Re: 『草燃える』で『今夜は最高』
元木泰雄
No.7058
お久しぶりです。野口先生のお招きに応じて出てまいりました。
年度末の繁忙に加え、学内で都合6種類の委員をこなし、神戸市史の中世編全体の校正(監修)、さらには三田市史等々の業務に加え、連日の飲み会をこなすうちに、風邪をこじらせ、ひどい咳で声が出なくなり、委細かまわず業務を続けた(そうせざるを得なかったのですが)ら、肺炎になり、おまけに左肩が動かなくなり、それでも仕事をし続けたら、薬の効果もあって快方に向かったのですが、今でも依然37度前後の微熱(電子体温計の誤作動?)と全身倦怠が続く毎日です。
それでもビールがうまく感じるのですから、まあ死にはしないでしょう(笑)。
それはともかく、『草燃える』は、1979年の大河ドラマ、あの年はまだ当方も25歳!そんな年があったのですな。「平安後期の侍所」と題した修論執筆に励んでいたのが懐かしく思い起こされます。
岩下志麻の政子、のちの「ゴクツマ」を彷彿とさせる貫禄の演技でした。当時まだ30代ですから、さすが大物です。ちなみに彼女は10代のころ、世界の小津安二郎監督や大スターを待たせて、悠然と撮影所に乗り込んだとか。大物ぶりは本性かも知れません。
石坂浩二の頼朝、いかにも頼りなく、少し好色な感じ(これは地でしょうか)で、『源義経』(66年)の芥川比呂志、『新平家』(72年)の高橋幸治といった、それまでの怖い頼朝像を一変させた感がありました。それでも、「だんだん神護寺の絵に似てきたやないか」と上横手先生がおっしゃられたことが思い出されます。
一番印象に残るのは、やはり時政の金田龍之介ですね。巨漢で、コミカルな一方で迫力もあり、まさに時政像を定着させた感があります。しかし、本来の時政役には、東映時代劇の悪役山形勲が予定されていたのですが、彼の急病で、清盛役の金田と交代したはずです。山形も名優で、吉良上野介等貫禄がある悪役を得意とする(どういうわけかもう70が来ているのに『水戸黄門』で、長いこと憎たらしい柳沢容保を演じておりました)一方、映画『不毛地帯』で近畿商事の社長を少しコミカルに演じていましたから、金田よりやや堅めですがそれなりの時政を演じたのではないでしょうか。
ちなみに清盛役は、金子信雄に変更でした。これはやくざの親分みたいな清盛でした。
もう一人印象に残るのは、冷徹で知的に描かれた梶原景時。幕府創設の影の主役という役割を与えられておりました。インテリ役を得意とした名優江原真二郎が見事に演じておりました。亡くなられた熱田公先生が「あれは立派やね」と絶賛しておられたのが思い出されます。滅亡の時の鬼気迫る演技は見ものです。
その景時に切り殺される上総介広常は、悪役の小松方正。石母田流の解釈による「バーバリアン」として描かれていましたが、ちょっとやりすぎの演出ではないかと思いました。いかがでしょうか?
後半では、頼家の郷ひろみもなかなかの名演。岩下志麻の夫篠田正浩監督が、彼を『瀬戸内少年野球団』などの大作の主人公に起用したのもむべなるかな。また「実朝像」を見て、よく似ているとひそかに思っていた篠田三郎が、まさにその役に起用されたのには笑いました。誰しも同じことを考えるようです。
今では考えられないのは、後白河・後鳥羽院の描き方です。歌舞伎の大スター尾上松緑演ずる後白河は、当たり障りない描き方に終始したこの前の『義経』異なり、いかにも「都の大天狗」と呼ばれるにふさわしい権謀術数の主と描かれていました。松緑の子辰之助演じる後鳥羽は、奇怪な人物をはべらせ、亀菊(役の上では違う名前になっていましたが)の色香に迷う愚かな帝王として描かれておりました。その後鳥羽を演じた辰之助は、1987年に父松緑に先立って40歳の若さで夭折しております(大酒が原因とか。他人事ではありません)。『太平記』で後醍醐天皇を演じた片岡孝夫も出演後、重い肺の疾患にかかっており、あたかも不幸な天皇を演じると祟りがあるような感がありました。もっとも、『新平家』で崇徳を演じた田村正和はいたって元気ですから、あまり関係はないようですな。
亀菊役は美人女優として絶頂期にあった松坂慶子。確かに魅力的ではありました。後鳥羽がうつつを抜かすのもやむを得ないか?ちなみに彼女は、ドラマの前半では伊藤祐親の娘で、義時に愛されながら頼朝の落胤をもうけ、平家の女官となって壇ノ浦で死ぬという役も演じておりました。どういうわけか、その落胤を義時が養育し、泰時になるという設定だったと思います。
真野響子の阿波局が、現代語で喋りまくって違和感があったこと、間抜けな藤原定家が登場し、冷泉家から抗議が出そうな気がしたことなど、懐かしく思い起こされます。
