薩摩琵琶

新地 浩一郎
No.617

 こんばんは。最近は恩師の柳原先生も出没しているようですね。あまりうかつな事が書けなくなりました(笑)。
 野口先生、吹上町の中島常楽院の妙音十二楽は、毎年十月十二日に開催されています。私は鹿児島在住十一年目なのですが、まだ一度も見たことがありません。今年は休日の開催でしたが、実家に帰省していました。平日の年でも多くの人で賑わい、マスコミでも取り上げられています。
 田中さん、薩摩琵琶ですが、実は鹿児島では絶滅寸前です。琵琶を作れる方も県内にあとお一人しかいないということで、まず琵琶を手に入れることが困難です。演奏される方もかなり少ないです。加治木島津家の現在の当主の方が演奏家で、復活のために色々取り組まれているようです。
 現在は、東京の方が薩摩琵琶が盛んなのだそうです。歌手の小椋圭さん(「シクラメンのかほり」の人です)は、お父さんが薩摩琵琶のお師匠さんだったそうで、ご自分でも演奏されます。私の住む川辺町と同じ郡内の笠沙町では、薩摩琵琶の復興に取り組まれていて、小椋さんのコンサートを開いて琵琶の演奏もされたそうです。
 現在は、元ちとせさんの影響でちょっとした奄美の島唄ブームになっています。また、ここ数年は創作和太鼓が盛んになり、あちこちで太鼓のコンサートやイベントが開かれています。
 あと、以前、>>No.595で野口先生が紹介された「南九州探訪記」というHPは私が製作・管理しています。ここの掲示板で名前を見つけたときはびっくりしました。更新を怠りがちですが、今日は以前相談しました文明九年銘の鰐口の写真をアップしました。見苦しいですが、よかったらどうぞ。

Re: 薩摩琵琶

No.619

柳原先生たちはクラシックで大いに盛り上がっておられますが、こちらも日本のクラシック=平家琵琶で盛り上げましょうか。中島常楽院の薩摩琵琶はかつては実に素朴で良かったそうです。なにやら、いろいろな要素が付加されていくと本来の姿を失ってしまう。それが残念です。川辺町の清水磨崖仏も昔のままが良かった。でも、表面の剥離はぜひ防いでいただきたいと思います。とても貴重な史跡ですから。これはゼミメンバーにぜひ見ていただきたい。平家落人伝説もありますし。
「南九州探訪記」は新地さんの製作であることは、すぐにわかりました。それで、紹介させていただいた次第です。鰐口は文字が見えると良かったですね。でも、大きさがよくわかりました。

落人伝説

新地 浩一郎
No.628

 こんばんは。鰐口は、まだきれいに撮れている写真がありますので、近いうちに取り替えますので、そのときはお知らせします。
 清水磨崖仏周辺については、様々な方々から周辺設備と史跡の釣り合いが取れていないというご意見をいただいております。あの金閣寺もどきも河辺氏の館跡を再現したものという説明がされています。
 10年ほど前は、平家の落人伝説を誇張した創作物語が一時期流布していたようです。宮崎県高千穂町の那須大八と鶴富姫の悲恋の物語をそのまま流用したもので、主人公は幕府の追討軍の島津八郎と河辺氏の姫の清水姫でしたか…。現在は皆さんの記憶から抹消されているようですが、その物語が書かれた看板があるところに残っています。
 また、毎年11月の磨崖仏祭りでの武者行列も、平家の落人の村岡八郎を河辺道房が保護するという内容で、途中で何の脈絡もなく(北島三郎の曲にあわせた)女武者の踊りがあったりしました。
 武者行列については、3年前から、1394年に河辺で島津総州家から島津奥州家に薩摩守護職と伝来の武具が移譲された「矢掛松」という史実に基づいたものに変更していただきました。当時の観光担当の方が理解のある方で、女武者の踊りはそのままですが、私の意見をほぼ通していただきました。
 あと、表面の風化に関しては合成樹脂で処理しましたので、これ以上進むことはありません。しかし、大五輪塔の倒壊防止が予算の関係上なかなか着工できず、心配なところです。
 最近、私は公民会講座の受講生や、史談会の会員の方々と勉強する機会が多いのですが、千竈氏や、史実の河辺氏についての勉強を進めています。伝説は伝説として、まず史実を把握しましょう、ということをいつも話しています。
 同時に、史談会では江戸時代の縄引帳の解読を進め、山田・谷山・加世田・知覧・頴娃・阿多(金峰町)へ通じる当時の道を地図上で復元しています。22日は実際にその道を歩くことになっています。調べてみますと、現在の幹線道路とかなりずれているようで、例えば谷山に通じる道は山の尾根を通っていたり、加世田や金峰へ通じる道は、現在ほとんど使われていない道があったりするようです。個人的には阿多に通じる道を見るのが楽しみです。
 また明日報告させていただきます。

地域の歴史認識

No.641

新地さんの御努力には敬意を表します。
実は私の郷里の千葉でも、清水磨崖仏の金閣寺のような「名所」があります。千葉は中世前期に千葉氏が本拠としたところですが、その居城が亥鼻山というところにあったと近世に誤解が生じました。その山には確かに城郭遺構はあるのですが、それは千葉氏が千葉を去った15世紀以降のもので、千葉氏の居館は、中世前期の有力武士の館の立地に照らして、ここではなく、現在千葉地方裁判所のある都川に面した低地がその有力比定地とされています。にもかかわらず、市の広報誌には相変わらず、千葉氏の城は亥鼻山にあったと書かれており、しかもそこには天守閣(四層)の形をした郷土博物館が建ち、歴史展示は千葉氏一色で埋められています。そのうえ、最近、この博物館の前に、12世紀末の千葉常胤をあらわしたという、弓に矢をつがえた騎馬武者の銅像が立てられたそうです。仙台城の石垣保存問題などと比べて、あまりに大きな落差を感じます。かかる千葉市は、れっきとした政令指定都市なのです。