公開講座 参考資料補足の事 附 懇親会の事

No.4851

ご無沙汰しております。
公開講座の参考資料を補足しておきます。
為朝論に関しては、たくさんの論文が出ています。樋口先生のご講演を聴くにあたっては、樋口先生の論文が一番勉強になるのは勿論なのですが、中でも読んでおいた方がいいのではないかと思うものを挙げておきます。
 永積安明「中世的叙事詩としての平家物語」
     「「軍記もの」の展望」
          (『中世文学の展望』/東京大学出版会/1956年)
 野中哲照「『保元物語』の〈現在〉と為朝渡島譚」
          (『国文学研究』104号/1991年6月)
 大津雄一「為朝・崇徳院考ー王権の〈物語〉とその亀裂ー」
          (『軍記と語り物』27号/1991年3月
            →『軍記と王権のイデオロギー 』(翰林書房/2005年3月)
 
ギリギリになってしまって、申し訳ありませんが、手に入りにくいものはありませんので、ゼミメンバーの方々は是非24日までに読んでください。

>山本さん
 当日は1日空けてありますので、何かお役に立てる事があれば何なりとどうぞ。

なお、懇親会は例の如くではありますが、七条京阪の「まんぞうハーツ」を予約しています。人数に若干の余裕がございますので、参加を希望される方は早めにご連絡いただければと思います。

『紫苑』次期編集長に石井君内定?の事..

No.4852

 田中さん、ありがとうございました。当日、久々の拝眉を楽しみに致しております。
 なお、大津雄一『軍記と王権のイデオロギー 』は研究室に配架ずみですので、御利用下さい。
 
 ◇ 『ヒストリア』200号のP.102【受贈図書】のコーナーに『紫苑』も名を連ねております。
 ただ、寄贈しただけのことですが、『紫苑』もだいぶ大人になったなぁといった感慨をもちました。
 ところで、昨日の作業中の雑談の中で、『紫苑』刊行体制を出版社にたとえるなら、会長(創業者):永富さん、社長:山岡さん、(その他、女院もろもろ)、そして次期編集長は石井君であるという話になりました。

 ◇ いつもお世話になっている横須賀市文化振興課の鈴木様から『三浦一族研究』10号』が出来上がったというお知らせをいただきました。今週中に到着の予定。
 「三浦氏と京都-義経の時代を中心に-」と題する私の講演録が載っています。かなり長編です。
 また、抜刷作成のお手伝いをお願いします。

>長村君  兄弟の分業関係については尊氏と直義みたいな事例もありますね。また、異母か同母かということも検討の余地があるのかも知れません。
 千葉氏など大番役勤仕の負担について、かなり一族間の協力関係がみられます。
 なお、梶原源太景季の「源」について、江平望『島津忠久とその周辺』には論及されておりませんでした。私の記憶違いのようで、山岡さんにも御迷惑をおかけしました。ちなみに、同書収録の「一条能保の前半生-その身分と官途について-」は佐伯君・長村君はすでにお読みになられているでしょうか?

>岩田君  中原氏の周辺、実朝が将軍に在任していた時期などみても、かなり大きな役回りを果たしていたように思います。目崎先生の指摘された波多野氏や源雅頼との関係等々、それに季時の評価など、さらに追究の余地がありそうです。

>柳原先生  衣川シンポの案内、送信いただいた電子版を抄出させていただきました。貼り付けですので誤りはないと思いますが、御確認下さいますように、お願いいたします。

講読のサカナに

No.4854

>『吾妻鏡』にご参加のみなさん
 明日も岩田は欠席いたします。すみません。
 先週話題になった二階堂行村について、おおざっぱですが気付いたことをお伝えしておきます。
 行村の『吾妻鏡』での初出は正治二年九月二十五日条。安達源三親長とともに官途を所望する、という記述がみられます。その後は、左衛門尉・検非違使大夫判官・隠岐守等を歴任します。
 従事した幕府内の業務としては、
 ・仏事のことなど(建暦元年四月二十九日条、建保四年二月十一日条など)
 ・警察的なこと(元久二年十二月二十四日条で黒柄次郎入道が追捕狼籍を行った際の沙汰を受け持つ。このとき上総国奉行となる。建暦三年二月十五日条で、金窪行親とともに阿静房安念法師の取り調べを行う。建暦三年三月九日条で、和田一族の面前で囚人・和田胤長の身柄を引き取る。建保六年七月二十二日条で、侍所司の五人のうちの一人となる。)
 といったあたりが目を引きました。
 京都との連絡云々については、建保五年七月二十六日条・八月二十五日条で院の病悩に際して使節となった記事くらいでしょうか。
 建保七年正月二十八日には他の御家人ともども出家を遂げています(その前日に実朝死去)。その後は、幕府の重鎮・相談役・ご意見番のような地位にあったようです。

 それで前回話題となった、中原広元→大江広元となるに際しての行村の仕事ですが、これはどう考えたらいいんでしょうかね・・・。

 …と、ここまで書いて気付いたのですが、前回話題になったのは「行村」ではなくて「行光」でしたね。しまった・・・_| ̄|○

 二階堂行光についてはまた調べておきます。すいません。こんなあたいを笑うがいいさ・・・(泣)。

国奉行と.黒柄次郎入道

No.4855

 >岩田君  この行村が任じたという上総国奉行がわかりません。それから、黒柄次郎入道も。黒柄は「長柄」の誤りかとも思うのですが。

 かくのごとく、千葉で「郷土史好きの少年」をやっていたころからの課題がまだ片付いておりません。まったく「老いやすく、学成り難し」です。

がんばります

No.4856

>野口先生 ありがとうございます。国奉行は、他にたしか安達親長(?)が上野国奉行に任ぜられたという記事も、過去に講読会で扱いましたね。具体的なことはわかりませんが、上に挙げた元久二年十二月二十四日条に記される、追捕狼藉→名主らの訴え→沙汰という一連の処理が、国奉行というものを考える手がかりになると思います。黒柄だか長柄だかは、先生がご存じなければ私にはお手上げです。 w(´`)w オテアゲ

Re: 公開講座 参考資料補足の事 附 懇親?..

