ラボール学園聴講生より

No.6264

昨夜は、「東京学派」主導の鎌倉「幕府」過大評価に対するアンチテーゼを興味深く拝聴しました。休憩時間に「(啓蒙的)歴史全集」比較論をお伺いした西野と申します。授業後の質問タイムでは少々大きい問題かと思い、(他に通信手段が思い浮かばなかったので)本欄に投稿させて頂きました。もとより文献渉猟などとは無縁の一アマチュア歴史愛好家の幼稚な疑問とてご寛恕下さい。

中央政界の力学がそのようであるなら、地方の実態はどうだったのでしょうか。教科書的「正史」では、「鎌倉」時代には、守護が国衙の地方行政権を、地頭が荘園の経済権益を、漸進的に蚕食し、古代的社会経済秩序の変質が昂進して「中世」が完成したと教わりました。いわば、最終形態としての戦国大名の領国体制に向けて大きく梶を切ったのがこの時代だという位置付けです。仮に「上から」は貴族や宗教勢力が旧来の権威を保持したとしても、「下から」は武士階級が社会の実権を掌握して行ったと言えるのでしょうか。

また、京都の朝廷が依然として圧倒的なヘゲモニーを維持し続けていたのなら、あたかも「覇権を賭けて争った」かの如く教科書で記述されている承久の変が理解できません。鎌倉方が関東・東北地方の軍事・警察を司るだけの一介の軍司令官(これぞ征夷大将軍の本義)を自他共に認めるなら、後鳥羽上皇一派の挑発的な動きに何故あれほどまでに過剰反応したのでしょうか。あるいは鎌倉方は、この機を利用して乾坤一擲、昨夜のお話のような劣等的力関係を逆転させようという明白な政治的意図を自覚していたのでしょうか。

PS:30年余り昔、大学教養課程の頃、講義一覧にあった当時気鋭の歴史学者だったろう上横手先生のお名前の珍しさに惹かれただけで、ついぞ聴講しなかったことが今となっては悔やまれます。

Re: ラボール学園聴講生より

No.6265

>西野様 昨日はありがとうございました。

 ご質問の件ですが、武士と貴族を対立的に捉える発想を様々な側面から相対化する必要があるだろうということです。その点、将軍御所の空間構造や、幕府の女房の機能について、触れる時間が不足したのが残念でした。
 二点目の公武が覇権をかけて争ったという発想も同様だと思います。承久の乱の実態については近年、多くの研究がかさねられておりますので、昨日のレジュメに掲載した文献の注などを手がかりに検索、参照していただければと存じます。
 疑問に思われている点は、おそらく上横手雅敬先生の御著書をお読み下されば、ほとんど解消されるのではないかと思います。