『紫苑』&『日本歴史』・『鎌倉遺文研究』

No.7127

 昨日の『小右記』講読会。Ⅲ講時なのにⅣ講時と間違えて、御迷惑をお掛けしました。
 
 卒論ゼミの時間について、宮本さん・濱千代さん・赤坂さんには水曜のⅡ・Ⅳ講時をⅡ・Ⅲ講時の誤りだと申しましたが、やはりもとのままでお願い致します。
 このところ、いろいろなことがあり、混乱しておりまして申し訳ありません。


 「昭和は遠くなりにけり」を実感する今日この頃です。

 『紫苑』の発送が遅れています。学会誌など、どのような順序で送られるのでしょうか。機関優先とか五十音順なのでしょうか。あるいはまた、会費の納入状況というのもあるのでしょう。
 『日本歴史』の5月号。ご近所の岩田君の所には火曜日に届いたそうですが、当方には未着。購読料の納入が4月になってしまったからだと思います。
 しかし、そういうときに限って早く読みたい。なぜならば、長村祥知君の承久の乱に関する力作が掲載されているからです。そこで、昨日、大学図書館でコピーを取って参りました。タイトルは「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨」。
 この論文によって院宣の発給が証明されました。これによって乱の評価も変わってくるではずですが、私が興味を持っているのは、その対象となった御家人です。
 それにしても、政治思想史にも明るい長村君は承久の乱研究の最前線に躍り出た観があります。5月15日の中世戦記研究会(於、学習院大学)における御報告はこの論文をベースにしているとのこと。鎌倉幕府論に一石を投じる岩田慎平君の報告とともに、「乞うご期待!」と言ったところです。

 長村君とともに京大元木研究室の若手ホープの一人である坂口太郎君から、いろいろ御教示を頂いたおかげでまとめることが出来たのが、『鎌倉遺文研究』第25号に載せて頂いた拙稿「東国出身僧の在京活動と入宋・渡元-武士論の視点から-」です。論点はバラバラで、文字通りの「拙」論ですが、千葉氏一族出身で千葉寺の住僧から九条堂の堂僧として法印にまでのぼりつめた了行に関する新知見と西園寺実兼の援助で元に渡って数多の経典を将来した「鹿島浄行千葉道源」の素性とバックグラウンドを、東国武士論研究の視角から明らかにしようとしたものです。

 道源については、坂口君の御教示で新たな知見を得たにも拘わらず、書き尽くせなかった部分があるのですが、鎌倉時代を研究対象とされている史学・国文を研究されている方や、千葉・茨城県の中世史に関心をお持ちの皆様にお読み頂き、御教示・御批判を頂ければ有り難いと考えております。
 執筆に当たってお世話になった方々には抜刷をお送りしなければならないのですが、それはかなり先のことになりそうですので(『紫苑』第8号も上記の通りです)、その点お詫び申し上げる次第です。 

複数年契約であります

No.7128

 『日本歴史』の5月号は今週月曜日に届きました。この雑誌は確か複数年契約にしていたと思いますから、それで早々に届けていただけたのでしょうか?あるいは五十音の「い」と「の」差が出たのでしょうか?

 次回の火曜日の『吾妻鏡』も、引き続き源実朝夫人(西八条禅尼、本覚尼)の置文を読んでみたいと思います。 

 日時:2010年5月11日(火)15:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 内容:「本覚尼置文」(『中世法制史料集 第6巻 公家法 公家家法 寺社法』)

 ちなみに、次回以降の火曜日の『吾妻鏡』の範囲は以下の通りです。
 康元二年(正嘉元年、1257年)八月十二日・十四日・十五日・十七日・十八日・二十一日・二十三日・二十五日・二十八日、九月十六日・二十四日・三十日、十月一日・十三日・十六日・二十六日、十一月八日・十六日・十七日・二十三日、十二月六日・二十四日・二十九日、
 正嘉二年(1258年)正月一日・二日・六日・十七日・二十日、二月十三日・十九日・二十八日、三月二十日、四月十九日・二十五日・二十六日、五月二日・六日・八日・九日・十日・十四日・二十九日、六月一日・二日・三日・九日、七月十日・十五日・二十二日・二十三日・二十九日、八月五日・六日・八日・十六日・十七日・十八日・十九日・二十日・二十八日、九月二日・二十一日・二十九日、十月十二日、十二月十日・十九日
の各条

 『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。どなたさまでも、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加下さい。『紫苑』第8号も『吾妻鏡』講読会の成果が大きく反映されております。

Re: 『紫苑』&『日本歴史』・『鎌倉遺文研究』

鈴木小太郎
No.7139

野口先生

「東国出身僧の在京活動と入宋・渡元」を拝読し、道源の出自については今回の御論文で完璧に解明されたものと感じました。
ところで、『鎌倉遺文研究』の同じ号に大塚紀弘氏の「宋版一切経の輸入と受容」という論文が載っていますが、p60には「入元僧による請来としては、先の大吉寺の他に、延慶二年(一三〇九)に道眼坊が一切福州版カ)を請来し、京都東山・焼野の那蘭陀寺に安置した」、「『千葉』出身と伝えられる道眼房は、御家人の千葉氏から支援を受けていた可能性がある」とあります。
那蘭陀寺といえば『徒然草』第179段と第238段に登場する「道眼上人」が開いた寺であり、「道眼上人」は今まで出自不明とされていましたが、仮に「道眼上人」と千葉氏の関係がきちんと根拠づけられるのであれば、「道眼上人」は明らかに千葉道源と同一人物ではないでしょうか。
大塚氏が注に挙げている落合博志氏の「『徒然草』に関する考察二題」(『法政大学教養部紀要』九〇、一九九四年)という論文を見れば根拠を確認できるでしょうが、連休中のため当該論文を入手するのに時間がかかりそうです。
既にこの点も解明済みであれば、ご教示をお願いいたします。
興奮を禁じえず、場違いを承知で投稿させていただきましたが、ご迷惑であれば削除してください。

千葉道源は「道眼上人」その人と考えます。

No.7141

 鈴木小太郎様

 拙文をお読み下さり、ありがとうございました。
 落合博志氏の論文のことですが、上に「坂口君の御教示で新たな知見を得たにも拘わらず、書き尽くせなかった部分がある」と書きましたのは、まさにそのことで、千葉道源こそ那蘭陀寺を開いた「道眼上人」にほかならないと考えております。
 京都大学の坂口太郎君から落合氏の論文の存在をうかがったのが、拙論の再校段階でありましたので、新稿を期したいと考えた次第です。
 那蘭陀寺はおそらく私の研究室から見渡せる範囲に存在したと思われ、私も思わぬ奇遇に驚かされました。
 かくして、道源は金沢称名寺との接点もうかがえることとなり、もはや「<草深い東国>認識に立脚した領主制論」による東国武士社会に対する理解は、克服されるべき段階に至ったように考えております。

 ※ 『紫苑』第8号もお読み頂ければ幸いです。宜しければお送り致しますので、私の名前をクリックして送付先をお知らせ下さい。 

やはり同一人物なんですね。

鈴木小太郎
No.7142

野口先生

ありがとうございます。
新しい御論文は『徒然草』研究者にとっても大変な刺激になりそうですね。
今は外出先からなので、後でメールを送らせていただきます。