福原の平頼盛邸跡について.
No.897
上の学生センターからの書き込みは、このゼミHPが京都女子大学によって実質的に正式認知されたことを示す貴重な資料になるものと思います(学生センターの人が「武士」の図柄を選んだ?ことにも要注目)。
ところで、昨日、京都大学の西山良平先生のご尽力により、楠・荒田遺跡見学の機会をえました。上横手雅敬先生・美川先生たちとともに京都駅を出発、現地では兵庫県教育委員会の別府洋二氏や神戸大の高橋昌明先生らの御案内をいただきました(元木先生がお出でになれなかったのが実に残念でした)。見学のメインは、いうまでもなく東西方向約40メートルにわたって検出された二重の堀と櫓と想定できる掘立柱建物の遺構です。
二重堀は外側が箱堀(幅2.7メートル、深さ1.7メートルほど)、内側が薬研堀の形態で(幅1.8メートル、深さ1,6メートルほど)で、二重堀といっても実に特異な形状のものです。
別府氏のご説明によると、こうした形状の堀は、伊勢平氏関連の三重県雲出島貫遺跡で検出された例があるのみとのことで、興味がもたれます。現場で高橋先生も指摘されていましたが、清盛が京都の法性寺一の橋の近くに構築した城郭も二重の堀に囲まれていたと『平家物語』に見えており、この形態の二重堀は伊勢平氏独特のものなのかも知れません。このような構造の堀が実際の戦闘の中でどのように効果があるのかとか、こうした方が堀の崩壊を防ぎやすいというような技術的な理由があるのかどうか、といった点について、どなたか御教示をいただけたら幸いです。
この遺構は神戸大学附属病院立体駐車場の建設予定地にあり、これが大学当局の対応次第では破壊の危機に直面していることも、昨日の見学で明確に認識することが出来ました。考古学や歴史学の研究者ばかりでなく、この遺構は国文学研究者(一目で「貴族的な平家」という理解が偏ったものであるということがわかります)さらには歴史を愛する市民一般にとっても重要なものと思います。
本日、記者発表がされるとのことですが、14日の現地説明会には多くの方が現地に赴かれ(花園大学の山田邦和先生もこの日に見学に行かれとのことです)、この遺跡に関する学界・市民の関心の高さを大学当局に理解して頂き、何らかの形で保存・公開の道が開ければと期待しています。
なお、この時代の堀については、平泉で考古学的な調査にあたられた研究者の方たちが多くの情報をお持ちのことと思いますので、遠方ながらぜひ御覧いただき、御教示をお願いしたいものと思っています。
Re: 福原の平頼盛邸跡?現地説明会について.
No.899
昨日はご一緒できず、失礼致しました。16時より、大阪城天守閣博物館で嘱託として勤務する人環の院生の担当した展示を見学する約束があったため、一足先に参りました(展示の実務に関する裏話は大変興味深いものでした。学芸員に興味のある方は当日参加した龍谷の吉田、京大の佐伯両君に尋ねてください)。もちろん、会いたくない人がいたために見学会を回避したのではありません。念のため?
それはともかく、二重の濠の遺構を見たのは初めてで、大変興奮いたしました。あの現場は、かつて多淵敏樹氏が医学部付属病院建設の関係で重要な遺跡を発掘しながら、20年余りも前のこととて、きちんとした報告書が出ないままに終わった場所の近所で、そのとき存在が分かっていた堀の構造がようやく判明したということになります。
二重の濠の前例である伊勢国雲出付近は、伊勢平氏の盛兼流の拠点です。清盛流とは系統が異なっております。彼らは、保元の乱後に近隣の須可荘に乱入し、荘官一族を殺傷するなど、かなり戦闘的な性格を有しておりました。このことと二重の濠が関係するのでしょうか。
今回の遺構では儀式用の土師器がたくさん出土していますから、福原で日常生活を送った邸宅の周囲にあったようですね。外側の箱堀は水が余りなかったようですから、排水路などではなさそうです。したがって、福原の平氏の邸宅は、外側に空堀をめぐらせ、日常的に武的な性格を有したといえるでしょう。東国追討使も福原から出立したわけで、福原は軍都という性格を帯びていましたが、邸宅自体が武士の宿舎にもなる側面があったのかもしれません。
二重の堀が、鎌倉でも少し見えるとのことでしたが、中世前期には余り一般的ではないようですね。平氏関係の邸宅にあったものが、鎌倉では見られないのはなぜか、そこに二重の堀の性格を考えるヒントもありそうです。
今回の堀のすぐ北にある櫓(とすれば、ですが)は急きょ作られたらしく、邸宅の一番縁辺にあるはずの堀よりかなり北ですから、これは邸宅に付随していたものではないのかもしれません。あるいは、一の谷合戦の直前に、合戦に備えて造営されたのではないでしょうか。
すぐ近くの荒田八幡に行けば分かりますが、その向こうはすぐに下り坂です。この付近が谷にはさまれた台地であることが分かります。斜面の側の堀はどのようになっていたのか、また頼盛邸の北にあった清盛邸の構造はどのようになっていたのか、次なる成果が期待されます。
それにしても、これだけの遺構ですから、何とか保存の措置を講じてもらいたいものです。いっそ、病院をどこかに移転して、この辺を遺跡公園にする、てなわけには行かないか。
伊豆山木館の周囲にも二重堀?
No.900
元木先生、ありがとうございました。伊勢国雲出は盛兼流の拠点ですか。盛兼流の居館に二重堀が構築されていたとすると、その流れをくむ伊豆目代山木兼隆の館もそうであったのかも知れませんね。それで、頼朝の遣わした軍勢は攻めあぐんで、なかなか攻撃成功の狼煙をあげられなかったのか・・・と、これはあまりに想像のしすぎかも知れませんが。
櫓と想定される建物については、小生も文化財事務所でレクチャーをしていただいたときに、やはり一ノ谷合戦直前に急造されたのではないかと指摘したのですが、周囲から失笑が漏れ・・・といった雰囲気だったので、多少イジケておりました。しかし、元木先生も同じ御意見で安心した次第です。
なお、この櫓と想定される建物の遺構発見については、すでに神戸新聞9月19日付に報道されています。福原は京都ほど後世の攪乱がないと思うので、都市構造の実態が明らかに出来る可能性が高いのではないかと期待しています。祇園遺跡など、周辺の同時代の遺構と方位関係も一致するようなので、楽しみです。
なお、14日の現地説明会に行かれる人は、元木先生の『平清盛の闘い』(角川叢書)を手に出かけられることをお薦めいたします。遺構見学が100倍楽しくなること請け合いです。