法住寺殿の武将墓

山田邦和
No.5822

時差ボケでまだボーッとしている山田です。

森浩一先生〈同志社大学名誉教授〉の『京都の歴史を足元からさぐる〈洛東の巻〉』(東京、学生社、2007年7月)が刊行され、一本をいただきました。森先生ならではのユニークな視点から構成された「京都案内」で、読んでいて、私も目から鱗が落ちる場面が続出します。

なかでも驚愕したのは、法住寺殿の「武将墓」についてです。森先生は、この墓の被葬者の候補として、法住寺殿合戦で戦死した円慶法親王(園城寺長吏、後白河法皇第5皇子)をあげておられるのです。私など、正直いってこの墓の被葬者としては武将ばかりを考えましたが、確かに、合戦の際には僧侶も武装するはずです。もちろん、この説には、墓の時期推定などの点で問題があり、確定ということはできないのですが、法住寺殿について新鮮な仮説が提起されたことを慶びたいと想います。

 野口先生も、法住寺殿の武将墓の被葬者について、仮説をお持ちだとおっしゃっていましたね。まだ秘密だ、ということでしたが、そろそろ公表されないのですか? 興味津々で見守っています。

 宣伝:来る21日、この本について、森先生がサイン会をされるそうです。ご興味ある方はどうぞ。→ http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2007/07/06/index.html

Re: 法住寺殿の武将墓

No.5823

 私の「仮説」はある程度キチンとした論証が固まるまでは発表しないでおこうと思っています。しかし、自分としては、「おそらく、これで決まり」だと思っております。

 森先生の御説については、どのような論証がされているのか、あるいは拙論にたいする御批判を踏まえられたものなのか、御高著をまだ拝読していないので分かりませんが、法住寺殿というと、どうしても法住寺合戦が想起されてしまいがちのようです。
 私は武将墓の造営時期を12世紀半~とする発掘報告書執筆者(考古学者)の御見解にそって、文献史料の博捜と当時の具体的な政治・文化環境を前提に、平重盛の可能性を指摘したのですが(拙著『武家の棟梁の条件』などを参照)、その後、京都市埋文研の上村和直先生から、共伴土器によって造営時期は13C前半に降るという御見解が示されました(「法住寺殿の成立と展開」京都市埋蔵文化財研究所『紀要』9)。この段階で、私は発掘担当者などからの反論を期待して重盛説を一応留保したのですが(「法住寺殿と小松家の武将たち」京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』15)、それに対して考古学サイドから再批判が出なかったので、13世紀初頭段階に時期をしぼって検討したところ、重盛以上に蓋然性の高い人物に行き当たったという次第です。
 何よりも、考古学の成果は客観性・科学性が高い(と尊重しております)ので、時期については、これをまず前提とするべきだと考えていたのですが、考古学者である森先生が上村説を否定されたとなると、文献史学者としては身の置き所を失ってしまいます。
 なお、法住寺合戦において、院方が物理的武装よりも、むしろ宗教的武装を行ったこと(横内裕人「密教修法からみた治承・寿永内乱と後白河院の王権」大山喬平教授退官記念会『日本国家の史的特質 古代・中世』)、また、合戦が義仲軍の圧倒的勝利に帰したことを考える必要があります。要するに法住寺合戦において法親王は調伏法を行ったのであり、そして、合戦直後には、堂を伴うような墓所の造営は絶対に不可能だったということです。

 などなど、申し上げましたが、今日においても、一般向けの本などでは、やはり、当初、朧谷寿先生が提出された法住寺合戦で死んだ北面の武士の墓であるという説が広く見受けられるところです。

 武将墓についての自説は自分ですっかり納得してしまっているので、わざわざ書く気にならず、先に済ませなければならない諸事を片付けてから、その気になったら、とりかかろうかと思っています。間に合わなければ、結論だけを長村君辺りに遺言し、論証はお任せしたいと考えております。
 もっとも、研究熱心な長村君は、もう気がついているかも知れませんね。

