「紫苑」無事拝領しました!

No.6019

野口先生、本日無事、今熊野からの封筒を拝領しました。
「紫苑」のみならず、先生のご論文や、山岡さんの美しい筆跡のお便り、
華やかになったゼミの面々のお写真までご同封いただき感激です。
心よりお礼申し上げます!

こちらはシベリアからの寒気が来たり、アフリカからの熱風が吹いたり、お天気はややこしいですが、これからクリスマスが近づくにつれ、京都とは比べ物にならないほど小さなソレントの中心はイルミネ―ション(お祭ごとに広場や教会の周辺は、神戸のルミナリエほど大掛かりではありませんが、花やフルーツの形のネオン飾られます)で輝きます。
今日ではイタリアの何処の家でもクリスマスにはツリーを飾りますが、プレセーぺというキリスト生誕の場面を再現した馬屋の模型がイタリア本来のクリスマスの伝統です。クリスマスイブの晩まで生まれたての赤ん坊であるキリストの人形だけは飾らず、イブの深夜にこの赤ん坊の人形を先頭に、ろうそくを持って家中を練り歩いた後(おまじないのようです)馬草桶に納めます。プレセーぺの伝統は13世紀初頭、アッシジの聖フランチェスコに遡るそうです。ナポリではブルボン家の支配下に王族や貴族の間でプレセーぺに意匠を凝らすことが流行り、人形専属の仕立て師まで存在したとか聞きました。(ナポリの教会や博物館で立派なプレセーぺを見ることができます。)ソレントの町でも例年、町のプレセーぺというのを作らせて展示します。大掛かりなもので、馬小屋の背景がソレントの町だったり、いつぞやはコロッセオだったこともあり、見物人を楽しませます。
イタリアの他の町のことはよくわかりませんが、ここでは、チキンやタ-キーといった日本でいわゆるクリスマスのご馳走と思われているものはなく、毎年、ボンゴレスパゲッティ、鰻のぶつ切りを揚げたもののマリネ、クリスマスのブロッコリ-と呼ばれる油菜の一種を湯がいたもの、魚のグリルなどです。クリスマスケーキもなくて、クリスマスの期間中、パネットーネとよばれる甘いパン(今もあるかどうか?不二家のアップルパンのような)を朝食のときなどに食べる他、クリスマスイブのデザートはゼッポレとかストゥルッフォリとよばれるドーナツのように小麦を揚げて蜂蜜とオレンジの皮の砂糖漬けをちらしたものです。

余談の上の余談ですが、京都に住んでいた時、田中里の前(居酒屋「住吉」の近く)の「紫苑荘」という相当趣のあるアパートに住んでいました。読んだばかりの須賀敦子著の随筆集「トリエステの坂道」の中で、著者がミラノで紫苑の花に出会ったエピソードが出てきました。紫苑にご縁があるようで嬉しいです。

お礼まで

今、イタリアにも『紫苑』があるという喜び。

No.6020

 郵便の到着。文字通り「祝着」に存じます。メールなら一瞬のうちに情報交換が出来るのに、物のやりとりは、ほとんど昔のままですが、かえって情緒があってよいものですね。
 「華やかになったゼミの面々」との御評価、論議をよびそうです(笑)。
 それにしても、イタリアのクリスマスというのは、日本人のイメージする西洋のクリスマスとずいぶん異なるようですね。日本のクリスマスは完璧にアメリカナイズされたものなのでしょう。進駐軍の置きみやげと言ったところでしょうか。
 一方で、お正月の情緒のなくなったこと。
 近年は「門松」も「凧揚げ」も「はねつき」も見かけることが少なくなりました。お正月に親戚で集まってするお祝いは、子どもの立場としては、とても楽しかったものです。人間の営みに季節感がなくなってきたものだから、自然の方も心得ていて、日本列島に寒波と台風が同時に押し寄せてきたりするのでしょうね。
 
 >元木先生 古文書学会の見学会、御盛会だったとのことで何よりに存じます。それにしても、最近は行事について、先生自らに書き込んでいただくことが多く、恐縮に存じます。

