五十代も半ばを過ぎますと・・・。

No.6177

 『御堂関白記』寛弘五年九月十一日条・『玉葉』治承二年十一月十二日条。
 史上稀に見る有力貴顕を例に挙げるのは烏滸がましい限りですが、本日、私にも同様の事態が発生いたしました。「鳴弦」は研究室のギターにて。
 『山槐記』治承三年十二月十六日条。
 梅小路公園(「西八条」)の辺りに「明障子」のある家はありませんか?(笑)
 今日ほど彼らに共感を覚えたことはありません。

 >満田さん 淡路のお土産、ありがとうございました。

 ☆ 新年度、相模女子大学学芸学部日本語日本文学科に赴任された高木信先生から新刊の御高著『平家物語・装置としての古典』(春風社)を御恵送頂きました。
 当ゼミの国文学専攻者のほとんど、否、すべては高木先生の大ファンです。
 高木先生にあつく御礼を申し上げます。

Re: 五十代も半ばを過ぎますと・・・。

元木泰雄
No.6178

 野口先生、まことにおめでとうございます。
 
『御堂関白記』の敦成親王の先例のごとく、これからの長い人生が幸い多きことを、心よりお祈り申し上げます(『玉葉』の方は先例として如何なものでしょうかね(笑))。
 横綱というわけには行きませんが、近藤先生に抱っこしてもらっては如何ですか。
 将来の健康、幸運は間違えないことと思います。

 野口先生と当方はほぼ同世代、独り身の気安さで、何となく若い(無責任な)気分が抜けないのですが、そういう年齢になったのですね。
 改めて時の経過を痛感致しました。
 
 でも、道長も清盛も、本当の人生の頂点は、そのあとです。
 好々爺になるのはもう少し先にしましょう。

 ともかく、心よりのお祝いを申し上げる次第でございます。
 
 

四代将軍頼経の「外祖父」の別邸跡

No.6179

 元木先生、ありがとうございます。
 元木先生のこの書き込みそのものが、生まれたばかりの彼にとって、大変なプレゼントだと思います。
 近藤先生に抱っこしてもらうチャンスも、ぜひとも得たいと思っております。近藤先生は文武両道ですから、その御利益は「横綱」をはるかに凌駕することでしょう。

 ところで、本日の新聞を開いたところ、京大の西部構内で西園寺公経の吉田泉邸のものと思われる遺構が検出されたという記事を発見。現説は本日とのこと。
 参照→http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008041000150&genre=M2&area=K00

 『吾妻鏡』講読会では目下、頼経将軍期を読んでおり、「外祖父」がらみということもありますから、これは行かなければなるまい、と言うわけです。
 なんだか、公経にまで親しみを感じてきております。

【後記】
 現説に行ってきました。辻君と久しぶりにお目にかかれました。

 さて、遺構のメインは調査地の南東隅から検出された石敷き・掘り込み地業をともなう建物跡で、これを調査担当者が、有力貴族の邸宅(西園寺公経の吉田泉殿)に関連づけられたのは納得のいくところでした。
 なお、この建物の東西の軸線がブレているのは京大構内を貫通していた白川道に規定されたからではないかと、私には思われました。
 素人考えですが、それに対して、この建物以外の柱穴を結んだ東西軸は平安京街路の末に沿うものだったのではないでしょうか。

 鎌倉時代の貴族邸宅については史料の検出が未だ十分ではないと思われますので、文献史学の方からのアプローチの余地も多く残されていると思います。

 ちなみに、私はこの調査地より少し南の吉田近衛で、藤原泰子(忠実の娘・鳥羽皇后・高陽院)の御願寺である福勝院(高陽院白川堂)跡と思われる地点の発掘調査に文献担当として参加したことがあります。

 西園寺公経は「泉殿」と称される邸宅を複数持っていたようで、天福元年(1233)五月二十六日、大夫尉として在京していた三浦光村は、公経から「河崎泉亭」に招請されてあつくもてなされたことが知られます。
 この一ヶ月ほど前、光村は賀茂祭の行列に供奉していますが、その装束は公経から贈られたもので、公経と三浦氏はかなり密接な関係を結んでいたようです(拙稿「執権体制下の三浦氏」)。

おめでとうございます

山田邦和(同志社女子大学)
No.6180

野口先生、お誕生日おめでとうございます。

吉田泉殿町の発掘調査現地説明会、午後の部に行ってきました。建物遺構は一部分だとはいえ、石敷と雨落溝が非常によく残っており、なかなかの見ものでした。同席した考古学研究者の皆さんと議論をしていたのですが、おそらく、石敷の内側には「亀腹」(寺院の床下などによく見られる白い高まり)があり、その上に礎石が載せられている、という構造の建物だと思われます。この建物跡からは瓦は出土していないようですが、発掘現場内の別の部分には瓦溜(いらなくなった瓦の廃棄土坑)があったようですので、この建物が瓦葺であった可能性は充分にあると思います。そうすると、この建物は吉田泉殿の邸内に作られた仏堂といった性格を考えてはどうか、と思います。
 建物東西の軸線がずれていることも、興味深いことです。この現場のすぐ南側でも過去に発掘調査がおこなわれており、そこでは中世初期の「武士の館」と推定された邸宅遺構が検出されているのですが、どういうわけかそちらはほぼ正東西方向でした。このあたりでは、基軸線が複数あったのかもしれません。

