佐倉の歴博に『百錬抄』、そして喜界島
No.4714
伊藤さん、歴博の見学、おおいに楽しんできてください。
歴博の地元から歴史学に志す若者がたくさん出てきてくれれば、うれしいところですし、それは歴博の関係者のもっとも望まれるところだと思います。
かつて、歴博のあるところは佐倉城址の一画に過ぎず、そこには戦争が終わるまで佐倉連隊の兵舎が建っていました。
私にとって佐倉は所縁の深いところで、祖父の実家は佐倉ですし、祖母もまた少女時代を佐倉で過ごしたことがあり、旧藩主堀田家の別邸に遊びに行ったという話をきいたことがあります。
当ゼミでは昨年の2月に歴博を見学しています。また、先月は長村君と佐倉城址を歩く機会がありました。今度は京成佐倉駅の次の大佐倉まで脚を伸ばして、室町時代の千葉氏の本拠であった本佐倉城跡(国史跡)を案内したいものです。私自身、もう20年ほど御無沙汰しています。
◎ 『百錬抄』の講読会は、①史料の読解力を身につける ②院試に備える ③「権門都市宇治」の共同研究に資する (④ 尻池さんの卒論に役立つ)という目的をもって再開の運びとなりました。時間のある人はふるって御参加ください。
>小野さん 2回生でやる気のある人がいたらぜひお誘い下さい。(放っておくと、当ゼミには京女生がいなくなります<笑><泣>)。
☆ ラ・サール学園の永山修一先生より『先史・古代の鹿児島 遺跡解説(通史編)』(鹿児島県教育委員会)の永山先生執筆部分抜刷を御恵送いただきました。
最新の研究成果が通史叙述の上に位置づけられていて、学ぶことが多大。6月の公開講座における樋口大祐先生のお話の事前勉強には最適です。昨夏の鹿児島ゼミ旅行の前に参加者に読んでおいて欲しかった内容です。
なお、同封の私信によれば、今、喜界島では9世紀代まで遡る遺物がかなり出土しており、また11~12世紀にもひとつのピークがある遺跡群(城久遺跡群)の調査が進んでいるとのことです。阿多忠景や鎮西八郎為朝の姿がちらついているようで、興味津々といったところです。
永山先生にあつくお礼を申し上げるともに、先生の喜界島研究の進展に期待申し上げる次第です。
大隅正八幡宮社家居館の発掘調査成果
No.4715
咋夏のゼミ旅行の際、突然お邪魔したにも拘わらず、隼人塚や留守氏館跡などを懇切に御案内いただいた霧島市立埋蔵文化財調査事務所の重久淳一先生より、御高論「鹿児島県内から出土したタイ、ベトナム陶磁」(『シンポジウム 陶磁器が語る交流-九州・沖縄から出土した東南アジア産陶磁器-』東南アジア考古学会事務局、2004年)と発掘調査報告書3冊(『桑幡氏館跡-第3次調査-』隼人町教育委員会、2003年・『桑幡氏館跡-第1・2・4・5次調査-』霧島市教育委員会、2006年・『留守氏館跡Ⅱ-第3・4次調査-』隼人町教育委員会、2005年)を御恵送いただきました。
桑幡氏・留守氏ともに大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の社家で、桑幡氏(息長姓)の館の創始は11C後半から~12C前半。長門本『平家物語』には、平清盛と関係を持っていた桑幡清道が、上洛した際に鹿ケ谷事件で流刑になった藤原成経の愛人伯耆局を見初めて、成経に会わせると行って大隅に連れ帰ったという話があり、留守氏(紀姓)にも同じような伝承があります。
桑幡氏居館跡からは12世紀後半の楠葉型瓦器が出土しているとのことで、平家のみならず摂関家との深いつながりが推測されます。
永山先生からの情報とともに、南九州は実に面白くなってきたと思います。
それにしても、なぜ桑幡清道の話が『平家物語』の中で長門本にのみ見えるのか、国文学の研究者にお教えいただきたいところです。
申し遅れましたが、重久先生にあつくお礼を申し上げます。
ちなみに、鹿児島神宮は大隅国一宮。中世諸国一宮制を研究テーマにしている山内さんには、ぜひ研究対象に加えていただきたいところです。