 また、「近年は」と言ってしまいますが、若い方たちの間に、積極的に自分の名前を出して、意志を発現することをためらう風潮があるように思えます。そのうちに、恥ずかしいからとか、何を言われるかわからない、とかいう理由で、誰も論文を書かなくなってしまうのではないかと心配しております。

 学問の真髄に触れる授業という点では、私は高校生の時代(千葉県立千葉東高校)にとても強烈な思い出があります。たしか倫理社会の時間だったと思うのですが、私がある質問をしたところ、先生は黒板に手をついたまま考え込んでしまわれて、そのまま授業時間が終わってしまったことがあります。われわれ生徒はしばらくとまどっていたのですが、何か先生の態度に打たれるものを感じて、その後、ほとんど30分以上、教室は異様な静寂の中につつまれていました。この先生が平素から真摯な生き様を生徒に示していたからに他ならないのですが、このことは、ほんとうの学問というのは容易に答えなど出せるものではないものだということを思い知らせてくれた貴重な体験となりました。この先生は、なぜか生徒と同じ上履きを愛用しておられ、色白で背が高くて痩身、毎朝一生懸命に自転車のペダルを漕いで街の中心部から通勤されていました。のちに、東京学芸大学に招かれたということを風の便りで聞いたことがあります。
 思い起こしてみると、私の高校時代には、まだ、よき時代の旧制中学で教鞭をとったことのある先生や、敗戦による急激な価値観の転換にショックを受けて東北大学の哲学科に進んで教員になったというような先生がおられて、その先生たちは、妙な教育技術などなくても、教壇に立つだけで、われわれ若者に何らかの感動を伝えてくれたものでした。
 もっとも、テスト返却のたびに、わざわざ大声で「野口最低だよ!」と答案を渡してくれた数学の先生もおり、とても心を傷つけられた(実は結構平気でしたが)という苦い思い出もございます。ちなみに、この先生は、授業中、黒板で問題の解法を説明しているうちに、新たなアイデアを思いつかれたらしく、授業をしていることを忘れて、終了のチャイムが鳴るまで黒板一面にに数式を書き続けたことがありました。この先生もまた、その後、神奈川県の某私大(ここには、現在、当ゼミ生おなじみの先生が御在職)に招かれたそうです。
 高校生時代の私は、こんな先生ばかりがいる所が「大学」だと思っていたのでした。
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 昨日の『吾妻鏡』講読会の時もそうでしたが、このところ昔話が多くていけませんね。

 ところで、本日のキャンパス・プラザの講義では、久しぶりに「源義経」のお話をさせていただきました。来週は「宇治」のお話しを致しますが、その後、「遍照心院」や「承久の乱」も取り上げたいと考えております。

『吾妻鏡』はつづく

No.6021

>大森さん
 再び旅情を誘う書き込みをしていただきましてありがとうございます。イタリアへの郵便はやはりそれなりに時間が掛かってしまったようですが、『紫苑』どうぞご味読ください。

 さて次回の『吾妻鏡』です。
 日時:12月3日(月)13:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 宗教・文化研究所共同研究室
 範囲:『吾妻鏡』四月四日、九日、二十一日、五月十四日、七月八日、十日、十二日、二十七日、二十八日、八月六日、八日、九日、十日、十三日、十五日、九月一日、十一日、二十八日、閏九月一日、四日、五日、六日、八日、十七日、十八日、二十一日、十月二日、五日、二十二日、十一月九日、十三日、十六日、二十八日、二十九日、十二月五日、二十三日、二十四日、二十九日の各条
 (※掲出した範囲以外に「これは」という条文があれば、随時お知らせ下さい。)

 なお、12月は3日・17日・24日も開催予定です。
 また、12月3日は『吾妻鏡』を16:30頃に切り上げ、17:00頃から小野さんの卒論報告を、12月17日はひさびさ登場の山本陽一郎さんの修論報告が予定されております。
 「卒論準備報告会」
 12月3日(月)17:00~
 於:京都女子大学L校舎3F宗教・文化研究所共同研究室   
 報告者:京都女子大学 小野 翠氏
 報告内容:「鎌倉時代における幕府女房」
 参考文献:田端泰子氏『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、一九九八年。
      金永氏「摂家将軍家の「家」の形成と妻たち」『ヒストリア』178、二〇〇二年。