 とにかく、よい勉強をさせていただきました。

Re: 五十代も半ばを過ぎますと・・・。

美川圭
No.6181

野口先生。

おめでとうございます。
この少子化の折でもあり、その点でも、ほんとうにめでたいことです。

さて、西園寺公経邸らしき遺構の現説、ぜひ参加したかったのですが、
休講などけっして認められない昨今、平日だとなかなか行けません。
せめて土曜日にしてくれないと。

新年度になってから、大学の雑用においまくられ、まったく研究が進みません。

水曜日の研究会での報告をお約束したのですが、単なる雑談に終わりそうです。
内容は、寝屋川市史に書いた「東高野街道」、この前歩いた「唐櫃越」の感想。
といったところです。時間が大幅に余ると思いますので、
そのときにぜひ吉田の遺構についてのお話をお聞きしたいと思います。

鎌倉時代の西園寺氏

No.6182

 山田先生・美川先生、ありがとうございます。

 現説に行く際、地下鉄の中で西園寺公経の時代の政治状況について、ひと勉強しようと持参したのは、美川先生の『院政』(中公新書)でありました。
 たしかに、授業のある時期の平日に現説を行うというのは、いろいろ事情があったのでしょうが、残念なことでした。
 なお、公経を中心とした鎌倉時代の西園寺氏については、やはり龍肅『鎌倉時代 下・〔京都〕』(春秋社)の「西園寺家の興隆とその財力」が、今日に至っても最高の水準を保っていると思います。龍氏は私の恩師の師にあたります。
 ちなみに、鎌倉時代の西園寺氏は、三浦氏のみならず、小早川氏や千葉氏とも関係が深いことが知られており、武士論のみならず国家史理解のうえからも、おおいに追究の余地のある存在だと思います。

 年度はじめのこの時期は、新しい授業が始まり、提出書類が多く、そのうえネット上の情報更新を○○日締切でやりなさいなどという、かつて無かった用務も加わって、もとより事務能力の欠如した私など大混乱を呈しております。

 水曜日の研究会は楽しみに致しております。ただ、上記にともなう事情で早々に引き上げなければならないのが残念です。

 ☆ 千葉で高校教員をしていた頃から、研究を継続する上で大きな励ましを頂いている小山田義夫先生(流通経済大学名誉教授)から、御高著『一国平均役と中世社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。
 有名な「造内裏役の成立」をはじめ、一国平均役を中心とする先生の大学院生時代からの御研究の成果が収録されています。
 収録論文のうち、当ゼミのメンバーにとっては「承久の大内裏再建事業について-造営費調達形態を中心として-」などは必読でしょう。
 小山田先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 愛知学院大学の福島金治先生から、「書評 永井晋『金沢北条氏の研究』」(『史学雑誌』116-9)を御恵送頂きました。永井先生の御著書に正面から厳しく斬り込まれた、いわば書評のお手本です。
 福島先生にあつく御礼を申し上げます。 

Re:鎌倉時代の西園寺氏

No.6184

野口先生

 龍肅『鎌倉時代 下・〔京都〕』(春秋社)とは懐かしい。もう30年も前の話なので、時効だろうと思いますので、今まで公にしなかった話をします。私が卒論で、鎌倉後期の公家政権をやろうと、上横手雅敬先生にご相談したところ、この本と、三浦周行の『鎌倉時代史』の2冊を読むように、と教えていただきました。ところが、後者はすぐ手に入ったのですが、前者は図書館などにもなく、困り果て、先生にあらためてご相談したところ、「ぼくはこういうことは普通はしないのだが」と言われながら、なんと特別に私本をお貸しいただきました。そのご本には、先生ご自身の傍線などがたくさん引かれ、どこに先生が注目されたかもわかるものでした。本そのものからはもちろんですが、私はその傍線からも、多くのことを学びました。今だったら、全国の大学や、周辺の公共図書館の蔵本が、すぐにインターネットで検索できますので、自分の先生の本を借りるなどということはしないでしょうが、当時は自分の行っている大学と二三の図書館ぐらいしか、すぐには利用できなかったのです。その後、この本を、東京神田の古本屋で、かなりの高額で手に入れました。私の『院政』をお読みいただければすぐわかるように、私は卒論以来、鎌倉後期の勉強をさぼり続けています。なんとかしたいのですが、大学の雑務は増え続け、もうだめな気がします。若い方々、なんとかがんばって、龍粛の本が過去の歴史になるように研究を発展させてください。お願いします。

偉大なり龍肅(りょう・すすむ)。

No.6186

 美川先生
 「もうだめな気がします」などと気弱なことを仰らずに、一頑張りをお願いいたします。鎌倉後期の政治史を、公武双方、正当な視野のもとに見据えることのできる研究者は、美川先生のほかに見当たりませんから。

 私の恩師である貫達人先生は、その論文「承久変論」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』昭和43年)の末尾にこのように書いておられます。
 「竜先生の論文を見ると、具体的にちゃんと壺がおさえてある。恐らく、この小論に述べたような事は、先生百も御承知であったのだろう。温順な先生は、時世を考え、胸底深く蔵して顕さなかっただけだと思うと、このようなことを書く私が、浅猿しく感ぜられる。」

 戦前の碩学ののこした業績を、〈戦後歴史学〉は結構切り捨ててしまったり、継承し切れていなかったりする部分が多いのではないでしょうか。