次回の吾妻鏡

No.5176

 本日は吾妻鏡の講読(やや時間を超過してすみませんでした)の後、卒論準備報告会が行われました。準備報告をしていただきました山岡さん、お忙しいなかお集まりいただきいろいろとご意見を出してくださった参加者のみなさんも、ありがとうございました。

 さて次回の吾妻鏡は以下の通り予定しております。
  時間:11月6日(月)15:30~(予定)
  場所:京都女子大学L校舎 3階 宗教・文化研究所共同研究室
  範囲:承久元年七月十九日条、七月二十五日条、七月二十八日条、九月二十二日条、十月二十日条、十二月二十四日条、

 参加者してくださるみなさんが概ね卒論を抱えておられますが、ぼちぼち読んでまいりましょう。メンバー随時募集中ですので、まずは見学からでもお気軽にご参加下さい。

ありがとうございました。

山岡 瞳
No.5178

昨日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございました。
この先どう話を進めていこうかと悩んでいましたが、今回報告を聞いていただいたことで、方向性が見えてきました。
提出まで時間がありませんが、少しでもいいものになるように頑張ります!!

さすがに「晴着より『玉葉』」。

No.5179

 書き込むのが遅くなりましたが、昨日の山岡さんの発表内容は、卒論の準備報告というには非常にレベルの高いもので、武士論の制度史的研究の欠落を埋めるものとして高く評価でき、学会誌に研究ノートの形で掲載されてもおかしくない内容だったと思います。

 山岡さんが取り上げたテーマについては、私も「東国武士と中央権力」(『中世東国武士団の研究』)・「後白河院と清和源氏」(古代學協会編『後白河院』)などで少しばかり考えてみたことがありますが、ここまでやれるとは立派です。史料の博捜といい、ほとんどゼロからたった3年でここまで出来るのですから、若い人のパワーというのはおそろしいものだと思いました。
 ほんとうに、ほんの少し前までは「ハプスブルク家に関心がある」とか、「日本史よりも東洋史コースを選ぶとか」仰っていたのですからね(笑)。

 それにしても、卒論報告の開始時間の18時を期していたかのように、山岡さんが来春から所属する元木先生の研究室のお兄さんたち(DC三兄弟)がドヤドヤと集結されたのには驚きました。ほんとうに妹思いの優しいお兄さんたちですね(笑)。

 「晴着より『玉葉』」とは、山岡さんにとって、これからの人生そのものの「選択」だったのかも知れません。 

 ところで、『吾妻鏡』の方ですが、承久元年三月九日条に、院から地頭職改補の要求が出されたとある「摂津国長江・倉橋両庄地頭職」のうち、倉橋庄は除外されるべきことが明らかであり、これは『吾妻鏡』と流布本『承久記』の史料的限界と両者の編纂(著)者の政治的基盤の共通性を示すものといえそうです(小山靖憲「椋橋荘と承久の乱」『市史研究とよなか』1,1991年 参照)。この点については承久三年五月十九日条(ここを読むときは、ぜひ長村君にお出まし頂きたいものですね)の有名な政子の演説のところで、また考えてみましょう。

 岩田君、『吾妻鏡』講読会、今後ともよろしくお願い申しあげます。