『古代文化』の刊行が『京都新聞』に詳報 

No.5883

 岩田君の研究ノート掲載の『古代文化』第59巻第1号については、京都新聞本日付夕刊の記事を御覧下さい(カラー写真付き)。↓
 http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007082200072&genre=M1&area=K1C
 なお、次号には山岡さんによる美川先生著『院政』(中公新書)の書評が掲載される予定です。

 >小野さん メール送信、お待ちしています。添付ファイルがうまく行かなければ、メールの送信文に貼り付けていただいても構いません。FAXの場合は自宅電話番号と同じです。
 
 >岩田君 『土佐日記』の御発表、楽しみに致しております。
 >ゼミメンバーのみなさん 報告者には旧知の方もおられますし、水戸ツアー、計画してみませんか? 

『土佐日記』

No.5887

 残暑お見舞い申し上げます。久方ぶりの昨夜の雷雨の夜に、元木先生からお誘いいただきました土佐旅行より帰洛しました。以下、少しご報告します。

 日程は20日~22日でしたが、私はその前日に木幡から在来線を乗り継ぎ乗り継ぎ、高知入りしました。家を出てから当日の宿に着くまで10時間ほどを費やしましたが、大阪で生駒孝臣先生(28日の書評会はよろしくお願い申し上げます)と合流し、姫路、岡山、児島、瀬戸大橋、三好、阿波池田などを経由しながら、各地の景色を楽しむこともできました。阿波池田では地元の高校生らしきバンドの生演奏が駅前の広場で行われており、蝉の鳴く静かな山間に響く歌声がなんともいえず良い雰囲気でした。到着の夜は高知市内を少し散策し、おいしいものについて地元のにーちゃんの意見に耳を傾けつつ、〈土佐黒潮料理 早川本店〉にて夕食。高知の素材を使ったちゃんこ鍋定食をいただきました。おそらく鳥でとったダシが、非常に澄んだ旨味を醸し出していました(食べ終わるとダシの余韻を楽しむ間もなくあっさり下げられてしまいました…)。

 20日は、まず高知駅にて漆原徹先生ご一行及び今回のご案内をお引き受けいただきました池内敏彰先生と合流し、その後高知龍馬空港にて元木先生・中村直人先生と合流しました。猛暑のなか、田村遺跡、源希義墓、五台山竹林寺、土佐神社、国衙跡、岡豊城跡などを精力的に見学される御一行に、初参加の私は早くも圧倒されてしまいましたが、五台山や岡豊城跡からの眺望にも別の意味で圧倒されました。岡豊城は、背後の山々を堂々と背負い、国衙という権威空間を取り込みつつ、まさに「ここを押さえれば高知平野は掌握できる」ことが納得できる場所であったように思います。国衙跡の公園には地元のみなさんの作った歌が展示されており、それもまた趣深いものでした。
 夜は〈郷土料理 土佐藩 高知本店〉にて皿鉢料理や地酒を堪能しました。宴会でのお遊び(「はしけん」)の体験版も登場するなど、いろいろ盛りだくさんな宴会となりました。

 21日は四万十市~足摺岬方面を見学しました。四万十市(土佐中村)は水陸交通の要衝というべき場所であり、京都からやって来た一条家が当地を支配したことを踏まえると、中世における「領主」という存在の意味を改めて考えさせられました。南端の金剛福寺は、夏の強い日差しの中での見学であったことも影響しているのかもしれませんが、ずいぶん南国ムードのお寺であったように思いました。元木先生は「源頼光建立」との碑が建つ多宝塔の前で記念撮影しておられましたね。足摺岬もまさに絶景でしたが、台風接近の折には岬の灯台の高さまで波が押し寄せるそうで、もはや想像を絶する世界です。
 その日の夜は池内先生のご推薦により四万十市内の〈味劇場ちか〉にて、土佐中村のさまざまな名物を頂くことができました。お刺身やゴリの唐揚げ、土佐巻(ネタはもちろん海苔も旨い)などが印象的でした。またその宴会の折には、当掲示板にてお名前を拝見しておりました栃木県立文書館の松本一夫先生から、関東の守護に関するご意見やさまざまなお話を拝聴する機会を得られましたことが私には幸いでした。

 22日は、昼過ぎの飛行機で東京にお帰りの漆原先生ご一行と朝にお別れし、元木先生以下の一行は引き続き池内先生のご案内により四万十市内を見学しました。一条教房の墓所を訪れたときは、ちょうど地元の方が教房のお墓にお花のお供えと水やりをなさるところで、伝えられてきた歴史の一齣に遭遇したような気がしました。不破八幡宮は四万十川沿いに鎮座していましたが、大きな御神木が作る日陰が境内にちょうど良い心地よさを提供していました。そして佐田の沈下橋(橋の上を鷹?が気持ちよさそうに泳いでいました)を見学した後、池内先生とお別れし、高知市内へ戻ることとなりました。元木先生より高知城の見学をご提案いただきながら、帰りの電車の時間の都合で慌ただしく帰ることになってしまったのが残念でしたが、旅行中は雨に祟られることもなく(帰宅直前はものすごい雷雨だったようですが)、無事に全日程を終了しました。

 今回は旅行中の様々な手配のほとんどを神野潔先生のお世話になりました。神野先生に深く御礼申し上げます。また旅行にお誘いいただきました元木先生・漆原先生、現地でのご案内をお引き受けいただきました池内先生にも、改めまして深く御礼申し上げます。
 三日間のうち二日間のクルマの運転を担当し、慣れない道を走る不手際も多々ございましたが、今回の旅行にご一緒させていただき、貴重な見学の機会を頂くことができました。ありがとうございます。

