醍醐史跡散歩のてんまつ。

No.8930

 今日は醍醐史跡散歩。

 集合場所に遅れる人なし。まずは東に15分ほど歩いて、法界寺へ。そこから日野誕生院をへて萱尾神社に向かう。途中に日野家の廟所があった。萱尾神社はお祭りの準備中だったが、作業をしていた方が気を遣って、キリシタン燈籠の回りに設置した柵をはずして下さった。ここに、このような神社があり、そこにこんな石燈籠があったとは。長年近所に住んでいながら知りませんでした。

 もっと驚いたのは、その次に訪れた恵福寺にあった丈六の地蔵菩薩。まだ、本格的な調査の手が及んでいない模様。そこから住宅街の間の細道を北上すると平重衡の墓にいたる。25年ほど前、小野に住んでいたときに自転車で訪れたことがあるのですが、周辺の様相は一変。

 ここからさらに北上して右に曲がって高い階段を昇ると、そこは一言寺。ここは信西の女阿波内侍の建立と伝えられる。一方、一言寺の近く、奈良街道に面した善願寺(恵心僧都の開基という)には、かつて平重衡の妻大納言佐が建立した坊があったという。そして、ここにも丈六の地蔵菩薩(国重文)があり、安産祈願の信仰を集めている。
 どうやら、平安末から鎌倉時代にかけて醍醐寺の周辺においては地蔵信仰が隆盛を極めたらしい。

 奈良街道の東側を通る間道を北上して醍醐寺に到着。ここで、ひとまず解散を宣言したものの、参加者は全員揃って長尾天満宮に向かいました。それから、次の用事に向かったお一人以外の面々はアルプラザのカフェで一休み。よしなし事を語り合って、ようやく本当に解散という次第でした。

 所要時間はほぼ3時間。歩いた歩数は約12000歩ほど。今年史跡見学のために一番歩いたのは、フィレンツェ、ついでローマ。イタリア旅行の時の歩数にははるかに及びませんが、国内の見学では十指に入る見学でした。
 この程度で、そんなことを言っているわけですから、運動不足は明々白々というわけです。

 本日、近刊を期している拙著のゲラが届きました。 

来週は各地で学祭など-木曜日の『吾妻鏡』-

No.8932

 昨日(29日)は醍醐の史跡散歩に参加させていただきました。好天にも恵まれ、うちの近所を散策できたことはとてもよかったと思います。
 11月12日(土)の当日も好天に恵まれると良いですね。

 拙著『乱世に挑戦した男 平清盛』(新人物往来社、1500円+税)もいろいろな書店に並べていただき、関係各位のご尽力に深く御礼申し上げる次第です。

 本書の校正には、小学・中学の同級生から協力を得ることができました。彼も当時から歴史好きで、私たちは登下校時などによくマニアックな会話をしたものでした。
 中学二年の社会の時間で、『頼朝と義経が不和になった理由』について、ほかの同級生が「義経が征夷大将軍になったから?」、「わかりません」…などと答えるなかで、彼と私は「義経が頼朝に無断で検非違使左衛門尉に任官したからだよな」「そうだよな」と言い合うような間柄でした(※1992年当時はその理解で正しいと思われていたはずです)。
 最近、あるきかっけでひょんなことから十数年ぶりに再会する機会があり、はからずも校正のお手伝いをお願いできることになったのは全くの幸運でした。

 さて木曜日の『吾妻鏡』の次回は再来週11月10日の開催となります。

 日時:2011年11月10日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建久十年(正治元年、1199年)十月二十八日、十一月七日・八日・十日・十二日・十三日・十八日、十二月九日・十八日・二十九日の各条
    正治二年(1200)正月八日・十五日・十八日・二十日・二十一日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日・二十八日、二月二日・五日・六日・二十日・二十二日・二十六日、閏二月二日・八日・十二日・十三日、三月十四日、四月八日・九日・十日・十一日・十二日・二十五日、五月二十八日、六月十六日・二十一日・二十九日、七月六日・八日・十五日・二十七日、八月二日・十日・二十一日、九月二日・二十五日、十月十三日・二十一日、十一月一日・四日・七日、十二月三日・二十七日・二十八日の各条

 11月は10日、17日、24日に開催予定です。

 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、天高く馬肥ゆる秋から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。