オジイサンの語る、お祖父さんの思い出

No.6824

 このところ、掲示板の独占使用が続いておりますが、元木先生が機会を見て、四国旅行のお話を寄稿して下さるとのことですので、お楽しみに。
 岩田君も、サマーセミナーのお話も含めて如何ですか?

 今日は、私の「おじいちゃん」(父方)の命日にあたります。祖父は明治34年(1901)、千葉県印旛郡弥富村飯塚の、天保年間に「名主職」・「組合村取締役」をつとめた農家(鈴木家、屋号は「大坂屋」)の次男として生まれました。 関東大震災の翌年、私の祖母(「おばあちゃん」)と結婚して野口家の婿養子になりました。
 私が生まれたときは、まだ50歳でしたが、当時は50歳が定年でしたから、私の記憶の中の「おじいちゃん」は、作業服を着て畑仕事や大工仕事に励む姿が中心です。千葉市長洲町の家の前のせまい道路の向かい側に土地を買って、晩年はここで畑仕事をするのが日課でした。この畑については、長~い国旗の掲揚に使うような材木を買ってきて、今どきは街中で絶対に見られないような、立派な「鯉のぼり」を立ててくれたことや、トウモロコシを収穫したことを覚えています。
 祖父は蒸気機関車が好きだったらしく、私を連れて、近くを通っている国鉄の線路端に汽車を見に行くことがありました。後で知ったことですが、若い頃、小湊鐵道に勤務していたことがあったそうです。
 鉄道と言えば、毎年、祖父と祖母に連れられて、曾祖父のお墓のある九十九里浜の片貝に、国鉄と軌道(九十九里鉄道)を乗り継いでおまいりに行ったり、成田山(新勝寺)に出かけたことを思い出します。恥ずかしい話ですが、成田山に行ったあるとき、私は祖父の背に負われながらお漏らしをしたことがあるそうです。
 祖父はなかなか器用な人で、千葉の「のみの市」で少しづつ手に入れた立派な大工道具をそろえていて、何でも作ってくれました。私が、少年時代に模型工作に凝ったのは、祖父の影響があったからだと思います。
 それから、祖父は大の風呂好きで、いつも近所の「高の湯」というお風呂屋さん(銭湯)が開くのを待って、一番湯に入っていました。ずいぶん一緒に連れて行ってもらいましたが、熱いお湯が好きなので困りました。祖父は高血圧でしたので、これが寿命を縮める一因だったことは間違いありません。
 お酒はほとんど飲まず、せいぜいお正月に親戚が集まったときに黒ビールを口にするくらいでした。だから、当家では晩酌などという習慣はありません。お料理が出たらご飯を頂くのが常識でした。お料理はお酒と頂いて、ご飯は最後のお漬け物で、という食習慣は私にはありません。
 祖父がお酒を飲まなかったのは、祖父の実父がとても酒癖の悪い人であったことによるのかもしれません。いろいろ苦労があったようです。また、祖父の養父(私の曾祖父)は千葉の漁業組合の書記長をつとめた人なのですが、在職中に組合員が酒で不幸になる事例を多数経験し、酒害絶滅のために奮闘したという事績があり、このことによるのかも知れません。
 いろいろ思い出していると止め処もありませんが、祖父が亡くなって、今年で41年。長い間、あまり祖父のことなど思い出すことがなかったのですが、自分が「おじいちゃん」になってみると、思い出の場面場面で、祖父が何を考えていたのかが推し量られて、最近、妙に懐かしく思われるようになりました。自分が同じ位置に立ってみて、ようやく見えなかったものが見えてきたようです。

☆ 本年四月、立命館大学に赴任された桃崎有一郎先生より、御高論「足利義持室町殿第二次確立過程に関する試論」(『歴史学研究』852)・「『御円融院宸記』永徳元年・二年・四年記-翻刻・解題と後花園朝の禁裏文庫-」(田島公編『禁裏・公家文庫研究』3)・「書評 菅原正子著『中世の武家と公家の「家」』」(『史学雑誌』118-2)を御恵送いただきました。
  桃崎先生にあつく御礼を申し上げます。
 桃崎先生は京都赴任を機に、鎌倉期京都の研究にも取り組んで下さるとのこと。大いに期待申し上げる次第です。

大坂屋っ!!