土佐日記・蛇足

No.5890

 ご無沙汰しております。
 旅行で張り切りすぎたのか、はたまた飲みすぎたのか、暑さ負けもあってダウン気味の元木です。
 20日から22日までの土佐旅行については、岩田君の簡潔なご報告の通りで、付け加えることもありません。ただ、私自身、大変感銘し印象に残る旅行だったので、蛇足を承知で付け加えさせていただきます。

 今回の旅行で最も印象に残ったのは、海の青さ。紺碧の快晴のもと、これだけ美しい海を見たのは久しぶりでした。足摺岬の爽快で鮮烈な絶景は、生涯の想い出になると思います。
 「暑いときに、わざわざ南国に行くとは(物好きな)」、と案じられた方もおられましたが、猛暑の時期には南国の陽光こそがふさわしいと痛感しました(最もふさわしくないものは北海道の猛暑ではないですかね)。
 今回は天候に恵まれ、一回も雨に遭わず。これまでの漆原先生との旅行では、近江の小谷城、安土城と二度も城跡で雷雨に遭遇し、途中で見学を断念しただけに、今回岡豊城以下、全行程を無事見学できたことは大きな喜びでした。
 野口先生をはじめ、ゼミメンバーの方々に一番関心が深いのは、源希義の墓かと思います。場所は高知空港から市内に向かう途中、式内社朝峯神社の近くです。同社の親切な神主さんのご教示を頂き、その場に到達したのですが・・・・
 ご案内の池内敏彰先生いわく、「こりゃ蜂は来るは、マムシも出そうじゃ」というすごい場所。おまけに倒木が道をさえぎる始末。これまで無視された希義のたたりか、などとすっかり怖気づいてしまいました。幸い薮蚊に体中を刺された程度で、生死に関わる事態は発生しませんでした。ここは、冬に行くべきところです。なお、供養塔は禅宗の様式とのことで、時代は下がるもののようです。
 希義の墓で出鼻をくじかれ、この先どうなることかと心配したのですが、名所として知られる五台山や竹林寺は当然としても、長宗我部氏の居城で山城の岡豊城、紀貫之ゆかりの土佐国庁跡など、重要な史跡がきちんと整備されて大切に保存されていることに安心と感心を致した次第です。
 また岩田君の書かれているように、国庁跡は和歌を通した地元の方々の交流の場所になっていますし、22日に訪問した四万十市の一条教房のお墓には、花を供える人がおられました。こうしたことから、土佐の方々が史跡や郷土の歴史を大切にし、敬意を抱いておられるご様子が伺われ、深い感銘を受けました。
 
 さて、旅行のハイライトのひとつは四万十市(中村)、足摺岬周辺の一条氏、幡多荘関係の史跡めぐりです。
 足摺岬に近接した金剛福寺、岩田君のご指摘のように南国的でした。ただ、和泉式部の逆修塔があったり、嵯峨天皇筆と称する扁額があったりして、幡多荘の関係で京とのつながりの深さを感じました。あの多宝塔、説明には満仲建立とあるのですが、塔の前の看板には頼光建立と書かれておりました。まあ、そんなものです。
 四国八十八箇所の寺院は、やはりどこも整備されていましたね。八十八箇所めぐりの人気と、それが文化財保存に役立っている様子が伺われます。この炎天下、国道などを歩くお遍路さんを何人も見かけました。若い方が多かったのですが、どんな思いを抱いているのでしょうか。
 四万十市内の一条氏関係史跡は、池内先生のご説明で、非常に興味深く見学させていただきました。池内先生の一条氏に関するお話の要点は以下の通り。

・一条兼良の息子教房が、突然土佐に下向したのは、決して食うに困ってやけくそになったわけではない、一条氏は各地の荘園における民衆の動向を把握した上で土佐幡多荘の直接支配に乗り出したのである。
・その背景には、各地を遍歴して情報収集を行うとともに、応仁の乱の裏面工作に関与した兼良の動きがあった。彼の行動を単なる金儲けと見てはならない。
・幡多荘は木材の産地であるとともに、遣明船も立ち寄るなど、貿易の大きな利潤があった。時期は異なるが、西園寺と伊予知行に対比できるのではないか。また、一条家と、大内義隆の早世した嫡男は婚姻関係にあり、貿易を通した同盟も予想された。
・中村は、四万十川の河口に近く、また材木の切り出し地にも近い。交通、交易の要衝でもあった。京都に似た地形が拠点となった理由ではない。

 これまで、それこそ切羽詰まった公家の行動くらいに思っていたのですが、認識を大きく改めさせられました。家司殺害のほとぼりが冷めるまで、一時的に日根野荘に下った九条政基とは大きく異なります。源平争乱期の藤原頼輔の豊後下向にも通ずるところがありそうですね。
 五摂家のひとつが自ら戦国大名になる、まさに公家・武家の同質性を物語る重要な事例ですが、我々ももっと詳しく検討する必要がありそうです。

 今回ご案内いただいた池内敏彰先生は、高知県立土佐清水高校の先生で、古文書学会等でも幡多荘についてたびたびご報告になっている篤学の方です。
 その一方で、22日に四万十川の名所沈下橋を見た後の「とんでもナビ」など、なかなか愉快な?行動もとられます。
 さらにお酒が入ると面白さは倍増。やはりこの旅行で参加者に最大のインパクトを与えたのは、21日の晩の「味劇場ちか」における「21発」発言ではないでしょうか・・・。
 
 ちなみに、当方、往復ともに例のボンヴァルディア機。多少ハラハラしましたが、何事もありませんでした。飛行機の便利さはいうまでもないのですが、一抹の不安は常に付きまといますね・・・

 ついでで恐縮ですが、28日の書評会、よろしくお願い申し上げます。
 読み直すにつれ、多くの事例に圧倒される思いがしております。