大学教員の研修、義務化

No.5377

一瞬、目を疑った。4月1日にはまだ早いし。

今朝の新聞(朝日)の2面に、

「大学教員の研修 義務化 授業に不満の学生多く」という記事が出ている。

「文部科学省は、すべての大学や短大に対し、教員の教育能力を向上させるための研修を義務づける。授業に不満を持つ学生が多いためで、中央教育審議会(中教審)の部会でこの方針が了承された。」などとある。

 いやいや、研究のための研修義務化のことか、と思いかえした。サバテイカルなどの期間を確保して、研究の質を高め、それを教育に反映させるというのならば、わかる。しかし、記事を読む限り「教育力」に限定された「研修」のようなのである。つまり、授業テクニックのことらしい。そんなこと、だれが「指導」できるんだろうか。大学生の質が大きく変化し、しかも文科省が「黙認」していた高校での「未履修」が発覚し、その対応に各教員は、いろいろと頭をしぼり、話をしているのである。対策を考えているのである。そういうときに、どこか「研修所」にでもいけば、教員の教育能力が高まる、とか、何か特効薬でもあるかのような話は、信じがたい。この記事の内容が不十分、あるいは誤解しているのかもしれない。

 とにかく、それほど大きな記事ではないのだが、今後の日本の大学のありかたに、大問題が出現した、という危機感をいま持っています。どなたか、正確な情報を知らないでしょうか。とにかく、びっくりしています。

Re: 大学教員の研修、義務化

No.5378

 あまり、びっくりしたので、なにも調べずに書き込んだのですが、
すでに、10月の頃には、その情報が流れていたのですね。全く知りませんでした。
毎日新聞には10月に出ていたようです。

http://kaz055.noblog.net/blog/10256781.html

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061021dde001040007000c.html

「即戦力」求める経済界の要請だそうですが、そこまで大学を知らないとは。
以下の意見に賛成です。

http://blog.tatsuru.com/archives/001962.php

Re: 大学教員の研修、義務化

No.5379

気になることなので、ゆっくり毎日新聞の10月の記事も読みかえしているのですが、
「FD活動の義務化」ということではないでしょうか。
ほとんどの大学ですでに「FD活動」をやっていますし、やっていない大学はむしろ少数でしょう。やっていない大学に、必ずやれよ、ということかもしれない。「FD」というと特別なことのようだが、ようは学生に何をどう教えるのかを、教員間で話し合う場、である。それをやるのは、教育機関である以上、あたりまえなのである。それを新聞記事を書いている記者が、よくわかっていない、勉強不足なのではないか。実は、今回の朝日の記事よりも、10月の毎日の方が、少しましな記事なのです。

「しかし、各大学で現在行われているFDの内容は講演会の開催や研修会、授業内容の検討会など座学中心で、実効性や効果を疑問視する声もある。また07年度に大学・短大の志願者数と定員数が同じになる大学全入時代を控え、経済界には「企業で戦力として使える人材となるように教育してほしい」と、大学教育の充実を求める声も強い。今後、具体的な研修内容は中教審で審議されるが、各大学ごとに建学の精神や求められる教員像が異なっており、「統一のガイドライン作成は慎重にすべきだ」という声もある。一方、大学院は既にFDが努力義務規定から義務規定に改正され、来年4月から義務化される。」という部分が毎日にはあるのですが、朝日の記事にはこの部分に相当するところが存在しない。

ほんとうの「大学」を目指す方たちへ

No.5380

 美川先生の書き込みに関連して、以前、京都女子大学の刊行物に掲載した拙文(新入生を主たる対象にして書いたものです)の一部を転載させていただきます。
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    『大学を楽しもう』

 私がここでお話ししたいことは、「大学を楽しもう」ということです。 なお、はじめにお断りしておきますが、「楽しむ」と「楽をする」とは別次元の問題で、「楽しむ」には主体的な意志と行動が必要です。

<大学で鬼を捜す>
 さて、もう半世紀近くも前のこと。私は父親から一冊の本をもらいました。『日本の歴史 ジュニア版』というシリーズの第一巻「国のはじまり」。本の箱の背中には○○大学教授◇△□×というように執筆者・編集委員の名前が列挙されており、子供心に、大昔のことを何でも知っている、こういう肩書きをもつ学者たちが、ある種の超能力者のように思えたものでした。
 数年前、朝日新聞の文化欄に日本中世史の研究者である黒田日出男さんが、こんなことを書かれていました。
 「学者の学者たるゆえんは鬼と見紛うような創造的な業を営むことに求められる。中世において、社会に対峙して人知を越える秘術を駆使した学者たちは「鬼」そのものであった。」
 少年時代の私の感想は、どうやら中世人の心性に通ずるものがあったようです。
 さて、黒田さんは、右のように述べた後に、
 「それは現代にも通じることで、大学とはまさに鬼の住処なのである。だから、大学に入る楽しみは、そうした鬼捜しに始まる。」
と続けておられたように記憶します。
 自分の興味のあるジャンルで、人知を越える秘術を操る鬼神のごとき先生(第一線の研究者)に巡り会えることが出来たなら、これは最高に楽しいに違いありません。皆さんも、鬼捜しに出かけませんか?