岩田慎平
No.6825

岩田です。掲示板上では引きこもり、日常生活上では出ずっぱりが続いております。野口先生にばかり「登板」していただきまして心苦しい限りです。

この間、鎌倉、愛媛、高野山などを訪ねてまわりまして、いろいろ見聞してきました。ご報告したいことは山ほどあるのですが、それはまた追々に…。


小心者が閑居して太っ腹になるというお話

No.6828

 元木先生が伊予旅行の書き込みをされたとたんに、アクセス数がうなぎ上りです。楽しくすらすらと読んでいて、変換ミスなど全く気がつきませんでした。
 それにしても、やはり旅行に美味しい「食」はつきもののようですね。私は、このところ特に胃腸が不調なために食事のコントロールが大変なので、気安く団体での旅行には参加することができず、実に残念です。

 岩田君の「日常生活出ずっぱり」の生活は実に健康的かつ建設的で結構なことだと思います。若者が「小人閑居して不善を為す」では困ります。

 ところで、上に祖父の思い出話を書きましたが、書き忘れたことが一つ。それは祖父の体型が七福神の一人である布袋様とそっくりだったということです。
 そんな祖父に、子どもの頃の私は「おじいちゃん、お腹の中に何が入っているの?」と質問したことがあります。「千両箱が入っている」という返事でした。
 母方の祖父は、小柄のやせ形だったのですが、私は体型においては、この父方の祖父の遺伝子を確実に継承したようです。孫に同じ質問をされたら何と答えようかと思案中です。
 いずれにしても、私は「小心者」なのに「太っ腹」なのであります。

食を中心とした鎌倉の報告

No.6830

 「日常生活出ずっぱり」の実態はほとんどがバイトという情けない話なのですが、古文書学会・伊予旅行の前の週には鎌倉に行くことができましたので、その間のことを少しご報告します。

 出発前夜は台風が関東地方に接近し、当日朝は静岡地方で地震が発生しましたが、いちおうほぼ予定通りに現地へ向かうことができました。

 到着直後の昼食は藤沢の小田急デパートでお寿司をいただいました。店長自ら握ってくれたランチセットは950円。もうちょっと出費を覚悟したのですが、さすがかつての大庭御厨(関係ないか…)、魚介類が安くておいしいですね。京都周辺ではこうはいきません。
 初日は、清浄光寺を見学ののち江ノ島を散策しました。江ノ島弁天門前での夕暮れ・イカ焼き・ビールは格別でした…。

 翌日は藤沢から北鎌倉へ移動した後、午前中は円覚寺、東慶寺、明月院、建長寺などを経て鶴岡八幡宮まで見学しました。明月院はもともと時頼の最明寺であったとのことですが、境内は何段かのテラス状に整備された形跡が見受けられましたし、建長寺の龍王殿は前庭・階・簀子・庇間・母屋などを持つ寝殿造建築の正殿(寝殿)の空間構造とよく似た構成ではなかったかと思います。このあたりは建築史専攻の方のご意見を伺いつつあらためて見学してみたいところです。
 昼食は鎌倉駅前でマグロ定食をいただきました。新鮮なマグロのいろいろな部位が刺身で山盛りとなっており、思わずごはんをおかわりしました(「おかわり無料」とは書いてなかったのですが、ご飯もおいしかったので…)。
 午後からは大蔵御所跡、頼朝法華堂跡、義時法華堂跡、大江広元・島津忠久墓所、荏柄天神、鎌倉宮、宝戒寺、若宮御所跡、若宮大路、妙本寺、名越周辺などを見学しました。和田合戦や宝治合戦の舞台になった地域の距離感を具体的に知ることができたことや、頼朝法華堂跡から勝長寿院方面の眺めなどあらためて気づかされることも多く、鶴岡から六浦路沿いは特に源氏将軍家にとって重要な空間であることが実感できる大変貴重な機会となりました。
 その日の見学後には、バイト先コーヒー屋の鎌倉御成町店にもお邪魔してきました。ここは『フクちゃん』で有名な漫画家・横山隆一氏の邸宅跡地に建てられたとても雰囲気の良いお店で、その店舗オリジナルのデザート(レモンスフレタルト、など)も提供してくれました。

 最終日は長谷大仏と長谷寺、極楽寺、御霊神社などを見学しました。御霊神社の門前の「力餅屋」では権五郎力餅をいただきました。これは歩き疲れた体にとても嬉しい風味でした。その後鎌倉駅に移動し、駅前で海鮮丼をいただきました。ちょうどお昼頃でどのお店も混んでいたのですが、路地の奥の方のお寿司屋さんをたまたま見つけて静かに美味しく海の幸を堪能することができました。
 その後、駅で小鰺寿司を買い求めてから帰路に就きました。

 真夏の一番暑い時期でしたから歩き回るのは大変でしたが、それを差し引いても、普段『吾妻鏡』で読んでいる場所を実際に見て回ることが出来たのは何物にも代え難い貴重な経験でした。特にこの数年は、建築や空間のことなどにも関心をもって読んできましたから、その価値は格別なものに思われました。
 ぜひまた「ゼミ旅行・鎌倉」を実現したいところですね。