【追伸】 そういえば本日は7月19日。32年前は土曜日で、暦には仏滅とありました。この日、東京渋谷の青学会館で面白いイベントがあったことを、どれだけの方が御記憶でしょうか?
 32年後の本日。仏の心で採点中です。

 ☆ 本日、北海道教育大学の鈴木哲雄先生より、御高論「香取神宮神幸祭絵巻(権検非違使家本)について」掲載の『千葉県史研究』15、御高論「中世東国の百姓申状-称名寺所蔵「万福寺百姓等申状」考-」(佐藤和彦編『中世の内乱と社会』)を御恵送いただきました。
 鈴木先生に、あつく御礼を申し上げます。 

再び法住寺殿の「武将墓」について

No.5826

 目下、期末試験の採点と締切のさし迫った複数の校正に追われております。

 今日は学会誌の編集会議がありましたが、その帰途、はじめて拙著『源氏と坂東武士』が書肆店頭に並んでいるのに遭遇。また、上記、森浩一先生の御著書も立ち読みして参りました。

 ザッと拝読したところ、森先生の御説の根拠は、①『平家物語』に円慶法親王の頸が明雲大僧正とともに六条河原に晒されたとあること、②円慶は後白河の息子であるから、後白河・建春門院の陵墓の近くに葬られて然るべきである。この2点にあるようです。なお、「武将墓」被葬者について、発掘報告書の源光長説(朧谷寿先生による)を否定されているのですが、建春門院陵を後白河陵の北に隣接するとする山田先生の御説を前提にされていることからすれば、この建春門院陵養源院参道地下所在説がはじめて公にされた野口・山田「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』16)は御覧いただけているものと思われ、森先生は「武将墓」に関する私の見解を御存知であるものと思われます。
 まず、①についてですが、法住寺合戦の史実を検証する上で、『平家物語』を使用するにはかなりの検討を要するということを指摘しておかなければなりません。これについては、国文学の『平家物語』研究者からも高い評価を受けている長村君の「法住寺合戦について-『平家物語』と同時代史料の間-」(『紫苑』2)を一読すれば明らかなことです。ちなみに、法住寺合戦における円慶法親王(正しくは円恵法親王)について、『玉葉』寿永2年11月22日条には「又八条円恵法親王、於華山寺辺被伐取了、(中略)抑、今度之乱、所詮只在明雲・円恵之誅、未聞貴種高僧遭如此之難」と見えています。
 ②については、上に書いたとおりで、「武将墓」は五領もの高級な大鎧や馬具なども入れられた特別な埋葬形態が取られ、また付属の堂も造られていたわけですから、合戦直後に設けられたものとは考えられず、また治承3年の清盛によるクーデターに際して解官された院近臣平業忠の姉妹の所生である円恵が、平家と後白河を取り結ぶ存在であった建春門院(平滋子)の陵墓の直近に埋葬されるというのも不審といわざるを得ません。後白河にはたくさんの子女があり、②の考え方をつきつめるならば、ほかの皇子女たちも、このエリアに埋葬されなければならないことになってしまうでしょう。
 そして、遺物に関する年代比定との矛盾もさることながら、何よりも、山田先生が上記論文において、「この「W8土坑(武将墓)」は死してなお後白河天皇陵・建春門院陵を守護する最高級の武士の墓であると考えるのが最も可能性の高い解釈であろう」と述べられたのを否定する理由が示されていないのが腑に落ちないところです。
 立ち読みを思い出しての感想なので、記憶違いや誤解の可能性と雑駁の誹りは免れませんが、愚見はかくの如しです。

 ☆ 本日、慶應義塾大学の桃崎有一郎先生より、御高論「足利義満の公家社会支配と「公方様」の誕生」(『ZEAMI-中世の芸術と文化04』)・「中世後期における朝廷・公家社会秩序維持のコストについて-拝賀儀礼の分析と朝儀の経済構造-」(『史学』76-1)、「書評・水野智之著『室町時代公武関係の研究』」(『年報中世史研究』32)を御恵送いただきました。
 桃崎先生に、あつく御礼を申し上げるとともに、精力的な御研究に敬意を表します。