<生徒と学生>
 しかし、その前に鬼の住処である大学とはどんなところなのか、そこで行われる教育は高校などとどう違うのかということを、今一度考えて欲しいと思います。
 高校までの教育というのは、同じ情報を教師が一斉に生徒・児童に教え込むことが目的とされるものです。それに対して、大学における教育とは、研究者である教員がその個々の研究の成果を様々な方法で還元するものです。学生はそれを自らの意志で選択・享受するわけで、大学教育の本質とは自己教育というところにあるのだと思います。
 「生徒」(未成年)である高校生と「学生」(社会的に成人と認知された市民)である大学生の教育に対するスタンスは全く異なるのです。最近、自分のことを「生徒」と勘違いしている学生や、「学生」を生徒扱いしている(せざるをえない)教員が増えているのは、大学にとって憂慮すべき事態といえましょう。
 だから大学では、学生を高校のようには朝から晩まで拘束するようなことはせずに、自らの主体的な学習の自由が確保されるようにカリキュラムが組まれているのです。
 自由な時間に劇場や博物館・史跡に出掛けてみるのも良い(この点で、京都女子大学の立地は、日本一だと思います)。あるいは自分の関心のあるジャンルを専攻されている先生の研究室(他大学も含めて)を訪れてみるような(まさに鬼捜しですね)、ちょっと勇気のいる行動も試みるべきでしょう。会社訪問のようにリクルートスーツを用意する必要もないのですから。意志のある学生の訪問を、先生方はきっと笑顔で迎えてくれるはずです。

<大学院も選択肢に>
  とはいえ、大学が大衆化された今日、資格の取得や就職活動などで、なかなか主体的な学習の時間が確保しづらくなっていることも事実です。
 そうした現実が、好きなことに思い切りチャレンジしようと張り切って入学してきた学生たちの意欲を萎ませてしまっているのはとても残念なことです。
 皆さんの親の世代が大学生であった頃の専門教育は、今日ではその多くが大学院に移行していますから、大学院への進学を視野に入れることを考えてみてもよいのではないでしょうか。最近、大学院に入ってから、めきめきと実力を発揮し始めた人をよく目にします。入学の際に渡された二葉憲香『親鸞 仏教無我伝承の実現』を開いてみて下さい。そこには、二葉先生の人間と学問との関係についての深い理解が、簡潔に示されていると思います。
 学問とは、わかっていないことを理性によっていろいろ勉強をしていくこと。そして、人間にはわからないことを少しでも分からせていただく、そういう能力が与えられおり、それを進めて行けば行くほど人間の知識の限界が明らかにされるというのです。
 人には、生まれながらにして自ずから学問を志さしめる働きが与えられている。だから、学問は尽きることのない楽しみを与えてくれるものなのでしょう。

 大学は学問を「楽しむ」ための総合施設です。ディズニーランドやUSJばかりが、「楽しい」ところだと思ってはいけません。お金を払えば誰にでも与えられる楽しさよりも自分の意志で得た楽しさの方がずっと素晴らしいに決まっています。

Re: 大学教員の研修、義務化

No.5381

美川です。
何人かの方の話を聞いて、だんだん事情がわかってきました。

来春改正の大学院設置基準に、
第十四条の三 大学院は、当該大学院の授業及び研究指導の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究を実施するものとする。
という条項があるのですが(この改正の話も今まで迂闊にも知らなかった)、

現在の大学設置基準である、
(教育内容等の改善のための組織的な研修等)
第二十五条の二 大学は、当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない。

という文末を、大学院と同様に「実施するものとする。」とするのではないかという説が有力です。つまり「大学の教育内容等の改善のための組織的な研修等」=FD活動が努力目標から義務に変わる可能性が高いということです。

 そして、そこからが重要ですが、
文科省は、新聞記者に、つまりそれが何を意味するか、ということをレクチャーし、その結果が10月の毎日や今回の朝日に掲載された可能性が高い。ですから、私の新聞記者の誤解・暴走説は成立しそうもありません。つまり、設置基準の改正の意図は、新聞記事の内容であるということです。
 
 まだ中教審の結果が公表されていないので、これから注意深く見守ろうと思います。

http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w0020949001.html
http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w0020950001.html