説は、重盛母である高階基章女は「基章(摂関家の家人)の妻と摂関家の大殿・藤原忠実の不倫の結果、生まれた娘であり、清盛の父の平忠盛はそうした事情をすべて承知して、大殿の不始末の尻ぬぐいをするためにその娘を清盛の嫁に迎えた」というショッキングなものなのですから。
 そういえば今日のドラマでは忠実と清盛が院御所ですれ違うシーンが出てきましたね。ちょっと前後関係を操作して、忠実の清盛を見る目に「おお、こ奴が俺の不始末の尻ぬぐい役か!」という感情を含ませればおもしろかったのに・・・ と無責任なことをいいます(高階基章妻と忠実の不義の娘がいたことは事実だが、それは重盛母とは別人だという可能性の方が高いという気がするのですが・・・)。

 しかし、今日のドラマの不満を全て払拭してくれるのは、高階明子役の加藤あいさんの清楚な美しさ!! いやあ、こんな美人に出会ったならば、身分がどうのこうのと四の五の言う前に一目惚れしてしまうキヨモリ君の気持ちがよくわかります! 史実からすると高階基章女はふたりの男子を産んですぐに死んでしまい、時子に清盛の嫡妻の座を譲るということになるのでしょうね。しかし、個人的な感情からすると、もうこうなればどんなに史実をねじ曲げねじ曲げてもかまわないから、ちょっとでも長く加藤あいさんが登場し続けることを願っています(^^;)。

 追伸:そうそう、もうひとつ。あの汚かった漁師の兄ちゃん・鱸丸、上川隆也というイイ俳優さんを使っていると思っていたら、まさかの大逆転で平盛国に大変身!! あぁ、スズキ丸というケッタイな名前も、スズキが出世魚なのだからだというダジャレだったのですね。このシーンで、ブッ飛んだ人、いませんか?
編集:2012/02/19(Sun) 22:53

便乗して告知します-次回の『吾妻鏡』-

No.9485

 ◆美川先生の大河ドラマ評は「視聴率」が高いと大変評判ですので(関学にも視聴者多数)、便乗させていただいて次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年2月23日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正治三年(建仁元年、1201)六月二十八日・二十九日、七月六日、八月十一日・二十三日、九月七日・九日・十一日・十五日・十八日・二十日・二十二日、十月二日・六日、十一月十三日、十二月二日・三日・二十八日・二十九日の各条
    建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。


 ◆昨日2月18日(土)は、関西学院大学図書館で、日本古文書学会の見学会が開催されました。30名をこえる多くの参加者の皆さまをお迎えできましたことを、関学関係者の一人として大変光栄に存じます。
 ご来場いただきました皆さま、見学会をお世話してくださった元木泰雄先生、漆原徹先生、関学の中村直人先生、そのほかご協力いただきました皆さんに、この場をかりて御礼申し上げます。

 今回は、上島有先生が紹介(「関西学院大学図書館蔵東寺文書について」『東寺・東寺文書の研究』思文閣出版、1998年。初出は1981年)されました東寺文書18点と、灘の酒造業関連と紀州牢番頭釘貫家の近世文書、明治維新元勲書簡など、関西学院大学図書館所蔵の文書を見学致しました。
 私もこれらの文書をじかに閲覧することははじめてでしたので、大変貴重な機会をいただくことができました。

高橋説を脚本家は知らなかった説

美川圭
No.9486

山田先生、こんばんわ。お久しぶりですね。

 私の推測では、脚本家は高橋説など知らなかったのだと思います。それどころか、忠実と基章妻との関係も知らなかった。だからああなったのだと。やはり、事実のほうがおもしろい。山田先生のおっしゃるように、高橋説を採用した方が、脚本家のどろどろ路線には合っていたはずなのですが。

 まあ、勉強不足というのは、そういうことです。現在学界で言われている説をすべてあつめて、勉強したうえで「おはなし」つくったほうがいいと思うんですがね。

 ドラマができてから、時代考証者に見せているという話を聞いたことがありますが、それじゃいくらなんでもだめですよ。脚本段階でみせなければ。

ほんとうは平盛康の父が「盛国」なのでした。

No.9487

 私も何か言わないといけませんね。でも今夜のお話は平安時代ファンの女性をターゲットにした演出の様なので、取り上げるとしたら、やはり高階基章の娘が実は藤原忠実の子であるという髙橋先生の御説でしょうか。
 1997年に出た『女性史学』第7号掲載の「重盛の母」で読んだとき、重盛と頼長の顔が似ている(もちろん絵ですが)という御指摘に「なるほど!」と思ったことを思い出します。

 あえて私が今回の話に口出しするとなると、劇中で清盛の乳母夫の役回りを負わされている平盛康と、その後継者という設定の平盛国についてということになりますか。
 面白いことに『尊卑分脉』・「桓武平氏諸流系図」によると、史実において盛康の父の名は「盛国」だったようです(もちろん清盛の郎等の盛国とは別人ですが)。盛康の官歴は、同時代史料から、刑部丞→兵衛尉→検非違使・右衛門尉、保延三年正月に叙爵されたことを知ることが出来ます。平家の家人とはいえ、れっきとした「京武者」ですね。彼の子としては、盛範・盛長・盛仲の存在が確認されます。

 一方、清盛の郎等の盛国の方ですが、こちらは『延慶本平家物語』に、平権守盛遠の子とあります。『吾妻鏡』に平季衡の七男とあるのは世代的に整合しませんが、文治2年(1186)に鎌倉御家人である岡崎義実のもとで断食によって74歳で死去したことは事実と考えられ、それに従えば生年は永久元年(1113)ということになります。

 盛康・盛国の出自・官歴などの詳細については、拙稿「院政期における伊勢平氏庶流-「平家」論の前提作業-」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第16号、2003年)および「院政期における伊勢平氏庶流(補遺)」(同 第17号、2004年)を御参照下されば幸いです。