あの頃は、天皇制タブーを打破り、最新の学説を踏まえた演出が行われ、俳優の名演技と相まって、本当に風格のあるドラマになっていましたね。
大河ドラマの質も、日本の品格も、当方の体力もみんなどん底に転がり落ちたようで・・・
大河ドラマにおける「東国武士」の評価
No.7059
元木先生、御寄稿ありがとうございました。
昨日は、関学の方たちを引率して神戸の平家関連の史跡を回られたとのこと。お疲れのところ、恐縮に存じました。
元木先生の強靱な体力にはいつも驚かされておりますが、鶴岡八幡宮の大銀杏のようなこともありますから(例として相応しいか疑問ですが、私が「柳」であるとすれば)、くれぐれも御身お大事に、お願い申しあげます。
さて、『草燃える』でありますが、松坂慶子は全編を通して二人の役を演じており、はじめは大庭景親の娘として登場していました。ドラマの設定では中宮の徳子に仕えておりましたが、これは、当時の東国武士の子弟のみならず、子女も京都に出仕していた事実と整合しております。一方、最近の大河ドラマ『義経』では、政子の一人称が「おれ」であるなど、北条氏も京都文化から隔絶した「土豪」的イメージで描かれていました。大河ドラマの質の低下と、一般の歴史理解の劣化との相関がよく理解できる一例かとも思われます。
ともあれ、この『草燃える』は、日頃『吾妻鏡』や『玉葉』・『明月記』に親しんでいる者にとっては、古くからの知己がテレビの画面に登場する趣があって、面白くてたまらないと思います。
※ 『紫苑』の三校のゲラは明日、印刷屋さんにお渡しいたしますので、執筆者は昼過ぎまでに確実に編集長までお届け下さい。
失礼致しました。
元木泰雄
No.7060
野口先生、レスを有難うございました。
松坂慶子の女官は大庭景親の娘でしたか。まったくの記憶違いでした。申し訳ありません。
東国武士の娘が、京で女官になる、東国武士自身が上洛するという、東国と京の交流が当然のこととして描かれておりましたね。
ただ、広常の描き方などをみると、貴族と武士を峻別し、武士が京を忌避するという領主制論が強い影響を与えていたこともわかります。
いずれにせよ、学問に対する敬意が根底にあったのは疑いようもないと思います。
91年の『太平記』を境に、大河ドラマの制作姿勢が極端に変化したのには、何か裏があったのかもしれません。あの頃からバブルに浮かれて国民の知能が急激に劣化したとか・・・?
昨日は、不調でダウンし、見学会も延期致しました。
いよいよ銀杏の木ですな。
小松方正の演じた上総広常と京都嫌い。
No.7061
元木先生、お大事になさって下さい。
銀杏に例えるなら、先生の落とされたギンナンを研究の糧にしているのは私ばかりではございません。
それにしても、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのは、鎌倉ゼミ旅行直後のことで驚きました。私は自分の胃腸の方が心配で、あの大銀杏のことは気にもとめていませんでしたが、さすがに初めて鎌倉を訪れた山本みなみさんは、しっかりと写真におさめられておりました。なにか象徴的なことのように思っております。
ところで、『草燃える』の上総介広常。まったく元木先生の仰せのとおりだと思います。小松方正の演じる広常は、まさに「むくつけき東夷」そのもの。あの、「朝家のことをのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かはひきはたらかさん」という『愚管抄』の一節が戦後歴史学では拡大評価されてしまったわけですね。
『草燃える』放送当時の私も領主制論の信奉者でしたが、あの広常には絶句を余儀なくされたことを覚えております。
『愚管抄』の記事がそのままには受け取れないことについての私見は、手っ取り早いところで、『源氏と坂東武士』P167以下を御参照下さい。
しかし、今でも東国武士好きな方の中には、当時の東国武士よりも偏狭な、京都嫌いの「東国独立論者」みたいな方がおられて、閉口することがございます(笑)。
当時の京都は、今の東京のようなもので、居住者は地方出身者の寄り合い所帯の側面が大きく、それが首都たる所以というものだと思うのですが。
また、私の昔の話ですが、大学院生の頃に学習塾でアルバイトをしていた千葉県市川市国分には、「小松縫製」という会社があり、バスに乗って「こまつほうせい前」というアナウンスを聞くたびに個性的な俳優である小松方正氏を思い出しておりました。