KM
No.4858

>>安達親長(?)が上野国奉行に任ぜられたという記事

これは、『吾妻鏡』元暦元年七月十六日条です。
藤九郎盛長、すなわち安達盛長が正しいです。

中国からのアクセス可能.

KM
No.4859

本掲示板を含む『宗文研ゼミ』は、中国ではアクセスできませんでした。
しかし、ある方法で読み取りは可能なので、ずっと読んでいました。
その方法で書き込みが出来るか試したところ、全段の通り書き込めました。
そこで、普通の方法でアクセスしたところ、問題なくアクセスできました。
改めて、中国からアクセス可能なことをお知らせします。

これは、たぶん、本年春から行われている「金盾行程」(中国政府によるインターネットのファイヤーウォール・システム。これにより好ましくないサイト・Webをアクセス禁止に出来ます)の新システムへの移行のおかげかと思われます。この新システム移行で、現在、日本のサイトにあるEメールの受信に困難を来していて、関係者は迷惑を被っています。

.藤九郎盛長は安達盛長か?

No.4860

 >KM様 と申し上げても、どなたかは分かっておりますが、お書き込みをありがとうございました。

 せっかく書き込みをいただいたところ恐縮でございますが、当方の掲示板は、環境秩序維持のために、基本的に本名での書き込みをお願いいたしております。投稿者名の修正をお願いできれば幸いです。

 ところで、奉行人については薩摩における島津忠久もそうであったと思うのですが、守護とのかかわりなど、何か知見がございましたらご教示いただければ幸いです。
 なお、形式的な発想かもしれませんが、盛長は生涯「藤九郎」であって、厳密には「安達」とすべきではないと思うのですが如何でしょうか?足立と同族かどうかという問題とも関わると思いますが。

.>藤九郎盛長は安達盛長か?

金澤正大
No.4861

最初に、ハンドルネームを使用したことをお詫びします。

足立遠元と藤九郎盛長が甥・叔父関係であることは、拙稿「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」(『政治経済史学』156,157号1979年5,6月)をご覧ください。なお、『吾妻鏡』文治五年七月十九日条の頼朝奥州鎌倉進発軍交名の分析で、藤元と盛長が同族関係にあることを補強しております(「武蔵武士足立遠元(その6)六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―(2005.12.25)『歴史と中国』 http://km45/spaces.msn.com/)。

盛長が安達氏の初祖であるとことは言うまでもありません。確かに『吾妻鏡』では盛長は「藤九郎」としか見えていません。しかし、梶原景時弾劾連署関係記事では「足立藤九郎入道」(正治元年十月二十七日条)、「安達藤九郎盛長入道」(同二十八日条)と見えており、嫡男の弥九郎景盛は初見(同七月十六日条)に「安達弥九郎景盛」とあり、すでに頼家期には彼らは安達氏と見られていたのではないでしょうか。

なお、摂政の兼実は厳密に言えば、同時代では「九条殿」藤原兼実であって、九条兼実ではありませんが、九条家の初祖ということで、今では九条兼実と呼ばれるのが通例です。盛長の安達も同様ではないでしょうか。

金澤先生、よろしくお願い申し上げます。..

No.4863

 金澤先生、早速のご返信、ありがとうございました。なお、暗唱キーを先に登録しておいていただきますと、書き込みの訂正・削除が可能ですので御利用ください。

 安達盛長の件、私の発想ですと天皇はみな今上天皇と呼ばなくてはならないような話で、おっしゃるとおりだと思います。盛長が足立一族であることについての御高説の御教示もありがとうございました。
 ちなみに、ついでの質問にて恐縮ですが、↑で話題にした梶原源太景季の「源」ですが、安達親長が源通親との関係で源姓を称したとすると、梶原の場合、金澤先生はこれをどうお考えになられるでしょうか。

 目下、ゼミの史料講読会で『吾妻鏡』を読んでおり、金澤先生におうかがいすれば即座に解決するであろう問題にしばしば直面いたします。今後ともよろしくお願い申し上げます。

明日の古記録講読会

尻池由佳
No.4864

 本当に連絡が遅くなって申し訳ありません。明日の古記録講読会は、前回の続きから読ませていただこうと思います。教育実習から帰ったばかりで、準備が不十分(いつもですが…)なので、私が教育実習で収穫できたことについてお話しするようになるかもしれませんが、よろしくお願いします。

 古記録講読会
  日時:2006年6月20日 16:30~18:00
  場所:京都女子大学L校舎共同研究室
  範囲:『百錬抄』 康平四年十月廿五日、治暦二年十月十三日、治暦三年十月五日、
           延久元年五月廿九日、延久四年十月廿六日